再掲載:短編小説「トレーニング」
「僕が勝てたのは、練習のおかげです。強敵と戦うため2か月以上前から日々自分を超えるトレーニングを実施してきました」年末に行われた格闘技番組の勝利者インタビュー。その映像は男にとって衝撃的なものであった。試合に勝利したその男性は元来泣き虫であり、いじめられっ子であったと試合前に紹介されていた。そんな男性が試合に勝ち、リング中央でインタビュアーの質問に堂々と答える。表情に嬉し涙などはなく、終始笑顔であった。
男は感銘を受けた。明日からトレーニングによる肉体改造を行い、あの勝者のような泣き虫な自分を克服することを強く誓った。男は椅子から立ち上がり、リビングの窓を遮る厚手のカーテンを開け、ガラス越しに外を確認した。年末の風景にふさわしい粉雪が舞っている。しかし、その厳しい季節の障害によって男の決心が変わることはなかった。
早朝、普段より1時間半も早く携帯のアラームを鳴らし、溶接されているような両の目を何とかこじ開ける。男は幼児の着替えのようにゆっくりと時間をかけジャージを身に纏うと、ランニングに出かけた。昨夜の粉雪がアスファルトに薄いレースのカーテンのような装飾を施していた。男は転倒に気を付けながら走り出す。まずは自宅を出て近所の公園を目指すことにした。そこは市から公園と言う名こそ命名されてはいるが、遊具が設置されているエリアとは別にグラウンドが隣接されている。その公園で入念なストレッチを行いグランドを30分以上走り、その後腕立て伏せや腹筋などの筋トレによる汗をかいた。
トレーニング開始から1か月が経った。年が明けても身に突き刺さるような外気が和らぐことはなかった。しかし、三日坊主とならずに済んだのは男の強い意志によるものである。(このトレーニングによって泣き虫と言われている自分と決別するんだ)男はその気持ち一つで毎朝のランニングや筋トレをを続けた。
男性の見た目は劇的には変わらなかった。しかし、加齢により下腹部に現れかけていた丘は姿をくらまし、少しばかり顔の輪郭もシャープになってきていた。飲み物や睡眠にも気を遣うようになった。水は常温でしか飲まず、遅くまで起きることもなくなった。その代わり、風呂上がりに鏡に映る自分の姿を見てポージングを撮る時間が増えた。(俺はもう泣き虫ではないし、きっと誰も泣き虫なんて言ったりはしないだろう)
トレーニングを始めて約3か月が過ぎた。そして、男には明日、当初の目的を達成することができたかを試す絶好の機会が訪れようとしていた。(きっと大丈夫だ。あの日見た男性のように私の体は搾り上げられている。笑って一日を過ごせるはずだ)そう不敵に笑い男は床に就いた。
体育館から聞こえる校歌斉唱は微かに、すすり泣きのような声が混じっている。合唱が終わり司会の教頭先生の掛け声により卒業生、在校生、が着席する。「続きまして、卒業証書授与」教頭先生の練習通りの落ち着いた声を受け、男は教職員の座る席から立ち上がり、マイクの前まで進む。「卒業証書を授与される者、3年1組……」生徒の名前を呼ぶ前に男は、両目から流れる涙を止めることがどうしても叶わなかった。トレーニングにより余分な水分を絞り出し、あの日見た勇敢な彼のように笑って教え子を送り出してあげたかった。
しかし、そんな泣き虫な優しい先生の姿をみて、卒業生たちは何よりの贈り物であると感じとっていた。