量子のもつれと杞憂の悲しみ
昨夜から、量子もつれについて、考え調べながら寝るという、知的なんだかダメなんだかよく分からないサイクルを繰り返しています。
もちろん風呂はキャンセルしている。
外出しないときは無理して風呂入らない主義なんで。
きっかけはもちろん宇多田ヒカル。
夜な夜な息子を寝かしつけたあったかいお布団を尻目に、まだ暖気の残るリビングへ。
始まりから3ぷんほど過ぎていたと思うが、たいした事はないだろうとリモコンに触れた。
優しい宇多田ヒカルさんの声。
落ち着きを備えつつも、子どものような純粋な好奇心を匂わせるその声は、小難しさに耐えられなくなった私を、量子の世界に引き戻す。
目の細かいヤスリのようなざらりとした声だと思った。それがとても、良かった。
ちなみにもう一方のナレーターは春風亭一之輔さん。春風亭と一目見てうっかり昇太さんだと思い込んでしまい、声を聞いて全然違うじゃん!と思ってしまったが、名前見て納得。
別の人じゃん。そりゃあ陽気なオレンジ色の声してないよね。
なんて思いながら春風亭一之輔さんについて調べると、同じ笑点仲間の紺色の人で驚いた。
こんなに硬そうな真面目な声出すんだと。
ちなみに一之輔さんは今回のナレーションに向けて入念に準備していて、息子さんに量子とはなんぞ?と尋ねた所、全然分からなかった、とのこと。分からない事は微塵も感じさせないナレーションで感動するから、ぜひ聞いていただきたい。
さて、そんな量子。
とりあえず量子という概念は何となく理解したとして(ワシは中学時代の理科の成績は5であり、比較的理解は容易だった)問題はその先である。比較的ぜんぜん分からないし、なんなら遠く離れた量子がシンクロすることを
量子もつれ
と表現するのが理解し難かった。
シンクロしてるんだったら、別にもつれてないでしょう。
痴情のもつれ、男女の諍い、足がもつれ合ったままベッドに倒れ込む男女こそ、からみ合うもつれでしょうに。シンクロの神様、井村雅代さんが許さないっつーの。
シンクロシニティー。
それは私の中では非常に直線的なイメージ。
異なる二つが結ばれ、どうしようもなく反応し合う感じ。いや、結ばれてはないな。繋がるって感じ。点と点がつながって直線ができるイメージ。だから私の持つもつれのイメージとは相反するのだが。
まあそんな繋がりシンクロしあう量子は、この世に数限りなく、世界中の悲しみよりも幸せよりも、どんな感情よりも全ての概念よりも存在しているわけで、それらがシンクロしている様は、正にもつれかもしれません。
皆好き勝手しているように見せるけど、選択を迫られたら皆同じ選択をしてしまう、否せざるを得ないシンクロシニティー。
その意思は誰が選択をしているのか。
あなたが飲むのは赤いカプセル?
それとも青いカプセル?
あなたは暗い部屋のなかの、蛍光グリーンの、アルファベットとカタカナと数字が交錯する光の中で問われ、何を答える?
(すみません、マトリックスの見過ぎでしたね。年末はだいたいマトリックス見ながら過ごしているもので)
よく考えたら、マトリックスもサイエンスフィクションですし、宇多田ヒカルさんのアルバムもサイエンスフィクション。
何でしょうこのシンクロシニティー。
不思議だと思いませんか?
たまたまですかそうですか。
一見美しく感じるシンクロシニティーですが、本当はなんだかとっても悲しい。
遠く離れた星のその先に、もしかしたら時空を超えたその先に、私と全く同じ人間がいたとして、それが全て同じ選択をし、同じように生きているとしたら、まあまあ夢もロマンもクソもなくて泣いた。絶望やんけ、そんなの。
でも、量子もつれはあくまで量子力学の話で、我々デカい原子の塊はその量子の法則は、当てはまらないそうなので安心した。
と思っていたんだけど、全然当てはまっていましたので、ああ、私は今日も遠くの何かときっとシンクロし合っているのだと認識を改めた。
とはいえ、絶望の認識はなくなった。
きっとどこかにシンクロしあう仲間がいる。
井村コーチにしばかれなくとも、私たちは同じ選択をするのだ。
それはもうどうしようもない絆。
幸せは絶望とよく似たコードらしいけど、本当のところはよく知らない。
ところで量子たちは、愛を知っているのだろうか?とふっと思ったりしなかった。
純粋に言ってみたかっただけ。
ただ、多分だけど絆は知っているんだと思う。
腐れ縁とか、そういうのも、多分。きっと。