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蛭子さんの認知症に考える今後の日本のあり方

ちょっと前に話題になったこのニュースについて、今日は考えてみようと思う。

蛭子さんについては、以前から「認知症ではないのか?」という意見がSNSなどで散見されていた。だから、今回のニュースで認知症の診断が下ったことに対して、驚いた人はむしろ少ないのではないかと思う。

リンクをあげたニュースは、蛭子さんの認知症について比較的好意的に書いてある。しかし、「芸能界引退の危機!」みたいな見出しで書いているところも少なくないのが現状である。

「認知症=仕事無理」

こういう考え方をする人はとても多い。「高齢期に入った=現役引退」みたいな人も少なくないだろう。実際に、企業では定年が設けられているし、自営業の人や家族で経営している会社などでも、ある程度の年齢になると世代交代するのが一般的だ。

しかし、高齢期になって仕事を失うことは、経済的も心理的にも大きな負担があると思う。実際に、仕事人間だった人が定年退職後に体調を崩し介護が必要となった、なんて話はよく聞く話だ。そこには、仕事と役割が大きく関係しているのではないか。

仕事人間だった人の多くは、他に趣味を持たず仕事に全てを打ち込んできたという人ではないかと、私は思う。仕事をしていく中で自分の持つ役割がはっきりしており、求められる役割をこなすことで人生のモチベーションが上がっている。

このような人が、退職後に趣味も持たずただダラダラ過ごす毎日を送るとどうなるか。はじめは体を休めたりできていいと思うかもしれない。けれどとにかく暇で暇で仕方がなくなるはずだ。

これと言って趣味もなく、仕事関係以外の人脈がない人だったら、出かけるきっかけすらないかもしれない。人によるが、一般的には年齢が上がってくると、新しいことに挑戦しようと思うことも少なくなってくる。そんなこんなで人生に目的がなくなるという人は多いのではないか。

認知症などの疾患により、仕事を辞めざるを得ない人はもっと深刻だ。

自営業や家内産業で仕事をしていた人が、認知症や大病を患うと、家族が将来を案じて仕事の全てを奪うケースは少なくない。経営などの面から見れば、リスクは取りたくないわけだし、そのあたりは痛いほどわかる。

ただ、それまで一つの役割を担ってきた人が急に役割を奪われたときの失望感は、私たちの想像をはるか超えるものであることは、私たちがもっと考えるべきことではないかと思っている。

実際に仕事を奪われた結果、急速に認知症が進む人は少なくない。

仕事と言うのは、私たちが思っている以上に、生きがいだったりモチベーションになっているのではないか。特に高齢期になればなるほど、その傾向は顕著なのかもしれない。

高齢期になると、確かに体力も気力も若い人には負けてくる。だから、同じように働かなくても、できる範囲で働ける環境が当たり前になればいいと思っている。実際に、定年後に嘱託職員として働ける会社も増えてきている。

そういう状況を「老害」「若い人の仕事を奪っている」という人がいるのは、それもまた事実として受け止めなければならないだろうと思う。ただ、少子化が深刻化し超高齢社会となっている日本においては、互いが心身ともに健康で経済的にも落ち着いて生活できるような社会の実現を目指す必要がある。お互いがいがみ合っているようじゃ、日本の未来は暗い。

ここで、私の祖母の話をしたい。

周辺症状バリバリの状況で認知症の診断を受けた私の祖母は、診断前も診断後もシルバー人材センターで公園掃除などの仕事をしていた。仕事をしていた当時、一緒に働く人たちは祖母がおそらく認知症だと気づいており、できない部分はカバーしてできるところをやってもらっていたようだ。

祖母の住んでいた地域は炭鉱町で、仕事を求めて他県から多くの人が集まってきたようなところだ。貧しい生活の中、近所同士で助け合いながら生活してきたという土壌がそこにはある。だからこそ、年を重ねて認知症を発症していたとしても、自然に助け合うということができていたのかもしれない。

この話を聞いたとき、私はたとえ認知症があっても働くことも自宅で暮らすことも無理ではないものだと思った。それまで、私は認知症になったり大病を患ってしまったら、仕事はまず無理だろうと思っていたから。

周辺症状バリバリだった祖母は、パートなどでずっと仕事をしていた人なので、仕事が生きがいであったことは想像に難くない。そんな状況の人が、自分の変化に気付きながら、仕事を奪われたとしたなら、もっとひどい状況になっていたのかもしれない。幸いにも、祖母は周りの人に恵まれていて、理解されていた。だから会いに行った時もニコニコと幸せそうだった。

私たちがこれから考えていかなければならないのは、高齢期になっても、認知症になっても、障害を負ったとしても、その人らしく毎日が幸せだと思える世界を構築することではないか。

そんな理想論を掲げられても、と思う人も多いだろう。けれど、今目の前にいる人が今日という日を幸せだと感じられるようにすることは、そんなに難しいことじゃない。近所の人にあったら挨拶するとか、ゴミ捨てにきた高齢の方にゴミステーションの門を開けるとか、そんな些細なことが、その人の一日をほんの少し良くすることにつながるかもしれない。

だから、今日からほんの少しだけでいいので、自分の周りの人に目を向けてほしいと思う。それが、私たちの住む日本の未来を変えるかもしれないから。


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