幼少期に自分が掛けられたかった言葉を息子にしっかり伝えたら自分が泣いた
子育てをするメリットは「自分のことを考えなくて済むこと」だと考えていた。
事実、息子が産まれてから自分のことを考えることはかなり減っていった。日々ものすごいスピードで成長し、変化する息子と対峙する時、僕は僕のことを考えずにいられた。
少なくともあと18年程度は自分のことを考えなくて良いな、とホッとしていた。
産まれてから約2年間は、ひたすらに愛情を捧ぐだけで良かった。ひたすら抱きしめて、ひたすら頭を撫でた。
本当に幸せだった。
しかし2歳前後で息子は自我に目覚め、はっきりと意思表示をするようになった。
いわゆる「イヤイヤ期」。この時期になると、
これまでのような「一方的な愛情表現」だけではどうにもならなくなる。
ただ抱きしめるだけでは解決しないことが出てくる。要は叱らないといけなくなる。叱らなくても、説得しないといけなくなる。
そして僕は本当に叱れない人間で、説得ができない人間だ。
物を投げても「物を投げたらダメ」とハッキリ叱れない。
食べ物を意図的にこぼしても「こぼしたら食べれなくなる」と説得できない。
何とも思わないわけはない。内心はすごく嫌な気持ちになる。
物を投げる人は嫌いで、食べ物を意図的にこぼす人も嫌いなはずなのに、「今嫌な気持ちなった」と言えない。
だから言葉が出てこない。態度で示せない。
2歳の息子を目の前に、僕は父親として、人として、彼に自分の思いを伝えられない。
子どもはひたすら純粋に自分の気持ちを表明してくる。
対して僕は自分の気持ちを表明したことがほぼ無い。対面だと特にそうだ。これまで僕は「嫌だ」とあまり言わない人生を送ってきた。
中学の時、図書室の先生に「あたまでっかちにならないように」と言われた。
20歳まで働いていたところの社長には「八方美人にはなるなよ」と言われた。
太鼓持ちタイプだよねーと言われ、良い人だね、と言われ、嫌われないタイプだよね、と言われた。
僕は自分の気持ちが分からない。
冗談じゃなく、本当に分からない。
分からない自分のことを考えるのは苦痛だし、向き合うのもしんどい。
だから自分のことを考えない人生にしていった。
子が産まれて子どものことだけ考えれば良い、とホッとしたのはそのためだ。
だけど、2歳の息子は容赦なく僕に本心をはっきり表明してくる。
それだけならまだしも、僕の本心の表明を待つ。
対大人なら、のらりくらり避ける術(いつからか身に付いた)で何とかなってた。大人は「あ、あなたはそういうタイプか」と分かってくれるから、それでよかった。だけど2歳は違う。息子はいつでも僕に、
「お前の気持ちを表明しろ」
「お前はどう思うんだ」
と突き付けてくる。
本当にしんどい。しんどくなってきた。イヤイヤ期そのものがしんどいということもあるのだろうが、自分の気持ちと向き合うことがしんどくなってきた。まさかここで、自分と向き合うことになるとは想像してなかったからなおさらしんどい。
今朝、息子は保育園にスリッパで行きたいと気持ちを表明してきた。
「保育園にはスリッパじゃなく靴でいかないといけないよ」と言っても「いやだ!!!」と言い続ける。
ふと「とことん付き合ってみよう」と思った。
「イヤイヤいう息子に付き合う」というより、
「息子に対する自分の気持ちに付き合う」のほうだ。
いつもなら何となくあやして、別のものに興味を持たせつつ靴に履き替え、さっと保育園にいくだろう。でも今朝はそれをやめた。
息子よ、どうかお父さんがお父さんと向き合える時間に付き合ってくれ。すまん。と謝りながら、息子を抱っこした。
何をすべきか、何を言えばいいのか決めてなかったし分からなかったが、
分からないなら分からないまま、自分の本心に従ってみようと思った。そして言葉が出た。
「大丈夫、大丈夫、○○ならできるよ。お父さん見てる。頑張ってるよね。お父さんは○○が頑張ってるところを見てる。大丈夫。○○は自分の力でスリッパにバイバイできることをお父さんは知ってる。お父さんは無理矢理○○のスリッパを取り上げたりは絶対にしないからね。○○が自分でスリッパにバイバイできるまでお父さんも一緒に頑張るから。大丈夫。」
「靴に履き替えて欲しいとき」の声かけとしてはトンチンカンな気もした。
でも構わない。とことん自分自身の気持ちに付き合おう、と決めたのだから。今、僕が息子に話したいことを話そう。
あまり大声にならないように、息子と僕自身に語りかけるように、可能な限りゆっくりとした口調で語りかけ続けた。
1時間30分、息子は玄関で泣き叫び続けた。僕は絶対にこの機会を逃すか、という意地で、息子に語り続けた。
そして最後に、息子は自らの意思でスリッパを離した。
スリッパを離したあと、シクシクと泣き続ける息子に向かって、
「よくできた。本当によくできた。○○は自分の力でスリッパにバイバイできたね。自分でバイバイできることはすごいことだよ。本当にすごいんだよ。お父さん見てたよ。○○が自分の力でスリッパにバイバイできたところきちんと見てたよ」
と呼びかけながら、なぜか僕もボロボロ泣いた。
僕は見た。
息子が自分の意思で、スリッパを手放したのを見た。
とても悔しそうに、でも一生懸命スリッパを置こうとして、でもイヤだから手放せず、すぐスリッパをぎゅっと握る息子の震える手を見た。
最後に本当に頑張ってスリッパを離した瞬間を見たのだ。
見たことを息子に伝えたいと思って伝えた。
ちゃんとぜんぶ見たよ、ちゃんと頑張ったところを見たよ、と言葉で伝えたいと思って、言葉で伝えることができた。
本心を表明することができた。
「大丈夫」「いつもちゃんと見てるよ」「頑張ったね」「頑張ったところをちゃんと見たよ」「一緒に」
自然と出てきたこれらは、僕が掛けられたかった言葉だったのかもしれない。
僕は息子を抱っこしながら、幼少期の僕に向かって、声をかけていたのかもしれない。
大丈夫。心配ない。ここにいる。頑張ったね。寂しかったろう。もうひとりじゃない。
目の前にいる2歳の息子と僕自身の幼少時代を重ねるのは良くない気もする。たぶん良くない。
子育てする上で「子どもをうまく扱えるHow To」「子どもの気持ちがわかるようになるHow To」は大切なのだろう。
しかしそれよりもっと優先すべきことは、
「自分の本心を受容すること」だと思う。
少なくとも僕にとってはそうだった。僕は僕の本心を受容できていなかったから、息子の本心にうまく反応できなかったのだ。
今日、ほんの僅かではあるけど、僕は僕自身を受容できた気がする。寂しかったのかもしれないあの頃の僕を、頭を撫でて欲しかったのかもしれないあの頃の僕を、受容できた気がする。
だから僕は、息子がスリッパを自らの意思で手放せたとき、本当に本当に感動して、がんばったね、と泣いたのだと思う。
息子は2時間遅れで保育園に行った。
疲れて眠たそうだった。そりゃ1時間30分も泣いたら疲れるだろう。
今日は保育園で誕生日会をするそうだ。ケーキが出るらしい。甘いものを食べて少し元気になってくれたら嬉しい。
大丈夫。見てる。お父さんはちゃんと見てる。
信じてる。君ができることを信じてる。見てる。見てるよ。ちゃんと見てるからね。ここにいるからね。
お父さんに付き合ってくれてありがとう。
愛してるよ。
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