葉巻がおいしかったよ、のはなし
葉巻がおいしくて、びっくりした。
たまたまふらっと入ったバーに、葉巻があった。
「積極的に『今度やろう!』とはならないけれど、漠然とした憧れがある」ものというものは、誰にでもあるのでは。自分にとっては葉巻がそうだった。
そもそも喫煙者ではない。家族が煙草を嫌うので。ただ、のんだことはあった。一度。たしか、セブンスター。おいしくはなかった。あーこれは、コーヒーが欲しくなるやつだ、という感想を抱き、鼻の中ににおいが残るのがきついな、という教訓を得た。総合的に、「まぁこんなものか」という予断を越えてはこない印象で終わった。
というわけで普通の紙の煙草はもういいかな、という気持ちではあったが、それはそれとして葉巻は気になっていた。シブい、カッコよさ。だいたい、なんだかエラかったり、色々なことを考えていたりするような人がくわえている。モノそのものにも存在感があるし、それをのむ(葉巻も「のむ」でいいんだろうか)姿にも二重三重に存在感が纏えるような気がした。安直な舞台装置。
とはいえ、その憧れめいたものに手を伸ばそうとはなかなかならなかった。小学校の頃通っていた個人塾のヘビースモーカー塾長が、「葉巻はヤバい(健康を害する的な意味で)ぞ」と言っていたのがやたら印象深く残っていたというのもあるけど、なによりやっぱり日常の延長線上に捉えられないから、というのが大きい気がする。今の生活の何をどう伸ばしても、そこには辿り着かない。ちょっと一歩踏み出してみたくらいじゃ届かなさそうなもの。だからこその「憧れ」枠なのかもしれない。身近さとのトレードオフ。
というわけでいつ来るかわからない「いつかは」を抱えていたところに、突然飛び込んできた機会だった。「それ、葉巻ですか?」から始まり、他のお客さんもいないのをいいことに、丁寧に教えてもらいながら準備をしてもらう。葉巻は、専用のカッターで吸い口を切り落としたり、ゆっくりしっかり火をつけたりしなくてはならない。いかにもな手間を掛けて差し出された葉巻は、これがびっくり、おいしかった。
普通の紙煙草は、いかにもモノを燃やして吸っていますよ、という、単純な「煙」の雰囲気ばかりだったけれど、葉巻はそういった表面的な煙たさの奥に甘みがあった。味がある、という時点で予想を超えてきたけれど、それに美味しさを感じられたのは本当に予想外だった。
葉巻だけでもおいしいが、そこにラム酒を合わせてみると、またおいしい。度数の高い酒はおいしさと同時に口の中を荒らしてゆくものだけど、既に煙のつんつんした違和感が居座っているので、それとうまいこと絡み合い、ダメージが打ち消しあって消えてゆく。残るはそれぞれの風味。それぞれのおいしさが相対的に際立ってゆく。活かしあうとはこういうことなんだろう。ラム酒がなくなったので次はコーヒーでも、と思ったところでコーヒーリキュールが薦められた。案の定おいしかった。
はじめての葉巻は、満足のうちになくなっていった。ドミニカ産のお手頃なものだったので、1本3000円ほど。だいたい40分くらいは楽しめた。安くはないけれど、非日常の楽しさもついてくるなら、いいかも。しかし、最初の一歩は踏み出してしまった。今のところ、家族の存在や借家の規則など現実的なハードルは色々とあるが、それでもこの一歩を踏み出してしまったのは大きいと思う。自分が踏み出したのか、葉巻が自分の「現実」ゾーンの中に入ってきてしまったのか。子どもの頃、買いたいなぁ買いたいなぁとずっと思っていたゲームをついに買ったときもこんな気持ちだったような気がする。
ちなみに、ひとしきり楽しみ終わった後で鼻や口腔に残る存在感は、煙草の比ではなかった。なんだかこう、悪い存在感に居座られてしまっている感じ。かつての塾長の言葉がひしひしと思い出された。なるほどこれは、体によかろうはずもない……。