夏みかん酸つぱしいまさら純潔など
鈴木しづ子の有名な句。品がある美人だったらしい。残された写真を見てもシュッとした綺麗な人である。
その野生的で奔放な句からダンサーになり娼婦になったと言われている。死を示唆する句を発表して消息を絶ったため、自死したのであろうと言う人もいるが本当のところは誰もわからない、というのが事実だ。
戦後間もない頃の才気と熱情に溢れる句は、好奇の目に晒されたであろうことは推察できる。
体内にきみが血流る正座に耐ふ
これもしづ子の句。あなたならこれをどう解釈するだろうか。
体内に流れる血、正座という言葉からなにか親との関係なのか、確執の句なのかと漠然と感じた。当たらずとも遠からずで、ここでいう「きみ」とは母で母を失った不安、母のような不幸な人生を自分もまた送るのではないかという恐れの句だったらしい。
しかしこの句は「自堕落な性により妊娠してそれを悔いている」と評されたようで評者は何をみているのかと思う。とはいえ、ならばなぜ「母」と明言しなかったのだろうと疑問が残るが。
その作風から好奇と偏見の目に晒され、その美貌からゲスな興味を持たれ、恋人には死なれと踏んだり蹴ったりでしんどかっただろうなとは思う。もっと議論をよんだ句は次の句。
欲る心手袋の指器に触るる
器は陶器を示しているが、こともあろうにこれが性器であると論じられたらしい。バカじゃねーの?
正直、論じる側が自分の中のスケベ心を晒してしまっただけじゃないの?と思える。
俳句は短い言葉なので受け取り方も様々なのはわかる。伝えきれず思わせぶりな句を作る方にも非があると言えばそれまでだ。
しづ子の句は才と熱に満ちている。ドキリとする。正直に言えば、キッツイなと自分は思う。ただ、偉大な俳人がそうであるようにこの人も自分の人生を句に詠んだのだろう。人生=句として。
そこまで自分をさらすのはしんどいな、と思ってしまう。だから凡人なのだろう。凡人は凡人らしく生きるしかない。そこにも道はあると思う。
俳句を作る人は二種類あって、添削を拒む者と師匠の添削を素直に受ける者とに分かれるという記事を読んだ。後者は裸で師の前に立つようなもの、という比喩もあった。
(精神的に)裸になるのは神の前で十分だと思う。ゆえに自分はなかなか上達しない。それでいいと思ってる。