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文学フリマ東京39に参加して文学者として覚醒する

報告が遅くなったのだけど、文学フリマに参加してきた。
これが三度目の参加だ。一度目の文学フリマ東京37はインフルエンザになって販売を委託したので、会場に行ったのは二度目。なので東京流通センターで行われた最後の文学フリマ東京38と、東京ビックサイトで行われた最初の文学フリマ東京39に出たことになる。

ビックサイトに到着した瞬間の印象は「広い!」だった。ビックサイトのなかでも西ホールというこじんまりした会場だったのだけど、それでも「広い!!」。昔から同人作家をやってる方々によると「西ホールは過疎ジャンルが置かれる場所」とのことですが「それでも広いーーーーーー!!!!」。見渡す限りテーブルが並んでいてはじっこのほうは霞がかってて見えない。西ホールがこれなら南ホールは…そしてコミティアが行われている東ホールは…と考える余裕もないほど広い。参加サークルの数は2400ですから全部見て回ることは不可能だった。

さて、文学フリマは2002年から開催されているのだが、昔から参加してきた人たちにしてみれば、ここ数年の急速な規模拡大に対して、いろんな思いがあったみたいだ。当日の夜からたくさんの参加者が、文学フリマが「変化」していくことについて意見を述べていた。その「変化」に少なからず貢献してしまっている新参者として、タイムラインに流れてきたものはだいたい読んだのだけど、批判が多いのはこれだった。

出版社と商業作家のブースが増えた。
告知能力(集客能力)が高い彼らが、商業本のみを持ってくる。

最近読んだZINEにも、ZINEや同人誌で稼ごうするのはそれらの文化への冒涜であるとか、資本主義の萌芽であるとか、いう人たちの存在が書かれていた。同人から商業へと移動した人たちにも、利益のために本を作ることへの葛藤はあるみたいだ。

しかし、資本主義の外側にいながら本を出すことなどできるのだろうか。文学フリマなどで売られる同人誌のクオリティが飛躍的に上がったとされる背景には、印刷所がほかの印刷所との競争して稼ぐために差別化したサービスを次々に打ち出しているからだよと本ができる工程に関わっている方に教えてもらった。たしかにコミティアにも文学フリマにも印刷所のブースがあって「うちは豆本ができます」とか「うちは文庫本の本文をこんなふうにデザインできます」とアピール合戦をくりひろげていた。製本会社の方も「ZINEを自分でハードカバーにできます」という講習会をしたりしている。勝負数から製品してくださるそうである。
印刷所で本を刷ることも、製本を発注することも、資本主義だ。同人誌を出すお金を稼ぐために、会社にいくことも資本主義だ。こうしてnoteを書くことも、Xをやることも、資本主義だ。そのうしろでは資本とかベンチャーキャピタルとか投資とかが動いている。市場の競争がある。

『小説家のキャッシュフロー問題を技術同人誌が解決した話』で文学フリマで何冊売れたのかを書くなど資本主義の権化のような存在である私にとってはそんなことを考えこんでしまう。

そこで、文学フリマの参加資格を確認してみた。

「自分が〈文学〉と信じるもの」が文学フリマでの〈文学〉の定義です。
既成の文壇や文芸誌の枠にとらわれず〈文学〉を発表でき、作り手や読者が直接コミュニケートできる「場」を提供するため、プロ・アマなどの垣根も取り払って、すべての人が〈文学〉の担い手となれるイベントとして構想されました。

文学フリマ公式サイトより

商業デビューしてから今まで、自分の書くものを「文学」と言われたことがない私としては、自分の書くものって「文学」なの? とまた立ち止まってしまう。大衆に売りまくることをめざすエンタメは「文学」じゃないよねーという意識が出版業界のなかにはうっすらある。村上春樹の働き方の話をしていたら「それは文学の話ですよね?」と言われたこともある。だが村上春樹こそ資本主義の権化ではないのか? ジャズバーを経営していたし(しかもかなりうまくいっていたらしい)、彼の自伝にはマーケティング論が出てきたりする。海外版を出すために自ら海外のエージェントに売りこみにいったりもしている。そして莫大な富を出版業界にもたらしている。

そもそも文学フリマとは、大塚英志氏が2002年 5月に「群像」6月号誌上で笙野頼子氏への反論として不良債権としての『文学』」を発表し、同反論の後半で「文学が生き延びる4つの手段」のうちの最後の一つとして、第一回文学フリマ開催を呼びかけたことがはじまりだそうだ。

大塚英志氏は「文学」についてこう述べている。

(前略)書物という商品の形式を資本主義下で採用しながら、しかし商品的淘汰によって素人と玄人の不和を、言わば市場経済に委ねることから「文学」は免責されています。その替わりに「賞」や「批評」や編集者や作家のひそひそ話といったものがその基準を作っています。「文壇」というやつです。つまり玄人自身が誰かが玄人であることを決める、という制度で落語とか能とかの昇進制度に近い形で「文学」は運営されています。
しかしそういった「玄人」の運営からなる職能集団は現実には出版社という資本主義下の企業に全面的に依存しています。

文学フリマ公式サイトより

そうなんですよね。一部の業界人だったり、一部の文学に詳しい人たちから「文学」と認められたものだけが「文学」であるという空気はデビューしたときからずっと感じていた。そして資本主義の外側にいたいが、資本主義の内側で生み出された資本にはあやかりたいという空気も感じていた。つまりはこういうことだ。そういうつもりではなかったのにモテたい。夏目漱石が『それから』で描き出した高等遊民体質がまさにそれだと思う。(漱石がそういう主人公になかなか残酷な末路を与えているのも興味深い)

大塚英志氏は「同人誌で食っていける」ようにしたコミケのようなイベントをなぜ「文学」もできないのかと書いている。このあたりの文学フリマの精神については私も泥縄で勉強しただけなので、にわかみたいなことは言えないのだけれど、「食っていける」を目指したのが文学フリマならば、むしろ資本主義とうまくやっていくことこそ、ビックサイトで開催されることこそ、当初考えられていたゴールなのではないか。

ただ、面白いなと思ったのは、同人誌として出した『急な売れに備える作家のためのサバイバル読本』は「私小説」と編集者さんたちに言われ、これまでにない読者を得ている。エンタメの棚に置かれるのではなくて「カルチャー」のカラーの強い書店さんに置いてもらったり、短歌や詩など「文学」の畑で活躍している人たちが読んでくれたりしている。「文藝春秋」の対談でも三宅香帆さんが、芥川賞候補にもなったことがある千葉雅也さんと話題にしてくれたりした。タイトルが紹介された程度ではあるけれど、私にとっては十五年小説家をやっていて初めての体験だった。

さらに『小説家のキャッシュフロー問題を技術同人誌が解決した話』を読んだ読者の方から「これは小説家のナラティブである」という感想をいただいたりした。

そうなると、ますますなんなの? と思ってしまう。「文学」ってほんとなんなの。

なんだかよくわからないところに迷いこんでしまった。

文学フリマに商業作家が出ることがいいことなのか。資本主義を萌芽させていくことはいけないことなのか。そのような疑問はひとまず置いておくとして、たしかに、文学フリマの拡大に乗っかる形で食いつめた商業作家たちが退去してきたら、もし私が古参の参加者だったとしたら、複雑な心境になったに違いないとは思う。

そんなときに、この投稿に出会った。

書いている方はプロではないのだけれど、文学フリマに(私のように最近から)参加する商業作家の解像度がとても高いことに驚いた。

できればリンク先に飛んで全文読んでほしいのだけれど、なぜ出版社と商業作家が、商業本のみを持ってくるのかについて考察されている部分がおもしろかったので引用する。(分かりやすいように、順番を入れ替えさせてもらっている)

ではなぜ商業作品だけを持ち込む商業作家がいるのだろうか。
僕はひとえに「出店者歴が浅いから」であると考えている。
文学フリマ東京に商業作家が目立ちだしたのは最近の話である。
ということは文学フリマ東京に向けて準備する手札が少ないことを意味する。手札が商業作品だけしかないのであれば、それを出店物として利用するのは至極自然なことである。
この手札だけでどれだけ出店を続けられることができるのかは、当人の問題というべきであろう。

私は商業作品だけを持ちこむ作家ではないが、技術書典でだした同人誌のみを持ってきていることもあって「その通り」としか言いようがない。商業作家といえども文学フリマに出店することはたやすくない。初めての経験なので、マーケットに適合したものを作っていくほどの余裕はない。とりあえずあるものを持っていくということになりがちだ。そして、

「商業作品だけを持ち込む」告知能力の高い一出店者の価値は、彼が「商業作家」であることと、自らの既刊本にサインを書くことしかない。
彼らを求めて会場に来た一般来場者は、果たしてこれからもそれだけで満足しつづけることができるだろうか。

また商業作品とそうでない作品は制作過程が違う。
自ら書いたものを自ら編集する必要があるし、表紙の作成も(よそに依頼するにしても)自分がやらなければならないし、印刷所の選定や在庫管理も自分でやらなければならない。
(忘れがちだがこれら作業がとんでもない労力がかかることを忘れてはならない)
これら労力と自身の作品にサインを入れることを天秤にかけ、彼らは彼らなりの戦略のもと、今後も文学フリマ東京を盛り上げる構成員のひとりとして活動していくことになるだろう。

いや、本当にこの通りでしかない。

文学フリマにくる人たちは入場料を払っている。そこまでして、入場無料の書店や配送無料のAmazonで買えてしまうものをわざわざ買う必要性って、私はすごく低いと思う。だから「著者からサインがもらえる」という付加価値によって、文学フリマでしか手に入れられないものにするのだ。だが、それだけではおそらく既存のファンへのサービス以上の価値は出にくい。

さらに、商業出版されている本は、上記noteでも指摘されているとおり「既刊本」なのである。書店でも即売会でも既刊本は弱い。大きく動くのは結局のところ新刊。既刊本も事前の告知をしっかりして、営業トークをすれば売れるのではあるが、「自主制作本を買うぞ」というテンションで訪れた人たちに「商業の既刊本です」をやるって売り子としてはしんどいものがある。出版社から七掛けで自著を仕入れたとして、単行本一冊五百円の利益が出たとしても、それを十五冊くらい売ってようやく出店料がペイできるかどうかではないだろうか。私も商業本を持って行きはするが1冊か2冊売れたらいい方だ。それに比べて同人誌のほうは300冊くらい売れる。自主制作をすることへの「とんでもない労力」のほうが評価されていることは明らかである。

何が言いたいかというと、

文学フリマのお客さんは甘くない、ということだ。

それでも、そこで生まれる会話があって、喜んでくれる人がいて、だから同人誌は作る余裕はないけれど(本業も忙しいし、兼業しているひともいるし)「出たい」という気持ちがあって、そういう選択になるのだろう。損が出たとしても出ようという作家が大半なんじゃないか。既存の参加者の人たちが脅威に感じるほどのことはあまりないと思う。

ただ、出版社はどうなんだろう。
作家よりはるかに高年収である社員たち休日出勤させるに見合う売り上げが出ないと分かった時点で次回出店は厳しくなるのではないか。とはいえ、もし出店が単発でおわるのであれば、いったいなにしにきたんだよ、と言いたい気持ちもなくはない。
だって、文学フリマ東京39は、大塚英志氏がいっていた「現状の『文学』の力でビッグサイトを満員にすることは不可能です」という言葉を、文学フリマが超えた瞬間だったのだ。なんでもいいから、文フリでぶちあげる企画のひとつやふたつ持ってきたらよかったんじゃないか、とは思う。実際にブースを見に行ったわけではないので(ブースが多すぎる)、もしかしたらなにかやっていたのかもしれないが、「商業誌のみを持ち込んで」と言われたのはほんとにそれしか印象に残らなかったということだろう。

「仕事小説を担当してますがほんとは海外ミステリが好き」と語る同人誌を作ってくるとか、「会議では通らないだろうけどこんな企画やってみたい」というZINEをたたきつけてくるとか、「小説家よりもおれのほうが面白い小説が書ける」とコピー本をつくってくるとか、すればいいじゃない。……と、いう話をしたら編集者が「いや僕はそれをするべきではないと思う。編集者が書いたら終わりだと思う」と言っていた。たしかに作家で出るならともかく、編集者として出るのであればそうかもしれない。でもエンターテイメントの会社として、意外な一面を見せることでブランドイメージを刷新するくらいのことはしてもよかったのではとは思っている。次に期待している。

そういえば……

以前、博物フェスティバルという科学系クラフト即売会に岩波書店が出たことがあった。そのブースで売られる商業本はすべて博物フェスティバル用にキュレーションされていた。「こんなマニアックな本、ふつうの書店では売れないけれど、オタクのみなさんになら価値がわかるでしょ、グフ」という品揃えになっていたのだ。売り上げはかなり良かったらしい。

また、技術書典では、スポンサーになった複数の企業が、会場の一番いいところに企業ブースを出す。そして、そこで社員たちによる技術同人誌が頒布されたりする。出たからには同人誌をだすぞという彼らのフラットな姿勢が、会場全体にとてもよい空気を送り出している。

ちなみに書店員さんたちも同人誌を出している。
バラエティ書店員さんたちによる『山本飯公式ファンブック』の新刊の関東特集は「POPについて」の座談会だ。「POPを作ってみよう」という記事もある。文学フリマに参加した人たちの参考になりそうな企画でおもしろいし、実際に作ったPOPを掲載することでプロとしての凄みも見せつけている。ちゃんと爪痕残してる。

商業作家にも、毎回同人誌の新刊を出している人たちがいる。これは200万部作家が一冊一冊ホチキスをしてつくられたコピー本だが、あまりにも制作が大変すぎて現在は在庫切れ、電子でしかかえない。

私が青木さんの担当だったら「コピー本は印刷所で作れますから!機械がホチキスしてくれますから!その時間に続編を書いてください!」って言ってしまいそうだが、それでもコピーをして、ホチキスをする。事務職の女性を主人公にした小説を書いている小説家の意地を感じる。

そんなことを考えていたところ、加藤よしきさんという新人作家さんからデビュー作を献本いただいた。加藤さんはXで「軽トラ文学」を書いている人で、それを小説にしたのがこの『たとえ軽トラが突っ込んでも僕たちは恋をやめない』だ。

この小説、めちゃくちゃ面白いのでぜひ読んでほしいのだが、加藤さんのインタビューにこんなことが書いてある。

何しろ140字で完結しているものですし、軽トラで突っ込んで来て終わりですから。ある意味での一発ギャグです。これを小説にするのは、「コマネチ!」を長尺コントにするようなもの。しかも編集さんから「今から無茶ぶりをしますが」と断ったうえで「もっと文学してください」という指示もありまして。
(中略)
もっと文学してください」と言われたので、「そもそも文学って何だろう?」というのを考えたんです。それで思い至ったのが私小説でした。自分が本を読んでいるときに、「おっ、文学」と思うのは、作者さんの人生や価値観が垣間見えたり、異様に身を削ったり、人生を切り売りしている時です。「何もそんなことまで書かなくても……」と思う瞬間、そこに「おっ、文学」ポインツを覚えるんですな。
(中略)
もっとカッコいいことや、もっともらしいことをラップすればいいのに、自分の言いたいこと、しかも下手すりゃマイナスになるようなことをガンガン出してくる。まさに「おっ、文学」ポインツです。だってクビになるよりは円満に辞めた方がいいですし、金八の話をすることに至っては意味不明ですからね。それをあえてやる。書かない方がいいかもしれんが、あえて書く。文学とは何かを考えた結果、それが私にとって文学だと気づきました。

https://note.com/kadobun_note/n/n493951b72f68

それよ、と思いました。「作者さんの人生や価値観が垣間見えたり、異様に身を削ったり、人生を切り売りしている時」という加藤よしきの定義する文学に私はのっかりたい。そうえいば『急な売れに備える作家のためのサバイバル読本』も、ここまで本当のことを書いてしまっていいのかな?ともう少し悩んでもよかったのけど、その頃の私はグレていたので出してしまったのでした。でもそういう「書かない方がいいかもしれんが、あえて書く」ヤケクソ感がよかったのかも。だから三宅香帆さんと千葉雅也さんが話題にしてくれたのだ。(逆に、エンタメを書く時はそれほど自分を出さないようにしている。出すとしても材料にするだけである)

『小説家のキャッシュフロー問題を技術同人誌が解決した話』も、もともとはテック企業のエンジニアの人たちが集まるところでライトニングトークとしてやったものなのだが「どうせうちの業界の人は来ないし、クローズドなイベントだから、思い切りお金の話をしてやろう、下品なほどしてやろう」と好き放題しゃべったところものすごく笑いながら聞いてくれて、だったら本にしてみようと思えたのだった。そこには、「金が欲しい」という私の心が放出されていて、だったらそれは文壇の人たちがどう思うと「文学」なのではないか。

なんとなく文学フリマに参加する姿勢がわかった気がした。

じつはすでにカバーデザインも完成している同人誌があって、本文を書いたら終わりなのだが(そこが重要ではあるのだが)次の文フリに出せたらいいなと思っている。わりと無難にやろうと思っていたのだが、思い切りやっちゃおうかな? あと強力なパートナーたちを得たので、こっそり技術書でもエッセイでもないものをつくろうともくろんでもいる。

文学フリマに出るのは大変だ。新刊を出し続けるのはもっと大変だ。これほどまで規模が大きくなる前から参加し、その拡大に貢献してきた作家さんや知やお客さんたちには敬意しかない。商業作家が文学フリマに出るときに必要なのは二十年にわたる歴史に対する敬意ではないだろうか。それはつまり思い切りやると言うことだ。手加減はしないと言うことだ。

(最後に、震えながら文学する)

そういう意味で、出版社の人たちは新しいマーケットをまだ舐めてると思う。トレンドを見にきましたーとかいってるあいだにゲームそのものが変わりはじめていることに気づいていない。今までもそうやって負け続けてきたけど、また負けるんじゃないかと思ってる。でもそういう私の、出版社への舐めを覆してほしい。すみませんでしたと這いつくばらせてほしい。次こそ、プロの意地を見せてほしいのだ。

現場からは以上です。


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