アメリカの高校の「勉強についていけない生徒」への支援に関する考察とノンフォーマルな支援ができる日本の教育の強みについて
言うまでもなく個人的な意見ですが、アメリカの高校で勉強についていけない生徒は、日本の生徒よりほったらかしにされてる感が否めなかったので、記録しておきます。
個人主義が浸透していて、担任制度もホームルームもないアメリカの高校では、生徒が自分で「○○が分からないので○○して欲しい」と各教科の教師へ交渉することがはじめの一歩です。まずここで、交渉力やコミュニケーション能力の乏しい生徒は脱落。だいたいコミュニケーション能力の乏しい生徒が勉強につまづくことも多いように思うので、断然不利です。でも、アメリカ人の先生は「それも練習だから」というスタンスで、教師から生徒にアクションをかけるのは最低限。関わりすぎると「気持ち悪い」と話していました。
一方、生徒の方はというと、自主的にアクションできないことに対して劣等感を感じている様子が見て取れました。努力せずに、すぐに諦める生徒が意外に多かったりと自主的に頑張らせるには限界があるのではと感じました。そういう意味ではグリット(grit)が話題になっているのもよく分かりました。
一方で、日本がアメリカの教育システムと大きく違うのは
日本の学校には生徒をノンフォーマルな形で支援できる体制が色々とある点
です。
担任、学年団、教科担当、部活動顧問など複数の目で生徒を見ているので「あの生徒は気にして目をかける必要がある」とか「国語で欠点出そうらしい」とか「少なからずの情報共有がされていて、「部活で頑張っているらしい」とか「最近彼女ができたらしい」とか「親が不仲らしい」など何でもかんでも情報共有しています。生徒のプライバシー?そんな言葉は日本の職員室にはありません。親御さんからしたら、ちょっといい気はしないかもしれません。でもこれが日本独特の支援の仕方であり、生徒理解に非常に役立っていることは間違いありません。情報共有することで授業中にどんな声かけをすればいいか、どこに注意していたらいいか、など配慮することがで、生徒の成績が伸びるケースは山ほどあります。
驚くかもしれませんが、職員室も担任もないアメリカでは、教師が生徒について情報共有することが想像以上に難しく、基本的には自分のクラスの様子しか分かりません。様々な学年の生徒がバラバラのクラスを選択していますから、隣の部屋の先生と情報共有したくても800人近い全校生徒の中で同じ生徒を教えている可能性はあまり高くありません。また、プライバシーの問題もあるので、特別支援の認定を受けてサポートが必要な生徒以外は、生徒の個人情報について詳しいことを知る機会はほとんどありません。クラスで突然泣き出そうが、突っ伏したまま起きなくても、何日も学校を休んでいても、悪い噂を他の生徒から聞いても、教科担当のいち教師ができることは実質何にもないのです。問題のある生徒はスクールカウンセラーに連絡をすることになっていて、専門家が対応します。教科担当の先生は生徒の心を扱う専門家ではないので、下手なことを言ったりアドバイスをすれば保護者から逆にクレームがくることもあるとかで先生方は神経を使っている様子でした。
アメリカの先生は授業では教科の内容を教えることだけに徹底していて、Professional Developmentといって専門性を鍛えることが最重要項目です。日本人からすれば教科指導に集中できるので羨ましい限りですが、生徒との人間関係を構築する場面が極めて限定的であることについて、正直なところ「アメリカで教師をする面白さって何だろう?」と考えてしまいました。
生徒と一緒に喜怒哀楽を共有することは、教師の醍醐味でもあると思うのですが。アメリカは宗教や文化が家庭によって様々なのでそのようなきめ細かなサポートや共通理解を持つのが難しいというのもあるかもしれません。
自立を促すアメリカ式と、複眼でサポートする日本式、どちらが良い悪いでもないと思うのですが、違いって面白いですよね。