平凡な茶掛だが、おっしょさんのアドバイスで開眼!
※上の掛け軸は室町時代の一休宗純の筆「峯松」
茶道教室では、お点前の作法の他に床の間の「茶掛」に書かれている禅語についても、好奇心を掻き立てられた。おかげで、そこからいろんな意味で小説のネタを拾わせてもらった。例えば、
「月落不離天」
月は空から落ちたようにみえるが、天を離れたのではない。ただ、人の視界からは外れただけで、月は常に天にある。転じて、悟りは常に自分の身のまわりにあり、それに気付かないだけである、と言うような意味。
私にとってはまさに、その通りであると思った。つまり、日常生活の中に小説のネタになる事象が存在している。ただ、それに気付かないだけである、と言うふうに取れる。先日は、おっしょさんのアドバイスと茶道教室の床の間の掛け軸に、小説の次への展開のきっかけを掴ませてもらった。
毎回、おっしょさんには私の心を掻き乱されながらも、茶道のお稽古を続けている。その甲斐あって、小説も一歩前進できたと思う。実はこの一ヶ月間と言うもの、次のストーリーの展開に悩んでいて、執筆はほぼ止まっていた。しかし、先日のおっしょさんのアドバイスで次への展開が見え、小説への意欲が湧いて来た。
まさに私にとって茶道教室は、お点前のお稽古のためだけの場所ではなく、禅僧の修行の場のようなものである。禅僧は禅僧としての表現方法で、修行の場で得た気付きや悟りを表現するのだろう。私は茶道を通して得ることのできた気付きや閃きを、小説の形で表現することができる。そのことは、私に大きな喜びをもたらしてくれる。
前振りが長くなった。今回の気付きも、禅語からである。一般的な茶掛けの「松樹千年翠 不入時人意」である。私にとってこの禅語は、等伯の「松林図屏風」の誕生の謎を解くための重要な鍵となった。この話の先は、小説のネタ明かしになってしまうので、遠慮させていただくとして……。
一つの他愛ない気付きが、執筆停滞の大きな打開策となった喜びを心に秘めておくことができずに、とりあえず、その喜びを書き記したまでである。第三者にはわからない話で、恐縮である。
創作活動が円滑になるように、取材費をサポートしていただければ、幸いです。