バーチャルと現実
VRゴーグルを安価に購入できるようになり、人々とVRの距離がかなり近くなっているように感じる。また、COVID-19の感染拡大に伴い、普段は対面で行われるようなイベントがリモートに切り替わりつつあることから、さらにVRの需要が高まることが予想される。一方で、VRは現実に比べると見劣りすると感じている人も多いだろう。
そこで本稿では、VRは現実と比較した時にどのように位置付けられるのかを、オーストラリアの哲学者であるデイヴィッド・ジョン・チャーマーズが2017年に発表した“The Virtual and the Real”に基づいて検討する。
VRに対する一般的な見方は、それが虚構や錯覚であり、そこで起きる出来事は本当の現実ではないというものである。そして、バーチャルな対象は現実には存在しないものとして取り扱われている。それに対してチャーマーズは、VRは現実であり、バーチャルな対象は現実の対象であり、VRで起きたことは現実の出来事である、と主張する。そして、以下の4つの問いを通じて議論を展開する。
・バーチャルな対象は現実の対象なのか
・バーチャルの出来事は現実の出来事なのか
・VRにおける知覚経験は現実の知覚なのか
・VRでの経験は現実世界と同じ価値があるか
チャーマーズはかつて“The Matrix as Metaphysics”で、マトリックスの世界のような完全で恒久的なVRについて論じている。その中で、彼は次のように述べている。私たちがそのような世界で「私たちはマトリックスの世界にいる」と気付いた際、「テーブルは存在しない」と言う代わりに「ビットで構成されるデジタルな対象としてのテーブルが存在する」と言うことができる。そして、そのようなVRについて、先ほどの4つの質問に回答すると以下のようになる。
・バーチャルな対象は本当に存在し、デジタルな対象である
・バーチャルな出来事はデジタルな出来事であり、現実に起こっている
・VRでの経験は、デジタルな世界での非錯覚的な知覚を含んでいる
・デジタルな世界でのバーチャルな経験は、現実の世界での経験と同じ価値を持ちうる
本稿では、マトリックスのような完全で恒久的なVRだけでなく、現在の技術下における不完全なVRについても論証を試みられている。
Ⅰ. 定義
ここで、チャーマーズはVRの核となる3つの要素を示す。
・没入
没入的な環境は、その環境内のある視点からの知覚経験を生み出し、ユーザーに臨場感を与えるものである。そのような知覚経験は、3次元的な環境によってもたらされる視覚、聴覚、その他の感覚様相を含んでいる。
・交流
ユーザーの行動がその環境で起こっている出来事に重大な変化をもたらす時、その環境は交流的である。
・コンピューターによる生成
コンピューターのシミュレーションに基づいた環境は、ユーザーの感覚器官によって処理される出力を生成している。
チャーマーズによれば、厳密なVRは以上の3要素を含むものである。そして、それを実現するには、トラッキング機器やコントローラーなどの入力機器と、VRゴーグルやヘッドセットなどの出力機器が必要となる。では、3つの要素を1つずつ取り除いていくとどうなるだろうか。
・非没入型VR
一般的なビデオゲームに近いもの
・非交流型VR
映画に近いもの
・非コンピューター生成型VR
ロボットの遠隔操作に近いもの
また、3つの要素のうちの1つしか満たしていなくてもVRと呼ばれることがあるが、一般的な映像(2次元、受動的、カメラ視点)は3つの要素を1つも満たさないため、VRではない。以上を踏まえて、バーチャル世界とバーチャルな対象を以下のように定義している。
・バーチャルな世界…交流的なコンピューターで生成された世界
没入の要素を含んでいないので、一般的なビデオゲームを含む定義である。それは、バーチャルな世界の存在論的問題には、没入の有無は影響しないからである。
・バーチャルな対象…バーチャル世界に含まれ、VR利用時に知覚、交流できる対象
Ⅱ. バーチャル虚構主義
バーチャル虚構主義をとる人々は、バーチャルな世界やバーチャルな対象は虚構であり、そこで起こる出来事も虚構であると考えている。つまり、それらが現実には存在せず虚構の中にのみ存在している、と考えている。このような人々の多くは、ビデオゲームに存在するバーチャルな世界に着目している。
確かに、ビデオゲームと虚構の世界には密接な関係がある。しかし、その関係はバーチャルか非バーチャルかに関わらず認められる。例えば、あるファンタジー小説をもとにした映画で、魔法使いの役を演じる人が、魔法をかけることは虚構の出来事であるが、その物理的な身体や動作は現実のものである。同じように、その小説をもとにしたVRゲームで、魔法使いのアバターが魔法をかけることは虚構であるが、そのアバターや動作はバーチャルの領域において存在している。
また、VR技術はビデオゲーム以外にも用いることができる。例えば、自分そっくりのアバターを利用できるソーシャルメディアがあるとする。そのような世界において、バーチャルな身体はバーチャルな空間に存在している。しかし、物理的な身体とは別個のバーチャルな身体を持っていることは虚構ではない。その他にも、実際には数百キロ離れた所に住んでいる友人のアバターが、バーチャルな世界では自分のアバターの数メートル先にいることや、そのバーチャルな世界で利用できるバーチャルなコインを所有していることも虚構ではない。よって、ビデオゲームのバーチャルな世界と虚構の関係性だけをもって、バーチャルな世界は虚構であると主張するのは誤りである。
Ⅲ. バーチャルな対象
チャーマーズはバーチャルな対象を、コンピューターの処理によって構成されるデジタルな対象だと説明している。つまり、コンピューターの物理的な処理によって生み出されるデータ構造である。そして、私たちはそのデータ構造が持つ性質をバーチャルな対象として知覚している。このことから、チャーマーズは次のように主張する。
・バーチャルな対象は他の対象やユーザーに対する因果的な力を持っている
・デジタルな対象が実際にそれらの力を持っている
→バーチャルな対象はデジタルな対象である
これがデジタリズムと呼ばれる立場である。これに対して虚構主義者は、バーチャルな対象は虚構の世界の中においてのみ因果的な力を持っており、現実の世界に影響を及ぼすのは対象そのものではなく、その表象であると主張するだろう。しかし、バーチャルな対象が現実の対象の持つ性質をすべて備えているならば、虚構の対象として区別し続ける理由はないだろう。これに密接したものとして知覚についての主張がある。
・私たちがVRを利用するとき、バーチャルな対象を知覚している
・私たちが知覚する対象は、知覚経験の因果的な基礎である
・VRを利用する時、知覚経験の因果的な基礎はデジタルな対象である
→バーチャルな対象はデジタルな対象である
以上からチャーマーズは、データ構造と私たちの経験に因果関係があると主張する。このことは、次の例から類比的に説明できる。ある人物が写った写真を見る時、私たちはその人物を見ている(写真の中でその人物を見ている)という主張は広く受け入れられている。それは、その人物が私たちの知覚経験の因果的な基礎であり、その知覚経験の特徴はその人物が撮影された時の特徴に依存しているからである。これをバーチャルな対象についても適用することができる。さらに、VRは以下の3つの点から、写真や映画よりも現実の見え方に近いことが分かる。
・VRにはディスプレイを見ているという感覚がない
・VRは3次元的な知覚経験である
・VRは知覚経験に基づいて主体的に行動することができる
一方で、現実の見え方と決定的に異なる点がある。それは、現実の見え方がその対象物の現実の色や形を反映しているのに対して、VRにおける見え方はデジタルな対象についてのバーチャルな色や形を反映したものである、という点である。そこから、バーチャルな対象は(少なくともVRを全く知らない人にとって)デジタルな対象ではなく現実の対象として知覚されてしまうので、VRは錯覚であると言われるかもしれない。しかし、VRについて知ることで知覚された色や形はバーチャルな色や形と一致していると理解できるので、その知覚が錯覚であると考える必要はない。これがVR(バーチャルな世界)についての信念である。この点について、虚構主義者は次のように主張するかもしれない。
・私のアバターはドラゴンである
・ドラゴンは現実の対象ではない
→私のアバターは現実には存在しない
これに回答するには、物理的なドラゴンとバーチャルなドラゴンを区別する必要がある。
・バーチャルな世界
物理的なドラゴンはいないが、バーチャルなドラゴンはいる
・現実の世界
物理的なドラゴンはいないが、デジタルな対象としてのドラゴンはいる
以上のような区別ができたならば、虚構主義者の主張は正しくないことが分かる。それはバーチャルな世界やバーチャルなドラゴンは、現実のコンピューターの中に存在するものであり、現実の世界の一部であるからだ。
Ⅳ. バーチャルな性質とバーチャルな出来事
チャーマーズは、虚構主義者にとって重要なのは、バーチャルな世界における出来事と性質であると主張する。例えば、バーチャルなドラゴンがバーチャルな世界を飛行していても、現実ではそれに対応したデジタルな対象が空を飛行していないので、そういった出来事は虚構である、といったようなことである。この場合、バーチャルなドラゴンは実在しないか、実在するが現実に空を飛んではいないかのどちらかである。いずれにしても、バーチャルなドラゴンが空中を飛ぶという出来事は虚構である。このような結論は、バーチャルな対象がデジタルな対象であるかどうかに関わらず、当てはまるように思われる。同じことを、バーチャル世界における色や形などの性質についても主張するかもしれない。
この問題に取り組むためには、バーチャルな世界における性質や出来事が何かを明らかにしておく必要がある。バーチャルな赤いバラに対応しているデジタルな対象は、一般的なVR状況下(VRのヘッドセットを装着するなど)で、バーチャルな赤いバラの経験を引き起こす。このように、一般的なVR状況下で知覚経験を引き起こす因果的な力を持つのがバーチャルな性質である。
ここでチャーマーズはバーチャルな空間の性質についても言及する。バーチャルな空間は、バーチャルな対象が絶え間なく変化し続け、近接する他の対象と交流する空間である。このような空間において、近接する2つのバーチャルな対象は、因果的に交流する可能性が高い2つのデジタルな対象に対応している。このように、デジタルな世界における動的な交流という観点から、バーチャルな空間を理解することができる。このような動的な交流がバーチャルな出来事である。
では、バーチャルな性質は、現実の性質と同じものであると言えるだろうか。現実の性質とは、現実の状況下における事物について、その事物ならしめる抽象的な因果的構造を指している。例えば、電卓が入力した数式に対応した数値をディスプレイに表示する、という出来事を引き起こす因果的な力を持つために必要な構造である。チャーマーズは、コンピューターによって生成されるのが現実の性質を複製したものであれば、バーチャルな対象は現実の対象と同じものであると主張する。
そしてVRについて議論すべきなのは、非バーチャルな心理的性質を複製できるかという点である。例えば、バーチャルな世界においてユーザーは自身のアバターを、自身の思考に基づいて動かしている。しかし、バーチャルな猫にそのような心理的性質は存在しないので、バーチャルな猫は現実に猫と同じではない。このように、バーチャルな性質において因果的構造と心理的性質が重要である。
Ⅴ. VRにおける知覚は錯覚なのか
以上の議論をすべて受け入れても、なお次のように主張する人がいるだろう。それは、バーチャルな対象を非バーチャルなものとして知覚しているので、バーチャルな世界は錯覚である、というものである。チャーマーズは、このような立場をバーチャル錯覚主義と呼んでいる。
・私たちはバーチャルな対象を、非バーチャルな対象の性質を持つものとして知覚する
・バーチャルな対象は、非バーチャルな対象の性質を持っていない
・ある対象が持っていない性質を、持っているように知覚しているならば、錯覚である
→バーチャルな対象についての知覚は錯覚である
この問題には知覚と信念の2つの側面がある。信念についてはⅢ章の最後に述べたので、ここでは知覚について検討する。錯覚はそれが錯覚であると知っているか否かに関わらず、その対象の在り方とは異なる形で知覚される現象である。錯覚主義者は、VRについて知っていてもバーチャルな対象の見え方は変化しないのだから、それは錯覚であると主張する。これに対してチャーマーズは、自動車のバックミラーを例に挙げて反論する。バックミラーに自動車が映っている時、その車は私たちに向かって走ってくるように見えるが、それを見た私たちは後続の自動車がいると判断する。それには4つの理由がある。
・バックミラーがあることを知っている
・このような位置関係の鏡を見ることに慣れている
・見えている対象(後続の自動車)に対する行動の選択肢がある
・自動車が自身の前方にあることよりも、後方にあることのほうが自然である
このように、知識が知覚に影響を及ぼすことがある。これをチャーマーズは、知識による方向付けと呼んでいる。この現象は、自動車を遠隔操作するという想定の中で、バックミラーがビデオカメラの映像に置き換わっていたとしても、再現可能である。そして、ビデオカメラの映像に置き換えられるならば、VRゴーグルに置き換えることも可能である。つまり物理的な身体の動きが、バーチャルな世界ではどのような動きに反映されるかを知れば、バーチャルな世界を動き回れるようになるということである。さらに、バーチャルな物体をすり抜けるように歩くなど、バーチャルな世界のアフォーダンスを利用するようにもなるだろう。このような過程を経たユーザーは、バーチャルな対象をバーチャルな空間に存在するものとして捉えられるようになるので、バーチャルな世界は錯覚ではないと言える。
しかし、まだいくつか問題が残っている。1つ目は、バーチャルな世界における、深部感覚(身体の各部分の位置、運動の状態、身体に加わる抵抗、重量を察知する感覚)である。バーチャルな身体と物理的な身体の性質に大きな違いがあった場合、注意を物理的な身体に向ければ、物理的な空間に存在している感覚になり、注意をバーチャルな身体に向ければ、バーチャルな空間に存在している感覚になるだろう。
2つ目は、バーチャルな世界における言葉の用法である。例えば、ユーザーがバーチャルなテーブルを指して「これはテーブルだ。」と発言した場合、それがバーチャルな机を指しているのか、誤って現実の机を指しているのかという問題である。これは、バーチャルと非バーチャルの世界のコンテクストを理解しているユーザーにとっては問題にならない。
Ⅵ. デジタルな世界と虚構の世界
ここで、バーチャルな世界はデジタルな世界か虚構の世界か、という問題に立ち返る。チャーマーズは、デジタルな世界は虚構の世界よりも優先されると主張する。例えば、ビデオゲームにおいて、プレイヤーはデジタルな対象とバーチャルな空間で交流しているに過ぎない。しかし、ゲーム内で何が起こっているかを解釈するために虚構を展開することで、ゲームにさらなる意味を与えている。例えば、ゲームでヒトラーに会う時、実際にはデジタルな対象に会っているのだが、それをヒトラーと捉えているのである。このように、デジタルな世界に虚構の解釈を持ち込まれると、虚構の内容として解釈される。
ここで、バーチャルな世界における虚構の内容を以下のように区別するのが有用である。
・特定の虚構
現実の場所、時期、個人を含む虚構
・普遍的な虚構
物理的な空間の中に位置付けられ、形や大きさ色や質量、音などの性質を持つものとして表現される対象
特定の虚構は必ずしも必要なものではないが、普遍的な虚構はすべてのバーチャルな世界に、物理的な空間に存在していると解釈するのが自然であるような在り方で存在するものである。そして、現実の物理的な空間にはそのような対象がないことから、バーチャルな世界の解釈には虚構の内容が含まれていると考えることができる。このことから、バーチャルな世界はバーチャルな空間を伴うデジタルな世界と、物理的な空間を伴う虚構の世界が結びついたものだと主張する人もいるだろう。しかし、虚構の世界はユーザーの解釈によって生じるものであり、その解釈そのものは存在しない。つまり、バーチャルな世界において、デジタルな世界は常に存在しているが、虚構の世界は任意的なものである。
もし、以上のような結論が誤りだとすれば、VRのすべてのユーザーは対象が物理的な空間に存在すると認識していることになる。そうすると、すべてのVRが物理的な空間を伴う虚構の世界ということになる。このように、バーチャルな世界はデジタルな世界と虚構の世界から成り立っているとする二元論的な立場をとることは可能である。そしてこのような立場をとる人々は、ユーザーは実際にはデジタルな世界で交流しているが、知覚しているのは虚構の世界であると主張する。
このような主張を受け入れたとしても、私たちが交流する場としてデジタルな世界が重要であることに変わりない。これは、次のようなアナロジーから理解できる。人々が色のない物理的な対象を、色がある物として知覚している場合、そのような人々を指して、色のある虚構の世界に存在していると主張することができるだろう。しかし、彼らは色を欠いた非虚構の世界に存在しており、その事実が最も重要なのである。よって、バーチャルな世界が虚構の世界を含んでいるとしても、実際に交流を行っているデジタルな世界が、私たちが存在している現実として優先される。
Ⅶ. バーチャルな世界の価値
バーチャル虚構主義をとる人々は、バーチャルな世界の経験は現実のそれよりも価値が低いものである、と主張する。チャーマーズはこれに反論するために、ノージックの経験機械という思考実験を取り上げる。これは、脳に繋ぐことで思い通りの夢をみられる機械を利用するか、というものである。ノージックはこのような機械を利用すべきではないと主張し、3つの理由を挙げている。
①私たちは実際に身体を動かして物事を経験したい
②私たちはひとりの個人として生きたい
③私たちは人間に作られた世界ではなく、より深い現実と接触したい
チャーマーズは以上の主張から、類比的にVRを利用すべきではないと考えるのは適切でないとして、次のような見解を示す。まず③について、バーチャルな世界は人間の手で作られたものであるが、それはニューヨークの街が人間の手で作られたということと同じ意味であり、バーチャルだからと言って人々の生活態度は変化しない。
そして①と➁について、経験機械で人々はあらかじめプログラムされた内容を経験するだけである。一方でVRでは、ユーザーの行動によって出来事が変化する。そこにも行動の制約はあるかもしれないが、それは非バーチャルな世界における制約と同じものである。また、経験機械では、何もしなくても功績を得ることができるが、VRにおいては、ユーザーが何かを成し遂げるには必ず行動を起こさなければならないので、VRにおける功績は現実のものである。このような意味で経験機械は、没入型の映画のようであると言える。
以上のような主張以外にも、VRでの生活が現実の生活よりも価値が低いと考える人々は、次のような主張をするかもしれない。
・VRでの生活が現実の生活に悪影響を及ぼすかもしれない。
→この問題は現実世界でも等しく起こりうるので、反証となりえない。
・生活において物理的な身体は重要だが(食事や運動など)、VRにはそれがない。
→現在でも制限はあるもののバーチャルな身体を持つことができるし、VR技術の進歩でその制限が取り払われていくだろう。
・VRでの知覚経験は現実のものに劣っている。
→これも現在の技術的な制約に過ぎない。
・現実の世界は、過去からの積み重ねや未来に向けた積み重ねがあるという点で価値があるが、バーチャルな世界にはそれがない。
→将来的にバーチャルな世界が不確定な未来を持つようになったり、シミュレーションによって過去の歴史を生み出すことができるようになったりするかもしれないが、それは非バーチャルな世界における対象の歴史を代替するものにはなりえない。それでも、多くの人々がそのような歴史のないバーチャルな世界で、有意義に生活しているという事実に変わりない。
・本当の出生や死が存在しない。
→アバターを生み出すことや、それを破壊することを本当の出生や死とは言えない。そもそも、私たちの出生や死に特別な価値があるのであれば、それらは非バーチャルに起きなければならない現象だろう。それでも、ログインやログアウトを生死と類比することができるかもしれないし、VRでの生活を生死がないものと捉えるならば、それ自体に大きな価値があるだろう。
このような主張のうちのいくつかは、現在のVR技術に起因していることが明らかになったが、それらは長期的には解決可能だろう。その他のものは、現実の生活でも等しく起こりうるものであるか、そもそもバーチャルな世界においては解決不可能なものであった。しかし、それらによって引き起こされる価値の減少は限定的なものである。
ここで、VRでの生活の価値をさらに検討するために、居住化現実という思考実験を取り上げる。これは、他の惑星を一瞬で居住可能にできるような技術が存在する世界において、その惑星での暮らしは地球での暮らしと同じ価値があるのか、という問題である。居住可能になった惑星には広大な土地があり、様々な生活様式が認められており、より多くの可能性を秘めている。これに賛成する人々は、地球での生活よりも多くの可能性を秘めており、より幸福になれると主張する。一方で反対派は、人工的で歴史を欠いているので、そこでの生活は地球より重要ではないと主張する。
チャーマーズはVRでの生活は、居住化現実と同じくらい価値のあるものだと主張する。それは、VRは居住化現実と異なり直接的な生死がないというデメリットはあるものの、居住化現実よりも多くの可能性があるというメリットがあるからである。そこからチャーマーズは、次のように主張する。
・VRでの生活は、居住化現実と同じくらい価値のあるものである。
・居住化現実での生活は、現実世界と同じくらい価値があるものである。
→VRでの生活は、現実世界と同じくらい価値があるものである。
Ⅷ. その他の現実
①複合現実…コンピューターで生成されたものと現実を融合させたもの
チャーマーズよると、複合現実はデジタルな対象であり現実であるという点で、純粋なVRと同じ存在論的地位がある。よって、ユーザーが複合現実で交流する時、現実の対象とデジタルな対象の両方と交流することになる。このような混合現実をどのように知覚し、その中にある対象にどのような特性を与えるか、という問題がある。これには、バーチャルな対象を非バーチャルな対象と区別できるか、そして2種類の対象がどのように相互作用するか、という2つの側面がある。まず、2種類の対象を区別できる場合を検討する。
バーチャルな対象間の交流はあるが、非バーチャルな対象とは交流していない場合、ユーザーは、非バーチャルな対象は物理的な空間に存在し、バーチャルな対象は別個のバーチャルな空間に存在するものとして認識することができる。
バーチャルな対象と非バーチャルな対象が密に交流している場合、ユーザーは、それらがひとつの空間に存在していると認識することができる。つまり、物理的な空間から分離可能な混合空間に対象が位置していると捉えたり、バーチャルな対象が物理的空間に仮想的に位置していると捉えたりすることができる。
次に、2種類の対象を区別できない場合について検討する。両者を区別できず、それらが交流している場合、ユーザーはそれらを単一の空間に存在するものとして認識するだろう。つまり、対象が混合空間に存在するものとして、あるいは物理的な空間に疑似的に位置しているものとして捉えることができる。
混合現実から生じるもう1つの問題は、混合された対象(部分的にはバーチャルで、部分的には現実に基づいている対象)に関するものである。例えば、拡張現実では物理的な対象をバーチャルな対象に変形させることができる。このようなケースについてチャーマーズは、バーチャルな対象と非バーチャルな対象の両方が存在し、その両方を見ていると主張する。
②夢
規則に支配された、安定した明晰な夢があると想定する。このような夢は、脳の一部がコンピューターの役割を果たしていることを除いて、VRに構造的に類似しているだろう。そして、夢の出来事は、原則として脳の出来事と識別することができる。
・夢の出来事は、夢の中で知覚する対象である
・脳の出来事は私たちの経験を引き起こすので、夢の中で知覚する対象である
→夢の出来事は脳の出来事である
このような夢についての現実主義は、バーチャル現実主義よりも反直観的で反証可能であるように思われる。例えば、夢の世界はバーチャルな世界とは異なり私たちの心に依存しているが、そのような依存は現実性を減少させるものであると言える。さらに、私たちは心の外の世界との関係を大切にしているので、心に依存している夢の世界での経験は、非バーチャルな経験よりも価値が低いと言えるかもしれない。
それでは夢は幻覚なのだろうか。通常、私たちは夢の中で夢を見ていることを知らない。よって、夢の出来事は物理的な空間で起きているものとして捉えている。しかし、その出来事はそこで起こっているわけではないので、通常の夢での経験は錯覚であり、虚構の世界でのみ起こっているものであると言える。一方で明晰夢においては、夢の出来事を自己生成された夢の世界の出来事であると捉えることができるので、その場合の知覚や思考は錯覚ではないかもしれない。
③妄想や幻覚
統合失調症に伴う妄想や幻覚のような、精神疾患の場合に現れる世界について検討する。これらは夢と異なり、物理的な現実が大きな役割を果たしている。つまり混合現実のように、知覚経験が現実の世界と脳の処理の両方から生じているのである。そして患者自身がそのような疾患を自覚していない場合、現実の世界の出来事であるという誤った信念を抱くことになる。一方で、自身の妄想を他の経験と区別することができる場合、別個のバーチャルな空間での出来事であると捉えるかもしれない。
④小説
小説の世界で起こる出来事は、作者や読者の脳で起きているものではない、とチャーマーズは主張する。小説家の頭の中にはその世界の詳細なモデルがあり、その構成要素は、読者が小説の出来事を経験することに因果関係があると考えられる。しかし、それだけで小説の出来事が脳の出来事であるとは言えない。それは、小説の出来事とは異なり、脳の出来事の間には因果的な関係がないからである。例えば、あるミステリー小説の世界で、ジョンが怒らなければ殺人事件は起きなかったかもしれないが、その小説家はミステリーを書きたいのだから、ジョンが怒らなかったとしても誰かが殺されていただろう。VRに近い小説を適切な原因をもって実現するためには、シミュレーションとルールを設定して、それを頭の中で展開させる必要があるが、そのようなことをする小説家はいないだろう。
⑤交流可能な小説とテキストアドベンチャー
小説は一般的に交流することはできず、それが可能な小説であってもVRや現実のような豊かなものではない。交流可能な小説とは、テキストアドベンチャーゲーム(画面に表示されるテキストを頼りにコマンドを打ち込むもので、文字だけで進行するゲーム)のようなもので、ユーザーはテキストによって自身のバーチャルな世界における位置を理解し、コマンドを発行して次に何が来るかを知ることができる。チャーマーズは、このゲームにおいてユーザーは、デジタルに実現されたバーチャルな世界で、バーチャルな出来事を体験していると主張する。このようなバーチャルな世界は、かなり簡素であるとは言え、ビデオゲームで提示される世界に類似しているからである。
Ⅸ. 哲学的根拠
チャーマーズは、バーチャル現実主義を導く哲学的根拠として構造主義をとっている。物理的な現実は、その因果的構造(対象間の交流パターンと、それが私たちの経験に与える影響)によって特徴づけられるとする立場である。そして、これをVRに適用すると、デジタルな対象はその因果的構造によって特徴づけられると言える。また、物理的な現実に存在する因果的構造は、VRにも存在しうる。例えば、物理的な世界の全体をバーチャルにシミュレーションした場合、物理的な実体間の因果関係に対応するデジタルな実体間の因果関係によって、物理的な世界の因果的構造が再現される。
このように非バーチャルな現実とVRは、密接に関連した構造の2種類の在り方に過ぎないと言える。そこに多少の違いはあるかもしれないが、それだけで一方が現実的で価値のあるものであるのに対し、他方はそうではないということにはならない、とチャーマーズは主張する。
チャーマーズによると、VRが現実であることを受け入れるために構造主義をとる必要はない。必要なのは、コンピューターのデジタルな処理は現実のものであり、VRはそのような処理によって構成されていることを受け入れることである。一方で構造主義をとるならば、デジタルな現実と物理的な現実のどちらも現実であることだけでなく、それらが重要な点では同等であることも認めることができる。それはどちらも同じ種類の構造を具現化することができ、構造主義者にとって構造こそが本当に重要なことであるからだ。
例えば、知覚と思考が世界の構造を最も根本的に表しており、その構造がVRにも存在しうるのであれば、VRにおける知覚と思考が錯覚ではないと言える。そして、物事に価値を与えるのが構造であるならば、VRも価値あるものになり得るのは当然のことであると主張する。
Ⅹ. 結論
チャーマーズが主張してきた立場を要約すると、VRは2流の現実ではないということである。確かに、物理的な現実の中に含まれ、物理的な世界の処理によって実現されるという意味では2流の現実かもしれないが、それによって現実性や価値が低くなったりする必要はない。現状においてVRは、物理的な現実よりも劣る点もあるが、長期的には、そして原理的にはVRは物理的な現実と同等のものになるだろうと主張している。