【試し読み】知念実希人『傷痕のメッセージ』冒頭特別公開!
現役医師作家・知念実希人さんの最新文庫『傷痕のメッセージ』が、2024年9月24日に発売しました。
胃壁に遺された暗号と迷宮事件。2つの謎に病理医コンビが挑む、医療×警察ミステリです。
本記事では、刊行を記念して試し読みを特別公開!
物語のはじまりをお楽しみください。
あらすじ
『傷痕のメッセージ』試し読み
プロローグ
ラテックス製の処置用手袋を嵌めた手で、内視鏡のプローブを摑みながら、堀寛太は荒い息をつく。医師になって三十年以上、多くの大手術を執刀してきた。しかし、いまだかつてこれほどまでの緊張をおぼえたことはなかった。
「本当に……いいんだな?」マスクで覆われた堀の口から、震え声が漏れる。
「さっきから何度同じ質問をするんだ、いいからさっさとやれ」
処置用のベッドに横たわった老齢の男が苛立たしげに吐き捨てた。
「けれど……うまくできるかどうかも分からない。こんな常識外れの処置……」
「なあ、堀先生」
男は上体をおこすと、堀と目を合わせる。心の奥底まで見透かすような眼差し。三十数年前、狭い部屋でこの男の取り調べを受けた記憶が蘇り、背筋に冷たい震えが走る。
「どんなことにも『初めて』はあるだろ。初めての注射、初めての診察、初めての手術、そして……初めてのお薬を使ってのちょっとした悪戯」
男は目を細める。堀の口からくぐもったうめき声が漏れた。
「それを乗り越えて、あんたは医者としての腕を磨き、こうしてなかなかでかいクリニックまで開業したんだ。それなら、今回の『初めて』だってうまくこなせるはずさ」
内視鏡の挿入に備え、男の咽頭にはすでに麻酔がかかっている。呂律が怪しくなっている声が、堀には地獄の底から響いてくるかのように聞こえた。
いや、実際この男はいま、地獄の底にいるのかもしれない。目の前の男が置かれている状況を思い出し、堀はからからに乾いた口腔内を舌で舐めて湿らせる。
求めている処置を行わなければ、この男は自分を地獄の道連れにするだろう。
医師として必死に働いてきた。妻をめとり、一人娘を育て上げ、病院を開業して地域医療に貢献してきた。娘は去年結婚し、数ヶ月後には初孫が生まれる予定だ。三十年以上かけてこつこつと積み上げてきた財産、それを守るためにはどんなことでもしてやる。
決意を固めた堀は、プローブを摑む手に力を込めた。
「分かった、やる。やってやる。だから姿勢を戻せ」
「そうこなくっちゃな、さすがは院長先生だ」
男は左側を下にした半身の姿勢でベッドに横になり、枕に側頭部を乗せる。堀はわきに置かれたモニター画面の端にセロハンテープで貼られたメモ用紙に視線を送る。そこには、意味の分からない文字の羅列が記されていた。
「このメモ、どういう意味なんだ?」
「あんたには関係ない。この処置が終わったら、あんたはこの件についてすべて忘れる。その代わりに、あんたの秘密は永遠に葬り去られる。そういう約束だっただろ」
「……ああ、そうだな。たしかにそういう約束だった」
器具台の上に置かれていたマウスピースを手に取った堀は、男に差し出す。
「これを口に嵌めろ。唾液が口に溜まるが、吞み込まずに外に出せ」
マウスピースを嵌めた男は、「早くしろ」とでも言うように、あごをしゃくった。堀はプローブを慎重に男の口に挿し込んでいく。先端が喉を通過する際、咽頭反射で男が軽くえずいた。その顔が苦しそうに歪んでいるのを見て、堀はわずかに溜飲を下げる。
「食道に入ったぞ。もう苦しくないだろ」
堀はモニターを見る。そこにはぬめぬめと光沢を放つ粘膜の管が映し出されていた。
プローブを送っていくと、モニターの映像は食道から胃へと変化していく。健康な状態では薄いピンク色をしている胃粘膜は、赤黒く充血し、ところどころに瘢痕による引き攣れが認められた。
「長年の炎症で粘膜が萎縮しているし、いたるところに胃潰瘍の痕がある。あんた、どれだけストレス溜め込んでたんだよ。まあ、あんな仕事していたら当然か」
堀はモニターから男に視線を移す。男と目が合った。底なし沼を彷彿させる昏く深いその瞳に吸い込まれていくような錯覚に襲われ、堀は軽く頭を振った。
「それじゃあ、はじめるぞ。助手の看護師もいないから、どれだけ時間がかかるかは分からない。体にもかなり負担がかかるはずだ。それでもやるんだな?」
最後の確認をする。男は無反応だった。
「聞くだけ野暮か。こんな依頼をしてくるんだ。頭のネジが外れちまっているよな」
大きく舌を鳴らした堀は、モニターを睨みつけると正面に映る胃粘膜に向かって慎重にプローブを進めていく。
本当にできるだろうか? 脳に湧いた疑問を、頭を振って頭蓋の外に放り出す。
できるかじゃない、やるんだ。三十年以上かけて積み上げてきたものを守るために。
やがて、画面いっぱいに赤黒い粘膜が映し出される。プローブの先端から伸びた金属が、その粘膜に触れたのを確認すると同時に、堀の指がハンドルのわきについているボタンを押し込んだ。
警告するかのような電子音が空気を揺らし、白い煙で映像が見えづらくなる。
氷のように冷たい汗が頰を伝うのを感じながら、堀は歯を食いしばって両手を複雑に動かし、内視鏡を操り続けた。
第一章 胃壁の暗号
1
あと一年もこんなことを? 顕微鏡から顔を上げた水城千早の口から零れたため息が、薬品臭い空気に溶けていった。東京都港区神谷町にそびえたつ純正会医科大学附属病院、その三階にある病理診断室。先週からここが千早の職場だった。
何時間も続けて顕微鏡を覗いていたため、目の奥が鉛でも詰まっているかのように重い。両手でこめかみのマッサージをしながら、千早は部屋を見回す。数人の病理医が顕微鏡を覗いては、黙々と電子カルテにレポートを打ち込んでいた。
この雰囲気、苦手だ。まだ病理部に来て一週間程度しか経っていないのに、外科医として毎日のようにオペに入っていたのがはるか昔のことのように感じてしまう。
千早の専門は腹部外科だった。医大を卒業し、二年間の初期研修を終えたあと、純正医大第一外科医局に入って三年間、外科医としての修業に日夜明け暮れた。しかし、純正医大第一外科では伝統的に、中堅医局員に一年間の病理部への出向を課していた。
検査や手術によって採取された細胞を観察する病理診断は、臨床の現場ではとても重要だ。とくに腫瘍に対しては、それが良性のものか、それとも悪性、つまりは『癌』と呼ばれるものなのかは、病理医が腫瘍細胞を顕微鏡で観察して判定を下す。そのため病理医は『ドクターズ・ドクター(医師の中の医師)』とも呼ばれていた。
外科医の仕事は癌との戦い。外科医は『敵』である癌についてより深い知識を持つため、病理学を学ぶ必要がある。それが、第一外科医局の方針だった。
だからって、一年もこんな陰気な部署で働かせなくてもいいじゃない……。
千早は再びため息をつく。標本を切り出してプレパラートを作り、薬液につけて染色し、顕微鏡で時間をかけて細胞の性質を調べてレポートを書く。手間と時間がかかるそれらの作業は、自他ともに認める大雑把な性格の千早にとって、まさに拷問だった。
肩を落としていると、横から声がかけられる。
「水城先生、ため息ばっかりついていないでちゃんと仕事して」
千早は「はい……、すみません」と謝りながら隣の席を見る。そこには若い女性医師が背中を丸めるようにして座っていた。大きな眼鏡の奥の瞳は、眠そうに細められている。着ている白衣にはしわが寄り、いたるところに染色薬の染みがついていた。
再び顕微鏡を覗きはじめた隣の席の女性の姿を、千早は横目で観察する。ほとんど日に当たったことがないかのような蒼白いその顔には、まったく化粧が施されていない。肩にかかる黒髪には軽くウェーブがかかっているが、パーマをかけているというより、寝癖を直していないだけのように見える。常に寝起きの雰囲気を醸し出しているこの女性こそ、病理部での千早の指導医である刀祢紫織だった。
この子が指導医だってことが、居心地の悪さの根源よね。千早は内心で愚痴をこぼす。
千早と紫織は元々、純正医大医学部時代の同級生だった。病理部の教授が「知り合いの指導の方が緊張せずに仕事ができるよね」と、紫織を指導医にしたのだ。しかしそれは、ありがた迷惑以外のなにものでもなかった。なぜなら元同級生といっても、学生時代、千早と紫織はほとんど会話を交わしたことがなかったのだから。
だからこそ千早は、「いえ、同級生を指導するのは刀祢先生もやりにくいと思いますし……」と、やんわり断ろうとした。しかしその前に、紫織が例の間延びした口調で「私はかまいませんよぉ」と言ったのだった。かくして、ほとんど面識のない元同級生が指導医という、どうにもやりにくい状況に追い込まれている。
再び顕微鏡を覗きはじめた千早は、摘みを回してピントを合わせていく。いま観察しているプレパラートは、子宮頸部から採取された細胞を染色したものだった。
細胞はきれいに並んでいるし、核の異常も認められない。数分間かけて観察を終えた千早は、わきに置かれていた電子カルテのキーボードを叩きはじめた。
『細胞の異形成を認めず class Ⅰ』
所見を打ち込み終えると、千早は隣に座る紫織に「確認をお願いします」と声をかける。紫織は「ん……」と、キャスター付きの椅子を滑らせて近づき千早の顕微鏡を覗き込む。千早の報告書は、指導医である紫織の最終確認が必要だった。
「異形成はないけど、表層部にほんの少しだけ炎症細胞が浸潤してる」
数十秒して顔を上げた紫織はつぶやくと、椅子を回して電子カルテに向き直る。
『細胞の異形成を認めず、ただし表層に炎症細胞の浸潤を認める class Ⅱ』
報告書を修正した紫織は、再び椅子を滑らせて自分の席へと戻っていった。
千早は「ありがとうございます」と無味乾燥な礼を口にする。最初は、紫織にどういう態度を取ればいいのか迷った。とりあえず、指導医だからと敬語を使うようにしたが。適度な距離感を保つのに、敬語は役に立つツールだ。
観察を終えた検体を顕微鏡から取り外し、新しいプレパラートをセットする。
あと一年、こんな生活に耐えられるだろうか。
今日何度目か分からないため息を吐くと、千早は顕微鏡に顔を近づけていった。
仕事を終えた病理医たちが次々と部屋から出ていく。紫織も誰にともなく「お疲れ様」とつぶやくと、席を立って出入り口に向かっていった。扉の向こう側に指導医の姿が消えるのを見送った千早は、肺の底に溜まっていた空気を吐き出す。掛時計の針は午後五時過ぎを指していた。病理部では基本的に、午後五時になると勤務が終了する。
外科では、定時に仕事が終わることなどほぼなかった。毎日のように行われる定時手術、外来業務、病棟回診や指示出し、処方箋・注射箋の入力、カルテの記載、さらには突然飛び込んでくる緊急手術。それらの仕事を勤務時間内に終えることなど、ほぼ不可能だ。加えて、教授回診や頻繁に行われるカンファレンスでの症例報告の準備もある。二十四時間、仕事に縛られ続ける生活。しかし、そんな毎日に充実感をおぼえていた。
千早は背もたれに体重を預けると伸びをする。脊椎がこきこきと音を立てたとき、「水城先生」と声をかけられる。振り返ると、病理部の部長にして、純正医大病理学教室の教授である松本一哲が手招きをしていた。
千早は「はい」と早足で松本の席の前まで移動し、直立不動の姿勢を取る。大学の医局は主任教授を頂点とするピラミッド構造となっている。特に外科系の医局ではその傾向が強くなり、『軍隊』と揶揄されることすらある。
「そんなにしゃちほこばることないよ。ここは外科じゃないんだから」
松本は人の好さそうな笑みを浮かべる。定年退職を来年に控えているというから現在は六十四歳のはずだが、しわが多い顔と真っ白な髪のため、さらに老けて見えた。
「ここに来て一週間になるけど、どうかな? 少しは慣れてきたかな?」
なんと答えるべきか一瞬迷う。松本は「率直な感想を」と肩をすくめた。
「正直に申しますと、まだ慣れてはいません。外科とはあまりにも勝手が違うもので」
「外科じゃ定時に帰りはないだろうからね。特に教授の私を置いて先に帰るなんてさ」
松本はけらけらと笑い声を上げた。
「けど、みんな決められた分の検体は終えてから帰っているんだよ。自分の仕事が終わっているんだから、義理で残るなんて馬鹿らしいでしょ。時間内に仕事をしっかり終わらせる。それが私のポリシーなんだよ。だからさ、水城先生も割り当てられた仕事が終わっていたら、他のドクターが残っていても気にせず定時で帰っていいからね」
躊躇いがちに「はい……」と頷くと、松本が目を覗き込んできた。
「まだ、うまくなじめない原因がありそうだね。もしかして、人間関係かな」
図星をさされ、千早は言葉に詰まる。
「無口なスタッフも多いけど、気のいい連中だよ。もう少し時間が経てば、打ち解けてくるよ。これまで外科からうちに出向したドクターたちは、みんなそうだったから」
「はい、皆さんにはよくして頂いています」
そこで言葉を切るつもりだったが、無意識に「ただ……」と声が漏れる。
「ただ、なんだい?」松本は首を傾ける。
「なんと言いますか……、刀祢先生に負担をかけているのではないかと……」
「刀祢君に負担を?」
「は、はい。刀祢先生は卒後六年目ですから、指導しながら仕事をこなすのは大変ではないかなと。あと、元同級生の私を指導することに戸惑っているかもしれませんし」
言い終えたあと、自己嫌悪に襲われる。戸惑っているのは私だ。無口で、ほとんど感情が読めない元同級生の指導医に対し、やりにくさをおぼえているだけだ。
「心配ないよ。彼女はうちのスタッフで最年少だが、病理医としての能力は他のドクターたちに勝るとも劣らない。だから、君の指導を負担になんて思っていないはずさ」
「でも、いつもなんと言いますか……、気怠そうにしているので」
「前から刀祢君はあんな感じだよ。というか、学生時代は違ったのかな?」
千早の脳裏に、教室の隅で文庫本を読んでいる紫織の姿が浮かんでくる。
「いえ、たしかにいつもあんな感じでした」
「でしょ。あれが彼女の素なんだよ。だから、気に病む必要はないさ。それにもうすぐ、元同級生の君でも知らない刀祢君の一面を見ることができるかもしれないよ」
松本は子供のように悪戯っぽい表情を浮かべた。
「病理医としての彼女の本領が発揮されるのは、この病理診断室じゃないんだよ」
「どういう意味でしょう?」
「すぐに分かるさ。ここは千床を超える大病院だ。最近少なくなっているとはいえ、平均すると週に一回くらいは依頼がくるからね。そうしたら、彼女の出番だよ。そのときは君も付き添いなさい。刀祢君の熱を間近で感じれば、彼女を見る目も変わるはずだ」
松本は席を立つと、白衣に包まれた千早の肩をポンと叩いた。
「それじゃあ水城先生、お疲れ様。また明日。出るときには消灯をお願いね」
狐につままれたような千早を置いて、松本は病理診断室から出ていってしまう。
一人取り残された鼻先を、細胞固定用のホルマリンの刺激臭がかすめていった。
2
蛍光灯の光に照らされた廊下を進んでいく。三階にある病理診断室をあとにした千早は、その足でエレベーターに乗り、二十五階にある外科病棟へとやってきていた。
ナースステーションの前を通ったとき、「よお、水城」と明るい声がかけられた。見るとステーションの奥で、三年先輩の外科医である向井陽介が片手を振っていた。
「お疲れ様です、向井先生」千早は電子カルテの前に座っている向井に近づいていく。
「おう、疲れているよ。さっきまで海老沢教授執刀の食道癌の手術の第一助手を、八時間ぶっ続けでやっていたからな。ようやく病棟に戻って、回診済ませたところだ」
向井はわざとらしく首を鳴らすと、皮肉っぽく唇の片端を上げる。
「なに骨を前にした犬みたいな顔しているんだよ。そんなに手術に入りたいのか?」
内心を的確に言い当てられた千早は、「誰が犬ですか」と誤魔化す。
「まあ、俺も一年出向したけど、病理はきついよな。分かるよ」
「あの、向井先生。ちょっと話聞いてもらってもいいですか」
千早は椅子を引いて、向井の隣に腰かける。陽気な反面、細かいことにもよく気づき、医局のムードメーカーである向井は、若手医師たちの兄貴分のような存在だった。
「まったく、この前の小鳥遊といい、お前たちってなにかと俺に相談してくるよな」
外科で同期だった同僚の名前が出て、千早は「あの件は……」と言い淀む。
「あいつの悩みは洒落にならなかったからな。手術して治した患者に首を吊られたなんて……。で、水城。さすがに、お前の相談事はあれよりは軽いだろ」
「え、ええ、もちろんです。あの……」
千早は慣れない病理の仕事でストレスが溜まっていること。さらに、親しくない元同級生が指導医で、どう対応していいか分からないことなどを話した。
千早の相談を一通り聞いた向井は、「そうだなあ」とあごを撫でる。
「病理の仕事はそのうちに慣れるって。それに、外科医にとって病理学が重要なのは間違いない。一流の外科医になるための修業だと思えば、やる気も湧いてくるぞ」
たしかに、医局命令で押し付けられていると思うから、つらいのかもしれない。
「指導医については、もっとそいつのことを知ろうとしてみた方がいいんじゃないか」
「知ろうと、ですか?」
「元同級生が指導医ってことに戸惑いすぎて、お前はそいつとの間に壁を作ってる感じがする。だからさ、距離を詰めてそいつのことを観察してみろよ。そうしたら、意外な一面とかが見えてきて、それがきっかけで打ち解けたりできるかもしれないぞ」
「そんなもんですかねえ……」声に疑念が滲んでしまう。
「まあ、無責任な他人のアドバイスだよ。参考程度に聞いといてくれ。まだまだ時間はあるんだ。そのうちに苦手意識も薄くなるさ」
向井に言われるとそんな気もしてくる。千早は椅子から腰を上げて頭を下げた。
「ありがとうございます。忙しいのに、時間取らせてすみませんでした」
身を翻しかけた千早の腕を向井は摑む。
「なあ、水城。相談事ってのは、それだけでいいのか?」
千早が「え?」とつぶやくと、向井は電子カルテの画面を指さした。胸の中で心臓が跳ねる。そこには、これから千早が面会する患者の診療情報が表示されていた。
「病理の悩みと違って、こっちはそれほど時間はない。分かっているだろ」
錆びついたかのように動きが悪い首関節を動かし、千早は「分かってます」と頷く。
「お前が毎日見舞いに来ていることは知っている。そして毎回、数分で病室から出てくることもな」
向井がまっすぐ目を覗き込んでくる。千早はその視線から逃げるように目を伏せた。
「なにも話すことがないから。……なにを話していいか分からないから」
「その気持ちは分からんでもないよ。ただな、本当にそれでいいのか?」
「……向井先生には、関係ないじゃないですか」思わずそんな言葉が口をついた。
「関係なくはないぞ」向井は微笑みながら、ディスプレイを指さした。「俺はこの患者の主治医だ。そして……お前は俺の大切な後輩だからな。俺は後悔して欲しくないんだよ。お前たちの関係がちょっと複雑なのは、なんとなく分かってる。いまの状況で、お互いにどんな話をすればいいのか分からないのも理解できる。けどな、このままだと間違いなく後悔する。だからさ、お前から一歩だけ歩み寄ってみろよ」
「歩み寄って……」千早はそっと口の中で転がした。
「そうだ。まず一歩だけ踏み込んでみろ。それを毎日続けていけば、わだかまっていたもやもやも晴れていくかもしれないぞ。なんといっても……家族なんだから」
家族。その言葉が千早の心を揺さぶった。千早は胸元に手を当てる。掌に心臓の鼓動が伝わってきた。そう、あの人と私は家族だ。このまま終わっていいわけがない。
「いい表情になってきたな。それじゃあ、温まっているうちに顔を見せてきな」
「はい、ありがとうございます」
千早は心から礼を言うと、ナースステーションをあとにして看護師たちが忙しそうに行き交う廊下を進んでいく。慣れ親しんだ外科病棟の喧騒が懐かしかった。目的地に近づくにつれ、心臓の鼓動が加速していく。個室病室の扉の前にたどり着いた千早は、目を閉じて深呼吸をくり返したあとノックをし、そっとレバーに手を伸ばした。
引き戸を開き、室内に入る。六畳ほどの殺風景な部屋。窓辺に置かれたベッドに男が横たわり、時代小説の文庫本を読んでいた。その姿を見て千早は軽く唇を嚙む。
瘦せた男だった。ほとんど脂肪のない顔は、頭蓋骨に皮膚が貼り付いているかのようだ。目は落ち窪み、入院着の襟から覗く胸元には肋骨が浮き出て、袖から出た腕は枯れ木のように細い。耳にかけられたプラスチックチューブが鼻まで延び、ベッドサイドに置かれたモニターには心電図の波形が映し出されていた。医療従事者でなくても、この姿を見れば気づくだろう。男が重い病に冒され、残された時間がわずかだと。
肝内胆管癌の全身転移による悪液質。医学的には、男の状態はそう説明できた。肝臓で生成される胆汁を胆囊へと送る管、その組織から生じた癌細胞が全身にばらまかれ、血中から絶え間なく栄養を吸い取っては、無秩序に増大を続けている。
千早が声をかける前に、男は読んでいた文庫本をベッドわきの床頭台に置いた。
「今日は早いな」ひとりごつように男はつぶやく。
「いまは少し暇だから」千早は緩慢にベッドに近づいた。「調子はどう? ……父さん」
「まあまあだな」千早の父親である水城穣は、いつもと同じ言葉で答えた。
千早は「そう」とつぶやくと、パイプ椅子に腰かける。重い沈黙が部屋に満ちる。穣は口をつぐんだまま、遠くを見る目で窓の外を眺めていた。
子供の頃から、父と話すことは少なかった。警備員として忙しい勤務をこなしていた父は、いつも帰りが遅かった。まれに家族三人で夕食の食卓を囲むときも、主に会話をするのは千早と、母の葉子だった。千早が高校二年のとき、病魔が母の命を奪うまで。
乳癌により母を喪うと同時に、千早の生活から家族団欒というものは消え去った。父が夕食前に帰宅する頻度はさらに減った。休日など、ごくまれに父と食事をするときも、ほとんど会話はなかった。食器が当たるカチャカチャという音がやけに大きく聞こえるダイニングで父と二人でいることに、いつしか息苦しさをおぼえるようになった。
だから、純正医大医学部に合格した千早は、家を出て学生寮での一人暮らしをはじめた。電車で数十分のところに住む父とは、年に数回、外でしか顔を合わさなくなった。研修医になってからは、さらに会う機会は減った。
ただ、父を嫌っていたわけではなかった。不器用なりに、父が愛情を注いでくれているとは感じていた。母が亡くなったあと、それまでほとんど料理などしたことがなかった父は、朝早く起きて弁当と夕食を作ってくれるようになった。千早が緊張しつつ、「将来、医師になりたい」と伝えたときは、「お前の人生だ、やりたいようにしろ。学費はどうにかする」と分厚い唇の端をわずかに上げてくれた。
お互いにどう接していいか分からなくなっていただけだ。時間が経てばいつか、また父と『家族』に戻ることができる。漠然とそんな期待を抱いていた。しかし、一年前、父に癌が発見され、その未来予想図は木っ端みじんに砕かれた。
すでに癌は全身に転移しており、根治治療は不可能な状態だった。そのことを知った千早は父を必死に説得し、純正医大附属病院の外科で治療をはじめた。
当初は外来で行う化学療法により腫瘍はだいぶ縮小したが、半年ほど経つと抗癌剤の効果がなくなり、再び癌は増殖しはじめた。父は出来るだけ自宅で過ごし、警備員の仕事を続けることを希望していたが、一ヶ月ほど前に外来では疼痛がコントロールできなくなり、さらに全身状態も悪化したためこの病室に入院することになった。
父が入院してからというもの見舞いに来るたび、この鉛のように重い沈黙に耐えきれなくなり、十分もしないうちに「また明日くるから」と部屋をあとにしていた。
――お前から一歩だけ歩み寄ってみろよ。
数分前、向井からかけられた言葉が耳に蘇る。
そうだ、このままじゃだめだ。千早は乾燥した唇を舐めると、そっと口を開いた。
「桜……」囁くように言うと、穣が振り返る。
「なにか言ったか?」
「桜、綺麗に咲いてるね。窓から見えるでしょ」
神谷町にそびえ立っているこの純正会医科大学附属病院本館の窓からは、主に灰色のオフィス街しか見えない。しかし、この部屋は近くにある有名な寺院を見下ろす位置にあり、その境内に植えられている桜を眺めることができた。
「ああ、たしかに見えるな」
穣は最低限の言葉で返事をする。会話が終わらないよう、千早は必死に話題を探す。
「今年は開花が遅かったから、まだ散ってないんだよね。ねえ、父さん覚えてる? 私の高校の入学式。あのときも校庭の桜が満開で、お母さんと三人で写真撮ったよね」
穣は「そうだったな」と一言だけつぶやいた。再び部屋に沈黙が落ちる。
やっぱりだめだ。千早は肩を落とし、口を固く結んだ。向井に言われたとおり、なんとか歩み寄ろうと試みたが、父からは突き放すような反応しか返ってこない。
うなだれていると、「千早……」と遠慮がちな声がかけられた。千早は顔を上げる。
「仕事は……相変わらず忙しいのか?」
「いまはそれほどでもないかな。どうして?」
「いや、なんとなく表情が疲れているように見えたからな」
「ちょっと仕事で覚えなくちゃいけないことが多くてね。そのせいかも」
「覚えなくちゃいけないことっていうのは、新しい手術の方法とかか?」
千早は「そんなとこ」と適当に誤魔化す。病理部への出向の話は父にはしていなかった。その話題を口にすれば、どうしても愚痴っぽくなってしまう。
「しかし、お前が外科医になるなんてな。いまだに信じられないな」穣はわずかに目を細める。「予防接種を嫌がって泣いていたのにな」
「それって、幼稚園生の頃でしょ。もう二十五年以上前の話じゃない」
「二十五年、……そうか、あれから二十五年以上も経つんだな」
穣は遠い目で天井あたりを眺める。なにを思い出しているのだろう。家族三人で過ごした記憶だろうか。ほのかな期待を抱きながら、千早は口を開く。
「ねえ、父さん覚えてる? 中学の入学式でさ……」
数少ない、父が参加してくれたイベントの思い出を千早は口にしていく。それらを聞くたびに、穣は「ああ、覚えているよ」とかすかに微笑んで頷いてくれた。
父との距離が縮まっている。その実感が、千早の舌の滑りをよくしていた。
親子の何気ない会話。それを交わすことができず、十年以上父と距離を取ってきた。しかし、母の死で動揺した自分が、勝手に壁を作っていただけなのかもしれない。もっと時間があれば、普通の親子に、普通の家族になれていたかもしれないのに……。
必死に父に話しかけつつ、千早は胸に湧いた後悔を振り払う。
いや、まだ遅くはない。まだ時間はあるはずだ。本当の家族になるための時間が。
千早がさらに言葉を重ねようとしたときノックの音が響き、引き戸が開いた。
「水城さん、夕食ですよ」
盆を手に部屋に入ってきた看護師は、千早に気づいて足を止めた。
「あっ千早先生、お邪魔してすみません。よろしければ、あとにしましょうか?」
「ううん、大丈夫。もう帰るところだったから」
いつの間にか一時間近く話し込んでいた。緊張で少し疲れている。体力が落ちている穣の疲労はさらに強いだろう。切り上げるにはちょうどいいタイミングだった。それに娯楽が少ない入院患者にとって、食事は数少ない楽しみだ。
あと何回、父は食事できるか分からない。なら、その邪魔をするべきじゃない。
看護師は「失礼しますね」と言って、ベッド柵に渡したテーブルに夕食が載った盆を置くと、「ゆっくり食べてくださいね」と部屋から出ていった。
「それじゃあ、いただくとするかな」
「父さん。そろそろ私、行くね」
穣は「そうか」とあごを引く。わずかに後ろ髪が引かれるが、千早は「ゆっくり、ご飯楽しんで」と扉に向かっていった。
母が死んで以来、ずっと父との間に立ちはだかっていた壁に亀裂を入れることができた。病理部に出向しているおかげで、幸い明日以降も十分に面会時間を取ることができる。焦らず少しずつ距離を縮めていけばいい。
扉のレバーに手を伸ばしかけたとき、「なあ、千早」と背後から声がかけられた。振り返ると、穣がさっきまで読んでいた時代小説の文庫本を手にしていた。
「よかったら、この続きを買ってきてくれないか。ここの売店には売ってないんだ」
千早は数回まばたきをしたあと、顔をほころばせた。
「分かった。駅前に大きな書店があるから、そこで買って明日持ってくる」
「悪いな手間をかけて」
「気にしないでよ。血の繫がった親子なんだからさ、当然でしょ」
親子、思わずその言葉が口をつき、千早は気恥ずかしさをおぼえる。しかし、どこか浮ついた気分は、父の反応を見て霧散した。
「血の繫がった親子……」低くこもった声でつぶやいた。
「ど、どうしたの?」ただならぬ様子に千早は声をかける。
「……親子じゃない」
思わず「え?」と聞き返すと、穣は千早の目をまっすぐに見た。底なし沼のように昏く深い瞳。そこに吸い込まれていくような錯覚に襲われる。
「たんに血が繫がっているからといって、親子になれるわけじゃない」
穣の言葉は、千早の耳には人工音声のように無味乾燥に響いた。
「なんで、そんなこと言うの……。なんで、いま……」
せっかく壁を取り払えると思った。また『親子』に戻れると思った。しかし、穣から返ってきたのは、お前とは親子などではないという明らかな拒絶だった。
「事実だからだ。それを忘れるな」
それ以上の会話を拒否するかのように穣は箸を手にすると、鮭の身を崩しはじめる。
身を翻した千早は、勢いよく扉を開けて病室を出た。
鉄の鎖で心臓が締め付けられているかのような鈍痛が、胸の奥にわだかまっていた。
3
けたたましい電子音が鳴り響く。深い眠りの底から一気に意識を掬い上げられた千早が目を開くと、枕元のスマートフォンが着信音を鳴らしていた。
寝起きの目には明るすぎるディスプレイに『純正医大附属病院』の文字が浮かんでいる。ナイトテーブルに置かれたデジタル時計には、『AM4:28』と表示されていた。
週に一回は、深夜に病院から緊急連絡がある。その多くは担当している患者の病状が悪化したというものだ。大きな急変ならすぐに病院に向かわなければならないが、発熱程度なら当直医に対応を頼み、朝一に様子を見にいけばいい。重い頭を振りながら、千早は『通話』のアイコンに触れる。
『水城先生、二十五階病棟の夜勤ナースです!』スマートフォンから声が響いた。
「うん、分かってる。誰か急変したの?」
『そうです、急変したんです。すぐにいらしてください!』
切羽詰まった声を聞いて、千早は居ずまいを正す。どうやら、シビアな状況のようだ。
「焦らないで、しっかり報告して。急変したのは誰で、どんな具合なの?」
私の担当患者でいま状態が悪いのは……。そこまで考えたとき、思考に掛かっていた靄が一気に晴れた。室温が一気に氷点下まで下がったような気がする。
担当している患者なんているわけがない。先週から病理に出向しているのだから……。
『水城先生……』
スマートフォンから発せられる押し殺した声が鼓膜を揺らす。
『急変されたのは水城先生のお父様です。……かなり厳しい状態です』
手から零れ落ちたスマートフォンが、フローリングの床に落ちて乾いた音を立てた。
薄暗い廊下を息を切らして駆けていく。病院から連絡を受けた千早は、すぐに着替えて自宅マンションを出ると、タクシーを拾って病院へやってきていた。
エレベーターで二十五階に着くと、開きはじめた扉の隙間に体をねじ込み、靴を鳴らして廊下を走る。足が縺れ、何度も転びそうになりながら穣の病室の前にやってきた千早は、扉に向かって手を伸ばそうとする。しかし、体が動かなかった。
怖かった。扉を開けることが。その奥に広がる光景を見ることが。
血が滲むほどに強く唇を嚙むと、千早はレバーを横に引き、病室へと足を踏み入れる。
暗い廊下とは対照的に、眩しいほどの蛍光灯の明かりに照らされた空間。その奥にあるベッドに穣は横たわっていた。鼻に挿されていた酸素チューブは取り去られ、ベッドのわきに置かれている心電図モニターのディスプレイは暗転していた。
千早は薄氷の上を歩くような足取りでベッドのそばまで進んでいく。穏やかな顔で目を閉じているその姿は、気持ちよく眠っているように見えた。
千早はそっと父に手を伸ばしていく。指先が頰に触れた瞬間、熱湯にでも触れたかのように千早は手を引いた。喉の奥から「ひっ」と声を漏らしながら、数歩後ずさる。
父の肌は冷たく、そして硬かった。まるでゴムでできた人形のように。
この感触を千早は知っていた。命の灯が消えた人間の感触。
「父さん……」
弱々しい言葉が口から漏れたとき、「水城」と背後から声を掛けられた。千早は緩慢な動作で振り返る。いつの間にか、向井と若い看護師が、出入り口近くに立っていた。
「……向井先生」千早は弱々しい声でつぶやく。
「一時間ほど前に、急に酸素飽和度が低下してナースステーションのアラームが鳴った。当直の俺が呼ばれて診察したところ、すでに意識はなく、血圧も低下していた。酸素をマスクで十リットル投与し、ドパミンの投与も開始したが反応しなかった」
向井の報告を、千早は立ち尽くして聞く。その内容がうまく脳に浸透していかない。
「すぐにお前に連絡するようナースに指示し、その後も処置を続けたが、二十分前に心肺停止状態になった」
「分かり……ました」混乱状態のまま声を絞り出す。
「じゃあ、確認させてもらってもいいか」近づいてきた向井が言った。
「確認……?」
「……死亡確認だ」向井の顔に、痛みに耐えるような表情が浮かぶ。
「あ、ああ、お願いします」
口が勝手に動く。誰かに操られているような感覚に襲われる。
「水城さん。失礼しますね」
向井は柔らかく穣に声をかけると、対光反射の消失と、聴診による心肺停止を確認したのち、振り返って千早と向き合った。
「五時十七分、ご臨終です」
低い声で宣告をすると、向井は深々と頭を下げる。看護師もそれに倣った。
こんなとき、なんて答えれば? 思考がまとまらない。
ああ、そうだ。「お世話になりました」だ。ようやく気づいた千早は頭を下げる。
「おせ、お世話に……」
そこまで言ったところでむせ返った。再び礼を言おうとする。しかし、開いた口から零れたのは悲痛な嗚咽だった。千早は慌てて泣き声を抑え込もうとする。しかし、それは胸の内から止め処なく湧きあがり、喉を通って口から溢れ出した。
うまく呼吸ができない。息苦しさをおぼえた千早は、顔を上げて姿勢を戻す。その瞬間、涙で歪んだ視界の中、蒼ざめた顔でベッドに横たわる父の姿が飛び込んできた。千早は息を吸うことも忘れ、ただ父親に視線を注ぎ続ける。
ああ、父さんは逝ってしまったんだ。残酷な現実が心に染み入ってくる。
千早は足を踏み出す。雲の上を歩いているかのように足元がおぼつかない。左右にふらふらと揺れながらベッドに近づいていくと、向井がすっと道を空けてくれた。
ベッド柵を摑んだ千早は、目を閉じている父に向かって声をかける。
「父さん……、父さん、なんで……」
千早は縋りつくように穣の体に抱き着くと、その胸元に顔をうずめた。
深い慟哭が、薄い毛布の生地に吸い込まれていった。
背中を曲げて椅子に腰かけた千早は、テーブルの表面を眺め続ける。
穣の死亡宣告を受けてからすでに三十分以上経過していた。
十数分間、千早は穣の遺体に縋りついて嗚咽を上げ続けた。体中の水分を排出するかのように泣き、胸の中に吹き荒れていた感情の嵐がいくらか凪いできたタイミングで、見計らったかのように看護師が声をかけてきた。
「水城先生、お父様の体を綺麗にさせていただきます。そのあと、ゆっくりとお別れの時間を取っていただきますので、一度、面談室でお待ちください」
千早が緩慢に顔を上げると、「そうしてもらった方がいい」と向井が声をかけてきた。千早は何度もしゃくりあげながら「よろしくお願いします」と言うと、とぼとぼと病室をあとにして面談室へとやって来ていた。
十脚ほどの円形のテーブルが並んだ広々とした空間。昼間は常に入院患者と見舞客たちが話をしているフロアも、夜も明けないこの時間には千早一人しかいなかった。
もう涙は出なかった。さっきまで吹き荒れ、心を切り刻んでいた哀しみも消えていた。ただ、胸郭の中身をごっそりと抜き取られたかのような喪失感が全身を支配していた。
ゴトンという音が響き、千早は振り返る。いつの間にか、出入り口近くの自販機の前に向井が立っていた。近づいてきた向井は、無言で缶コーヒーを差し出してくる。
「……ありがとうございます」
受け取った千早は、プルタブを開けると温かいコーヒーを一口含んだ。鉄のように硬く冷えていた心が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。
「悪かったな」向井は椅子を引くと、千早の隣に腰かけた。
「なにがですか?」
「もう少し時間があると思っていた。だから、昨日あんなアドバイスを……」
「謝らないでください。私もまだ、何週間かは余裕があると思っていました」
癌患者、とくに末期まで癌が進行している患者はいつ急変して命を落としてもおかしくない。それは癌治療に携わる者の常識だ。
「私こそ、すみません。あんなに取り乱してしまって。医者のくせに情けない……」
「いまは、お前は医者じゃない。大切な人を喪った家族なんだ。だから、哀しむのは当然だ。パニックになってもいいんだ。謝る必要なんてない。親子だったんだから」
「親子……」
無意識に零れたその言葉が、シャボン玉のようにふわふわと漂い、消えていく。
親子……、たしかに続柄としては父と自分は親子だった。しかし、実際は……。
――たんに血が繫つながっているからといって、親子になれるわけじゃない。
昨日の別れ際、穣からかけられた声が耳に蘇える。ナイフで刺されたような痛みが胸に走り、千早は小さくうめき声を上げる。
心配そうに「大丈夫か?」と訊ねてくる向井に、千早は胸元を押さえたまま頷いた。
お母さんが死んで以来、父さんと私は『親子』ではなくなった。そして、再び『親子』に戻るチャンスを私は失ってしまった。永遠に……。
「なあ、水城。来てくれる親戚とかいないのか?」
「……いませんよ、そんな人。私はもう、独りぼっちなんです」
祖父母も他界している。母方に叔父が一人だけいるが、数年会っていない。
独りになってしまった。この世界にたった独りで残されてしまった。耐えがたい孤独感が背中にのしかかってくる。千早は座ったまま体を丸めると、がたがたと震えだした。
「水城、大丈夫だ。俺たちがついてる。お前は独りなんかじゃないぞ」
向井が躊躇いがちに、背中を撫でてくれる。医局という仮初めの家族の中で、兄貴分的な存在がいま隣にいてくれる。押しつぶされそうな孤独感が、わずかに軽くなる。
「ありがとうございます。向井先生」
心からの感謝を口にしたとき、背後から靴音が響いた。振り向くと、黒縁の眼鏡を掛けたスーツ姿の中年男が面談室に入ってきていた。
「失礼いたします。水城千早さんでしょうか?」
「は、はい、そうですが……」
戸惑う千早に大股に近づいてくると、男は慇懃に頭を下げた。
「このたびはご愁傷様でした。私、こういうものです」
両手で差し出された名刺には、『弁護士 野々原正』と記されていた。
「弁護士……さんですか?」千早はおずおずと名刺を受け取る。
「はい、水城穣さんが亡くなったという連絡を受け、やってまいりました」
「連絡? 誰から連絡を受けたんですか?」
千早が訊ねると、野々原の代わりに向井が「俺だ」と答えた。
「向井先生が? どういうことですか?」
「穣さんの希望だ。自分が死亡したときは、お前と弁護士に連絡して欲しいって」
千早が「父さんの希望?」と聞き返すと、野々原が大きく頷いた。
「はい、そうです。水城穣さんはご自身が亡くなった際、すぐに病院に駆けつけて遺言を伝えるよう、私に依頼されていました」
言葉を切った野々原は一度軽く咳ばらいをする。
「遺言書はのちほどお目にかけますが、内容としてはご自身の財産は全て娘である水城千早さんに譲ること、そして……」
「待ってください!」
千早は声を張り上げる。野々原は「なんでしょうか?」とわずかに首を傾げた。
「いまはそんな話を聞きたくありません。お葬式をして、落ち着いてから……」
「それでは遅いんです」
千早の声に被せるように、野々原は言った。千早は「遅い?」と眉根を寄せる。
「そうです。葬式のあとでは依頼人のご遺志が果たせなくなってしまう。だからこそ私はこうして、未明にもかかわらず急いでやって参りました」
「葬式のあとじゃだめって……、父はいったいなにを望んでいたんですか?」
不吉な予感に声を震わす千早の前で、野々原は低い声で言った。
「死亡が確認されたら、すぐに遺体を解剖して欲しい。それが水城穣さんの希望です」
(続きは、ぜひ本書でお楽しみください)
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