「聞いてくれない」のは「聞く」が足りてないから
ちょっと前のツイッターでスタバでカウンセリングをしていた人が炎上していました。守秘義務の点やクライアントに対しての配慮不足など、文句やお怒りがたくさんわき上がっていてそりゃそうなるわな、と思う反面「みんな冷たいなぁ」とも感じてました。
カウンセリングは「どこで」「どうやるか」も大事だけど、肝心の「話を聞く」ということ自体はどこでも誰でもできるはずなんです。でも身近な人が聞いてくれないから私たちは専門家に、別の誰かに頼むんです。
なぜ私たちは「聞く」という一見簡単なことができないのか。責任を取りたくない、面倒なことに巻き込まれたくない、そういった態度はつらい人にとっては「拒絶」として捉えられ、それが「孤立」を生み出します。
私が働きすぎでうつ状態になった時、メンクリで役にたったのが「メンクリに通っているという事実」「処方箋」、それと先生たちが私の話を聞いてあまりの働きすぎにドン引きしたという「普通の態度」でした。精神的に追い込まれている時って何が普通なのかわからなくなります。「それヤバいよ」と言ってくれる人がいなければ「おかしいのは自分」「悪いのは自分」と責めてしまい孤立を深めます。
私にとっては上司からの「社員だから仕方ないよね」という言葉が一番つらかった。話は聞いてくれるんだけど上司にも私にも立場というものがある。この「立場」ってのがまた厄介で話を聞けなくする要因になります。
「親だから」「子供だから」「生徒だから」「男だから」「女だから」「仕事だから」で人は相手の話を中断させ、聞くことをやめてしまう。立場が前面に出た時、目の前の相手が見えなくなる。
以前私の彼女があまりにメンタル限界になって私自身もまいってた時、一緒にメンクリに行ったんですよね。
私自身、普段から彼女のそばにいて色々聞いたりしていたつもりだったんですが、お互いの関係性は非常に悪くなっててキチンと聞けていない状態でした。
でもメンクリに一緒に行ったら先生が私の話も聞いてくれて、「それはおつらかったですね」って言ってくれたんですよね。その一言で私自身、ずっと胸につかえていた彼女への不満や無力感がすうっと消えていったんですよね。「あぁ、自分の大変さをわかってくれたんだ」って感じたら今までいっぱいいっぱいだった彼女への思いが軽くなってまた彼女への気持ちや「聞く」という姿勢を取り戻すことができたんです。
先ほどの引用した本の中に「人の話が聞けな時は誰かに自分のことを聞いてもらうということが必要」とあります。
「親が私の話を聞いてくれない」となった時、親の話を誰がが聞かなきゃ聞いてもらえない。もちろん当人同士でしっかりお互いに聞けたらいいのですが、大抵の場合はうまくいきません。そこは「第三者」が必要になります。
ネット上で言い争いがあった時、第三者がワラワラと集まってきますが皆自分の意見を言いたいだけで、当人たちの話をキチンと聞きにきてる人ってほぼいないんですよね。カオスになるだけ。
「自助会」が機能してるのはあれは似た属性を持った第三者たちが好きに自分の話をしつつも「聞く」という行為を大事にしているからです。
なので「自分の話を聞いてもらえない、わかってもらえない」って悩んでる人は「聞いてくれる人に聞いてもらう」ってのが一番です。メンクリの先生が聞いてくれない、合わないと思ったらさっさと別の所に行くしかない。
もしくは「その人が聞けるように努力する」です。その人の話を聞いてみるのもいいでしょうね。「なんで全然話聞いてくれないの!?あんた私の話聞いてどう思ってるの!」ってね。noteやツイッターに書いてること、相手に言ってやんなよ。言わなきゃわかんないんだわ、カウセラーだって親だって同じ人間なんすよ。
「うちの親って全然私のことわかってくれないんだよね」
「そりゃあんたの親が悪いよ!」
(なんだ、やっぱり親が悪いのか。悪いのは私じゃなかったんだ。でもなんでなんだろうな?どう思ってるんだろう?今度聞いてみようかな)
「聞く」と「聞いてもらう」を第三者を交えて使うことでつながりが生まれます。
つながりは「孤立」を防ぐんです。
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