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創作という呪い―ルックバック論―

去年の学生祭用に書いた藤本タツキの読み切り漫画「ルックバック」の論考が出てきたので、ほとんどそのまま掲載しようと思います。
ところどころ拙い文章ですが、結構面白いことを書いてると思います。

これからちょくちょくnoteでも、Twitterじゃ収まらない短歌鑑賞とか俳句論を書こうと思ってるので、ぜひフォローなどしてくれたらうれしいです。


ヒトは何故創作をするのか。それは「ココロはどこにあるか」という質問と同じで、全くもって本質に迫っていない問いだ。「ココロとは何か」を問うことが重要であることと等しく、「創作とは何か」と 考えることが肝要であり、必然である。
この『ルックバック』はこういった本質的な問いに真っ向から向き合い、対話し、肉体から絞り出された言葉を紡いでいく。

『ルックバック』というタイトルを考えてみよう。直訳すると「背中を見る」、慣用句では「振り返る」という意味がある。「背中を見る」とは、憧れている誰かや指針としている人間の後ろを追いかけ、少しでも近づこうとする意志であり、作中の藤野と京本がお互いにしている行為だ。これは前に進もうとする〈正への矢印〉だと捉えられる。一方、「振り返る」とは一度進めている歩を止め、過去を鑑みるという〈負への矢印〉だ。これは死んだ京本を偲ぶ藤野が行う行為だ。こうした正負の二方向への感情のベクトルが、互いに引っ張り合い、時には均衡し、また時には一方に引きずり込まれながら物語は展開する。

このタイトルは、作中のコマでも意識される場面が多々あるが、表紙を含め描かれるのはほとんどが藤野の背中だ。京本が美術学校へ進学することを藤野に話す場面も、藤野は背中を向けながら会話している。台詞でも同様で

私についてくればさっ全部上手くいくんだよ?(藤野P69 )
おー京本も私の背中見て成長するんだなー(藤野P83 )

『ルックバック』

など、読者からしても明らかに〈京本が藤野の背中を見ている〉という構図になっている。しかし、これは物語終盤で一変する。京本の死で絶望し、全てを投げ出そうとしていた藤野は、かつて自分が京本の背中に書いたサインを見て、もう一度”創作”への気持ちを取り戻す。藤野もまた京本の背中を見ていたのだ。また、このサインを見つけるとき藤野は後ろの扉を”振り返っている”。まさに『ルックバック』というタイトルに相応しい場面となっている。

また、この漫画で特筆すべき点は圧倒的な台詞の少なさであろう。登場人物達の発する言葉は、現代に生きる若者の肉体から絞り出された生々しい手触りを帯びている。無駄に説明口調になったり、モノローグを挟んだりしないかわりに、登場人物の心情は〈絵で語られ〉、また〈背中で語られる〉。つまり表現が極めて映画的であり、これは作者の藤本タツキ自身が大の映画好きであることが影響しているのは間違いない。
さらに面白いのは、『ルックバック』では漫画の特権的技法である、背景の擬音語が全く使われていないということだ。台詞が少なく、擬音語がないことで作品全体を通して静的な雰囲気を持ち、読者は絵に集中し、物語に没入することが出来る。

この作品を徹頭徹尾貫いている本質のテーマは”創作への欲求”と”他者性の喪失”だ。主人公である藤野と京本(ふたりの名前が、作者の「藤本」を二分しているのは非常に暗示的である)は”創作への欲求 ”に従順に生きた結果、共に社会的に孤立する。
ここから分かるように「創作」と「他者」は本来相反するものだと言える。何故ならば 「創作」とは=「自己との会話と内省」であり、そこに「他者」の入り込む隙は無いからだ。創作者が孤独にならないためには相当な理解者が必要であり、家族でさえそれにはなり得ないことは作中でも示されている(藤野とその家族)。
創作と向き合ったあまりに「他者性」を喪失した二人は、引かれ合うように出会い、お互いの理解者となる。 ここで、作中にはもう一人”創作への欲求”により他者性を喪失したと考えられる人物が出てくる。それは京本を殺した犯人だ。彼は「ネットに上げた絵をパクられた」と供述しており、その真偽は明らかでないが全くの嘘だとは考え難い。頭が錯乱するほど創作にのめりこんだのか、はたまた本当に命をかけて描いた作品を摸倣されたのか。どちらにせよ、彼の傍に理解を示してくれる他者がいれば、こんな愚行には走らなかっただろう。

この犯人像は明らかに京都アニメーションで起きた痛ましい放火事件の犯人をモチーフにしている。京都アニメーション作品の大ファンだと公言している作者が、わざわざ二年経ってからこの事件を 「振り返った」のには鎮魂歌以外の意味があるに違いない。この京アニ事件を模した一連の場面は『ルックバック』公開当初かなりの批判を生んだ(炎上という語をここで用いるのは極めて不適切である)。
作者自身、相当な覚悟をもって切り込んだにもかかわらず批判されたことが悔しかったらしいが、次作『さよなら絵梨』にて見事に克服し、鋭いアンチテーゼを読者に突き付けている。気になった人は是非読んでほしい。
つまり、この犯人は創作という呪いが生んだモンスターであり、 藤野や京本にとってあり得たかもしれないIF世界の未来の自分たちということだ。 実際に物語終盤では京本の部屋の扉を通じて、「藤野と京本が出会わなかった世界線」が描写される。その世界でも京本は美術学校に進学し、同じ犯人に襲われる。それを、漫画を辞めて空手をしていた藤野が偶然助ける。この世界線が描写された意味は何だろうか。

藤野の人間関係は教師、友達、家族と様々に描写されるのに対し、 京本の人間関係は家族すら全く出てこず、藤野との友情しか描かれ ない。家族の事情は一切説明されないため分からないが、少なくとも作中に於いて京本にとっての他者は藤野だけである。 ふたりが出会わない世界線では、藤野は「漫画を辞め」、京本は「藤野と出会っていない」。つまり藤野は”創作”を失い、京本は”他者 ”を失っている。この漫画全体のテーマを喪失した世界観が、あの終盤のシークエンスなのである。 しかし、結局その世界線でも、藤野は漫画を最近また描き始めたことが明らかになり、ふたりは襲撃事件を通して出会う。”ふたりと創作”、”藤野と京本”は運命的な何かで繋がれ、引かれ合っている。
物語は現実に戻り、死んだ京本の部屋で藤野が立ち尽くしている。 藤野の回想の中で、藤野は次のように言う。

だいたい漫画ってさあ… 私描くのはまったく好きじゃないんだよね。楽しくないしメンドくさいだけだし超地味だし。一日中ず~っと描いてても全然完成しないんだよ?読むだけにしといたほうがいいよね、描くもんじゃないよ

この台詞は創作に勤しむ人間ならば誰もが身に沁みる、リアルな言葉だと思う。世の中にあるモノをただ享受するだけで幸せな人生を送れるならば、どれほど楽だろうか。実際にそういう人間も多くいる。
しかし、我々のような創作に呪われた人間はそうではない。自己表現しないと生きている気がしない。言葉にならない、本当に大切なことが喉に突っかえて窒息しそうになる。何度諦めてもまた引きずり込まれる。それが創作だ。 この台詞を受けて、京本は次のように問う。

じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?

これで『ルックバック』の台詞は全て終わる。この疑問に藤野は言葉で答えない(いや、正しくは答えられない)。この質問を思い出した藤野はそのまま家に帰り、漫画を描き始める。その背中で、物語は完結する。

京本が最後にした疑問は、冒頭で示した「ヒトは何故創作をするのか」という問いと同じである。冒頭で僕はこの問いに関して”本質的な問い”でないと書いたが、これは決してこの問いが愚問であるという意味ではない。
「何故小説を書くのか」「何故絵を描くのか」「何故漫画を描くのか」「何故音楽を作るのか」「何故映画を撮るのか」「何故創作するのか」。
これらの疑問は創作に呪われ、抜け出せない人間に常に付き纏い、苦しめてきた。けれど、それ自体が答えなのではないか。
「ヒトは何故か創作をしてしまう」
それ自体が問であり答であり、 全てなのである。そこに空間も本質も時間もない。前述したとおり、「創作」=「自己」であり、「創作とは何か」を考えることは、鏡となり反射することで「自分とは何か」を考えることになる。
敢えて言葉を選ばずに言うと、僕はこの作品を読んで、「青春」や「エモい」といった曖昧な言葉で自分の心を落ち着かせることの出来る浅はかな読者でなくて良かったと思っている。

現代では”創作”と”他者”では圧倒的に後者を求めて生きる人間が多い。Twitterに代表されるSNSでは、肥大化した承認欲求と自己顕示欲が暴れ回っている。現代人の関心は間違いなく自己でなく他者に開かれている。 繰り返すようだが創作は自己の分析と内省無しでは成立しない。他者との繋がりやコミュニケーションが尊重される社会だが、案外自分とのコミュニケーションは取れていない人間が多いのではないだろうか。
「今の自分はどういう気持ちか」「何故そういう気持ちになったのか」「自分は何が好きで何が嫌いか」
他者を尊重しすぎて自己を蔑ろにしてしまう世の中では表現者・創作者は肩身が狭い。相対的なものしかない世界で、他者からの相対的な評価を求めたくなることはよく分かるが、まずは自分で自分を見つめ、考え、対話し、評価することが大切なのではないだろうか。
この文章を読む数少ない人間が、似たような気持ちを持った同志であることを願うとともに、創作に励むための一助となればと思う。 僕たちはいつだって創作の背中を見ている。

今読むと、短絡的で衒学的な箇所が多いけど、まあまあ正鵠を射ることを言っていると思います。
また、この一年で僕自身、短歌や俳句という創作を本格的に始めて、全く動かしてなかったTwitterを動かし始めたので、最後の辺りは身につまされる文章でした。

最後まで読んでくれてありがとうございます!
これからもまたお願いします!!


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