【書評】国の大義のために偽りの希望に加担すべきなのかと問いかける、宇宙開発サスペンス――穂波 了『月面にアームストロングの足跡は存在しない』【評者:冬木糸一】
アガサ・クリスティー賞受賞作家・穂波了の書き下ろし新作長編を、
『SF超入門』の著者で、書評ブログ「基本読書」主宰の冬木糸一氏がレビュー!
宇宙を舞台にしたサスペンスで、冒険小説、人狼ゲーム要素も……!?
さまざまなジャンルを満載した本作の魅力を、冬木氏が解き明かします。
「国の大義」と「個人」の対立、葛藤。人狼要素や第三次世界大戦危機、ロシア-ウクライナ問題など、現在進行系の社会情勢まで。驚いてしまうような物語の密度の高さ!
評者:冬木糸一
この『月面にアームストロングの足跡は存在しない』はミステリー小説の新人賞であるアガサ・クリスティー賞第九回で大賞を受賞しデビューした作家、穂波了の最新宇宙サスペンス長篇だ。もともと氏のデビュー作は『月の落とし子』というタイトルで、月面探査中の宇宙飛行士が、存在などするはずのない致死のウイルスへの感染・発症が発覚し、死亡する──という衝撃的な展開から幕をあける「月」ミステリーだった。
その後、穂波了は超常現象が介在する特殊設定ミステリー『忍鳥摩季の紳士的な推理』、遺伝子操作を中心においた謀略ミステリー『裏切りのギフト』、国際宇宙ステーション(ISS)に起因する新型炭疽菌の感染パニックを描き出す『売国のテロル』など幅広い題材の作品を手掛けてきたが、本作(『月面に〜』)でデビュー作以来久しぶりに「月」へと回帰したことになる。デビュー作とは異なる演出、フックで楽しませてくれるはず──と期待して読み始めたのだが、冒頭からその大きな差が明らかになる。
本作はなんと、人類ではじめて月面に降り立ったとされるアポロ11号時点の月面の動画や写真はすべてフェイクであるという、陰謀論界隈では有名なネタが「真実」(あくまで括弧つきの)だった──という世界を舞台にした作品なのだ。物語の冒頭、宇宙飛行士5人とキャスター1人はこの衝撃的な事実(「月面にアームストロングの足跡は存在しない」)を知らされ、嘘を真実とするため君たちが足跡をつけてくるのだ、とNASAから指令を受ける。
そんな指令は受け入れられない、断固として拒否すべきだと反対するものもいれば、宇宙開発への希望が潰え、アメリカ合衆国への信頼も失墜することからこの指令を受けるしかないと諦めるものもいて──と、とんでもない冒頭のフックから、「国の大義」と「個人」の対立、葛藤。人狼ゲーム要素や第三次世界大戦危機、ロシア-ウクライナ問題など、現在進行形の社会情勢までをも取り込んで、事態は急速に転換していく。わずか240ページちょっとのボリュームなのだが、読み終えてみればよくこんなページ数でこれだけの物語が展開できたな、と驚いてしまうような物語の密度の高さで、著者の新境地を堪能できる。以下、冒頭を中心に読みどころを紹介していこう。
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物語の舞台は至近未来。現実では多国間で月周回軌道上に建設することが提案されている、新しい宇宙ステーションに「月軌道プラットフォームゲートウェイ」(LOP-G)が挙げられるが、本作の世界ではこのLOP-Gがすでに存在し稼働している。
宇宙ステーションってすでにあるんじゃないの? と思うかもしれないが、このLOP-Gは月の上空50km部分を周回しているのが特徴で、月面に拠点を築いたり、月の研究をしたり、火星への中継地点となることを期待されている。本作の冒頭では民間人のキャスター(キャサリン)と、本職の宇宙飛行士の5人の計6人がこのLOP-Gに搭乗し、整備や掃除、研究をしながら地球に宇宙開発のリアルを発信している。
LOP-Gに彼らが滞在をはじめて一週間が経った頃、月面着陸を伴う新しい指令が言い渡される。それが先に紹介した「月面にアームストロングの足跡は存在しない」、ゆえに「足跡をつけてこい」という指令だ。そもそもなぜアームストロングの足跡は、当時捏造されなければいけなかったのか? といえば、当然それには冷戦が関わっている。アメリカが威信をかけたミッションが失敗し、アームストロングたちが命を落とすようなことがあれば、アメリカは世界の王位争奪戦から脱落する。だからこそ、管制は事前に地球のスタジオで月面を撮影し、その映像を流したのだ。当時はそれがフェイクであるかどうかを判定する技術も存在しなかったから──というのである。
とはいえ月面の足跡なんて何度も観測されてるんじゃないの? などの当然の疑問も宇宙飛行士らからは飛ぶが、地球の人々が目にする写真はすべて加工されたディープフェイクなのだという。それが今になって捏造する必要が出てきたのは、民間企業が宇宙に進出する時代がきて、フェイクで誤魔化すことができなくなってきたからだ。そのうえ、世界情勢は現在、かつての冷戦期のようにきなくさくなってきている。2022年からのウクライナ侵攻でロシアという国家の危うさはあらためて浮き彫りとなり、今、アメリカの威信がなくなると、世界の均衡は崩れかねない。
当然、この指令を受け入れられない人間もいる。最初、宇宙飛行士らは比較的穏やかに話し合いながら議論を続けているが、一致した結論が出ることはない。その上、ロシアによって突然、「月面にアームストロングの足跡は存在しない」という事実が世界に向かって公表されてしまう。何者かから”リーク”があったのか否かはわからないが、あったとして、誰からロシアに情報が漏れたのか? 一方で、 LOP-Gでの生活も決して安全なものではなく、何者かによる攻撃が加えられて──と、情報をリークした「人狼」を探すだけでなく月軌道上という酸素から食料まで、すべてが限られた世界での極限サスペンスがはじまり、物語はノンストップで進んでいくことになる。
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強烈なサスペンスの中で、いくつものテーマが交錯していくのが本作の大きな魅力だ。自分の信念と異なる指令を受けた宇宙飛行士たちは「国家の大義と個人の信念の対立」に苛まれる。これは、宇宙飛行士だけでなくたとえば自国がウクライナに侵攻しているロシア人にも重ね合わされるテーマだが、様々な国家に属し、様々な思想信条を持った人間がチームを組む宇宙という舞台では、それがより強調されるのだ。
また、宇宙飛行士といえばメンタル的にも達観し肉体的にも完成した人たちである、というイメージが強い。だが、メイン6人の登場人物の中でも中心的な存在である日本人の航太は、もともと技術畑で生きてきたのを、宇宙飛行士に転身した人物として描かれており、冒頭時点では宇宙飛行士としてはまだ未完成の人物とされている。それが、作中で力強く「成長」していく構成になっているのもおもしろい。これは、(航太にとっての)宇宙飛行士の「完成」とは何かを示す過程でもあるのだ。
「大義のある嘘」にたいして、どのような姿勢をとるべきか、というテーマも、物語の最終盤まで効いてくることになる。はたして、「存在しない」のが真実だと言われている足跡は、本当に存在しないのか──それはぜひ、読んで確かめてみてほしい。
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個人的に良かったのはLOP-Gを舞台にしているところからはじまって、宇宙船や宇宙服といった、宇宙開発面の緻密な描写がなされている部分で(民間の宇宙進出が本格化しているからもう足跡がフェイクでごまかせない、など細かい部分の論理展開もうまいんだこれが)、このあたりはさすがに『月の落とし子』や『売国のテロル』の穂波了だな、と唸らせてくれる。今後も、宇宙を舞台にしたサスペンス・ミステリーをどんどん書いてほしい! と熱望させる、穂波了の新たな代表作だ。