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モーツァルトとフーガ(193)

ところで、ロンドを返送して下さる時に、ヘンデルの六曲の遁走曲と、エーベルリンのトッカータと遁走曲をも送って下さい。毎日曜日の二時にはフォン・スウィーテン男爵のところに行きますが、そこではヘンデルとバッハ以外のものは何も演奏されません。私は今バッハの遁走曲(セバスティアンの)と、エマヌエルおよびフリーデマン・バッハの遁走曲と同時にヘンデルの曲とを蒐集しています。しかし、前記の曲はまだ手に入っていないのです。私は男爵にエーベルリンの曲を聴かせたいと思います。イギリスのバッハが死んだことは御存知でしょうね? 楽界にとっては悲しい損失です。(ウィーン、1782年4月10日)

『モーツァルトの手紙』服部龍太郎訳

イギリスのバッハことヨハン・クリスティアン・バッハが46歳で亡くなったのは1782年1月1日のことなので流石に遅すぎる話題ではないでしょうか。

J.C.バッハの晩年は人気が低迷しコンサートは赤字続き、さらには肺を病んで闘病生活を送り、挙句の果てには召使いに全財産を騙し盗られるなど悲運に満ちたものでした。

モーツァルトは幼時よりJ.C.バッハを敬愛し、多くを彼から学びましたが、しかしその父であるJ.S.バッハについては何も教わらなかったようです。彼が『平均律クラヴィーア曲集』や『フーガの技法』などのコアなJ.S.バッハ作品を知るようになったのは、ウィーンの宮廷図書館長ゴットフリート・ファン・スヴィーテン男爵を通じてのことです。映画『アマデウス』だとモーツァルトがヨーゼフ2世と勘違いして敬礼してしまう人ですね。

Gottried van Swieten (C. Clavereau)

スヴィーテン男爵は帝国の外交官として1770年から1777年までベルリンに滞在していました。彼が大バッハを知ったのはこの時のことのようです。彼が1774年7月26日に本国の宰相カウニッツ公に宛てた書簡にはこうあります。

王は音楽について、特にこの間までベルリンにいたバッハという名の偉大なオルガニストについて言及された。この音楽家はハーモニーの知識の深さと演奏力において、私が聴いたり想像したりできるいかなる音楽家よりも優れた才能を備えているが、しかし彼の父親を知っていた人々によれば、父のほうが一層偉大であったと言う。王も同じ意見で、それを私に立証するのに彼が老バッハに与えた半音階的なフーガ主題を声高く歌われた。老バッハは即座にその主題を四声の、さらに五声の、最後には八声のフーガに作り上げたという。

Alfred von Arneth, Geschichte Maria Theresia, VIII, 621.
https://archive.org/details/geschichtemariat08arneuoft/page/620/mode/2up

「ベルリンのバッハ」ことC.P.E.バッハがハンブルクに移ったのは1768年のことなので、この「ついこの間までベルリンにいたバッハ」はW.F.バッハのことでしょう。彼は1774年4月にベルリンに移住したのですが、この手紙を書いたときには一時的に他所に出かけていたのだと思われます。

そしてフリードリヒ大王には、27年前の1747年5月7日の夜の出来事は未だ忘れがたい思い出であったようです(以下に再掲するW.F.バッハに取材したフォルケルの報告とは微妙に違いますが)。

その頃、王は毎晩、室内楽の演奏会を開いており、その中で王自身がフルートで数曲演奏するのが常であった。ある夕べ、楽士たちが既に集まり、王がフルートを取り出したところで、官吏が客人の到着の報告書を持ってきた。フルートを手にした王は、その書類に目を通すと、突然、待っていた楽士たちに向かい興奮気味にこう言った。

「諸君、老バッハが到着した」

そして、フルートは片付けられ、息子の家に居た老バッハは、すぐに城に召喚されたのだった。

この話は父に同行していたヴィルヘルム・フリーデマンが話してくれたのだが、今でもその時の彼の話しぶりを楽しく思い出すことができる。当時の礼儀作法では、かなり冗長な挨拶が必要で、バッハがこれほど高名な君主に初めて紹介され、旅装をカントールの黒い式服に着替える暇もなくその御前に急いだのだから、多くの謝罪を伴うものであったに違いない。ここでその内容を列挙することはしないが、ただ、ヴィルヘルム・フリーデマンの話では、それは王と謝罪者の堅苦しい会話であったということだ。

しかし、それよりも重要なことは、王がこの夜のフルート演奏会をあきらめ、当時すでに「老バッハ」として知られていたバッハに、宮殿のいくつかの部屋に置かれたシルバーマンのフォルテピアノの試奏を強要したことである。楽士たちも一緒に部屋から部屋へ行き、バッハはいたるところで試奏や即興演奏をしなければならなかった。

彼はしばらく試奏と即興演奏をしてから、事前準備無しで演奏してみせるために、王にフーガの主題を要求した。王は、自分の主題を即興で展開した学識ある技に感嘆し、おそらくはこのような技術がどこまで可能なものなのかを確かめるため、6声のフーガも聴いてみたいと所望された。しかし、すべての主題がそのような多声音楽に適しているわけではないので、代わりにバッハは自分で選んだ主題を、王の主題のときと同じように華麗かつ学術的な方法ですぐに演奏して、列席者を大いに驚かせたのであった。

王は、彼のオルガン演奏を知りたがってもいた。そのためバッハは次の日、彼に連れられて、前日シルバーマンのフォルテピアノに案内されたときと同様、ポツダムのすべてのオルガンに足を運んだ。

ライプツィヒに戻った彼は、王から賜った主題を3声と6声で練り上げ、様々なカノン風の作品を加え、「音楽の捧げもの」というタイトルで出版し、その主題の作者に献呈した。

Johann Nikolaus Forkel, Ueber Johann Sebastian Bachs Leben, Kunst und Kunstwerke, 1802.
https://de.wikisource.org/wiki/Ueber_Johann_Sebastian_Bachs_Leben,_Kunst_und_Kunstwerke

元より音楽愛好家であったスヴィーテン男爵は、ベルリンではJ.S.バッハの弟子であるキルンベルガーに師事し、同じくキルンベルガーの生徒でやはり熱心なJ.S.バッハの信奉者であったアンナ・アマーリア公女のサロンに出入りしました。そうして「古楽」趣味に染まった彼は、当時ウィーンでは殆ど知られていなかったJ.S.バッハ作品を持ち帰り布教したのです。その影響はモーツァルトだけでなくハイドンやベートーヴェンにも及びました。


上掲の1782年4月10日の父宛てのモーツァルトの手紙で言及されているエーベルリンとは、ザルツブルク宮廷および大聖堂の楽長であったヨハン・エルンスト・エーベルリン(1702-1762)のことです。モーツァルトにとっては地元の大作曲家でしたが、ウィーンでは知られていないので紹介しようと思ったのでしょう。モーツァルトが求めたエーベルリンの《トッカータとフーガ》はオルガンのための作品で9曲あります。

https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/349902

しかしその10日後に姉に宛てた手紙では、やっぱりいらないと言うのです。

親愛なる姉へ
ウィーン、1782年4月20日

私の愛するコンスタンツェは、ついにその善良な心に従う勇気を持ち、貴方、我が愛する姉上に手紙を書くことを決心しました。彼女の手紙に答えてください。そして実際にそうしていただければ、この善良な生き物の額にその喜びを読み取ることができるでしょう。ですから彼女に返事をして、その手紙を私の方に同封してください。あなたの返事が彼女の母親や姉妹に知られないようにするためです。

ここにプレリュードと三声のフーガを送ります。これがすぐに返事をしなかった理由です。小さな楽譜を書くのは骨が折れるのですぐに終わらせることができませんでした(不器用な譜面です)。プレリュードが先に置かれ、その後にフーガが続きます。しかしフーガを先に作っており、プレリュードを考えている間にフーガを書き写しました。とても小さく書かれているので読めることを願っています。そして気に入っていただけたらと思います。次回はもっと良いクラヴィーア曲を送ります。

このフーガが生まれた本当の理由は私の愛するコンスタンツェです。毎週日曜日に通っているファン・スイテン男爵が、私にヘンデルとバッハの作品を全部貸してくれました。コンスタンツェがそのフーガを聞いたとき、彼女はそれに完全に恋に落ちたのです。彼女はフーガ以外のものは聴きたがりません。特にヘンデルとバッハのフーガを好みます。彼女は私がよく即興でフーガを演奏するのを聞いているので「まだ一度も書き留めたことがないの?」と尋ねられました。そして、私が「ないよ」と答えると、「音楽の中で一番巧みで美しいものを書かないなんて」と、彼女に本気で怒られました。そして彼女は諦めずにフーガを書くように強請り続けたので、とうとう私は彼女のためにフーガを作りました。そうしてこのフーガができたのです。

私は「Andante Maestoso」と注意深く記しました。これは速く演奏されないようにするためです。フーガは遅く演奏されなければ、入ってくる主題が明瞭に聞き取れず、効果を発揮できないことになります。いずれさらに5つのフーガを作り、それをファン・スイテン男爵に渡すつもりです。彼は非常に価値のある(ただし数は少ない)素晴らしい音楽の宝を持っています。ですから、誰にも見せないように約束してください。フーガは暗譜して演奏してください(フーガは簡単に演奏できるものではないですが)。もしパパがエーベルリンの作品をまだ書き写していないなら幸いです。私はそれを手に入れてみましたが(思い出せなかったので)残念ながら非常に劣っていることが分かりました。正直に言ってヘンデルやバッハの作品の間に置かれる価値はありません。彼の四声部の作曲には敬意を表しますが、鍵盤フーガは単に長いヴァーセットです。

それではお元気で。二つの拙作をお気に召されれば幸いです。千のキスを送ります。

誠実なあなたの弟、W. A. モーツァルト

そしてパパにもキスを、今日は手紙を受け取っていません。

Wolfgang Amadé Mozart an Maria Anna (Nannerl) Mozart in Salzburg, Wien, 20. April 1782, mit Nachschrift von Constanze Weber
https://digibib.mozarteum.at/urn/urn:nbn:at:at-moz:x2-30468

生憎この手紙に付属していた《プレリュードとフーガ ハ長調 K.394/383a》の「小さな楽譜」は現存せず、フーガのみの自筆譜が知られています。モーツァルトはこれを便箋に写しながら頭の中でプレリュードを作曲したのでしょう(彼はそういう事ができる人です)。そのプレリュードはともかく、フーガは正直言ってエーベルリンの方がよほどましですね。

https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/563183

スヴィーテン男爵はモーツァルトにバッハやヘンデルの楽譜を貸し出し、そしてモーツァルトはバッハのフーガを弦楽合奏用に編曲しました。男爵邸の日曜コンサートのためのものでしょう。

これには『平均律クラヴィーア曲集 第2巻』のフーガを弦楽四重奏に編曲した K. 405 の5曲と、弦楽三重奏で「プレリュードとフーガ」の形をとる K. 404a の6曲が知られています。K. 404a は作者自筆譜が現存しないため偽作の疑いが持たれたりもしましたが、現在では概ね真作と考えられています(五重奏編曲も3曲あり、これもモーツァルトの作品なのかもしれないがケッヘル番号はついていない)。どっちにしろ滅多に演奏されませんが。

K. 404a の原曲は以下の通り

・第1番 ニ短調
自作のプレリュード
J.S.バッハ『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』《第8番 変ホ短調 BWV 853》 のフーガ
・第2番 ト短調
自作プレリュード
『第2巻』《第14番 嬰ヘ短調 BWV 883》 のフーガ
・第3番 ヘ長調
自作プレリュード
『第2巻』《第13番 嬰ヘ長調 BWV882》 のフーガ
・第4番 ヘ長調
《トリオ・ソナタ 第3番 ニ短調 BWV 527》の第2楽章
『フーガの技法 BWV 1080』《コントラプンクトゥス 第8番》
・第5番 変ホ長調
《トリオ・ソナタ 第2番 ハ短調 BWV 526》第2楽章
同、第3楽章
・第6番 ヘ短調
自作プレリュード
W.F.バッハ『8つのフーガ Fk. 31』《フーガ 第8番》

これらのチョイスから何となくモーツァルトの好みがわかるような気がします。特に第4番の《トリオ・ソナタ 第3番》+《コントラプンクトゥス 第8番》という常人には思いつきそうにない組み合わせは流石。

モーツァルトはこの時期、編曲だけでなくオリジナルのフーガや「ヘンデル風」組曲などにも盛んに取り組んでいますが、この対位法ブームは1年程で終了し、習作の多くは未完のまま放棄されました。挫折したのか、飽きたのか、コンスタンツェが飽きた説が一番納得いくような気もしますが。

完成したフーガは、前掲の K. 394 に加えて鍵盤作品の K. 401 と 弦楽三重奏の K. 443、それと2台のチェンバロのためのフーガ K. 426 ぐらいのもので、K. 426 は後に編曲されて弦楽四重奏のための《アダージョとフーガ ハ短調 K. 546》になります。いわゆる「ハイドン・セット」の弦楽四重奏もこの頃の弦楽編曲の試行が結実したものと言えるでしょう。

しかし彼は別にバッハに飽きたというわけではないようで、1789年にモーツァルトがライプツィヒの聖トーマス教会を訪れたときの様子が、当時トーマス学校の学生であったヨハン・フリードリヒ・ロヒリッツによって報告されています。

当時トーマス学校のカントールだった故ドーレスが企画した催しで、合唱団はドイツ音楽の父ゼバスティアン・バッハの二重合唱モテット《Singet dem Herrn ein neues Lied》を演奏してモーツァルトを驚かせた。モーツァルトはこのドイツ音楽のアルブレヒト・デューラーを、もはや珍しくなったその作品ではなく、噂でしか知らなかったのだ。合唱団がわずか数小節歌っただけでモーツァルトは驚愕した。さらに数小節進行すると彼は叫んだ「何だこれは?」。そして今や彼の魂全体がその耳にあるかのように思われた。歌が終わったとき彼は「これには確かに学ぶべきものがある」と喜びの声を上げた。

バッハがカントールだったこの学校には、彼のモテット全集が一種の聖遺物のように保存されていることを彼に伝えると、彼は感激し「それは素晴らしい、実に結構」そして叫んだ「見せてくれ」。しかしこの曲の総譜はなかったので、彼は書き写されたパート譜を見ることにした。モーツァルトが座り込んで、両手に、膝の上に、そして近くの椅子にパート譜を広げて集中している様を静かに見守るのは喜ばしいことだった。彼は他のことは一切忘れ、バッハのすべての作品に目を通すまで立ち上がらなかった。

Allgemeine musikalische zeitung, 1798, 21 November.
https://archive.org/details/bub_gb_RQUVAAAAQAAJ/page/n87/mode/2up

モーツァルトが大バッハを「噂でしか知らなかった」というのは誤解ですが、バッハの声楽作品を聴く機会は無かったでしょう。『平均律クラヴィーア曲集』に代表されるバッハの鍵盤作品は広く流布していましたが、宗教声楽作品についてはフォルケルのバッハ伝ですらろくに触れられていません。

しかしもう時間がありませんでした。モーツァルトが対位法を自家薬籠中のものとし、彼だけに許された真の霊感をもって示すことができたのは最晩年のことになります。

それは最後の3つの交響曲や、ひどく難易度の高い「易しいピアノ・ソナタ」《狩り》K. 576、そして《レクイエム》K. 626、就中その「Domine Jesu Christe」の大天使ミカエルの導きを乞うストレッタの中に。

Wolfgang Amadeus Mozart, "Domine Jesu Christe," Requiem K. 626, Holograph manuscript, 1791.
https://imslp.org/wiki/Special:ReverseLookup/293694

Domine Jesu Christe, Rex gloriae,
libera animas omnium fidelium defunctorum
de poenis inferni, et de profundo lacu.

Libera eas de ore leonis,
ne absorbeat eas tartarus,
ne cadant in obscurum.

Sed signifer sanctus Michaël
representet eas in lucem sanctam,
quam olim Abrahae promisisti et semini eius.

主イエス・キリスト、光栄の主、
凡て死したる信者の霊魂を
陰府の刑罰及び深き淵より救ひ給え

此等を獅子の口より救ひ給へ
願はくは彼ら地獄に呑み込まれず
闇に陥らず

旗手たる聖ミカエルに導かれて
聖なる光に至らし給へ
主は嘗てアブラハムと其の子孫に約し給ひし事なれば

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