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東京と江戸のあいだ。そして、熊野と伊勢も。<旅日記1995・番外新春編>

御城番

松阪市の御城番長屋

20代をバブル期に過ごしたわたしたち世代

1980年代のバブルの時代を20代で過ごしたわたしたちの世代でも、お正月だけは日本で過ごしたいという人が意外と多かった。 

 12月25日のクリスマスを境目に、街の音楽、風景ともクリスマス狂想曲からがらりと歳末景色に一転。その喧噪は「ゴーン」という鐘とともに琴の響きとなり、「迎春」の赤い文字に彩られた紙がお店のシャッターに貼られ街は静まり返る。このドラマチックな変化を味わい、家族、親せき同士過ごすなごみの時間が、昭和の日本のお正月だった。

昭和が終わるころの正月3が日、東京で過ごしてみた。

 昭和が終わったか、平成が始まったかのころのある正月、30歳への足音がどんどんと近づいてくるのを打ち消そうとする気持ちの現れからか、母校の活躍に青春の幻影が見たくなって、国立競技場で行われた大学ラグビー準決勝(1月2日)と、箱根駅伝(1月2日~3日)をダブルで見る贅沢な2日間を東京で過ごした。

 そのときしみじみとしたのは、都内のホテルの部屋の窓から見る繁華街の様子が元日から正月3日にかけて明らかに変化していくことに対してだった。

 当時は東京でも、元日には人の気配がなくなり、灯りのついている店はほとんどなかった。それが2日になると少し灯りが増え、3日にはかなり平常に戻っていくさまをホテルの窓から感じとったのだった。それは、東京の年末年始という「非日常」から日常へと戻っていくさまである。

 現在は、東京に限らず、全国どこでも24時間、365日間オープンのコンビニが増え、日常と非日常の境が無くなっている。昭和の時代はもちろん、平成に入ってからも1990年代初めまでは、日常と、非日常の正月の間の区別は残っていたような気がする。わたしは、そのような「非日常」のあった東京が好きだった。

大学ラグビーと箱根駅伝

 その年は、新年は松阪で迎え、真っ暗になった元日の夜に東京に着き、2日の朝、国立競技場に近いJRの信濃町駅で友人らと待ち合わせ、大学ラグビーを観戦。試合終了後は表参道を原宿駅に向かったが、正月ばかりは原宿が大人のヨーロピアンな街に見えるシックな佇まいで、とても気持ちがよかった。初めて原宿を魅力ある街に感じた。3日は浅草の浅草寺に初もうでに出掛け、天どんを食べた。浅草のにぎやかな喧噪が街に華やぎをもたらせていて、江戸情緒を味わうことができた。浅草のにぎわいに心が開放されていく。

 浅草から東京方面に向かう、がらがらの地下鉄の車中で新年のたっぷりの日差しを浴びながらゆったりとスポーツ新聞を広げたオッちゃんたち2人が、大きな声でちゃきちゃきの江戸っ子言葉を話している。ふだんは標準語族にかき消され、ここまで純粋な江戸族は東京でもめったに見られないよなあ、と、とても新鮮だった。2人が「もうすぐ(駅伝は)ゴールだねえ」と話しているのを聞いて、「そうだ、今なら間に合う。フィニッシュを見に行こう」と大手町で降りて、ゴールの読売新聞社前にラッシュした。

 ゴール付近には参加各大学の応援部が繰り出し太鼓の音がどんどこと響いている。東京農大応援部員が両手にダイコンを持って踊る農大名物ダイコン踊りがビル街の谷間でひときわ目を引いていた。そこに集まったみんなは箱根から東京に向かって駆け抜けてくる選手たちを待っている。

 わたしは箱根駅伝に、正月2日に東京から箱根の冷たい山に分け入っていく往路に対し、正月3日に箱根から東京に帰る復路は6区から7区、8区、9区と東京都心に近づいてくるにつれ、見てみる者みんなの気分がだんだん明るくなってくる違いを感じる。この場合は聖地たる箱根は「非日常」の世界であるに対し、関係者や全国の駅伝ファンが待つゴール東京はすでに十分な日常性を持って待ち受ける場であるような気がしてならない。

 暗く冷たい世界に向かってどんどん走っていく山上りから山を駈け下り、ひらけた世界へ快走していく明るい陽の世界としての東京が選手たちを待っている。

 それがわたしにとっての箱根駅伝だ。もうここ何年かのあいだにすっかり人々に定着した言葉に「元気をもらう」というのがある。箱根から東京に帰ってくる選手たちは襷とともに山の英気を持ち帰ってくる“神男(しんおとこ)”の役割を担っているのかもしれない。

箱根、伊勢。そして、熊野古道

 三大駅伝とされる出雲、熱田・伊勢、箱根に共通するのは、代表して詣でてくるという行為だ。平安の昔より、京の都の貴族には熊野(本宮、那智、新宮の三社を中心とする紀伊半島の芯の山々を指します)に詣でるという異界(平安貴族にとって熊野はこの世とはかけ離れたくらい遠いところにある別の世界だった)への旅がはやった。

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熊野に詣でれば、命が蘇る、もう一度、生をうけるという熊野信仰だ。少々飛躍したが、箱根駅伝には、現代版の熊野への旅のようなところがある(「隠の世界」を代表する熊野に比べ、江戸時代のお伊勢さんは、めっちゃ明るい「陽の世界」を代表しています)。

 ほんと、話がどんどん異次元にいってしまいましたが、あのころの東京は、お正月になると広大な都会がしんと静まり返ってしまい、店も閉まっているので一人暮らしにはなんともやりきれなかった。しかし、明治神宮のある表参道や浅草寺のある浅草はほどよいにぎわいとても楽しかったことと、スポーツ新聞のオッちゃんたちの車内でのくつろぎ感と、江戸言葉が標準語を圧倒していた空気感がとてもよかったというお話でした。

             てらこや新聞141-142号 2017年 02月 13日

<写真説明>

① トップ画面=伊勢神宮(三重県伊勢市)内宮に近い「おはらい町」のにぎわい

② 本文中、上から、松阪(まつさか)市殿町の国重文・御城番(ごじょうばん)長屋(20戸)のある風景。松坂(まつざか)城跡から望む。江戸末期の建築で、国重文としては珍しい人が住んでいる武家長屋。旧・紀州藩士(江戸時代の松坂は紀州の飛び地だった)の子孫が住むほか、一般人も借家として住むことができるので、わたしも5年ほど住んでみた。

③④ 下の2枚は、熊野古道・中辺路(なかへち)の「とがの木茶屋」(和歌山県田辺市)、小辺路(こへち)の果無(はてなし)集落(奈良県十津川村果無)。果無集落は、十津川村から果無山脈を越え、本宮大社(和歌山県田辺市本宮町)に続く道(熊野古道)の中腹にある。石畳が熊野古道。


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