普通の事だから。【ほぼ実話短編・7308文字】
「こんなの普通だよ」
普通の事。なんて曖昧で、なんて暴力的な言葉だろう。受け取る僕の側の問題だとはわかる。わかるが、それでもやってられない。
「あーあ」である。全くもって「あーあ」に尽きる。
◎
夜勤から帰って来たその足で、すぐに着替えと支度を済ませる。そのまま日の当たらない半地下の部屋を抜け出して、自転車置き場へ向かう。鍵を財布から取り出してガチャリと小気味いい音に少しだけ癒される。
7月の外の気温は今はちょうどいいが、時間が経つにつれてどんどん暑くなるだろう。太陽の力はより強く感じる。朝の爽やかな日差しは夜勤明けの体には少々堪えるが、それでも体は太陽の光を求めていた。日の当たらない部屋、日の当たらない時間の仕事。意識しないと太陽に出会えない。突き刺さるような日射しが、今日はありがたかった。
カゴにクモの巣が張っていた。昨日も使ったのに、1日でこんなにも大作を仕上げたのか。やるなぁ、と思いつつ無慈悲にその成果物を破壊する。クモは恨めしそうに残った一本の糸でカゴにへばりついていたので、それすらも絶ちきる。ごめんな。普通の事なんだ。地面に落ちたクモをせめて轢かないように一瞥して、自転車を発進させた。
僕達は、「普通」という言葉が好きだ。「片隅」が、「手のひらサイズ」が、「平凡」が、大好きなのだ。だからよくそう表現しがちになる。僕もよく使う。だけど、ごく当たり前の事実として、各々の普通は異なる。
僕の部屋は、湿度が高すぎる。一階というより、アパートに入るには5段ほど階段を降りる必要がある事から、0.5階の気分だ。半地下だ。その要因もあり、家計簿に除湿剤の項目を付け足すくらい、除湿が必須だ。
先日湿度も表示できるデジタル時計を買って、蒸し暑い部屋の真の数値を確かめようと、クーラーの除湿も切り早速使ってみたら湿度70%と書かれていた。愕然とする気持ちと折り合いをつけて、少しだけしめしめと思いながら写真におさめた。同僚や先輩、友達には、結構好評だった。笑って貰えて僕も救われた。
ネタにでもしないとやってられない。それが僕の普通だった。
だけど、僕は引っ越しを選ばなかった。職場との距離、駅前へのアクセスのしやすさ、近くにあるスーパー。部屋の快適さと引き換えに、立地は最高だった。そしてなにより、都内にしては家賃が破格だった。
結局はお金に尽きる。
お金に尽きるのだ。
◎
デジタル時計を買った日、ファッションが大好きな四谷(ヨツヤ)くんに誘われて、四谷くんが贔屓にしているブランド「クロフネ・ペリー」のプレオープン会に行ってきた。メンバー特典で秋物が先行で安く買える、とかなんとか言っていた。
まず、僕はプレオープン会が何かも知らなかった。ファッションに興味はあるが、書籍代を優先させた結果、ここ数年まともに私服を買っていなかった。行く?と誘われて行ってみるくらいの興味はあったので、この機会に服でも買おうかなと思った。
四谷くんはオシャレなので、僕も一張羅だと自分では思っているものを着ていった。Tシャツ一枚だが、僕のお気に入りだ。黄色の布地に、キリンの柄と文字が書かれている。
「LOVE IS ALL YOU NEED!」
通称、「愛さえあれば!」Tシャツ。
昔何回か洒落てるねと褒めて貰った事もあったので、自信満々で着て行った。
「中路(ナカジ)、そのTシャツ、もう色がくすんでるよ」
四谷くんは、僕にそう教えてくれた。
そして僕は、その時に、愛があっても着すぎて色のくすんでしまったTシャツはダサいという事を知った。
それが普通の事だった。
愛があるだけでは、どうしようも無い事実にショックを受けた。
あれは四谷くんの優しさだった。
善意で、そろそろいい大人なんだから私服も身だしなみしっかりしようぜ、という忠告をしてくれた。
高校生でも、なんなら中学生でも、わかる人はわかる事らしかった。
24歳になってそんな普通の事を知らなかった自分が、猛烈に恥ずかしくなりながら、プレオープン会の会場に着いた。駅に降りたこともないお洒落な町。誘われなければ人生でこの場所に来ることはなかったかもしれないと考えると、不思議な気持ちになった。
「クロフネ・ペリー」のブランドで全身を決めた四谷くんを、受付の人が褒めている。すごいなぁ。僕はただ、「カッコいい」としか言えなかったけれど、なんだか具体的な言葉がたくさん出てきていた。お洒落な人同士はああやって褒め合うのか。細かい部分を褒められると褒められる程、四谷くんは嬉しそうな顔をした。友達である自分よりも、受付の人の方が四谷くんの事をよく見ている事実を突き付けられた気がして、僕はまた猛烈に恥ずかしくなった。
受付で手続きをして中に入ると、四谷くんは有名なデザイナーとのコラボ商品にまず興奮していた。僕はデザイナーさんの事はサッパリわからなかったけど、脳内で尊敬する作家の先生とのコラボ商品が目の前にあったらそりゃもう興奮する、と変換して伝えて一緒に興奮した。
興味本位で値札を見てぶったまげた。桁が1つ違う。だが、「高い」と言うのもなんだか失礼な気がして「とても手が届かない」とだけ呟いた。
四谷くんが良く行くお店の店員さんがプレオープン会のスタッフとして召集されていたらしく、四谷くんと服の事で大変盛り上がっていた。僕も会話に混ぜて貰ったが、こういう時凄く気を遣って貰っている感じがして、居たたまれなくなる。この2人程のファッションへの熱量と「クロフネ・ペリー」への愛が僕には無いのだ。どうしても会話がぎこちなくなる度に、申し訳なさを感じた。
勧められたポロシャツを体に合わせてみたりもしたが、結局僕は何も買わなかった。一番スタッフさんにとって厄介な客となった。値札を見るたびに「うっ」となっていた。今思うと、靴下だけは買って良かったかもしれない。でもその時は「なんか靴下だけ買うのもなぁ」という気分になっており買わない選択をした。
四谷くんは僕が何も買わない事を明らかに落胆した様子だった。それはそうだろう。せっかく連れて来たのに何も買わないのだから。やはりあの場所では、靴下は買うべきだったのかもしれない。四谷くんへの礼儀として。この事をぐるぐる考えて、結局買ったとしてもその後が続かなかったと結論付けた。
僕は逆に、買いすぎなくらい注文カードを書く四谷くんにびっくりしていた。中には、あの桁が1つ違う有名デザイナーさんとのコラボ商品もあった。
びっくりしすぎて、「こんなに買うの?」と聞いてしまった。これが本当に良くなかった。それは四谷くんの自由だからだ。僕が好きな本を買うのと同じで、四谷くんは好きな服を買っている。それだけの事なのに。言ってしまった。
四谷くんは、「まぁちょっと今回はいつもより多めだけど」と前置きして、
「でも、こんなの普通だよ」と僕に言った。
ズクンと、嫌な感情が沸き上がるのを感じた。
いつも「お金ない」って一緒に言ってたじゃないか。
全然「お金ある」じゃないか。
貯金額も、きっと四谷くんと僕とでは比べものにならないのだろう。
四谷くんは、実家暮らしだから、好きに使えるお金の量が全然違うんだ。
そんな事を考えた。
そしてしょうもない一人暮らしマウントを取っている自分に嫌気が差した。
四谷くんの事をそんな目で見ている自分が嫌だった。
お金の事を常に考えてしまう自分が嫌だった。
生まれた場所の差で何故こんなにも違うと考えてしまう自分が嫌だった。
学費は自分の体で働いて払ったという事を誇りにしてしまう自分の感覚が嫌だった。
学生時代、仕送りがある事前提で話が進む会話が嫌だった。
自分の中だけの感覚で、自分は人より苦労していると思ってしまうことが嫌だった。かといって、「もっと苦労してる人はいる」とか思う救いのない苦労バトルも、人に不幸自慢する事も、どちらも嫌だった。
友達が結婚する時に口ではおめでとうと言いながら、めでたさと同じくらいご祝儀の事を考えてしまう自分が嫌だった。
彼氏が、彼女が。今、相手とのこんな事で悩んでいると聞くたびに、僕自身は、自分の悩みの事でいっぱいになっている事が恥ずかしかった。
自分は悩みのレベル低いなぁ、とか、劣等感から勝手に相手の悩みと自分の悩みをランク分けして考えてしまう自分が嫌だった。
僕は、僕の事が嫌いだった。
よく、嫌な事を考えた。
何もかもを「笑い飛ばせる力」が、僕にはなかった。
嫌な事を考える度に、「でも自分で選んだことだ」と抑え込んだ。「この生き方を自分で選んだんだ」が合言葉だった。
四谷くんとのやり取りで、ここで、「君の普通と僕の普通は違う」と言えたなら、真っ向から向き合ったなら、気まずくなったかもしれないが、もっと仲良くなれたかもしれない。「羨ましいなぁ」と素直に言えたなら、清々しい気持ちになれたかもしれない。
だけど僕はそれを言わなかった。思ったにも関わらず、言わない選択をした。「そっかぁ」とだけ言って、ヘラついた。
その後は日用雑貨のお店に行って、僕はそこでデジタル時計を買った。なんだか、時計を買いたかった。今日の事を忘れないように、時計を買いたかった。四谷くんはハンガーを買い足していた。
そして2人で和食料理のお店でご飯を食べて、映画や漫画の話をした。僕は夜勤があったのでそこで別れた。
夜勤前に連れて行って貰ったお礼として、LINEで「今日はありがとう」と送った。「またな」と帰って来たが、もう四谷くんと一緒にプレオープン会に行くことはないだろうと思った。多分、四谷くんも同じだったろう。
◎
ぼんやりと自転車を漕ぎながら、あの日の事を考えている。あの日から「愛さえあれば」Tシャツを人と会う時に着る事をやめた。寝間着にしようと考えた所で、最後に1日Tシャツと一緒に出掛けたくなった。
今日がその日だ。仕事終わり、唐突にそう思った。今から2連休だ、という解放感も大いに影響した。
胸に煌めく、くすんだ黄色の「LOVE IS ALL YOU NEED!」。僕はこのTシャツが本当に大好きだったから、ただなんとなく節目として出掛けたくなった。
Tシャツとデートだ。
夜勤明けでハイになっていると、普段なら意味がわからないと一蹴する様な事をやってみたくなる。
◎
「騒ぐな」と一体誰が書いたんだかわからない看板を立て掛けた、滑り台が1つだけある公園の横道を抜ける。看板を書いた人は、この公園の持ち主なんだろうか。わからない。区が管理しているなら、この命令口調の看板を撤去しない理由もわからない。この看板を見て良い気分になる人はいないだろう。当然のように、いつも人はおらず閑散としていた。
スーパーの隣接する大通りを抜けて、路地を進むともう1つ公園がある。自販機が側にあり、駅前にあるので、必然的にこちらに人は集まっていた。
今はまだ朝なので人はまばらだが、あと三時間もすればまた活気づくだろう。通り抜ける時に聞こえる子供達の活気溢れる声に何度も癒された。
公園の側、駅までの最後の路地に2つの定食屋がある。僕は給料日にこの場所で定食を食べるのを密かな楽しみにしていた。どちらも行ったことがあるが、両方共に従業員はおらず、夫婦が2人で切り盛りするお店だった。だがそのやり方は全く違っていた。
ひとつは、夫婦2人で料理を作り提供しているお店。そして、作っている様子が少し見える。
もうひとつは、旦那さんはカウンターで飲み物の注文を受付しているが、料理は奥さんが裏側ですべて作る。作っている様子は見えない。
どちらも本人達にとっては普通の事なのだろう。だが、見ている側にも好みはある。僕は2人で一緒に作っている定食屋さんの「普通」が好きだったから、自然とそちらの方に足が向くようになった。
その2つの定食屋を横切り、駅前に自転車を停める。この場所に停めるのにも許可が必要だ。区役所で手続きをして、抽選で選ばれた人だけが2000円で年間駐輪許可のシールを買える。一年間だけの、特権のシールだ。
僕は運良く選ばれたから、ここに自転車を停めるのが普通の事。でも中には抽選に外れて、僕の普通が羨ましい人もいるだろうな、と考える。僕が、四谷くんの普通が羨ましかったように。
隣の芝生は青いなんてことわざがあるけれど、芝生は普通に置き換える事ができそうだ。
ICカード乗車券で改札を抜けて、出した財布をズボンの右ポケットにしまう。少し考えて仕事に向かういつもの電車とは反対方向に行くものに乗る事にした。
別の県まで続くこちら側の電車には、あまり乗った事が無い。行ったことの無い場所に行ってみたい気分だった。こっちに動物園が確かあったはずだ。そこに行ってみよう。今、キリンの柄のTシャツ着てるし。
電車に乗り込み座ったのもつかの間、朝の日差しを浴びながら電車の規則正しいリズムで揺られるのはとても心地よく、たちまち眠気が押し寄せてきた。
あぁ、やっぱり1度寝てから出掛けるべきだったかも知れない。でも今日は朝の日差しを存分に浴びたかったのだ。どちらにせよ、今更考えても遅いなぁ。
僕はそのまま、まどろみに逆らえずに意識を失った。
◎
目が覚めた時には、ちょうど目的地の最寄りの駅に着いており、すでにドアが開いていた。
僕は慌てて電車から降りようとした時に、いつの間にか向かい側に座っていたおじさんに声をかけられた。
「おい!兄ちゃん!財布落ちてるぞ!」
振り向くと、床に見慣れた財布があった。眠っている間にポケットからずり落ちたらしい。
「あぁ!」
情けない声を上げながら踵を返して、床にある財布を拾った。そのままドアが閉まり、発進する。
危なかった。
電車の中でもしあのまま降りていたらと考えてゾッとした。
僕がおじさんに感謝の言葉を伝えるより先に、
「一応、中身確認しときな」とおじさんが言った。
盗られてないか?という心配をしてくれた言葉だった。
なんて温かいのだろうか。
「ありがとうございます!何とお礼を言ったらよいか」と戸惑う僕に、おじさんは「いいから確認してみな」と繰り返した。
僕が中身を確認して、現金もカードもそのままある事を伝える意味で「大丈夫みたいです」と口にすると、「良かったな!でも寝るのは気を付けろよ」と忠告までしてくれた。
僕はただ、ひたすらお礼を言う事しかできなかった。せめて深々と頭を下げようと意識して、何度もお礼を言った。本当に助かった事を伝えた。
おじさんは「わかったわかった!」とか、「いいっていいって!」とかの充分だよの言葉の中に、
「普通、普通」という言葉を混ぜた。
普通のことだから。という意味で。
こんなの普通だよ。という意味で。
これは本当に、ついこの間聞いたものと同じ意味の言葉なんだろうか、と思った。
「あーあ」とは思わなかった。
ただただ眩しかった。
おじさんの普通の事が眩しかった。
名前も知らないおじさんの普通に、僕は救われた。
僕は、この時に初めて「普通」は磨く事ができるという事実に気付いた。僕は、僕の普通を、磨く事ができる。おじさんのピカピカの普通のように。
次の駅に電車が辿り着いて、僕は降りる事にした。最後にもう一度感謝の言葉を伝えて頭を下げると、おじさんは「もう落とすなよ」と言ってニヤリと笑った。
反対側、都内に向かう電車はもはや通勤ラッシュでギチギチになっていたので、僕は降り損ねた駅に戻ろうとはせずに、そのまま初めて降りた駅の改札を抜けた。なんとなくそうしたい気分だった。
ICカード乗車券の入った財布をじっと見た。すると、ニヤリと笑ったおじさんの顔が浮かんだ。
良い普通と、良くない普通はある。
日の当たらない部屋で、ひとり悶々と無気力に過ごす日もある。そんな僕の普通は、とても良いとは言えないだろう。
でも、磨けるのか。
そうか。
僕は、僕の普通を自分で磨けるのか。
何度も、確認するようにそうか。と思った。
僕の「普通」を好きになれるような気がした。僕は、僕の普通を磨こう。この普通が、もっと好きになれるように。この普通を、胸を張って誇れるように。
そんな事を思いながら、左ポケットに手を突っ込んで、メモ帳を取り出した。僕はこういう時スマホのメモ機能より手書き派だ。今のこの気持ちを書き留めたいと思った。
賑わう駅のホームの椅子に座るのは憚られたので、駅を出て、どこか座れる場所を探した。
のどかな場所だった。
実家の空気感に近く、すぐにその空気に馴染み安心している自分がいた。
その駅前にも、すぐ近くに公園があった。
ちょっと都心から外れた郊外の駅前に公園がよくあるのはなんでなんだろうと思いながら、その場所を目指した。
開けた場所の横断歩道を抜けて、目的の公園に入ろうとしていると、ロードバイクに乗った黒人のお兄さんが、ちょうど休憩中だった。飲み物を飲む姿が絵になっていて、ついじっと見てしまった。
すると、目が合った。
申し訳なくなって、会釈をしてすぐさま目を反らしたのだが、どうやら黒人のお兄さんは僕の着ているTシャツの文字を読んだらしく、
急に、「LOVE IS ALL YOU NEED!」と叫んだ。
僕はびっくりして、咄嗟に黒人のお兄さんを見て「YES!」と答えた。
再び目が合い、黒人のお兄さんはただ頷いて、そのままロードバイクに乗って行ってしまった。
僕は今起きた出来事に混乱しながら、口元はニヤついていた。そして、黒人のお兄さんが言ってくれたように、自分でもその言葉を呟いた。
「LOVE IS ALL YOU NEED」
もう一度呟いた。
「LOVE IS ALL YOU NEED」
今度は少し大きな声で言った。
「LOVE IS ALL YOU NEED!」
なんていい言葉なんだと思った。今までもそう思っていたが、改めて良い言葉だと思った。黒人のお兄さんのおかげで、その事に気付けた。
このTシャツを買って、本当に良かった!
今日、このTシャツを着て出掛けて、本当に良かった!
僕はその公園のベンチで、今日このTシャツを着て出掛けた事によって起きた出来事と思った事を、メモ帳に書き記した。
絶対に忘れないように、ひたすら書き記した。
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