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文学フリマへの抱負。あるいは便器について【出版社をつくろう】

労働の数少ないいい点は、身体にリズムが染みつくことである。夜寝る時間。朝起きる時間。そしてなによりも排便の時間や場所、回数

会社員として労働していたころ、僕の大腸は、毎日同じリズムを刻んでいた。まず朝起きて一便。電車に乗り、会社についてすぐもう一便。

電車に乗っている時間、僕の大腸は次の出番に備えて、確かな休符を奏でていた。もたつくこともなく、はしることもなく、熟練のスタジオミュージシャンのように僕の身体に刻み込まれた譜面を忠実に再現してくれていたのだ。

ところが通勤から離れ、はや幾星霜。僕の毎朝の音楽はアドリブ演奏にかわった。自由に揺れ動くリズムにあわせ、僕は日々の生活を奏でていた。そんな日々の中にやってきたのが文学フリマである。いつもより早めに目覚め、いつもより早く家を出た僕の身体という音楽に、大腸がアドリブでフィルインをかましてくるのは当然の成り行きであった。

いま、この文章を電車のなかで書いている。今日の文学フリマは成功させなければならない。もちろん、ここでいう成功の定義とは、うんこを漏らさないことである。うんこを漏らせば、誰も僕のブースに訪れることはない。漏らさなければ1人か2人は訪れるだろう。それを成功と呼ばずしてなんと呼ぼう。

朝の駅のトイレには期待できない。人々にとってトイレは恋人である。現実という死地へ向かう戦士たちは、これが永遠の別れであるかのように愛するトイレを抱きしめて離さない。ただし、その仮初の恋人は、誰かに抱かれたあと、また次の誰かに抱かれる(陶器の便器でありながら、同時に肉便器なのだ)。それでも、いまこの瞬間だけは、自分だけの恋人であってほしい。そんな願いの結果が、永遠に開くことのない朝のトイレである。人はトイレのなかで排便をしているのではない。トイレとセックスしているのだ。

※肉便器については以下を参照のこと。

しかし、排便したい僕のような人間からすればたまったものではない。幸い、今日は日曜日である。戦士たちは自宅にある自分だけの恋人のもとで寝起きセックスを楽しんでいるころだろう。

ならば空いているかもしれない。そんな期待で胸と股間を膨らませながら、僕はこれからトイレに向かう。僕がうんこを漏らしたときは、文学フリマが終わるときだろう。

どれだけ荷物の準備を完璧にしても、身体の準備は完璧とは限らない。眠れないこと。体調が悪いこと。うんこが漏れそうなこと。それでも人間は、毎朝太陽が昇るように、毎朝同じ時刻にトイレに向かおうとする。習慣は自然法則を模倣するとベルクソンは言った。

習慣は人間らしい人生には不可欠だろう。しかし、あくまで習慣であり、自然法則ではない。習慣のない人生は苦痛だが、アドリブのないDTMのような人生も苦痛だ。たまにミスし、たまに譜面にないアドリブをかます。そんなふうに生きていたいものである。

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