短編小説「人でなし」
「君はこの前、俺に向かって『人でなしだ』と、ゲラゲラ笑いながら馬鹿にしたよな?」個室居酒屋の一室。ビールジョッキが机の右半分を占拠し始めたタイミングで彼は急にそんなことを話し始めた。私の目の前に座る彼は既に顔はおろか目まで赤くなりかけている。
彼は今の今まで同性の私とともに、面白おかしく昨今の音楽番組について語り合っていた。「若者へいい音楽を伝えてない」「昔の音楽は良かった」など、きっとビートルズが世界の中心だった頃から言われ続けているであろう内容を、芸もなく反芻していた。しかしそんな最中、彼は急に脈絡なく私に悪態をついてきたのだ。酔いが回りふと前に言われた悪口を思い出した、という具合である。
「お前は〝人でなし〟と俺を馬鹿にしたが、今日の俺は大層いいことをした。その体験を聞いたら君はきっと、『人でなしなんて言ってごめんよ。君には誰よりも優しい人間の血が流れている』と泣きながら言うに違いない」そういうと彼は、ジョッキに残っていたビールを一気に飲み干して語り始めた。
「今日、この個室居酒屋への集合時間は午後9時だったが、俺は仕事の関係で集合時間前の1時間前に最寄駅についた。やることも特にないから、時間潰しのために近くのCDショップに行くことにした。そう、その選択が今思えばまず完璧だったんだ。CDショップまでの道のりで俺はいい事をした」「ずいぶんと勿体ぶるね、続けて」私はいつの間にか中身が半分は残っていたジョッキを机に置き、姿勢を正した。彼の真剣な語り口に充てられたのだろう。
「まあ結果から言うと、俺はCDショップまでの道のりで一人の少女に出会ったんた。私服だったんだけど、多分高校生くらいだったと思う」「なんだ、そういう話なのか?いい年したオッサンがナンパでもしたのか?」「違う違う、俺は少女に話しかけたりなんて一切しなかったよ。そもそもそんなことはできない。だって彼女はストリートミュージシャンだったんだ。アコギを弾いて溌剌と歌っていたんだ」彼はその姿を思い起こすためか、一瞬だけ目を細めた。
「観客なんて呼べる人はいなかった。皆彼女の前を足早に通り過ぎる。ストリートミュージシャンの辛いところは、最初の観客に誰もなろうとしないところだと思う。きっと日本人らしい性格が邪魔するのかもしれない。立ち止まると他の通行人から視線を浴びる。それを嫌うんだ」
「そこで君が最初の客になってあげたのかい?」「そうだ。鋭いじゃないか。そうすると不思議なもので、他の人も足を止めるんだよ。彼女の歌はお世辞にも上手いとは言えなかった。でも、歌の詩が良かった。心にすっと沁み込む。素直に感動した。彼女の歌が終わって私が拍手をすると他の観客も拍手を送った。彼女は嬉しかったのだろう。涙を浮かべ、丁寧にお辞儀をしていたのが印象的だった」
「確かに、普段の君からは想像もできない位のいいことをしたね。そうだ、彼女はその歌ってる曲とかを手売りなんこしていなかったのかい?そんなに君が褒めるなら、僕もぜひ聞いてみたかったな」「それなら、ここにあるし、なんなら貸してもいいよ」彼はお店に入る際に手に持っていた紙袋から新品のCDを取り出した。
「さっき寄ったCDショップで買ったんだ。買う気はなかったんだけど、店頭で見たら自分のアルバムだけど、つい買ってしまったよね。ちなみに彼女が歌ってたのは2曲目だった。他人が下手な歌で歌ってても感動できるんだ、やはり詩がいいんだ。そんな発見ができて僕は本当に感動したよ」彼はまた目を細めた。その恍惚とした姿は少女を思い出すためのものではなく、自分の作った曲を思い出してのものであったらしい。どうやら私の目の前に座るミュージシャンは、正真正銘の人でなしであったらしい。