【短編】荷物も、未来も、過去も、捨てられたらいいのに。
済みませんね、今日はメニューが一種類だけなんですよ。
どのような事情があったのかは知らないが、この汚い中華料理屋は今日、観測史上最大の客入りだ。
厨房では時折大きな炎が上がり僅か三名のアルバイトがひっきりなしに料理を供給し続けている。
テーブル、カウンタ、そして立ち食い。本来であれば15人程度のキャパシティしかない店内は300パーセント以上余計に充填された人間の呼気で酸素濃度が著しく低い。
特別美味くも不味くも無いはずのこの店がこんなことになってしまっている事に対する最も合理的な説明は、近所の飲食店がすべて休業してしまったか、僕があの頃の人混みを懐かしんでいるかのどちらかだろう。
僕を認識したらしい店主に対し、今日は食事をしに来たのではないという意味で軽く頭を下げた後、荷物と身体をぶつけながら奥へ奥へと進む。
誰かの器から跳ねた汁が服にかかったような気がしたが、気にしないことにした。
厨房の奥にある扉を勝手に開け、裏へ出る。
閉める前にもう一度店主に頭を下げた。
湿った段ボール箱とビールケース。換気口を覆う黒い油。土に還ろうとしている自転車。曇った窓。この景色は想像上の香港のようでもあり、大井町のようでもある。見上げて飛行機が飛んでいれば完璧だが、流石にそこまで出来過ぎては居なかった。
虹色の油膜を反射させた水溜りで裾を汚さないよう避けて歩き
500m程先で、地下へ通じる階段を下りる。
ー
この空間は居心地がいい。
抑えられた明るさ。
お酒と煙と人々の会話がしみ込んだ木のカウンタ。
見慣れた男性客が二人。僕等は互いに顔は知っているが名前は知らない。
すこし離れて、女性が一人。彼女は見かけたことがない。
間に僕が座れば、バランスよく席は埋まる。
財布と煙草を置く。
出された灰皿にはハイネケンのロゴが描いてある。それを頼む。
スタンドに立てかけて有る茶色いテレキャスター。
30Wのコンボにつながっているこれはオーナの私物だ。
防音扉の先には100名を収容できる空間があり、そのキャパシティに不釣合いなほど大きな三段スタックのマーシャルとメサブギーがドラムを挟んで仁王像のように客席を見下ろしているはずだ。
扉の傍ではチケット係が不機嫌そうにケータイを弄っていて
キックとベースの振動がすこしだけ漏れ出ていた。
併設されたライブハウスは今日は満員らしい。
━
二杯目のハイネケンが半分ほど進んだところで重い防音のドアが開いた。激しいビートが流れ込む。
肩を支えられて出てくる少女。
すぐに扉は閉じられ、轟音は煙のように消える。
彼女は少し進んでしゃがんだ後、その場で床にもどした。
背中をさすられながらさらにえずく。
ひろがってゆく液。
僕が吐くときはだいたい喉が切れることを思い出した。
胃の中にはもう何も残っていないのに、血の混じった水分だけが出る。
いつまでも、いつまでも。
僕達はただ生きようとしているだけなのに、毎日が消耗戦だ。
この戦争は自分のせいでも他人のせいでもない。
いつまでも、ただそうあるだけ。
ここに居るのは皆それを解っている人たちだから、ほんの少しばかり身体に悪い方法で(彼女の場合は大きな音とアルコールで)そこから逃避しようとして、たまたま今日は身体がそれに耐えられなかっただけだ。
数名の仲間たちが慌てて水をあげたり背中をさすってあげたりしている。
僕はこれ以上それを見ないようにした。
今してあげられることなど何もないし、そんな事を考えること自体が彼女の人生に対する冒涜だと思った。
外の空気を吸わせに連れ出すようだ。
それがいい。
嵐が去って再び空間が落ち着きを取り戻した。
いつの間にか男性二人は消えてカウンタには女性だけになっていた。
近くも遠くもない距離の僕らは互いに表情を伺ってから同時にスツールを降りた。
僕はブラシへ、彼女はホースへ。
この奇跡が、ほんの少しのこった、この世界の美しさ。
ー
吐瀉物を処理した僕達は最後の仕上げにもう一度床を水で流そうとしていた。
この水槽の栓を抜いて流してしまいましょう。
声を聞くのは初めてだった。
アクセサリを付けたままの細い腕は、小さな魚たちを紫の照明が照らす水の中へ。しなやかに。
水平方向に飛び出す水。
ついでにグラスの半分も捨てて、新しいハイネケンを貰おう。
カウンタに戻ろうとする。
脚がうまく動かない。
既に膝の辺りまで水が来ている。
あの水槽にそんな水量が。
カウンタの下を見ると僕の鞄が水没しかけていた。
中に入っているペンタックスがそれに耐えられるかは微妙なところだ。
文庫本はまた買いなおせば良い。
もっと持ち物を少なくして身軽に生きられたら、と思った。
僕はただ生きようとしているだけなのに
なぜこんなに持ち物が多いのだろう。
荷物も、未来も、過去も、重たすぎる。
水は胸のあたりまで来ている。
このままでは泳ぐのに支障がでると思い、上着を脱いだ。
捨てるのに躊躇はなかった。
鞄ももう諦めた。
やればできるものだな。
あとは何を捨てよう。
もう残りの持ち物は自分の命くらいだけど。
ロッカーの上に避難していた彼女が、まだ水中にいる僕のTシャツを見て言った。
「私もガンズアンドローゼスは好きですよ」
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しまった。この奇跡は、過去という持ち物のおかげだ。
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地下室が完全に水没する前に、目が覚めてしまった。
未来も過去も上着も捨てずに済んだ僕は、ガンズのTシャツが有ることを確認して、また今日という戦場へ向かう。
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