【試し読み】岩井圭也『科捜研の砦』刊行記念! 冒頭特別公開!
第171回直木賞候補で話題の著者、岩井圭也による最新作、『科捜研の砦』が絶賛発売中!
刊行を記念して、冒頭を特別に公開します!
「科捜研の最後の砦」と呼ばれるほどの実力と、信じられないほどの愛想のなさで有名な土門誠の鑑定ミステリをぜひお楽しみください
あらすじ
『科捜研の砦』試し読み
罪の花
尾藤宏香はため息を吐いた。
吐息は会議室の空気に拡散し、溶けていく。室内には他に誰もいなかった。定刻になっても約束の相手が現れない。尾藤は苛立ちを紛らわすために、仕掛かり途中の仕事について考えていた。
目下開発中の、スーパーインポーズ法と呼ばれる鑑定手法だ。白骨遺体の頭蓋を撮影した写真と、候補者の生前の写真を重ね合わせ、顔の各部位が一致するか否かで個人識別を行う方法である。
二〇〇〇年代に入ってからというもの、コンピュータを用いた鑑定手法が急激に発展している。今の仕事をはじめてから、尾藤は〈平成の科学鑑定〉にふさわしい手法の開発に取り組んでいた。
腕時計を見る。定刻から十五分が過ぎていた。
再び盛大なため息が出た。なぜ研究者である自分が、捜査官の都合に振り回されなければいけないのか。
彼女がいるのは千葉県柏市にある〈科学警察研究所〉──通称科警研の庁舎だった。
よく似た名称の機関に科捜研こと〈科学捜査研究所〉があるが、科警研が警察庁の附属機関として位置づけられているのに対して、科捜研は各都道府県警察本部の刑事部に設置される。科警研の職員である尾藤は国家公務員という立場にあった。
両者は科学に基づいて事件捜査や犯罪防止を支援するという点では共通しているものの、そのテリトリーは微妙に違っている。科捜研は管内で発生した事案に関する鑑定が主で、科警研は新手法の開発や警察業務に関する研究、技官の指導等に比重を置いているのが実情であった。
ただし、科警研でも鑑定を行わないわけではない。全国の関係機関からの依頼に応じて鑑定をすることは業務の一つであった。
──とは言え、ねえ。
尾藤はとりとめのない考えを払い落とすように、頭を振った。
千葉県警からの依頼は、科警研が担当すべき案件とは思えなかった。はっきり言って、県警の科捜研でも十分やれる内容だ。おそらくは科捜研が立て込んでいるとかの都合で、科警研にお鉢が回ってきたのだろう。
入庁三年目の尾藤は、いまだ組織の都合を熟知しているとは言えない。それでも、科警研がいいように使われているのではないかという疑念は拭えなかった。
定刻から遅れること二十五分。ようやく約束の相手が来た。現れたのは、児玉と名乗る年配の捜査官だった。煙草の臭いに尾藤は顔をしかめる。
「遅かったですね」
「いやいや、申し訳ない」
児玉は悪びれる様子もなく、テーブルを挟んで正面に座った。
「優秀な皆さんのお時間を取らせてしまい、心苦しく思っています」
顔色を窺うような対応に、尾藤は白けていた。警察庁と千葉県警の違いはあれど、同じ警察組織の人間なのだから上も下もない。たまに児玉のようにへりくだる者や、逆に高圧的な態度に出る警察官がいるが、勘違いをしているとしか思えない。
「ご説明をお願いしていいですか」
面倒な用はさっさと終わらせたかった。児玉が鞄から取り出したファイルを受け取り、資料に目を通す。
「では、かいつまんで話します」
せいぜいやりがいのある案件であることを祈りながら、児玉の話に耳を傾けた。
事の発端は二週間前。
千葉県南部の山道で犬の散歩をしていた男性が白骨遺体を発見。当該の遺体は山道からやや離れた位置に埋まっていたものの、前日までの長雨の影響で土が緩み、露出した骨の一部に飼い犬が気付いた。遺体は五メートル四方の範囲で数か所に分散して埋められており、ほぼ全身の骨が見つかった。
白骨遺体が見つかれば、事件性の有無が検討される。この白骨遺体は数か所に分けて埋められていただけでなく、後頭部が陥没していた。これらの事実から、遺体の人物は撲殺された後に埋められたと推定された。
さっそく、警察歯科医がデンタルチャート(歯科記録)を作成した。口腔内の情報は個人識別に重要な役割を果たすためだ。さらに口腔内写真の撮影、X線撮影も行った。スタンダードな死後記録の採り方である。県警は千葉県内全域の歯科医に照会をかけたが、該当する人物はいまだ見つかっていない。
照会が進まないのは、白骨遺体の身元に関してこれといった情報が得られていないせいでもある。男性であること、死後相応の年数が経過していること以外、ほとんど何もわかっていない。通常は持ち物や衣類を手がかりとして身元特定を進めるが、それも一切残されていなかった。
手詰まりになった県警は、ヒントを求めて科警研に依頼を出した。
説明を聞き届けた尾藤は首をかしげた。
──やっぱり、うちでやる必然性がない。
白骨遺体の鑑定は、どの科捜研でも定常的にやっているはずだ。各分野の精鋭が集う科警研に持ち込む必要は感じられなかった。
「確認ですが、県警の科捜研ではなくなぜ科警研に?」
児玉は素知らぬ顔で「もちろん科捜研も協力してくれましたよ」と言う。
「ただ、彼らのスタミナにも限度がありますから。何から何まで科捜研で検証するのは、人手の面でも難しいもので」
「人手が足りないから科警研に頼んでいる、と?」
「違います、違います。技術的な面ですよ。殺人の被害者である可能性が高い遺体ですから、捜査のために迅速かつ正確な鑑定が必要なわけです。そのためには科警研の、尾藤さんのお力を借りたほうが早かろう、ということです。警察は連携が命ですから」
「……そうですか」
不満が解消されたわけではないが、この辺りで手打ちにすることにした。我を通しても煙たがられるだけだということは、若い尾藤にもよくわかっている。
所詮、科警研の技官も警察の一員であることには違いない。研究機関ではあっても、ここでは警察の論理こそが鉄則なのだ。児玉が身を乗り出した。
「ちなみに、現時点での所見は?」
「現時点?」
「ええ。ファイルに掲載されている写真の範囲で何かわかることは?」
「実物も見ないで、ですか」
「一応、こちらも急いでまして」
だったら二週間もしてから声をかけるなよ、と言いたいのをこらえる。ここは警察の使命が最優先される場所だ。
「あまり不確かなことは言いたくないですが」
気が乗らないなりに、尾藤は改めて資料を確認する。
ファイルにはざっと二、三十枚の写真が収載されていた。白骨遺体、とりわけ頭蓋が複数の角度から撮影されている。骨の一部だけが発見された場合は初手として人獣鑑別が必要なところだが、今回はほぼ全身の骨が見つかっており、ヒトであることに疑いはない。
まず着目したのは骨盤だった。幅が比較的狭く、骨盤縁と呼ばれる開口部が小さい。女性であればもっと幅が広く、骨盤縁も平らで大きいはずだ。
「性別は間違いないでしょう。明らかに男性です」
児玉が手元の手帳にメモをする。
「他には?」
「年齢は壮年と記載されていますが、もう少し具体的に絞れます」
たとえば、頭蓋の縫合閉塞の具合。加齢とともに骨の継ぎ目──すなわち縫合が消えていく傾向にあるが、この遺体では冠状縫合の一部がすでに消失している。また口蓋部の切歯縫合は完全に消失し、眼窩部の縫合も消えはじめている。
歯の咬耗度も重要な指標だった。歳をとるほど歯はすり減るが、歯の状態は白骨遺体であっても観察できる。写真では象牙質が糸状に露出しており、相応の年齢であることを示唆していた。
「これらの情報を総合すると四十代、ただ頭蓋の縫合が残存しているので四十代前半と推定されます」
「身長はどうですか」
「一八〇センチ前後となっていますが、うーん……安藤式しか使っていないので、藤井式や吉野式で計算し直したほうがいいでしょうね」
身長推定の計算式には複数種類がある。安藤式は簡便な方法だが、実物との不一致が見られることもある。
「死後経過年数は三年から五年くらいかな。これは、緻密質の蛍光比強度を測定すればもう少し確実なことが言えると思います」
「凶器はわかりますか?」
いわゆる成傷器のことである。たとえば皮膚にできた傷口であれば、片刃か両刃かといったことや、尖部の形状が推定できる。しかし後頭部の陥没だけでは何とも言えなかった。
「ちょっとわかりませんね。ただ、陥没した部位を詳しく計測すれば、どんな形状の凶器か推定することはできるかもしれません」
ひとまず、写真からわかる範囲のことは伝えた。ファイルを閉じた尾藤に、児玉が探るような視線を向ける。
「あのう、顔を復元してもらうとしたら、どのくらい時間がかかりますかね」
「復顔ですか?」
「そうそう、それです。顔がわかれば大きいです」
尾藤は眉をひそめた。白骨遺体の実物も見ていない段階で、復顔の話をされても答えようがない。それより先にやるべきことがある。
「周辺情報がない以上、復顔は確実ではないです。鼻や唇、眉や傷の情報は白骨遺体からはわかりません。肥満や瘦せの程度も不明。いきなり復顔まで考えなくてもいいのでは?」
「以前、他の案件ではすぐにやっていただきましたけどね」
児玉の顔に一瞬、軽蔑の色が浮かんだのを尾藤は見逃さなかった。
──それが本心か。
下手に出ているように見えて、科警研を軽んじているのが透けて見えた。そうでないと言うのなら、労力のかかる復顔を安易に依頼することなどないはずだ。しかし繰り返すが相手は捜査官であり、ここは警察である。警察の論理より優先するものはない。
「……持ち帰って検討します」
そう答えるのが精一杯だった。
「ぜひお願いしますよ」
とってつけたような愛想笑いに鼻白む。鑑定の日取りを調整し、会議室を後にする。廊下を歩きながら、尾藤は思った。
──やっぱり、私の居場所はここじゃないな。
今夜、イギリス時代の指導教官に連絡を取ろうと決意した。ポストが空いているなら受け入れてほしい、と持ちかけるつもりだ。
デスクトップパソコンのモニターには、作成途中のソースコードが表示されている。新しいスーパーインポーズ法のため、尾藤が作り上げたプログラムだった。正規化相互相関という手法で、白骨遺体と生前の顔貌の一致度を算出するのだ。博士課程の研究をベースに、精度を上げるため細部を磨いている。
昼からずっとパソコン作業が続いている。さすがに目の疲れを覚えた。画面右下の時刻表示を見ると、午後九時だった。いったん休憩を取ることにする。
席を立ち、腰を伸ばした。今年三十歳になってからというもの、急に疲れやすくなった気がする。
職場にはまばらに人が残っていた。同僚たちは優秀で仕事熱心な技官ばかりだ。だからこそ、捜査の下請けのような仕事をやらされることには余計に疑問を感じる。そういうことは科捜研が担当すべきだ、というのが尾藤の見解だった。
尾藤が所属する法科学第一部は、生物学分野を担当する部門である。分子生物学や微生物学、形質人類学などが含まれる。同僚のパソコンを背後から覗くと、血液検査のデータ解析をしている最中だった。
これまで科警研で開発した手法や手技が、今では全国の警察職員たちに使われている。尾藤や同僚たちの研究成果もいずれ全国に普及する。責任は軽くない。だからこそ、尾藤は余計に思うのだ。研究業務に集中させてくれ、と。
気分転換のため、外の空気を吸うことにした。
裏口から庁舎を出て、風に吹かれる。湿り気を帯びた夏の夜風が、エアコンでかさついた肌を撫でた。
──どうしてこんなところにいるんだろう?
尾藤の頭に、今さらすぎる疑問が浮かんできた。
そもそも医学部に入ったこと自体、なりゆきでしかなかった。
医学部医学科に進学したのは、勉強が得意だったからだ。はじめから崇高な志なんてなかった。ただ偏差値を追い求めていたら、いつの間にか医学部にいた。そのまま医師になる将来は、想像してもあまり心躍らなかった。経済的には困らないだろうが、仕事に興味が持てない。人を救いたいという使命感もない。
道に迷っていた尾藤を導いたのは、法医学というマイナーな分野だった。生者をいかに生かすかという研究をしている学者ばかりの世界で、法医学者だけが、死者を対象としていた。それに気づいた瞬間、初めて気持ちが揺れた。亡くなった人の声を聞く学問は、医師の仕事になじめない尾藤を引き寄せた。
少し勉強してみると、法医学の分野は意外なほど評価法の開発が進んでいないことがわかった。警察や病院では数十年前の評価法が現役らしいとわかると、俄然、やる気が湧いてきた。知れば知るほど法医学の可能性にのめりこんだ。臨床ではなく研究の道に進んだのも自然な選択だった。
大学院の博士課程に進み、数々の学術論文を発表した。形質人類学の名門として知られるイギリスの研究室にも半年間留学した。修了後は大学の講師か助教にでもなり、そのままアカデミアの世界で生きるつもりだった。
予定が変わったのは、科警研で募集がかかったせいだ。
科警研では、毎年すべての研究室が採用を行っているわけではない。人員拡充の必要がある研究室だけが募集をかける。そして尾藤が修了する年、たまたま法科学第一部の研究室が募集をかけた。次の機会はいつ巡ってくるかわからない。
──受けるだけ、受けてみるか。
採用人数は一名で、驚異的な倍率になると予想された。人並み以上の実績を持っている自信はあるが、絶対合格できると信じるほど思い上がってもいない。尾藤はなかば記念受験のつもりで願書を出した。
しかし尾藤は次々に選考を突破し、とうとう最後の一人になった。警察庁総合職研究員として採用されたのである。
内定が出た後になって尾藤は焦った。しかし今さら断るわけにもいかない。何しろ、倍率は百倍以上だった。この期に及んで辞退するのはさすがに気が引ける。それに警察でキャリアを積める機会などそうない。もし合わなければ、その時に辞職すればいいだけの話だ。
こうして尾藤は科警研の技官となった。
だが入庁後に待っていたのは、想定外の苦戦の日々だった。
科警研では鑑定法の開発や研究もさることながら、各都道府県の科捜研に属する技官や、刑事部の捜査員、鑑識課員との連携が求められる。講習や技術指導を通じて、科警研の持つノウハウを伝授したり、現場の課題に応えなければならない。決して研究だけをしていればいいわけではない。
連日の調整や出張で、研究は遅々として進まない。警察の事情に振り回される日々を送ることになった尾藤は、次第に不満を募らせていった。ほぼ同じ年齢の研究員が華々しい結果を出すたび、内心で歯嚙みした。研究に専念できれば、自分だってそれくらいの成果はすぐ挙げられる。そう思いつつ、時間ばかりが過ぎていった。
徐々に尾藤は、自分の適性に疑問を抱くようになった。倍率百倍の選考をくぐり抜けたのだから、少なくとも出来そこないではないはずだ。それなのに結果がついてこないのは、向いていないから、というしかない。やはり自分の居場所は学術の世界だった。ポスドクなら、捜査官たちの手足として働かされることはない。
仕掛かり中のテーマに区切りがついたら、警察は辞める。密かにそう決意していた。
夜空に背を向けて、尾藤は庁舎へと戻った。夜はこれからだ。近い将来ここから去るとしても、任されている仕事はやり遂げたかった。
尾藤は千葉県警からの依頼を粛々とこなした。
白骨遺体の状況から性別、年齢、身長を推定し、報告書にまとめた。死後経過年数はおよそ三年。陥没箇所の大きさから、凶器は直径五センチから一〇センチ程度の球状または楕円状の鈍器──たとえばゴルフクラブや鉄アレイのようなもの──と推定された。
要望通り、復顔も行った。限られた情報での復顔は決して正確とは言えない。県警の会議室で面会した児玉に説明すると、相手は冴えない顔で頷いた。
「はい、ありがとうございます」
依頼した時とはうってかわって醒めた表情である。作業さえこなせば、もう用済みということか。さすがにむっとした。嫌味の一つでも言ってやりたくなる。
「失礼ですけど、誰でもできる仕事ではないですからね。少なくとも、県警だけではここまで迅速にはできなかったわけでしょう」
「うちの科捜研や鑑識が無能だと言いたいのですか?」
「違います。刑事部の皆さんが、です。いるのかいらないのかわからない案件までどんどん依頼するから、科捜研もパンクするんじゃないですか。連携を重んじるなら、相手方の負担も考えて連携するのが上策だと思いますが」
仕事への苛立ちもあって、言い方がきつくなった。児玉の表情が険しくなる。
「あのね、尾藤さん」
声が一段と低くなった。
「ここは大学じゃないんですよ。警察。警察の責務がわかりますか。警察法の第二条、暗唱できますか」
警察大学校にいた頃暗記したが、もう覚えていない。
「……いえ」
「私はできますよ。〈個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする〉。これがわれわれ警察の仕事なんです。公共の安全、秩序の維持。その目的の前では個人の苦労なんて小さいことです。打つべき手を打たなかったことで責務を果たせなかったら、悔やんでも悔やみきれませんよ」
尾藤は奥歯を嚙みしめた。また警察の論理だ。事件解決のためなら、技官のプライドなどどうでもいいということか。黙っていると、児玉は尾藤が納得したとでも思ったのか「わかってくれれば結構です」と言った。
「幸い、この件は他の方面からも手がかりが集まっています」
「他の方面、とは?」
「実は警視庁も協力してくれているんです」
あっさりと口にした児玉に、尾藤は「待ってください」と気色ばむ。
「科警研と警視庁、二重に協力を要請したんですか?」
「人聞きの悪いこと言わないでください。白骨遺体の鑑定は科警研に、遺体発見現場の検証は警視庁に依頼したんです。目的が異なりますよ。まあ、科警研が両方引き受けてくれればその手間もなかったんですがね」
児玉は無言で目を細めた。おそらく現場検証は科警研に断られたため、依頼先を警視庁にスライドしたのだろう。依頼を受けるかどうかは、下っ端の尾藤ではなく上司が判断している。
「結果的にはラッキーでしたがね。あの〈科捜研の砦〉が担当してくれましたから」
「なんですか、それ」
「おや。聞いたことありませんか」
尾藤は「いいえ」と言下に答える。
「では、警視庁科捜研の加賀副所長は?」
「それはもちろん」
科捜研副所長の加賀正之警視については、尾藤も知っていた。数々の重大事件を担当してきた鑑識官であり、新たな指紋検出法や毛髪検査法を開発した実績がある。入庁時の研修でも紹介されるほどで、警視庁科捜研の代名詞ともいえる存在だった。
──警視庁の鑑識技術は、加賀以前と加賀以後に分けられる。
そんな噂がまことしやかにささやかれるほどだ。畏敬の念をこめて、技官たちの間では〈鑑識の神様〉とも呼ばれている。加賀は刑事部理事官などの要職を経て、現在は科捜研の副所長を務めていた。
「加賀副所長が、何か?」
「科捜研にはね、加賀副所長の直下で動いている技官が一人だけいるんですよ。細かい所属に縛られず、幅広い事案を鑑定できる優秀な若手がね」
「へえ。誰です?」
「土門誠」
児玉が我がことのように、誇らしげに言う。
「彼と加賀副所長のタッグは、科捜研における最後の砦と言われています。通称〈科捜研の砦〉。土門さんはあなたと同じくらいの年齢ですが、鑑定技術は日本国内の科捜研、いや、科警研を含めてもトップクラスと言われています」
最後の一言は当てつけのようだったが、当の尾藤はそれどころではなかった。同年代ということは、土門誠はまだ三十歳前後。その若さで全国の警察組織に名を轟かせているというのか。尾藤の頭のなかに妙な対抗意識が芽生えた。
「その、土門さんに何を依頼したんです?」
「発見現場周辺の状況から、遺体の身元推定に役立つ情報を探索してもらっています」
「そんな……」
そんな情報から何がわかるというのか。そう言いかけたが、途中で口をつぐんだ。これ以上喧嘩をふっかけても無益なだけだ。しかし現実問題として、白骨遺体そのものが最も豊富に情報を持っていることは間違いない。周りの状況から推定できるのは、せいぜい掘られた穴の大きさくらいではないか。
──くだらない。
どんな立派な異名で呼ばれていようと、何もない場所から宝を見つけることはできない。尾藤は、無駄骨を折らされた土門なる人物に同情したいくらいだった。
ただ、先刻の児玉の台詞は気になる。
「手がかりが集まっている、と仰ってましたよね」
「そうですね。土門さんのおかげで」
「どんな手がかりなんです?」
児玉はもったいをつけるように腕組みをしていたが、やがて首を横に振った。
「まだ確定していないので、申し上げられません」
「私には言えないんですか?」
「だから、未確定なんです。ご理解ください」
しばらく押し問答を続けたが、結局は尾藤が諦めた。児玉にしてみれば、科警研に捜査状況を逐一明かすメリットなどないということだろう。話を打ち切るように立ち上がった。
「ご協力いただき感謝します。わからないことが出てきたら、また何かお願いするかもしれません」
児玉は「同じ警察の仲間として」と付け加え、先に会議室を出て行った。
尾藤の胸のうちには、慇懃無礼な捜査官への苛立ちと一緒に、土門誠という人物への興味がくすぶっていた。
その便りが届いたのは翌週のことだった。
職場で何気なく電子メールの受信ボックスを確認した尾藤は、送り主の〈土門誠〉という名前を見てぎょっとした。
土門のことは、科警研の同僚や上司に探りを入れていた。噂を集めた結果わかったのは、土門が大卒で警視庁に入ったらしいこと、プログラミングや化学分析が得意であること、誰もが認める科捜研のエースであること、などなど。
土門と面識のある先輩は「今まで会った技官のなかで一番頭が切れる」と言っていた。同じ技官である尾藤としては、目の前でそう発言されることに不満がないと言えば噓になる。
その土門が自分に何の用か。思い当たるのは千葉県警の件しかない。尾藤は珍しく緊張を覚えつつ、メールを開く。文面は簡潔だった。挨拶や自己紹介を省略して、いきなり用件から入っていた。
〈千葉の白骨遺体鑑定でお聞きしたいことがあります。お電話ください。〉
案の定だった。尾藤はさっそく、メールに記された番号に警電をかける。相手は一コール目の途中で出た。
「科捜研土門です」
低い男の声が耳朶を打つ。受話器を握る手のひらに汗がにじんだ。
「メールいただいた、科警研の尾藤ですけど」
「どうも。ご遺体を鑑定されたのはあなたと伺いましたが、間違いありませんか」
丁寧な口ぶりに尾藤は安堵した。周囲からの評価が高い人間は、威圧的だったり、攻撃的だったりすることがある。土門はそういうタイプではないようだ。
「私が担当しました」
「白骨遺体の表面に、擦れたような痕跡はありませんでしたか?」
唐突な質問に戸惑いながら、記憶を掘り起こしてみる。
「……特になかったと思います。なぜですか」
「死後経過年数は約三年ということですが、比較的新しい損傷はありませんでしたか。たとえばスコップの先端で削られた痕とか、骨が折れた断片とか」
「それもなかったです。ですから、なぜですか」
「遺体が発見された際の状況は、県警から詳しく聞いていますか」
「聞きました。だから、なぜかって聞いてるんですけど!」
質問に答えない土門につい怒鳴っていた。隣席の同僚と目が合い、尾藤は気まずく頭を下げたが、土門本人は構わずマイペースで話を続ける。
「疑問に思いませんでしたか」
「何をですか?」
「白骨遺体は、《《数か所に分散して埋められていた》》んですよ。ここから何がわかりますか」
──質問しているのは私なんだけど。
鬱憤を募らせながらも、尾藤は冷静に答える。
「遺体をバラバラにしてから埋めた、ってことでしょうね」
「その通りです。ただし尾藤さんの鑑定によれば、遺体の人物は身長一八〇センチ前後の四十代男性です。死後間もない遺体をバラバラにするのはかなりの重労働になります。犯罪のプロでないと難しい」
「なら、犯罪のプロがやったんじゃないですか」
「その可能性は低いと見ています」
「だから、何で?」
なかなか結論を口にしない土門を相手にしているうち、敬語を忘れていた。
「埋められていた場所の深さです」
土門は淡々と自説を語る。
「この依頼を聞いた際、最初に引っかかったのは発見時の状況でした。散歩中の飼い犬が、露出していた骨の一部に気づいたことから発見につながった。ここからわかるのは、遺体が埋められていた位置が《《浅かった》》ということです。しかしプロの仕業だとすれば、これはいかにも不合理です。長身の男を細かくバラバラにするほど周到な犯人が、雨が降った程度で遺体が露出するような浅い穴を掘るでしょうか?」
尾藤は沈黙した。異論の差しはさみようがなかったからだ。言われてみれば、その推論には筋が通っている。
「他にも不審な点はあります。遺体は分散して埋められていましたが、その範囲は五メートル四方に留まっていた。せっかく別々に埋めたのに、そんなに近い距離では分けた意味が薄い。これらの状況から、遺体を遺棄したのはプロではなく、犯罪に慣れていない人間ではないかと仮説を立てています」
流れるような説明に耳を傾ける。今のところ、土門の説明に異議はない。
「ここで気になるのが、どのように遺体をバラバラにしたのか、という点です」
「どのように、とは?」
「先ほど言ったように、死後間もない遺体を分解するのは、慣れている人間でなければ難しい。ただ、素人でも簡単にバラバラにできる方法があります。時間を味方につけるのです」
「……白骨化してから、バラバラにしたってことですか?」
土門は「はい」と短く答える。
「正確には、犯人は別の場所に埋められて白骨化した遺体を、何らかの理由で千葉の山中に埋め直したのではないかと推測しています。念のため現地調査も行い、土壌成分や地形も想定してシミュレーションしましたが、この仮説と矛盾する要素は見つかりませんでした」
先刻、擦れたような痕や新しい損傷について尋ねられた理由がようやくわかった。運搬した際、あるいは土中に埋めた際、白骨遺体に傷がついていれば、土門の仮説を裏付ける証拠になり得る。
尾藤は密かに唾液を飲みこんだ。
遺体発見の状況を聞いただけで、そこまで推測してみせた土門が怖かった。これまで研究者として優秀な人物を大勢見てきたが、土門は他の誰とも似ていない。
「ご遺体がどこから運ばれてきたのかは、さすがにわかってないんですよね」
「今のところは」
その返事を聞いて少し安心した。そこまでわかっていたらもはや神通力だ。
「来週、遺体の発見現場を再訪します。そこでヒントを探します」
「でもすでに一度、行っているんですよね。新情報が手に入りますか?」
「犯罪の現場にはあらゆる痕跡が残っています。たった一度の検分ですべての痕跡を見破れると思うのは、おこがましい考えです」
尾藤は唇を嚙んだ。他の領域では土門のほうが優れているとしても、形質人類学なら自分の右に出る者はいないと自負している。現場に足を運べば、土門が見落としている何かを拾い上げることができるかもしれない。
受話器を強く握りしめ、尾藤は腹から声を出した。
「私も同行させてくれませんか」
(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)