ポスト・ヒューマニズムの時代におけるヒューマニズムの再設定
* ポスト・ヒューマニズムの時代
14世紀のルネッサンス期に起源を持つ「ヒューマニズム」という言葉は、これまで「人文主義」や「人道主義」や「人間中心主義」などといった微妙に異なるニュアンスで用いられてきましたが、いずれにせよ「ヒューマニズム」はこの世界における「人間」という存在の優位性を示す自明の原理として近代社会における確固たる基盤を形成していました。
ところが20世紀後半以降における情報テクノロジーや生物工学の急速な進化はこのような従来の意味での「ヒューマニズム」の自明性を問い直す「ポスト・ヒューマニズム」というべき事態を招来することになります。こうした現代における「ポスト・ヒューマニズム」を体現する哲学的潮流として「思弁的実在論」と「加速主義」があります。
まず「思弁的実在論」とは狭義には2007年、ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジにおいて行わ れた同名のワークショップの登壇者であったカンタン・メイヤスー、グレアム・ハーマン、レイ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラントら4名の思想の総称を指していますが、広義には同ワークショップを発端として主にインターネット上で急拡大した哲学的潮流を含みます。
そして、この「思弁的実在論」の源流にしてかつ発展形ともいえる思想が2010年代において急速に前景化した「加速主義」です。その主題は資本主義社会にいかにコミットメントするかにあり、その戦略の特徴は資本主義の矛盾を批判したり抑制しようせず、むしろ資本主義のプロセスをさらに「加速」させることでその「外部」へ突き抜けようとする点であります。もっとも何をもって「外部」と見做すかは加速主義者の間でも大きな対立があります。
「思弁的実在論」も「加速主義」も何らかの形で従来の意味での「ヒューマニズム」を超出していく企図を持つ点で「ポスト・ヒューマニズム」に立つ思想に位置付けられます。こうした現代の哲学的潮流の中において明確に「ヒューマニズム」を擁護するさらに新たな哲学がドイツの哲学者マルクス・ガブリエルが打ち出す「新実在論」です。
* 新実在論⑴--構築主義批判
日本においてマルクス・ガブリエルはその著作『なぜ世界は存在しないか』が「なぜセカ」の名で話題となり、メディアでは「天才哲学者」とか「哲学界のロックスター」などと紹介され、新世代のオピニオンリーダーとして一躍脚光を浴びることになりました。なぜ彼の哲学はこれほどまでに大きな反響を呼んだのでしょうか。
ガブリエル哲学の枢要をなす「新実在論」が日本に紹介された当時は「思弁的実在論」と共通の潮流として理解されていました。そのため両者はひとまとめにされて、しばし「思弁的実在論から新実在論へ」という形で論じられていました。しかし両者の目指すベクトルははっきりと真逆です。「思弁的実在論」とはヒューマニズムを超出する哲学であるのに対して「新実在論」はヒューマニズムを堅持する哲学です。
そして「新実在論」は「ポストモダン」を乗り越える哲学として位置付けられています。ここでいう「ポストモダン」とは「近代以後」を意味するものであり、フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールが『ポストモダンの条件』において「大きな物語の終わり」と規定したことで一般的に広く知られるようになった言葉です。では、なぜ「新実在論」は「ポストモダン」を問題にするのでしょうか。ガブリエルは次のようにいいます。
要するに構築主義というのは客観的な現実は存在せず我々が感覚器官と言語を通じて脳内で構成した個別的な現実のみを認める立場です。そしてガブリエルは次のような例を使って「古い実在論(形而上学)」と「構築主義」と「新実在論」の差異を説明します。
まず「古い実在論(形而上学)」の立場では「ヴェズーヴィオ山」というただ一つの対象だけが存在することになります。これに対して「構築主義」の立場では「アスリートさんにとってのヴェズーヴィオ山」と「私にとってのヴェズーヴィオ山」と「あなたにとってのヴェズーヴィオ山」という三つの対象が存在することになります。
これに対して「新実在論」の立場では「ヴェズーヴィオ山」「ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アスリートさんの視点)」「ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(私の視点)」「ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)」という四つの対象すべてが存在することになります。
* 新実在論⑵--意味の場
要するに言ってしまえば「古い実在論(形而上学)」も「構築主義」もすべて認めてしまおうという立場が「新実在論」であるということになります。「新実在論」は「構築主義」を批判しますが「構築主義」を排除するわけではありません。「構築主義」が批判されなければならないの「構築主義だけが正しい」と主張した点にあります。これが新実在論の基本的スタンスであり、このやり方は他の議論にも適用されます。なるほどその手があったかという何ともトリッキーな立論です。
このような、あらゆる立場を包摂してしまう新実在論の鍵となるのは「意味の場」という概念です。ここでいう「意味の場」とは何らかの特定の対象が、何らかの特定の仕方で現象してくる領域を指しています。例えばある「X」という対象を理解するとき、我々は必ず「Y」という「意味の場」を必要とします。我々はどんな対象でも何かしらの「意味の場」を離れては理解できません。そうであればある対象は様々な「意味の場」ごとに異なったものとして現象する事になります。
このような多様な「意味の場」を認めるところに「新実在論」の特徴があります。そして、こうした「意味の場」という概念こそが「新実在論」をヒューマニズムたらしめています。何となれば「意味」を考えることとは、すなわち「人間」にとっての「意味」を考えることにほからないからです。
* 新実存主義
『なぜ世界は存在しないか』において新実在論を宣言したあと、ガブリエルは『「私」は脳ではない』を出版し自身の思想的立場を「新実存主義」と呼びました。
一般的に「実存主義」といえばキルケゴールを始祖としてニーチェ、ハイデガー、サルトルなどの哲学が想定されます。ところがガブリエルのいう「新実存主義」の射程にはカントやドイツ観念論の哲学者たち、さらにはマルクスやフロイトの思想も含まれます。
そして、ここで問題とされているのは「心」という言葉に対応する現象、すなわち「意味の場」をどう理解するかということです。この点、自然主義(神経中心主義)は「心」を自然科学というただ一つの「意味の場」から理解します。これに対して新実存主義は「心」を多様な「意味の場」において捉えます。つまり新実存主義とは「心」に関する新実在論です。
ガブリエルは人間を物質的な存在と見做して自然科学のロジックだけで説明することを批判します。「心」を持った存在であるという点で唯物論や自然主義では説明しきれない人間の独自性を強調するのが新実存主義の主張です。
もちろん、人間の精神を理解するため自然科学的アプローチを用いること自体をガブリエルは否定しません。問題なのは自然主義が批判されるのは自然主義を支える事実だけで人間の精神を説明すべきだと考える点にあります。ここにも構築主義批判と全く同一の論理をみることができるでしょう。
* 共免疫主義
このようにガブリエルの立場はヒューマニズムであり、その立場から彼は現代世界のさまざまな事象を哲学的に解明し、それに応じた実践的指針を提示しています。例えば2020年に始まったコロナ・パンデミックをガブリエルはどのように考えたのでしょうか。
一般的に新型コロナウィルス感染症は医学的で社会的な疫学的問題だと考えられています。しかしガブリエルはこのパンデミックをただの疫学的な問題と捉えていません。彼にとって新型コロナウィルスは何よりも「道徳」な問題です。
これは彼の時代認識と深く関わっています。東西冷戦構造の終焉によりかつての資本主義と共産主義の対立軸が消滅し、グローバル資本主義が加速した結果「自由」「平等」「連帯」といったリベラルな価値観が世界を席巻しました。ところが21世紀に入るとこうした価値観は次第に揺らぎ始め、2010年代になるとインターネット上ではフェイクニュースや陰謀論が飛び交い、過激なレイシズムや新反動主義が台頭することになります。2020年のコロナパンデミックはまさにこうした流れを加速させる決定打となりました。
そこでガブリエルは「新たな社会モデルが必要である」と述べ「道徳」の「グローバルな啓蒙」を主張し「共産主義」ならぬ「共免疫主義」を提唱します。
ここでいう「免疫」とは医学的な免疫というより「精神の毒」に対する「免疫」を指しています。つまりガブリエルは世界で激化している対立、差別、暴力などに対する集団的な精神の免疫が必要だということを述べています。
ガブリエルはかつての共産主義のように資本主義自体を敵視しているわけではありません。問題なのは共産主義の終焉後に全面化した市場原理主義的な「ネオリベラルな資本主義」です。彼はコロナパンデミックによってこの「ネオリベラルな資本主義」の矛盾が露わになったとして、その克服のため資本主義を道徳化する「道徳的資本主義」を提唱します。
* ポスト・ヒューマニズムにおけるヒューマニズムの再設定
このようにガブリエルの新実在論は哲学の新たな潮流というよりも、むしろ伝統的な近代哲学のアップデートとして理解できます。
この点、思弁的実在論や加速主義がポスト・ヒューマニズムを肯定し加速させる立場であるとすれば、ガブリエルの哲学はポスト・ヒューマニズムを「減速」させてヒューマニズムを擁護する立場ということになります。
いずれにせよ「ヒューマニズム対ポスト・ヒューマニズム」という二項対立を前提として、そのいずれかを単純に支持するという態度は妥当ではないでしょう。むしろいま必要なのはポスト・ヒューマニズムが加速する状況下におけるヒューマニズムの再設定を試みる視点ではないでしょうか。