旅のさなか、僕を家に引っ張り続ける透明なゴムの紐。
どんなに楽しい旅でも、家から伸びている見えないゴムの紐に僕は引っ張られている。それは常に弱い力で引力を発生させている。もちろん、遊びだけではなく、仕事で出張に出かけているときも。
始めは細く、弱く、ほとんど意識することはない。
旅は楽しい。
観光地での非日常、非現実。
その街での生活をシミュレーションする独り旅。
目的をもった撮影旅行やゴールを目指すスポーツである自転車旅。
しかし、時間が経つにつれそのゴム紐は次第に太く、強くなっていく。旅の終わりが近づくと、今度は存在感と具体性が増してきて、明日の仕事へ繋がる電車のリミットや高速道路の所要時間、自転車だったら残りの体力や、最悪の場合輪行するためのルートや費用などの心配に変わる。
その紐がちらつく度に、少しづつ旅の楽しさは削がれてゆく。
目的が、帰宅に変わる。
「家」に、帰らなければ。
最後に生活圏まで戻ってきた頃にはもはや何も考えずただその引力に引かれるがままに家の前にいる。使い慣れた道具を使うとき、その操作に何の意識も必要としない様に。
そこにもはや旅情はない。
ごく稀に、急な災害やトラブルで帰宅の必要が無くなったときなど、その紐が切れたかの様に感じることもある。
非日常による解放、祭のような感覚。例えば荒天で引き返された飛行機、動かない電車。今いるこの場所で今夜の過ごし方を考えるとき、不安とともに新しい楽しさが生まれる。何かを切り開くためにエネルギーを消費している最中。
でもそれは錯覚で、蜘蛛の糸ほどに細くなっただけのそれは結局また徐々に太さを増していって最終的に僕を家へといざなう。
その紐を意識しなくていい旅はきっと究極に楽しいはずだ。
どこへも帰る必要の無い旅。そんな機会は一生に一度しかない。
間違いなく、それは死以外にない。
ー
家。
そもそも、そのゴム紐が生えていると錯覚していた「家」などというものは本当の僕の原点位置ではない。
会社に行くとして、別に一度帰宅する必要などない。その気になれば旅先から出社することもできるし、最も安価に風呂と睡眠が手に入る場所がたまたま家だというだけだ。出張族だったから世の中がこんな状況になる前から出社すらせずに出先のホテルや喫茶店で仕事(テレ・ワーク)していた時期もあって、会社という場所に出社しないことに抵抗はないし、大前提としてその組織に生涯身を置くとは限らない。無理に荒波に身を投げるまでもなく、その保障もない。望むと望まないとにかかわらず。
十代の頃は大体二年置きにあちこちを点々としていた。もちろんその場所場所ではうまくやってきたし、とても親切な人たちと幸せな時間を過ごした。その街でもう一度暮らせと言われたらどの街でも喜んで暮らせる。
だがいずれの街もぼくの”ホーム”タウンだと感じたことはなかったし、今や自分の地元ですら、景色も、人も、思い出も、自分の生家も含めてほとんど失われているから仮住まいだったあの街達と何の違いもない。
そしてこれからいつか移り住むであろうどこかも、間違いなく”ホーム”にはならない。
つまり、帰るべき場所は家でも会社でも土地でもなく、所属していた組織であり、所属していた家族であり、所属していた社会的役割だった。
そのいずれも、いつでも切ろうと思えば切れるし実際何度も切ってきた。
これから家族や親戚や友人知人や組織が加齢や成長で失われていくとして、仕事や街や世界の在り方が何らかの事情によって変わっていくとして、最後に僕はどこへ帰ろうとするのか。
遊びの旅とは別に、今生きていること自体が旅だとしてもっともっと俯瞰してみると、どうやら本当のホームなどというものは僕には無いらしい。
例のゴム紐が見当たらないのだ。
持っていなかったのか、作れなかったのか、作ろうとしなかったのか、初めから存在しなかったのか、これから手に入れることができるのか。
そもそも、本当に欲しいのだろうか。
ー
今は今の生活から生えているゴム紐を頼りにスイングバイを繰り返す。
束の間の非現実から、少しずつ少しづつ重力エネルギーをもらって、いつかその重力圏を脱出する日が来るまで。
それが明日か、十年後か、五十年後かはわからないけれど。
本当の最期はきっと楽しい旅になる思う。
そう考えると、未来は明るい。
その日を楽しみに僕は今日も家から生えるゴム紐と戯れる。
いま、この紐はまだ必要だ。