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NHK短歌5月号より
NHK短歌5月号掲載の短歌からいくつか紹介したいものがありました。
まず巻頭秀歌に私の好きな北原白秋の歌が載っていました。
ヒヤシンス薄紫に咲きにけり
はじめて心ふるひそめし日 (「桐の花」より)
この歌については、実はこの下の句、初出は「はじめてキスをおぼえそめし日」だったとのことで、それもわるくないのでは?と三枝昴之氏が解説されていましたが、私は「心ふるひそめし日」の方が直接言わない奥ゆかしさが恋のはじまりの日にふさわしいと思います。
記憶というのは不思議なもので、印象的な風景や物や色がずっとその記憶を象徴するものとして自分の中に存在しつづけるところがあります。北原白秋にとって、この歌の相手との恋は、ヒヤシンスが咲く時期の記憶として、色のイメージとしては薄紫の記憶となって残ったのでしょう。
よく恋愛と言えば、ピンクとか桃色、紅などの色が連想されますが、一般的に連想される色ではない、その人と相手だけが共有する記憶にまつわるイメージを歌った歌で、ロマンがあります。
大森静佳さんが紹介されていた与謝野晶子の歌も恋愛の歌でしたが、与謝野晶子らしい強い歌でした。
冬の夜の星君なりき
一つをば云ふにはあらずことごとく皆 (「白桜集」より)
なくなった夫を偲ぶ晩年の歌ということですが、一つの星ではなく「ことごとく皆」と読むあたりが強いと思いました。
さて、今回テキスト企画が「育つをよむ。」ということでしたが、何を「育てる」のか、それとも何が「育つ」のか、そういう主語の違いを楽しめました。
掲出歌の中で私が趣きがあると思ったのは、武下奈々子の歌と横山未来子の歌です。
柿の実が柿の甘さに辿りつく
時間の豊かさよ日当たりながら (武下奈々子「不惑の鷗」より)
客観的に「実」という表現が「甘さ」という感覚に「辿りつく」という風に表現することで、その間の時間に思いを馳せることになる仕掛けが面白いと思いました。
言葉には直接表現せずにあえて行間を読ませるという使い方があるので、それが一番古典からの日本語らしい系譜だと思うのですが、そういうものを感じました。
君が抱くかなしみのそのほとりにて
われは真白き根を張りゆかむ (横山未来子「樹下のひとりの眠りのために」)
この歌について、西之原一貴さんは恋の歌だと解説されていましたが、確かに恋の歌でもあるけど、それよりも愛に近いことを歌っている気がします。
一時私は同じ哀しみを背負っている人同士の方が、わかり合えると思っていたことがありました。具体的に関わりのある誰かではなくても、例えば小説を読んで、それが現在生きていない作家さんであっても、そこに書いてある内容が自分の背負っているものと共感できるものだと、孤独感が薄れて救われるような気がしました。
でも自分ではない誰かの哀しみに寄り添うのは、相当相手のことが大事だと思えないとできないことだし、同じ哀しさがわかる者同士は、それを乗り越えることができないのもわかってしまうし、その方法もわからないというか、わかろうとすることを諦めるのも早い。
この歌は、きっと同じ哀しみを背負っている人ではないけれど、「根を張って」その側にいることを選ぶ強さを感じました。
どの歌もそうですが、言葉の深さに気持ちを上手く乗せて歌っている点が趣きがありました。次の号も楽しみです。