掃き清められた路地に、二、三枚の落ち葉の風情かな
裏千家の茶道のお稽古日に、近々、許状の申請をする。先生は許状申請の説明をしながら、
「許状をいただいたからといって、自惚れない様に。許状は次に進んで良いと言う通行手形でしかありませんから」
と言う事を、何度も強調していた。つまり、許状は腕前を保証するものでは無く、裏千家の弟子として迎える資質を備えている、と言われたに過ぎないわけだ。
それでも先生に、私のこの二年間の努力を認めていただいた、ということになるだろう。
茶道を始めた動機は人それぞれであろう。私の場合は、小説のネタ探しと言う下心がら始まっている、と自信を持って言わせていただく。それだけの成果をしっかりと得ることができた。
また、ひょんな人生の悪戯から、私がなんらかの文学賞を歴史小説で受賞することができた時、
「流石、裏千家の茶道をやってらっしゃるだけのことはある」
と、作品の裏打ちになればとも、思っている。
おかしな話だが、「The Book of Tea」を書いた岡倉天心は、茶道を習っていない。ただ、彼の妻が茶道を習っていたことから茶道関係者との人脈が、広がっていった様だ。
たぶん、直接茶道に関わっていなかったからこそ、一歩引いた視点で茶道を俯瞰することができたのだろう。
そう思ったとき、この先、小説の中で茶道を一つの武器として書き続けていくなら、自分の引き際も大切だろう、とも考える様になった。
物事、引き際である。
過ぎたるは、及ばざるが如し。
完全は、不完全な美。
茶道の先達たちの中にも、
「未完成こそ、魅力的である」
等々と、言葉を残している。
そういえば、茶室に続く路地の掃除の逸話を、思い出した。
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