相手に寄り添うって、こういうことかもしれない
先日、ある方とのコーチングセッションをした日の夜。
1人反省会を繰り広げることになった。
このセッションは、企業からの依頼で、セッション後には、本人とコーチ(わたし)との確認用のためのレポートを書く必要があるため、私はセッションの内容を全て文字起こしした。文字にすると、自分の言葉の多さが一目瞭然だった。
「うわ、私、どんだけ話してるんだ…」
セッション中に自覚はあった。「おっと、これはしゃべりすぎだ」と気づいた瞬間も何度かあった。でも、改めて文字で見ると、そのボリュームに圧倒される。
どう考えても、相手に寄り添うどころか、自分の話で埋め尽くしてしまっていた。ショックだった。後悔の大波が押し寄せてきた。
セッション後の自己評価でも、私は辛口の判定を自分に下した。
特に「相手に寄り添えていますか?」という項目には、迷いなく最低評価をつけた。
そして、冒頭に書いた、反省会を繰り広げる中で、ひたすら考えた。
相手に寄り添うって、どういうことかな?と。
内省しているうちに、あるイメージが浮かんだ。
それは、相手の隣に立って、一緒に絵画を眺めているシーン。
例えば、海と空がぼんやりと溶け合うような抽象画が目の前にあったと仮定して。
その時に、隣にいる友人がボソッと呟く。
「…なんか、ちょっと怖いね」
仮に、私にはその絵が穏やかで癒しに満ちた作品に見えていたとしても、寄り添うというのは、その瞬間、相手の感覚をただ一緒に味わってみることなんだと思う。
「へぇ、そう見えるんだね」と、相手の世界にそっと身を預けてみる。
“Don’t think. Feel.”ってやつだ。
自分の見え方や感じ方を一旦横に置いて、相手が見ている景色に浸ってみる。
その人の目で見ている世界を、
その人の目で眺めてみる。
それが相手に寄り添うことなのかなぁ、と。
そしてこれは、決して相手と自分を一体に重ね合わせる「同調」とは違う、ということ。
同調は、相手の感情に流されて「わかる〜」と、相手と一緒に相手の世界に埋没してしまう感じ。まるでカフェで友人と「それな〜」を連発するような会話。心地よいかもしれないけど、それはあくまでその場の空気に合わせただけの表面的なものだ。
でも、相手に寄り添うはそうじゃない。
相手の感情に浸りながらも、自分は自分の軸を持ち続けることだと思う。相手の感情をただなぞるだけでなく、「あなたはそう感じてるんだね」と、その感覚を受け止める。尊重する。
少し前、友人が仕事のことで悩んでいた時も、わたしはただ彼女の隣でその悩みに耳を傾けていた。
「なんか、仕事が重たくて…自分がどこに向かってるのかも、わからなくなるんだよね」、と。
なんか、自分の中の“何か(マイナスなもの)”が溢れ出ないように、はたまた、自分の身を必死でプロテクトしているような、腕組みしながら話す彼女は、そんな状態に見えた。
その時も「そっか、重い…のか。」と言うだけで、自分の意見を挟むのはやめた。だって、わたしにとって彼女の仕事は魅力的だし、人が手にできないような様々なものを手にできてるように思うし、自由に見えてたから…でも、それは彼女にとっての現実ではないから。
彼女に見えている世界を、そのまま受け止めることが、その時の自分にできる唯一の「寄り添い」だったんだよなぁ、と。ふと、思いだした。
相手に寄り添うとは。
向かい合わせじゃなくて、相手の隣に立って一緒にその景色を眺めてみること。
相手が見ている世界に、自分という存在を保ったままに、共に浸ってみること。
かな、うん。
セッションの後、冒頭のクライアントから、フィードバックが届いた。
「コーチはあなたに寄り添ってもらえたか」という項目を含め、すべての項目に最高点がついていた。
嬉しかった。安心もした。
だけど、その反面でふと考えてしまった。
やっぱり、自分に矢印が向いているのかもしれない、と。
自分が良いセッションができていたかどうか、とか。多く話しすぎてないかどうか…などなど。
クライアントのために向き合っているつもりだったけれど、どこかで自分のことで頭がいっぱいになっていたのかもしれない。
うぅぅむ。相手に寄り添うということは、簡単なようで難しい。
相手が見えている景色を見てみたい。
そこから感じたものを、相手と一緒に味わいたい。
肩の力を抜いて、少しずつ、寄り添える自分になっていきたい。