生徒の学習意欲を無力化する?日本の教育システム
改めてアメリカでの経験と見比べていて、ふと「日本の子どもたちは何のために学校で学んでいると思っているのだろう」と思いました。
皆さんはいかがですか。
教師であればあなたの生徒が、保護者であれば自分のお子さんが、そしてあなた自身が生徒として学校教育で過ごしていく中で、何を目的に勉強してきたでしょうか。
<同じ子どもがアメリカと日本で異なったスキルを持つ>ようになる背景には大きく3つの要素があると思います。
① 教育目的(何のために教育をするか)
② 教え方 (教師はどのように教えるか)
③ 学び方 (生徒はどのように学ぶか)
例えば、アメリカだと①生産性のある市民の育成という教育目標があり、そのために教師はなるべく②個別化授業を行い、生徒の学びのスピードに合わせようと努力している。その結果、生徒は③自分の興味のあるものや使えそうなものを自分のために学ぶ、という構造ができているのを目撃してきました。
しかし、日本は、①良き市民の育成という目標のもと、今だに②一斉授業で教えています。生徒は③大学入試で聞かれるから勉強している、怒られたくないからやっている、とりあえず言われたことを覚えている。という公式ができてはいないでしょうか。大学に入れば良い就職先が保障されていた時代もありましたが、今の子たちには昔話。そのような動機付けがあるとも思えません。
校則や生徒指導はいまだに厳しく、それがあるべきと信じて疑わない教員が多いのも事実です。恐怖政治が学校で今でもある程度は起こっているのは誰も否定しないでしょう。これでは自分の興味や探究心はなかなか育ちません。すでに育っている生徒はラッキーな一握り。
ルールが守れて、道徳心のある生徒の育成には成功しているかもしれない日本。だからこそ犯罪率が低かったり、狭い国土でもお互いが気持ちよく生活することができていて、それはとても素晴らしいことです。今のように集団の質が高水準に保たれているのは、紛れもなく教育の成果で、それはアメリカのような国では逆に難しいことでもあります。
しかし、アメリカにいた時はアメリカの方がよっぽど学力重視だと感じたことがありました。先生は教科指導だけに、また、生徒は個人の能力開発に注力できるからです。集団能力は低い代わりに、(もちろん地域格差はありますが)個人の学習権ははるかに保障されている印象です。
どの国や地域においても個人の学習権は保障されるべきです。今のままの学校制度は、集団の質を優先するがゆえに個人のエンパワメントをないがしろにして、生徒個人の学習の機会が制限されていると感じることも教師としては多いです。
日本は今まで教育機会を与えることが平等という観念が大きくありました。時代が進んだ今では「個人のペースでの学び」がもっと脚光を浴びてもいい時期にきています。コロナ禍でテクノロジーを利用した個別の学びはさらに進むでしょう。個の学びを推奨しても集団の質が下がるわけでありません。集団の質と個人の能力の開発の両方ができるようになる独自のスタイルが日本から産まれるの可能性があるのではないかと思っています。集団の中で学びの目標を「自分で」見つけることを自己責任化するのではなく、「見つけることがサポートできる場」としての学校になればいいですね。
生徒一人一人が、「これが好きだから学校でもっと学びたい」「将来やりたいことがあるからそのスキルを身に付けたい」「興味があることをもっと知りたい」という動機を持って学校教育に取り組める場に将来的になればいいなと思っています。
Teachers of Japanではティーチャーアイデンティティ (教師観)の発見を通じて日本の先生方がもっと自分らしく教育活動に専念し本来は多様である「教師」の姿を日本国内外へ発進しています。日本の先生の声をもっと世界へ!サポートいただけたら嬉しいです。