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【試し読み】寺地はるな『声の在りか』特別公開

2024年8月23日に発売となった寺地はるなさんの最新文庫『声の在りか』。
「これは私の物語!」という共感の声が多数寄せられています。

本記事では、刊行を記念して試し読みを特別公開!
主人公・希和が抱える悩みとは?
物語のワンシーンをお楽しみください。

あらすじ

夫と小学四年生の息子の晴基と三人暮らしの希和は、近所に新しく出来た民間学童、『アフタースクール鐘』の庭に、願い事が書かれた木の札を見付ける。その中の1枚に、晴基とそっくりの字で「こんなところにいたくない」と書いてあるのを見付けてしまい……。


『声の在りか』試し読み


 晴基を市の児童クラブに行かせるのをやめたのは、二年生の二学期だった。学校が終わると児童クラブに行かずに勝手に家に帰ってきてしまうようになって、理由を訊いたら「高学年の女子に毎日られるから行きたくない」とのことだった。ひとりで留守番はさせられないから、と何度言い聞かせても、晴基はやっぱり帰ってきた。
 先生に相談しようと思うと夫に話したら「やめとけ」と言われた。
「相手は女子だろ。情けないな、晴基は」
 ナッサケナイ、というような、どこかとんきような発音だった。俺らの時代は蹴られたら相手が女子だろうがなんだろうがやり返してたよ、とも言った。
「俺らの時代」の話を、夫はよくする。俺らが子どもの頃、ゲームは一日一時間と決まっていた。公園に行くと誰かがいて、暗くなるまで一緒に遊んでた。
「俺ら」が誰と誰のことなのか、いまだにわからない。希和が含まれていないことはたしかだが。
 俺らが子どもの頃は皿洗いとか掃除とか毎日やらされてたし、はしの持ちかたとか食べかたとかけっこう厳しくしつけられてたな、と言う夫は食事中にスマートフォンをいじるし、皿洗いなど希和が風邪で寝込んだ時にしかしない。
 ともあれ晴基は、児童クラブをやめた。最初は家にひとりでいる晴基のことが心配で、妹に頼んで様子を見にいってもらっていたが、三年生になってからはそれもなくなった。晴基は問題なく留守番をこなしたし、妹から過保護呼ばわりされるようにもなったから。
 妹の子どもは小学六年生になる。結婚も出産も、あちらがはやかった。母と妹はよく似ている。外見も、言うことも。三十歳を過ぎた頃からますます近づいてきた。
 近頃の晴基は放課後学校内(おそらく教室か図書室)で宿題を済ませ、そのあと友だちと遊んで家に帰ってくる。春夏は五時三十分、秋冬は五時、という門限を破ったこともない。キッズ携帯も持たせてある。
 干渉し過ぎも良くないから。ものわかりのいい親ふうの、その言葉を口にすると、目を背けていられる。息子のことがよくわからなくなってきている、という事実から。
 以前はもっと近かった。まるく膨らんだ自分のお腹をとんとん、とたたくと、すぐさま子宮の壁を蹴ってきた。ただの反射だ、とわかっていてもうれしかった。はるちゃん、はるちゃん、と何度も呼びかけた。性別は聞いていなかったが、男でも女でも「はるき」と名付けると決めていた。
 目のぱっちりした、色の白い赤ちゃんだった。抱っこひもで歩いていると、いろんな人(おもに年配の女性)がのぞきこんできた。
 かわいい子ねえ。男の子? 女の子? 母乳? ミルク? 布おむつ? 紙おむつ? うっとうしいとは思わなかった。大切にしてあげてね、という、よく考えればじつに余計なお世話の言葉を投げかけられることも当時はさほど気にならなかった。誰にのぞきこまれても、晴基の目はいつも希和の動きを追う。それがなによりも誇らしかった。かわいい、かわいい、わたしの息子。
 よく女の子に間違えられた。あんまりかわいいから、と間違えた人はたいていそう言い訳した。いえそんな、とけんそんしながら、心の中では、そうでしょうね、と納得していた。親ばかなんかじゃない。晴基はほんとうにかわいらしい子だったのだ。
「晴基、最近できた『アフタースクール鐘』ってところに勝手に出入りしてるかもしれない」
 晴基が入浴中のタイミングを狙って、夫に相談することにした。生返事しかこないとわかっていても、夫婦には子どもの話題を共有する義務があると希和は思っている。夫は「んあ」というような声を漏らした。視線は手元に置いたスマートフォンの画面から一ミリもずれない。
「民間学童っていうのが、最近できたの」
「んあ」
「勝手にそんなとこに出入りしてるのはまずいと思うのよ」
 スマートフォンの小さな画面の中で、女が踊っている。自宅らしき背景。芸能人でもない女がとくべつうまくもないダンスを披露する動画の、いったいなにがそこまで夫の興味を引くのか、希和にはまったくわからない。メンチカツを持った箸は空中で静止したままだ。いつも上の空で食事をしているから、凝った料理を出そうが出来合いのそうざいをそのまま皿にのせて出そうが、うまいともまずいともコメントしない。
 希和は夫と会話することをあきらめて、台所で洗いものを再開する。このマンションの購入を決めた時は、対面型のキッチンカウンターがうれしかった。家族の様子を見ながら料理ができる、と思ってダイニングテーブルをカウンターにくっつける配置にしたが、食事をしている夫を見ながら洗いものをするのが、今ではほんのりと苦痛だ。
 なるべく視界に入らないようにうつむく。このあいだ買ったばかりの赤いスポンジが、もうへたりはじめている。泡立ちの悪さにいらいらしながら洗剤を足す。手の中でくしゅっとつぶすと、スポンジは煮詰めたいちごのようにあっけなくかたちを変える。
 首にタオルをかけた晴基が居間に現れた。父にも母にも視線を向けることなく、まっすぐに冷蔵庫に向かう。
 あら、もうお風呂あがったの。
 ねえ、あなたは放課後どこでなにをしてるの。
 ちゃんとシャンプー流したの。放課後になにをしてるの。
 きちんと身体拭いたの。なにを考えてるの。
 言いたいことはたくさんあるのに、今言うべきことと言うべきではないかもしれない言葉を慎重にりわけているうちに、のどがふさがったようになる。
 わたしの声、と思う。飲みこみ続けているうちに引っこんでしまって、とっさに出てこない。もう消えてしまったのかもしれない。
 冷蔵庫から出したミネラルウォーターのペットボトルを携えて、晴基は台所を去る。居間に置いたソファーは大きくて、そこに寝転がる晴基の姿をすっかり隠してしまう。
 遠い、と思う。とても遠い。

(続きは、ぜひ本書でお楽しみください)


書誌情報

書名:声の在りか
著者:寺地 はるな
発売日:2024年08月23日
ISBNコード:9784041147306
定価:748円 (本体680円+税)
総ページ数:256ページ
体裁:文庫判
レーベル:角川文庫
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322311000523/

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