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就活に対抗する武器をみつけた

「なんて無邪気に笑うんだろう」

南伊豆の人に会って、いちばんに思ったこと。オーナーのイッテツさんも、留職生(社会人インターン)のりょうじさんも、ちなさんも、わたしが関わった南伊豆の人たちも。口を大きく開けて、それはそれは軽快に笑う。年齢でみたらわたしが最年少なはずなのに、生意気にもそう感じるくらい若かった。

そんな素敵な人と出会うきっかけになったのが、南伊豆にあるゲストハウス「ローカル×ローカル」。わたしはここで、7月からの1ヶ月間、編集を学ぶインターンをしていた。

1ヶ月前は南伊豆にいたのが嘘みたいに、もう過去の思い出になっていることに寂しさを感じるけれど。また振り返って思い出したりしたいから、忘れる速度より少し早く書き出してみる。でも「こんな答えが欲しいんでしょ」みたいな感想文は好きじゃないから、ありのままで。



そもそもわたしが南伊豆に来たきっかけは、「編集」を学びたかったから。

ざっくりまとめると、自分の強みと好きのかけ合わせで生きるには「編集」というスキルが必要なんじゃないか。「やった人にしかわからない世界がある」ならば、実践している人から学んだほうがずっといい。そんな行動前のめりスタイルで、南伊豆という土地にはるばる足を運んだというわけ。

フリダシに強制送還

南伊豆で「編集」と向き合った日から、1ヶ月。
「編集者」になりたくて休学した日から、4ヶ月。

見切り発車でも未熟でも、自分のやりたいことを口に出して動いてきて。「書く」「編集」を仕事にしている人とたくさん話してきて。「編集者になりたい」といろいろな人に宣言してきて。

「解像度が上がったのなら、さぞ夢に向かって突っ走れることでしょう」「おめでとう、これからが楽しみだね」なんてことにはならなかった。

広義な編集=
「あらゆる素材をメディアと捉え、活用して状況を変化させる」スキル

藤本智士著『魔法をかける編集(インプレス) 』より引用

私がここ南伊豆で学んだのは広義な編集だった。たとえば飲み会が盛り上がるように、人の配置を考えたり。どうすればファンを増やせるか、SNS発信の投稿を考えたり。あれもこれも広義な意味では編集。

だとしたらみんな編集者だし、わたしが言い続けてきた「編集者になりたい」はなにを指す言葉なんだろう。わたしがなりたい編集者に必要なファーストキャリアはなんだろう。出版社に就職なのか、はたまた別の就職先なのか。よくわからなくなった。

大学進学からずっと「書く」ことは続けてきたけれど、この手段に固執しすぎていたのかとか、憧れの編集者になることが目的になっていないかとか。それはもういろいろな考えが脳内を渦巻いていた。

「そのバイタリティーがあれば大丈夫」
「きっとあなたならどこでも生きていけるね」

さらに一見喜ばしく聞こえる言葉でさえも、就活で選択肢を絞っていかなければいけないわたしを困らせる。つまりは、ありがたい言葉も素直に受け取れないほど、ひねくれ始めていた。

そして追い打ちをかけるようなできごと。それは「書くこと」を仕事にしている人からもらった言葉だった。

「書くことは、どんな職業でも続けられるよ」
「自分が面白い人生を歩んでいたら、面白い記事が書ける」

言ってることは理解できるし、その通りだとも思う。でも「書く」ことで長生きするためには「編集者」だ! そう思って突き進んできたばっかりに、路頭に迷った気分になった。一歩ずつでも確かに進んできたと思っていたのに、あるマスに止まってフリダシに強制送還されたような。自分の行動で間違いなく進んでいる現実に、なんでこんな感情を抱かなくちゃいけないんだろう。

行ったり来たりの毎日

つまりはみんな「もっといろいろな選択肢をみたほうがいい」と伝えてくれていた。

正直このアドバイスをもらったとき、受け入れることを拒否したくなった自分がいた。これだと思って進んできた道を否定された気がして、固執したくなった。大学1年生の頃から自分の追いかけてきた夢を疑うことがこわくて、仮にでも手放すことを恐れた。

でも向き合えた。それは間違いなく、南伊豆での毎日があったから。

東京から最寄りの伊豆急下田駅まで、電車で3時間。そこから車で20分。都会から適度に離れた場所だから、変な情報に惑わされない。目の前にある暮らしに、人に、集中できた。余計な雑念が限りなく削ぎ落とされた場所だから、生き急いでいた自分を受け入れられた。自分を俯瞰でみて、客観的に考えられた。

そこには切っても切り離せない、南伊豆の人たちがいて。

この1ヶ月間、いつどこでわたしの将来に対するモヤモヤをぶつけたとしても、受け止めその人なりの返答をくれた。大きな進路イベントに挑むのは受験ぶりだけれど、あの時にはなかった居場所があって、相談したい人の顔が何人も浮かんでいる。

それに今の自分は、就職以外の働き方を、選択肢をたくさんみた上で就活をすることを選んだ。その選択のほうが、なりたい自分に近づけると思ったから。傍からみれば同じ選択だとしても、ただただ社会の流れにのりそうだった過去の自分とは違う。それに納得して自分で選んだ道ならば、なにかあってもやりきれるって分かってる。

自分にはこれしかないと思って踏ん張る力も時には大切だけれど、必要以上にこわばった力を抜いて、目の前の状況を楽しむ力も同じくらい、いやそれ以上に大切なこと。南伊豆の暮らしを経た今の自分にはあるから、みえない暗闇にもう一度足を突っ込む勇気が湧いてくる。

もちろん就活はこわい。その事実は変わらないけれど、たとえ落ちても、着地の仕方は分かっているから大丈夫。何回でも飛んでやるさみたいな、そんな感じ。選択肢をたくさん知っているから、「楽」ではなくより「楽しい」道を、自分で決断できている。

だからここ最近は「書く」を手放して、引き寄せて、を繰り返していた。そして自分なりの答え「どんな仕事に就いても、書くことは続けて打席には立ち続けよう」「面白い文章を書くために面白い人生を歩もう」にたどり着いた。行ったり来たりでたどり着いた答えだけれど、この想いだけはかなりはっきり存在している。

シュウカツ

南伊豆から離れて、就活に向き合う時間が増えてきた最近は、朝起きてからずっと心拍数が高くて、心臓が熱くて、なにかに追われていて。情報過多すぎる世の中は今にも吐きそうで、持久走大会のスタート前みたいな緊張感がずっとこびりついてはなれない。

自分と向き合えば向き合うほど、底なしの真っ暗闇に沈んでいきそう。世の中の風潮が立ち止まってはいけないといっているようで、目の前の自分と向き合う足踏み期間は、あまりにも居心地が悪い。

見切り発車をしたくなるけれど、もしかしたらそれは、嫌なことを後回しにする、ただの回避行動かもしれないから。今回ばかりはちゃんと立ち止まってみようと思う。どうせいつかはぶつかる壁ならば、早めに向き合っておいたほうがいい。

対抗する武器をみつけた

振り返れば笑っちゃうけれど、南伊豆のある日、就活に頭をもっていかれて、みんなが笑っている場面で全然笑えないときがあった。人生を楽しく生きたいのに、目の前の面白いことを面白いと思えない、笑顔を浮かべる余裕がない。そんな自分を俯瞰する自分が「笑顔がない人生なんて面白くない」と警報を鳴らしていた。

だからさ、これだけは決めた。どんなときも、口角は上げていこう。これは私にとっての、反骨心の旗揚げ。

なりたい自分に近づく手段の就活に、自分を否定されるのは癪だよ。今まで考えたことがない部分で悩んだり、立ち止まるきっかけをくれることに感謝しているけれど、必要以上にメンタルをやられる筋合いなんてない。悩みはするけど、笑顔まで奪われてたまるものか。

絶対この場も、この機会も活用してやるんだから。糧にしてやるんだから、って笑顔の裏側で静かに青い炎を燃やしている。本当は笑ってないと、真っ暗闇に飲み込まれてしまいそうでこわいだけなんだけれど。

今日もヘッドフォンを装着して、口角を上げて、準備完了。楽しむことも、面白がることも、ときには簡単ではないけれど。

笑顔でいれば、目の前にそびえ立つ大きな壁にも、小さな穴が空いていることに気がつける。その目の前に立って、いろんな人の力を借りながら、どうしたら壁を越えられるか考えて動いてみて。するときっといつかは、その先にある景色をみられるはずだから。

わたしの就活に対抗する武器は、目の前の壁すら「面白がってやろう」と挑む笑顔。こいつでこわがる自分も騙しながら、みえない未来に向かって歩んでいこう。南伊豆で出会ったみんなの笑顔を思い浮かべながら、改めてそう誓った。

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