音を写真に撮るならば
朝、出勤する彼を玄関で見送った。ドアがぱたん、と閉まったら、そのまま洗面所に向かう。歯を磨いて顔を洗い、最後に鏡に映る自分の顔を見て気合いを入れる。リビングに行って、彼が珈琲を淹れるために沸かしたお湯の残りを、そのままマグカップに移して飲む。最近は悲しいニュースが多いのと、朝から沢山喋ってくる声が辛いのとでテレビはつけない。あ、そういや、今日は句会だ。昨日、明日が句会なことを知って夜中の1時まで頭を悩ませてみたけど笑えるくらい何にも浮かばなかったから明日の私に全てを託して諦めて寝たんだった。やばい、急いで12句作らないと、11時には句会が始まってしまう。マグカップに半分残っていた白湯を一気に飲み干して、ペンを握った。4月の俳句だというのに、暗い句ばかり詠んでしまう自分がいて困る。”死ぬ”とか”逝く”とか、まるで良くないワードばかりだ。先生の気分を沈めてしまっては悪いから、最後に小学生が詠んだほうがうまいような、やけくそに明るい句をひとつ付け足しておいた。時計の針は10時を指している。なんとか句会の時間までには間に合った。間に合ったといっても、他の人たちは句会一週間前には提出しているのだから、実は全然間に合っていない。謝罪の言葉と共に、先生にLINEで俳句を提出する。土下座するウサギのスタンプを押そうと思ったけど、真摯さが伝わらないのではと思ってやめた。昔から宿題を遅れて提出するのが得意で、放課後職員室に宿題を提出しに行ったとき、不在の先生には謝罪のメモを添え提出していたのを思い出した。そういや、花柄のアンティーク調のメモを”謝罪書き置き用”にわざわざ買っていたっけ。可愛いメモの方が先生許してくれそうだからって。馬鹿な生徒だったなあ。でもおかげで一回も怒られることはなかった。厭きられていただけなんだろうか。今はもう分からないから、可愛いメモが功を奏したということにしておこう。土下座スタンプを押すのをやめたってことは、少しは成長してるってことでいいのかな。
とりあえずやることが終わったので、スマホをソファーに投げた。掃除のおじさんが共用廊下を掃く音がする。あれ、いつも月曜なのに。でも、まあいっか。えーっと、家事、何をするのが最優先事項だったかな、だめだ、何にも考えられない。ここ2,3日すぐに考えることをやめてしまうから、心が疲れているのかもしれない。朝のテレビが観られなくなったのもその兆候かな。なんせ、沢山の情報を入れるだけのエネルギーがない。
おじさんは他の階に行ってしまったみたいで、急に静かになった。ふいに冷蔵庫の音が聞こえはじめる。丸っぽくて、唸るような中低音が、大きくもなく小さくもない音量で部屋の底に敷かれる。心が疲れているらしい今の私には、この音がたまらなく心地良い。一人になったときにしか聞こえなくて、聞くと色んなことを思い出すけど、そのどれもが何でもない日常のワンシーンばかりで、心がざわつかない。勝っても負けてもいい神経衰弱を適当にこなしているのと同じ感覚。こんなにも落ち着く音が、どうでもいい音が、他にあっただろうか。
彼がそろそろ冷蔵庫を新調しようと考えているけれど、勘弁してほしい。最新の冷蔵庫なんて、音がほぼ無いに決まってて、それって悲しい。音を写真に撮ってきてください、なんて言われる日が来たら、そんな日なんて来やしないんだけど、もし来たとしたら、私は迷わず冷蔵庫の写真を撮るかな。それが提示者の求める正解なのかというとそうじゃないんだろうけど、私にとっては大正解なのだ。ていうかもしもの話だから、提示者もなにもないんだけどね。
あ、冷蔵庫の音が変わった。高音ぎみで、キーンっていうような、鋭い音。何かに冷蔵庫の振動が伝わって一緒に響く音も真ん中に混ざって、ちょっと楽しい。そういえば、もうお昼だ。いい加減何か食べないと、医者と彼に怒られる。「栄養をしっかり摂りなさい」と医者には先週の金曜に、彼には昨日言われたばっかりだ。冷蔵庫に癒される時間はもう終わり、また、明日。
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毎回句会ぎりぎりに提出する句の2月版はこちら。
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