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問題は「読むプロセス」か!?
「空気」と教育について興味深いなと思い、まだまだ色々と読んだり考えたりしています。「空気」と教育シリーズも第14回目になりました。
今日も朝から🗽大学院の先生とZOOMで空気について話していました。そこで、空気はいいのか、悪いのか、という話になりました。
みなさんは、いかがでしょうか。
「空気を読むこと」はいいのか、悪いのか、と聞かれたら何と答えますか。
私は、今が今まで勉強したことから言えるのは、空気を読む行為は「悪い」ということです。
しかも破滅的に「悪い」。
しかし、その破滅性に気づいている人がどれほどいるでしょうか。
時々世間話で「空気を読む」話をしたりすると「空気を読むことはいいこともある」スタンスで話す方は必ずいらっしゃいます。
「空気を読むことはいいことだ」と主張することが悪い、と言いたいのではなく、言いたいのは「空気読む」行為を攻撃されると「文化的に遵守していることについて悪く言われた」と思い防御に入る人が少なからずいるという事実です。
私も「空気を読む」ことはいいこともあると思っています。
そして、2021年までその習慣がそれこそ「空気」のようにまだ存在していることから言っても、人々へ安心感や道徳的観念やルールを守る際に何らかの良い影響をもたらしていることは間違いありません。
そのようなことを大学の先生と話していて、空気について良い悪いの両方のとり方をする人がいるとすれば、問題は「空気を読む」プロセスではということに気づきました。
以前も書きましたが、空気はある種の絶対的な前提です。
人々がこれが前提だろうと盲目的に信じるもので、そこに科学的根拠の影響はそれほど大きくありません。そうすると、多様性や相対性は存在しませんし、議論や況してや批判的思考なんてありません。
つまり、その結論(前提=空気)へ至るまでのプロセスがほとんど「ない」のが空気です。
議論も批判的思考もなく盲目的に前提を読む行為が「空気を読むこと」に他ならないことを考えてみれば、「空気」が問題というよりは、やはりそれを「読む」行為が問題とも言えます。
しかし、「空気を読む」行為自体は本来は問題ではないのではと私は考えています。空気を読む行為自体はハイコンテクスト文化を作り出すもので、日本独特のエスパー力を生み出しているものです。これは海外で活躍する際にも「思いやり」や「察する心」、「気配り」としても重宝される能力です。
先日読んだスタンフォードオンラインハイスクールの星学長との対談記事にも日本の教育が育む「共感力」について書いてありました。「空気を読む」ことは山本七平によると①臨済感②共感力③絶対化であるとされていて、空気を読む力が日本人の共感力の強化に一役買っていることは言うまでもありません。
では何が問題か。
それは、空気を読んで、それが自分の意思に反しているのに盲目的に従ってしまう、その行為であると思っています。そして、そうさせているのは紛れもなくアイデンティティの不安定さではないでしょうか。
そして、生徒に自分が何者かを考える前に、教師自信も教師としてのアイデンティティをしっかりと自覚することが大事だと考えています。
立ち上げたTeachers of Japanは現場の先生が「空気」を破るきっかけにもなればという思いで作りました。まだまだ発展途中ですが、①自分自身の教師としてのアイデンティティを自覚することや ②多くの先生方のアイデンティティを知ることで自分を相対的に見ることで先生がたがますます元気になればと思っています。
インスタでも先生方のティーチャーアイデンティティを考えるきっかけになるような発信しています。
空気は掴みどころがない存在ですが、なぜだか考えてしまうですよね。
長文おつきあい、いただきありがとうございました。
ステイホームですが、みなさま良いGWをお過ごしください。
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