茶道のお点前には、宇多田ヒカルの曲が合う………
最近の通信社のカメラマンたちの、私が運転する車の後部座席での話題は、転勤の噂と北京冬季オリンピック出張の話。転勤話は20歳台の、オリンピックは30歳台のメインの話題のようだ。現役の本人たちにしてみれば重大事だが、66歳の私には彼らの会話が楽しそうに聞こえてくる。
時代は受け継がれていく。選手交代を繰り返して前に進んでいく。中には、持ち場にしがみついて離そうとしない奴もいるが。そろそろ後に続く人たちに『楽しみ』を渡して上げないと、功績よりも弊害ばかりが目に付いてくるというもの。
最近、自宅ではパソコンのモニターにYouTubeの「茶道のお点前」の動画を無音で映し出して、それに宇多田ヒカルの曲を重ねてながしている。キーンと張りつめた茶道のお点前の映像に、宇多田ヒカルの声が重なって、不思議な世界観に包まれる。そうやって、見ていないようで観ている環境ビデオにしている。
で、その傍らで、こうして文章を書いている日曜日の朝である。
問題は山積の日々だけど、くよくよしてても仕方がないし、伸ばせるものは伸ばして、すぐに手を付けなくちゃいけない問題の中から、自分で何とか出来る物をまずは処理して。何とか人生、前に進めている。どうにも行かない物は、仕方がない。あがけば、何とかなることもあるが……。
以前は問題にぶち当たると、だいたい「命までは取られないだろう」と、向かって行ったものだが。今は、「命を持って行ってくれるなら、もっていってくれてもいい」
と、つい思ってしまう。
なんとかまともに体が動くのは、あと5年くらい。つぎの5年間は立ったり寝たりで、その後の5年間は寝たきりになるだろう。
そんなことを考えながら時々、お点前の映像を見て、宇多田ヒカルの曲を聴いている。民族楽器風にバイオリンで電気的に加工して、彼女の歌声も短調なメロディーの繰返しで、心地好い。綺麗な曲に仕上がっている。いいと、思う。
洗濯物も終わらせたし、こうして日曜日の午前中は一人、宅配便の到着を待ちながら気持ちを高めて、午後からは小説に集中しようと、考えている。