言葉を道標に生きてきた私は、それをわかって言葉を手放す。
私が表現したいものは何か、言葉にすることで、言葉を頼りにしてある意味すがるように、時に頼りに生きてきた気がする。
感性を愛する上で、自分の感性の道標になるような言葉を見つけることはとても重要だった。自信を持てた。
自分のセンスや感性に気づき、愛するという過程ではとても効果がある。
道標となるものの中には言葉もあったし、写真もあったし人もいたし場所もあった。
やさしい愛という言葉を見つけたことで、私は自分の感性に少なからず自信を持てるようになっていた。いいものもたくさん見つけた。
最近歌を書き始めて思うことは、感性は、そもそも言葉にもおさまることのない自由なものであっていいのではないかということ。
やさしい愛という言葉にひきづられて、私の感性そのものが少し息苦しくなってしまっているのではないかと思ったりする。
今日、同居人と話していて思ったことがある。
「かほが考えていることなんて、到底わからない。でもそれでいいと思っている、かほの歌を楽しみにしているよ。」
と言ってくれた。それは愛だなと思うし、私は、私と誰かの愛についていつだって痛いくらいに一生懸命でしかいられないなと思ったりする。
私が今詩を書くとしたら
不機嫌だった彼が、窓の外を見て笑ってる。何があるのか知らないけれど、笑ってるならそれでよかった。
そんなことしか浮かばないけれど、無理に言葉を頼るよりも、ずっと自由で私らしい気がする。
こんな世の中になってしまうと、今がいかに大切かを知る。今書きたいことを書いて、今一緒にいたい人と、幸せな時間を過ごす。歌う。食べる。寝る。明日地球が終わっても、後悔しないように生きるなら、言葉も思考も、自由できっと大丈夫。
言葉を道標に生きてきた私は、それをわかって言葉を手放す。
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