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自分らしさを捨てよ〜ハーマンの存在論の雑な援用〜

 男性らしさとか女性らしさというものは昨今批判されているが、自分らしさというのはどうももてはやされているようだ。しかし、僕は男性らしさや女性らしさというものはもちろんのこと、自分らしさとかいうものも嫌いだ。というのも、自分らしさというものは過去の経験や周囲からの評価の集積であるように思うからだ。また、自己というものを知るためには他者との関わりが不可欠なのであり、自分らしさというものも他者の影響を受けて形成されるものに他ならない。まあ、そういう他者との関わりにおいて形成される自己というのはどうやったって否定できないだろうし、また否定するつもりもないのだが、その「らしさ」に従う理由はないだろうと思うのだ。自分らしさというものは社会によって作られた男性らしさとか女性らしさというものと何が違うのか。おそらくそう大して変わらないだろう。

 これ以上同じことを繰り返してもつまらないので、ちょっとカッコつけてハーマンの存在論でも持ち出してみよう。そうする以上はまずはハーマンの存在論についてある程度の説明をしなければいけない。とはいえ別に僕は学者でもなんでもないから詳しいことは説明するつもりはない。ハーマンについて詳しく知りたければ、最後に参考文献を挙げておくのでそれを読んでいただきたい。

 ハーマンはオブジェクト指向存在論(OOO)というものを提唱している哲学者であるが、彼の哲学で中心となるのは彼の哲学の名前の通り、オブジェクト、つまり対象である。この場合対象というのは通常使われるような意味での「人間にとっての対象」とは限らない。ハーマンの哲学においては人間は特権的な立場にはない。その前提を踏まえた上で四方対象の考え方をざっくり述べよう。ハーマンが用いている四方対象の図を最後に添付しているのでそれも参考にしていただきたい。

 まず対象には二種類ある。実在的対象と感覚的対象だ。感覚的対象というのは大体現象学でいうような対象のことで、まあ文字通り感覚で捉えられる対象のことだ。(ここで留意しなければならないのは感覚というのは人間だけが持つものではなく、無生物には無生物なりの感覚があるとハーマンは考えている)それに対して実在的対象というのはカントで言う物自体に近いものだ。カントは物自体は認識できないと言っているが、実はハーマンもその点では意見が一致している。実在的対象へはどのようにしても直接はアクセスできないのだ。それではどのように対象同士は関係しあうのかというと、それは感覚の領域を通してである。ここで例えば私が何か対象に関わるとしよう。私が関わっている対象は実在的対象ではありえず、感覚的対象である。しかし、その感覚的対象に関わっている私は紛れもなく実在的対象であるのだ。一方私が関わった対象はその実在的対象において私の感覚的対象を捉えている。このようにして対象と対象は関わるのである。また、性質にも二種類ある。おおかた予想はつくだろうが、実在的性質と感覚的性質の二つだ。これらの性質は感覚的対象にくっついている。感覚的対象は実在的対象とつながることによって実在の世界へと通じていくのだ。

 ところで、ハーマンはこの実在的対象、感覚的対象、実在的性質、感覚的性質という四つの項を持ち出すがそれら自体よりもそれらの間に生じる緊張に物語を見る。例えば、実在的対象と実在的性質の間の緊張を「本質」と呼び、感覚的対象と感覚的性質の緊張を「時間」と呼ぶ。

 ここまで説明したところで、自分らしさの話に戻れるだろう。まず、ハーマンの哲学において私というものは実在的対象として存在する。実在的対象というものは直接的にアクセスされることはできないものであるから、例えば何かが私に影響してその実在的性質が変化したとしても私の実在的対象はびくともしない。実在的性質が変化するということは、実在的対象と実在的性質の緊張関係、つまり私というものの本質が変容するということである。それでも私は存在し続ける。例えば、私には「人間である」という性質があるとする。それは私にとっての本質である。しかし、もし実は私が人間でなかったとしても、あるいは人間でなくなったとしても、私は私であり続ける。
ここで「自分らしさ」というのは、つまり、実在的性質の一つだろう。他の対象は私の感覚的対象に触れることによって、その感覚的対象と結びついた感覚的性質と実在的性質両方を変化させることができる。ハーマンの存在論から導けるのはここまでだが、僕が思うに人間の実在的性質というのは結構流動的なものだと思うのだ。人間の特権的な立場を認めてはいないがハーマンも人間の関係の複雑さや面白さは認めている。

 私という実在にとってその性質は実在的であろうと感覚的であろうと実は大した意味を持たないのではないだろうか。性質が全く変わってしまったとしても私は私なのだ。ではなぜ私は私の性質に拘らなければならないのか。

 私の性質が変化すると、私が私でなくなってしまうとでも思っているから自分らしさなどというものに拘ってしまうのだろう。それはむしろ、私というものの可能性を潰していることになるのではないだろうか。私というものはどのような性質を持ったところで私である。それは必ずしも私がどのような性質も持ちうるということではないが、少なくとも今とは違う性質を持ちうるということだ。なのに、「自分はこういう人間である」という現時点で私が持っているというだけの性質を自身の行動の原理に据えてしまうのはなんとももったいない。やりたいことはやればいいし、できるならばやればいいのだ。もしそれが自分らしさとかいう現時点で私が持っているだけの性質にはそぐわないとしてもだ。そういった行動を取るとき、私は自身の実在的性質に手を加えることができ、新しい自己の本質を生み出すことができるのである。これこそが大杉栄が言った「生の拡充」なのではないだろうか。

【参考図版】

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【参考文献】

『四方対象ーオブジェクト指向存在論入門』グレアム・ハーマン著 岡嶋隆佑監訳 人文書院 2017

「代替因果について」グレアム・ハーマン/岡本源太訳(『現代思想』2014年1月号)

「オブジェクトへの道」グレアム・ハーマン/飯盛元章訳(『現代思想』2018年1月号)

「唯物論では解決にならない」グレアム・ハーマン/小島恭道+飯盛元章訳(『現代思想』2019年1月号)

「第一哲学としての美学 グレアム・ハーマンの存在論」星野太(『現代思想』2015年1月号)

「断絶の形而上学 グレアム・ハーマンのオブジェクト指向哲学における「断絶」と「魅惑」の概念について」飯盛元章(『大学院研究年報』文学研究篇、第四十六号、中央大学大学院研究年報編集委員会、2016)

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