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『旅するギターと私の心臓』を読んで【書評】

久しぶりに本を読んだ。「ホモネーモさんは信じられないくらい本を読んでいる」と、とある動画で評されていたが、実を言うと最近あまり読めていない。むしろ労働してた頃の方がガンガン読んでいた。『なぜ働いているとなぜ本が読めなくなるのか?』というタイトルの本が流行っているが、僕は逆である。労働してた方が本が読めるクチなのだ。

いきなり脱線した。読んだ本の話をしたいのである。

読んだのはコレ。

「資本主義が~」とか言い始めないタイプの本。僕が普段読まなさそうなジャンルである。

この前の文学フリマで作者の方から買った本であり、ひょんなことから僕が販売をちょっとだけ手伝った本であるが、ようやく読み終えた。

そもそもなぜ僕はこの本を買ったのか? いや、そもそもなぜブースに立ち寄ったのか? 文フリは無限に思えるほどブースがあり、いちいちすべて立ち寄っていたらキリがない。それなのに僕はブースに立ち寄らずにはいられなかった

その理由はこの画像の中にある。

ブースに座って、読んだことのない本を売る僕。

画面下側の紙に小さく書かれたキャッチコピーを見てほしい。


「世界を2周半してからここに来ました」


これを見て僕は、どうしてもツッコミを入れずにはいられなくなったのだ。



2周半してるなら、いまブラジルにいないとおかしくないですか?」と。



すると、作者と思わしき旅人感が全身の毛穴から溢れ出ているナオトインティライミ系統のお兄さんはこう答えた。



ほんとうは3周なんです‥



珍しいタイプの鯖の読み方である。いわく「3周だとキリが良すぎて嘘ぽいかなぁと思って」とのこと。よくわからないことを気にしていた。これが世界の旅人の知恵というやつなんだろうか。知らんけど。

とはいえ、意図してか意図せずかはともかくとして、まんまとブースに吸い寄せられた僕は、あれよあれよといううちにお兄さんに疑問をぶつけ、本の説明を受ける。

内容はこんな感じである。


  • 心臓病で倒れた友達が世界のどこかで無くした一本のギターを探しに行く物語

  • 友達が書いたノートを手がかりに世界を巡るが、どこの国にギターがあるかわからない

  • 世界の人々が一本のギターのために力を貸してくれて、いろんな人の想いが交錯していく

  • 名前だけ仮名で、あとは実話

  • それをネットにアップしていたら幻冬舎の人から声がかかって出版することになった


映画みたいな話である。この広い地球から、わすがな手がかりから一本のギターを探すという物語。それをやってのけた張本人が、目の前にいるのである。

書店で見かけたなら、きっとなんの印象にも残らず素通りしていたであろう本である。でも、著者からこんな話を聴いて買わずにいるのはむずかしい。

というわけで購入したのだった。


さて、読後感である。

詳細なストーリーについてはここでは触れない。なにより印象深かった1人の人物をここで取り上げてみたい。

それは、出版社に編集者として勤める塩見である。この物語は、友人のギターを探して旅をした宇山の物語を本にしようと、塩見がインタビューする場面から始まる(その結果できあがったのが、この本である・・・というメタ構造になっている)。

宇山が友人のためにギターを探しにいったことに対して、塩見は物語のなかで「なぜそんなことをしたのか?」と2度も疑問を投げかける

なぜご友人のために、宇山さんはそこまでできたのですか? 宇山さんをそこまでさせるものが何なのか知りたいのですが…

松原良介『旅するギターと私の心臓』(幻冬舎)p175

"誰か"のために行動する強い気持ちを推進するものがいったい何なのか、ぜひお聞きしたいんです。どうかお聞かせ願えませんか?

松原良介『旅するギターと私の心臓』(幻冬舎)p216

おそらく彼女は、現代人の代弁者である。

現代人はギター1本を探すために世界へ旅立つ人間の動機をうまく説明することができないし、納得することができない。そのための原型となるストーリーを持ち合わせていないのだ。宇山の方も同様である。けっきょく彼は「本当に自分でもよくわからないんです」と、歯切れの悪い回答でお茶を濁すばかりであった。けっきょく、塩見は満足いく回答を得られなかった。

きっと塩見は、宇山から次のような回答を得られたなら、落胆しつつも納得したのではないか。

「あぁ、いまは評価経済って言うでしょ? 友人のためにギターを探しに行く男としてセルフブランディングしてバズりたかったんですよ。そうすればフォロワーを獲得し、いつか書籍化の話がやってきて、あこがれの印税生活が待ってるんじゃないかと思いましてね・・・」

もちろん、そんな回答は返ってこなかった。なぜなら、それは宇山の動機ではないからである。

動機がセルフブランディングであったなら、塩見はすんなり納得できただろう。しかし、そうではなく「よくわからない」であった。言ってみれば、ここが文学の出番である。物語を通じて言葉にできない人間の不合理の輪郭を浮き彫りにしていくこと。それが文学の役割である(そして、文学が役割を放棄したとき、「感動」とか「奇跡」といった抽象的なキーワードで、不合理は靄に包み込まれることになる)。

余談だが、哲学は違う。哲学は、人間の不合理の輪郭を疑問によって浮き彫りにしていく。僕は文学者ではなく哲学者なので、疑問をなげかけてみよう。

たしかにギター1本のために世界に旅立つのは普通じゃない。でも、自分が同じ状況に陥ったと考えて欲しい。「友達がなくしたギターを探しに行きたい」と誰しも少しくらいは思うだろう。実際に宇山はそう思った。そして探しに行った。腹が減ったら飯を食うように、ギターを探しに行きたいと思ったからギターを探しに行った。動機はそれ以上でも、それ以下でもないのではないか。

なら、むしろ僕は塩見に対して疑問を抱くのだ。「なぜギターを探しに行くことに疑問を抱くのか?」と。

おそらく塩見のなかにある「人間とはかくあるべし」という隠れた前提が、そうさせているのではないか。「さっき飯を食いました」という人に「なぜ?」と質問をする人はいない。それは「人間とは、そもそも飯を欲する生き物である」という共通理解があるからである。しかし、「誰かのためにギターを探しに行きました」という人には「なぜ?」と質問する。それは「人間とは、そもそも誰かに貢献することを欲する生き物である」という共通理解が存在していないからである。

しかし、実際のところ、人は貢献することを欲する。欲望するのである(これがかの有名な貢献欲である)。もし、友人がギターをなくしたとき、ホテルのスタッフが日本まで郵送してくれていたならどうなっていただろうか? どちらの世界線であっても、手元にあるのは同じギターである。結果は同じである。しかし同時にまったく別のギターであり、まったく別の人生であっただろう。

つまり、こういう結論が導き出されても不思議ではない。宇山はギターを探しに行くことができて、幸せであったと。おそらくそれはギターであっても構わないし、本でも、靴でも、なんでもよかったはずだ。宇山は旅を欲し、友人のために行為することを欲し、じっさいにその通りに行動をした。それが彼の欲望だったのだ。

また、物語のなかではギター1本を探す謎の日本人のために世界中の人々が貢献し始め、あれよあれよといううちに物語が展開していく。「ギターの情報を渡す代わりになにをくれる?」などと取引条件を提示するような人は、1人もいないのである。おそらく、ギター探しに協力できた人々も、たんに欲望を追求した。そして、幸福だったはずだ。

僕たちは、他者に貢献するチャンスに飢えている。いろんな理由がある。夢中になって他者に貢献していたら、自分の食い扶持すらも稼げなくなってしまうこと。自分は他者に貢献することを欲望していてそれが幸福であると、僕たちが理解していないこと。あるいは「怠惰で利己的であることがカッコよくて、幸福である」と思い込まされていること。

しかし、もっとも重大な要因を、ストーリーにはあまり関係のない救急隊員の福士との会話が教えてくれた気がする。

「福士くん、もし搬送する前に自分の判断が間違っていて、事態を悪化させるようなことがあったら……とか、そういうことは考えたことはある? 自分のミスが患者の死に直結する可能性もあるわけじゃない? そういうのって怖くないの?」

松原良介『旅するギターと私の心臓』(幻冬舎)p93

ここで語られているのは「迷惑」の概念である。

人は自らのニーズを適切に満たすサービスを提供してくれるプロに金を払って、それを受け取ることがもっとも幸福であると、僕たちは考える。ゆえに、ニーズを満たさない貢献は「ありがた迷惑」。といった具合である。

それに対する福士の回答はこうであった。

「失敗って、怒られることですか? 恥をかくことですか? 俺はそうじゃないと思うんです」

(中略)

「最善を尽くせない場合もあります。間違った判断をしてしまうこともあるかもしれません。でも、"あのときもっとできたんじゃないか?"が一番怖いんです」

松原良介『旅するギターと私の心臓』(幻冬舎)p94

ここで語られているのは「やらない後悔よりやる後悔」という手垢にまみれた常套句だ。だが、核心めいたものを感じずにはいられない。

究極的には、福士が行動するのは自分のためである。それが他人のためになると思ってやるが、もしかしたらならないかもしれない。でも、やっぱり最終的には自分のためにとにかくやる。

これを無闇に礼賛することはできない。もしかしたら福士は多くの人を救うかもしれないが、逆に福士のミスによって大切な息子を失った母親が、福士に対して訴訟を起こすかもしれない。それはわからないのである。だが「他人のためにならない可能性があるなら、やらない方がいい」とするよりも、「やりたいと思ったら、やる」の方が、きっといい結果になる気がする。

ワンピースのドラム島編で、医者の卵であったチョッパーは恩師ヒルルクの薬になると勘違いをして毒キノコを飲ませる。ヒルルクはそれに気づきながらも、笑顔で死んでいった。優しさは結果的に思い通りに機能しないかもしれないが、それでも優しさそれ自体がプレゼントになる。そして、人は優しさを受け取ってやりたいという欲望も持っている。

マゾとはマスターであり、サドとはサーヴァントでもあるように、人間の行為は常に両義的である。誰かを救うときは同時に救われるし、誰かに救われるときは同時に救っているのだ。

だから、「細かいことはわからんが、後で後悔したくないし、とにかく俺がやりたいと思ったらやる」というのは人間が最も幸福に近づく生き方であるように思った。そして、これとまったく同じモチベーションに突き動かされた宇山の人生は、幸福と呼べるかどうかはわからないが、満足があったのではないだろうか。

・・・そんなことを考えさせてくれる物語であった。やはり読書はいい。文学もいい。ちなみにAmazonでも買える。人に勧めたくなる読書体験であった。


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