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ブッチャーブラザーズが日本初の「お笑いライブ」を開催したことが、たけし軍団の結成につながったという、歴史に残すべき話

(サンミュージック岡社長の第11回の原稿が間に合わないため、総集編でお茶を濁します。テレビでたまにあるアレです笑 とはいえ、これは本当に語り継がれるべき芸能史の重要な転換点だと考えていまして、あえて編集の上再録します)

「たけし軍団ができるきっかけは、僕らが作ったようなもんなんですよ」

宮沢章夫さんと作ったネタでチャンピオンに

俳優の森田健作に誘われて上京したぶっちゃあ&リッキー(岡社長)の2人は、いろいろあって(詳しくは第1回、2回に)芸人になろうと考え、昼のバラエティ番組「笑ってる場合ですよ」(フジテレビ)で行われていたオーディション「お笑い君こそスターだ!」に出演した。1981年、日本が漫才ブームに沸いていた頃だ。

2人は見事に勝ち抜いてグランドチャンピオンになり、芸人としてサンミュージックに所属することになった。

ネタ作りを一緒にやっていたのが、マネージャーの紹介で知り合った後の劇作家・宮沢章夫さん(2022年没)。シティボーイズらと「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」(1985~89年)を組む4年前の話。宮沢さんは2016年までNHK Eテレで放送された「ニッポン戦後サブカルチャー史」の講師を務めていたから、この番組の印象が強い人も多いだろう。

宮沢さんらが書いたネタは、「ザ・テレビ演芸」(テレビ朝日、1981〜91年)の勝ち抜き新人オーディション出演時に披露され、審査員を務めていたコピーライターの糸井重里氏から絶賛された。

ブッチャーブラザーズは「ザ・テレビ演芸」3回目の出演でグランドチャンピオンに輝き、この番組をきっかけに糸井氏との交流が始まった。

この頃、ブッチャーブラザーズは、日本初と見られる“お笑いライブ”を開催している。

「日本で初めてお笑いライブをやったのは、僕らだと思ってます。当時、芸人が立つ舞台は、東京なら浅草や新宿などの寄席、ストリップの幕間、大阪なら吉本さんや松竹さんの劇場ぐらいだった。僕らは演劇人の自主公演みたいなことを芸人でやろうと考え、演劇やフリージャズの公演をやっていた小屋を借りました」(岡社長)

この時、協力してくれたメンバーがすごい。

「チラシ(フライヤー)は宮澤さんら経由で多摩美の人に頼み、コピーは糸井さんにお願いしました。糸井さんは当時、“1行100万円”と言われてましたが、タダでやってくれました」

なんと、80年代の“コピーライターブーム”の頂点にいた糸井氏が、無料でフライヤーのコピーを書いてくれたという。

第一回「お笑いハウス」のチラシ。スタッフに宮沢章夫さんの名前がある
80年代コピーライターブームの頂点にいた糸井重里氏が無料でコピーを書いてくれた

後のダンカンを発掘!

出演者は、雑誌「ぴあ」のはみ出しコーナーで募集した。するとその応募者の中に飯塚実という青年がいた。後にたけし軍団に加入するダンカンだ。

ライブで飯塚君のネタを見た2人は、その才能を買い「ザ・テレビ演芸」のネタ見せに連れて行った。

「『面白いやつがいます』と紹介してネタを見てもらったところ、気に入ってくれたのが漫画家で演芸業界に通じていた高信太郎さんでした。高さんが『面白いね。君は何をやりたい?』と聞いたら、飯塚君は『落語家になりたい』と。高さんは『じゃあ紹介しよう』とすぐに立川談志さんのところに連れて行き、あっさり弟子入りが認められました。その時にもらった芸名が立川談カン。今の芸名の元になる名前ですね。その後、談カンは談志さんの紹介でビートたけしさんの弟子になります。その経緯は有名ですね」

第一回お笑いハウス出演者の面々。後列のサングラスの男性がダンカン。
ダンカンはここで知り合った女性の影響で「落語家になりたい」と言うようになったという

この時ダンカンがビートたけしの元へ移籍したことが、大きな展開を生む。「たけし軍団」結成につながっていくのだ。

岡社長は言う。

「たけし軍団ができるきっかけは、僕らが作ったようなもんなんですよ」

どういうことか?

ビートたけしが「おもしろそうだな。俺も行く!」

「同じ事務所の太川陽介の野球チームが試合を組んでいたのに、太川らが地方から帰って来られないことがありました。僕らもメンバーだったので、人数を揃えるためダンカンに『たけしさんの他の弟子も連れて来て』と頼み、それからぶっちゃあがよく行っていた新宿の『ポプラ』という店の店員、芸人『カージナルス』のタカとポポを誘いました。後のガダルカナル・タカとつまみ枝豆です。あと東映京都撮影所時代からの仲間、俳優の徳井優にも声をかけました」

この時点でタカと枝豆はビートたけしと接点がなかった。

「試合当日、早朝の神宮のグラウンドで待っていたら、ダンカンとそのまんま東、大森うたえもん、松尾伴内らが来て、その後ろに、あれ? 高田文夫先生!? その横にえらいオーラがある人が…。え!たけしさん!? ダンカンによればニッポン放送の『ビートたけしのオールナイトニッポン』終わりで、ダンカンが『これからみんなで神宮外苑に野球しに行くんですよ』と言ったら、たけしさんが『おもしろそうだな。俺も行く』と来てくれたと。もうびっくりしました」

携帯電話などない時代。突然現れたビートたけしに、ブッチャーブラザーズもカージナルスも驚いた。

「みんなで野球をやって、その後、たけしさんが『朝メシ食べようか。新宿に行けば朝からやってる店があるだろう』って、みんなで国鉄(当時)に乗って移動しました。朝9時半ごろで乗客が多かったので、たけしさんは『バレるとマズいな』とタオルでほっかむりをしてたんですが、もちろん、すぐバレました(笑)」

新宿でたけしや弟子たちと朝食を食べていた時のことだ。

「野球が楽しかったのでしょう。上機嫌のたけしさんは『俺も野球チーム作るか』と言い、後日、本当にメンバーを集めてチームを作りました。その面々が“たけし軍団”になっていったんです。タカとポポは入っていた事務所が倒産してポプラで働いていたんですが、これ以降、ダンカンや他の弟子たちが店によく顔を出すようになり、たけしさんも行くようになって、揃って弟子入りしました」

ブッチャーブラザーズの2人が日本初のお笑いライブを開催し、出演者として応募してきた飯塚君の才能を買って、たけしの弟子になるきっかけを作ったことが、たけし軍団の結成へとつながっていく。

飯塚君を「ザ・テレビ演芸」のネタ見せに連れて行かなければ、草野球にたけしが来ることはなく、タカ&枝豆が弟子になることも、たけし軍団があの形で結成されることもなかっただろう。

軍団が存在しなければ、数々の芸人を人気にした「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」のような番組は生まれていなかったかもしれない。そんな番組はいくつもある。

バラバラの点がブッチャーブラザーズを介して結びついていき、昭和の芸能界における大きな“分岐点”が作られていったのだ。

ちなみに、ブッチャーブラザーズは「『お前らは野球が下手だから』と弟子入りを断られました(笑)。すでに事務所に入ってましたしね」

後のダンカン=飯塚君はヘタウマで味のあるイラストが描けた。
第二回ブッチャーブラザーズ主催ライブのフライヤーをデザインしている。

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華川富士也
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