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コマドリとプルーストとカズオイシグロ

グーテンターク!皆さまこんにちは。フランクフルトのYokoです。今日は少し晴れ間もあり、平和な一日でした。雨も必要ですがやはり太陽が燦々と青空を照らすのをみると気持ちも晴れやかになります。

窓の外にはクルミの木が立っていて、いつも色々な鳥が来て楽しくさえずっているのを聴くのも楽しいです。

今日はちょっと動画を撮ってみました。

そして今夜は先日のほほ肉の残りにジャガイモグラタンを添えた晩御飯です。茶色い😅 お肉はより柔らかくなっていてほろほろ具合がよかったです!

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先日、『浮世の画家』の序文を読んだのですが、本編に行かずにプルーストに飛んでいます。

本作は1986年に発表された作品ですが、序文はイシグロさんご本人が2016年に書かれたものでイシグロさんがどのようにしてこの作品の構造を作り上げていったのかが語られています。作品に日本的背景をどのように織り込んであるのか、イギリス社会が当時抱えていた対立と、その中でイシグロが悩んでいた「芸術家としての役割」などです。また日本的背景についても触れてあり、原作(英語) をあえて日本語からの翻訳調にしてあるのも一つの工夫とありました。それで タイトルも、An artist of the Floating Worldと 浮世をFloating World と直訳してあるのだと私なりに腑に落ちました。このFloating Worldの使い方がなぜこの選択なのかが引っかかっていたので。この序文がないと、日本語に翻訳してしまったものを読む読者はイシグロの意図を掴みにくいなと。日本人読者は、この追加された序文を読むか読まないかでかなり評価が変わる気がします。

一方で、

“人が自分自身や自分の過去を見つめようとするとき、それは幾層もの自己欺瞞や否認によって覆い包まれています。” 

と序文で語るイシグロさんですから、

自身の文書すら、欺瞞に満ちていますよ、直線的に受け止めてはいけないですよと言っているようなもの。

立ち尽くしてしまいますが、まるで沼のゆうなその回想の複雑を読者も迷いながら味わうのがカズオイシグロの小説なのかも。

確実なことは「浮世の画家」はイシグロにとってスタイルを確立した重要な作品であること。86年に発表後、30年後にご本人が書かれた序文を何度もリピートしました。

そして気になるのが、『失われた時を求めて』イシグロさんは序文でこう述べておられます。

“いま振り返ってみると、シドナムの寝室で病気から回復しながらプルーストの二十ページを繰り返し読んだ三日間が、私の作家人生のターニングポイントだったとわかります。何か大きな賞をもらったり、映画のプレミア試写会で赤い絨毯の上を歩いたりするよりずっと意義深い出来事でした。あれ以後に私が書いたものは、すべて、あの三日間に得た啓示によって形が定められたといってよいでしょう。“

カズオイシグロにここまで言わせる小説ですから読むしかないです。

イシグロさんはもちろん英訳で読まれたのですが、私は和訳で…。

確かに主人公の記憶や回想が自由に行き来し、「私」は誰なのかはっきりとわからないし、ある感覚により、突然記憶が呼び出されてそこから会話が始まり、終わり、違う場面に移動します。無理な飛躍のはずなのになぜか流れが繋がっている不思議。それさその小説の構造が緻密に組み立てられているからなのでしょうね。まるで音楽を作曲するかのように。

というわけで、せめて『浮世の画家』第一篇の20ページはと思い『失われた時を求めて』を読みはじめましたが、14巻の壮大な物語なので、1冊目のキリの良いところまで読んで、あとは人生のお楽しみにしたいと思います。この本の技法に非常にインスパイアされたイシグロさんですが、この物語の設定にはパリの社交界、貴族やブルジョワ層のスノビズムや第一次世界大戦のころの話もあるので、のちの『日の名残り』の構造にも影響を与えたのではないかなと『失われた時を求めて』を読みながら思いました。(※あくまで個人の感想です) 

『浮世の画家』の本編に早くたどり着けますように🙏

それでは、最後まで読んでいただきありがとうございました!

Bis dann! Tschüss! ビスダン、チュース!(ではまた〜)😊




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