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毒育ちが語る『ヒメゴト ~十九歳の制服~』

(画像はhttps://www.sunday-webry.com/detail-yoru.php?title_id=580より)


注意事項

当記事は『ヒメゴト ~十九歳の制服~』(峰浪りょう著,小学館)のネタバレを含みます。未読の方は十分ご注意ください。


 学生時代の友人に勧められた『ヒメゴト ~十九歳の制服~』(峰浪りょう著、小学館)を再読した。全八巻なので一日一巻ずつ読み進めようと考えていたが、数時間後には最終巻を手にする私がいた。初めて読んだ際は主人公の由樹たちとさほど変わらない年齢だったが、現在の私なりに本作を解釈していこうと思う。
 注意事項にもあるように当記事にはネタバレが含まれているのでご注意いただきたい。







“役割”の押しつけ

 法律や条例、服務規程などを遵守しつつ皆それぞれの“役割”を担いながら、人は社会生活を営んでいる。学生についても学校や社会のルールに従う様は、学生という“役割”を背負いながら生活していると言える。社会構成員の一人一人がこのような判然とした規則を守り、各の“役割”を果たすことでその社会は成立している。

 しかし社会や組織には、明確な規則や“役割”以外に“不問律”たるものが多々存在する。その代表的なものはモラルやマナーであろうが、学生や若者のコミュニティにおいては、「その場のノリや空気」というものが非常に重んじられる。それから派生するように、キャラ、イメージ、○○らしさ/らしくなさ、ポジション、理想像、あるべき姿、レッテルといった

「そのコミュニティの中の“誰か”が勝手に定めたよく分からん形容詞的な何か」

が次々と生まれる。それがいつの間にか周囲の総意となり、やがて“役割”の押しつけにまで至ると時として当人の意思や嗜好さえ抑えつけることになる。


 由樹、未可子、佳人も周囲が勝手に作り上げた“役割”を押しつけられ、それによって葛藤を強いられた者の一人だ。

 由樹は「ヨシキ」という名で呼ばれ、「男子みたい」という“キャラ”に甘んじていたが、その実は周りが作り上げた“キャラ”のせいで女性としての自分を素直に表現できなかっただけであった。その女性性が唯一許された高校時代の制服を着て自慰をするという“ヒメゴト”を由樹は内々に抱えていた。

「未熟でウブで可憐な箱入り娘」という“イメージ”を体現する未果子は、夜な夜なセーラー服に身を包んで十五歳の少女として売春をしていたが、それこそが彼女の“ヒメゴト”だった。

 そして佳人は、その容姿端麗さから「大学内の王子様」という“理想像”を担っていた。これは未果子にも言えることだが、容姿が際立っている人とは、特に“キャラ”“イメージ”というものを定められやすい。たとえば「大学内の王子様」という表現には、「(異性である)女性にモテる」という意味合いが含まれるが、それはセクシャリティの決めつけにほぼ等しい。佳人はそんな勝手に作られた“理想像”から逃れるべく、そして憧れの未果子になりきるべく、女装という“ヒメゴト”に勤しんでいたのだと私は想像する。


 そんな三人に対して私はかつての私を重ねていた。母や毒祖母、教師を含めた周囲の大人たちから「真面目な優等生」という“あるべき姿”を求められていた私もまた本来の自分自身というものを長らく理解できていなかった。そして優等生には、なぜだか往々にして「清純で化粧っ気がなくて天真爛漫な学生」という追加の“トッピング”が施される。かようにして私は周囲から求められた“役割”通りに化粧やお洒落、恋愛といったものを擲って純真無垢な優等生を演じ続けた。そんな私は、母や毒祖母、教師たちの期待と自己愛を満たすためだけの自由意思のない操り人形だったのかもしれない。 


「こうあって欲しい」というエゴ

 キャラ、イメージ、○○らしさ/らしくなさ、ポジション、理想像、あるべき姿、レッテルといった諸々は、その関係性が深くなればなるほど「(相手に)こうあって欲しい」という強いエゴへと変貌していく。そして人がそのようなエゴを抱いてしまうのは、無責任で居られるからほかならない。他人と喜怒哀楽といった感情や粒々辛苦の出来事を共有するには常に大きな責任が伴う。特に負の感情やネガティブな出来事に関しては、なおさら強い責任が求められる。

 もっとも「(相手に)こうあって欲しい」というエゴには、その相手の都合の良い部分だけを掻い摘まもうとする狡猾さも含まれている。作中で言えば、由樹と祥は互いを“男友達”として、未果子は由樹を“少年(オトコノコ)”として、佳人は未果子に対して一方的に“理想の少女”という“役割”をそれぞれ求めていたように。

 人間とは誰しも様々な“仮面(ペルソナ)”を持っているが、個人の価値観や感情、パーソナリティやセクシュアリティー、趣味嗜好、信念や信仰などが加味されれば、より複雑化していく。こうも複雑な存在の一部分だけを切り取って都合よく扱おうとすること自体が、非常に傲慢で愚かな行為であると私は主張したい。
 そもそもこのような強いエゴを抱く者とは、健全な自己愛を持たないゆえに相手を自分の都合の良いように歪曲しようとする傾向にある。その結果として他人とも自分自身とも健全な信頼を築けず、ありのままの相手や自分自身を受容できないのである。そのような心理が家族や恋人、友人へと向けられると激しい束縛や各種ハラスメント、過度なマウント行為、ストーカー行為、そして毒親/毒家族へと転じるのではないだろうか。


“役割”の押しつけが、“化け物”を生む

 ここまで一頻り「正論」ばかりを唱えてきたが、恋人同士、友人同士、そして親子/家族間ですら「その相手をありのままの丸ごと愛せている」と胸を張って言える人間の数とは決して多くはない。今日日友人間や学級内でもさも当然のように“キャラ”や“ポジション”を押しつけあい、教師ですらそれに荷担している。子供に対して“理想像”を押しつけ続ける親、“過剰な期待”を押しつけあうカップルもその根本は同じである。

 結局この世は、“役割”の押しつけ合い、それに伴うエゴや無責任さに満ち溢れている。今日もどこかの誰かが、誰かに“役割”を押しつけているのが紛れもない現実である。

 そのような“役割”の押しつけ(の連続)が、子供や青少年を時として途轍もない“化け物”に変えてしまうのだ。作中で言えば、未果子という名の「少女の化け物」ほかならない。未果子がここまで十五歳という年齢に執着する「少女の化け物」になったのは、それが初めて自分の価値を見出した瞬間であり、その価値観をもってして自分自身を肯定するしかなかったからだ。毒母や毒祖母から虐げられ、周囲の大人の男たちから搾取され続けた不条理(特に母親)に対して報復すべく、「全国の『お父さん』とセックスする」という末恐ろしい計画を未果子は遂行しようとしていたのではないか。

 そんな未果子の真の願いとは、誰かにありのままの(十九歳の)自分を認めて欲しい、ひいては丸ごと愛して欲しい、それだけであった。だから「そのままの未果子でいいんだ」という由樹の最後の叫びが、未果子を不条理の囚われから救ったのだと私は認識している。

 嬉しさから一緒に笑い、辛いことは分かち合い、悲しいときは共に泣く。その子がいかなる状況に陥ろうとも、いくら年齢を重ねようとも変わらず味方で居てくれる存在とは、たいていの場合は親や家族、親戚、あるいは他人の大人や友人がその役割を担うはずだ。しかしそのような安全基地を享受できない、かつての未果子と似た境遇に置かれている子供や青少年の数とは、私たちの想像を遙かに上回るのかもしれない。


“役割”の押しつけからの解放

 自分の本心をひた隠そうとしたり、周囲が勝手に決めた“役割”に合わせようとしたりすると心身における歪みが生まれ、それが“ヒメゴト”を生み出すのではないか。若気の至りや照れが原因ならばある程度は仕方ないだろうが、その“ヒメゴト”によって不満を騙し騙し解消しつつ自分自身に嘘を重ねるのは、かなりしんどいはずである。その不満や嘘というものは、やがて強い自己愛そして先の“化け物”を生むことになるからだ。


 由樹、未果子、佳人が、各の新たな道を歩み出したところで本作は幕を閉じる。その三人の表情はどこか晴れ晴れとし、ありのままの自分を表現しながら自分自身を丸ごと愛せるようになったことを示しているようだった。周囲から無理矢理押しつけられた“役割”、それから生じた“ヒメゴト”を手放して初めて本当の意味の“自分らしさ”や“役割”を見つけられたのであろう。今後三人を待ち受けるであろう社会の荒波の中で再び“役割”を押しつけられる可能性は決して否めないが、それは私の杞憂に過ぎないのかもしれない。


 こうして感想を書き連ねていくと、本作が大変素晴らしい作品だとあらためて感じられた。割とポップな絵柄、思春期の若者が抱く張り裂けそうな感情、人間の持つ狡猾さや醜さの表現とが絶妙なバランスを保ちながらテンポ良く展開していく様は、見事の一言に尽きる。それこそ冒頭の私のように一気に読み切ってしまうほどに。

 
 


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