耳によって、絵画を鑑賞する
大失敗のあとだから、偉そうなことは書きたくないが、サガだから仕方が無い。あえて書いてしまいます。
「茶の本」(岡倉覚三著)から、一部抜粋。
(前略)人は自己の感情に無頓着になった。世間一般からもっともよいというものを手に入れようと、かしましく騒ぐ。高雅なものではなく高価なものを、美しいものではなく流行の物を欲する。(中略)数世紀前にシナの批評家が嘆いた如く、世人は耳によって絵画を鑑賞する。(後略)
私は、絵や陶器を鑑賞する時、確かに「耳で鑑賞」していたように思える。目の前にある美術品を見ているのではなく、聞いた話と同じかどうかをまず吟味していたように思う。それで同じだと確認すると、目の前の美術品を理解したように錯覚し、自分の審美眼は正しいと納得してお仕舞いになる。自分の心の琴線に触れるものがあるかどうかを確認する前に。
世の中には「これは凄いんですよ」という作品が溢れ返っている。しかし、私自身は、その7割近くは、あまり感動を覚えない。「まあ、その程度の鑑賞眼しかない」と岡倉覚三に一刀両断にされそうだが。それはそれでありがたい。お前には、審美眼はないと判定してもらえるのだから。しかし、そうも言ってられない。いつも、いい茶碗かどうか、いい掛け軸かどうか、さらには、いい着物かどうか、ヤフオクでしょっちゅう、審美眼の判定を迫られている。この品にこの値段はないだろうと思うものから、こんなに安く落札できた、というものまで色々。
この先、ほとんど無いだろうが。もし、何かの文学賞を受賞して有名になって、お茶碗の箱書きとか頼まれて書いたとしたら、その時は目の前の品物を鑑定した私自身が、後世の人に鑑定されることになる。
そんな日が、いつか来るかもしれない。その日のために、今度は習字の教室に通わなくては……。そっちじやないだろって、言われそう。
(前略)まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の光は竹林にはえ、泉水はうれしげな音を立て、松籟は我が茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しい取り止めのない事を、あれやこれやと考えようではないか。(後略)
絵画の正しい鑑賞の仕方で始まったが、最後は茶を飲みながら楽しい事をあれやこれやと……。岡倉は、人生をなんと心得ているのか。所詮、いっ時の泡沫、邯鄲の夢だと考えている節がある。決して反対はしないが、それだけでは寂しい。結局、人生の最後の時を迎えて、リアルな記憶として残っているのは一碗のお茶の味だけと言うのも、ありかもしれない。
今、この時間、この瞬間にもボタン一つで発射されたミサイルで、沢山の命が奪われているかもしれない。沢山の夢を抱きながら、若くして世を去らなければならなかった若者もいるだろう。それらの人のことを思うと、今は、この一瞬たりとも無駄に過ごすことは出来ないと思う。しかし、私はスーパーマンでも聖人でも無い。私の能力でできることは限られているし、時間にも限りがある。ならば、今を出来るだけ……。なんと書けばいいのか、わからなくなった。