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【試し読み】永良サチ『心は全部、きみにあげる』プロローグ~冒頭部分を大公開!

『100日間、あふれるほどの「好き」を教えてくれたきみへ』(スターツ出版文庫)をはじめ、「泣ける!」と話題の数々の作品を手がけられている永良サチさんが、角川文庫に初登場です。
今作『心は全部、きみにあげる』は、孤独な高校生活を送る女子高生と、未来が見える男子高生が贈る、胸キュン全開の感動青春ストーリーです!!! 2024年11月25日(月)の発売に先駆けて、冒頭部分を丸っと大公開します!

あらすじ

高校2年生のしばさきは、ついに余命3か月の宣告を受けた。心臓に疾患を抱えており、周囲と距離を置いた学校生活を送っていたが、「100日間だけ友達にな ってくれ」と突然言われる。相手は、学校で悪い噂がある同い年のてらしまひかる。孤独に過ごしていた奈央だったが、光の強引な誘いに付き合ううちに、彼へ友達以上の感情が芽生え始め、「生きたい」と思えるようになる。しかし、彼には秘密があって――。感涙必至の青春恋愛ストーリー。


『心は全部、きみにあげる』試し読み


プロローグ


 蟬は死期が近づくと、必ず仰向あおむけになるらしい。 
 蟬は、どうして綺麗きれいな空を見るわけでもなく、地面の上で死を待つのか。  
 それは土の中で過ごした幼少期の自分と近い場所にいたいからという説がある。 
 蟬は懐かしい土に触れながら、一体どんなことを思っているのだろうか。 
 ――ガシャン。私は屋上のフェンスに足をかける。
 十七年間生きてきたけれど、今この瞬間に思い浮かべる人はいない。
 蟬のように死を待ちたい場所はなくても、せめて最期の時くらいは自分で選びたいと思う。
 なんにもできなくなる前に、どこにも行けなくなる前に。なんの思い入れもない場所で人生を終わりにするくらいなら、空を見上げる余裕がある今ここで。
「だー、考えんの面倒くせえ……!!」
 フェンスによじ登ろうとした瞬間、背後から叫び声が聞こえた。不意をつかれて振り返ると、高架水槽が置かれている塔屋と呼ばれるところに男子が立っていた。
 ……だ、誰もいないと思っていたのに、もしかして最初からいた?
 驚きのあまり固まっていると、見下ろされる形で彼と目が合った。
「お、すげえ。丁度いいや」
 タラップを使わずに塔屋から飛び降りた彼は、そのまま無遠慮に近づいてきた。
「名前、しばさきだよな?」
 同級生の顔を把握していない私でさえ、彼のことは知っている。二年二組のてらしまひかる
 うちの近所にいるゴールデンレトリバーと同じ髪色をしていて、左耳にシルバーのピアスを付けている。
 彼に関する噂はたびたび耳にするが、どれも良いものではなく、威張っている先輩に目をつけられて逆に従わせてしまったとか。街の不良グループから一目置かれていて、道を歩けばみんながけるとか。とにかく学校でも悪目立ちをしている生徒だ。
「あれ、名前って柴崎奈央じゃない?」
「そう……ですけど」
 警戒しながら、か細い声で答えた。身長がやたらと高いせいか、目の前にいるだけで威圧感がある。こんなはずじゃなかった。邪魔をされなければ、今頃はフェンスを乗り越えて、あっち側に行けていたはずだったのに。
「俺、お前にずっと言いたいことがあって」
「……な、なんでしょうか」
「友達になってくれない?」
「え?」
「100日間だけ、俺と友達になってくれ」
 人生で使うことなんてないと思っていた青天せいてん霹靂へきれきという言葉が浮かんだ。それはまさに青く晴れ渡った空に突然降ってきた雷鳴。
 稲妻に打たれたような衝撃が体を走り、私はしばらく動くことができなかった。


1 きみと探り合い


 学校という場所には、目に見える派閥が存在している。
 コミュニケーション能力が高い人と低い人。容姿が目立つ人と目立たない人。
 先生にうまく取り入っている人となにもしていない人。
 うちのクラスに限っては、勉強ができる人よりできない人のほうが偉そうにしている傾向にある。
 階層構造において、上位の生徒は下位の生徒を見下し、どちらにも属さない中位の 生徒は、自分の立場が悪くならないようにうまくバランスを取っているように見える。そんなヒエラルキーの頂点に君臨するのが、女子のリーダー格である江藤えとうさんだ。今日も彼女はひときわ目立ち、教室の中心で騒いでいた。
「ねえ、マジでウケるんだけどー!」
 オーバーリアクションで周囲の女子たちは首振りマスコットみたいに「うん、うん」とうなずいている。それはまるで、江藤さんが主役を演じ、取り巻きたちは脇役として彼女の言葉に従っている演劇のようだ。そんな中、江藤さんが急になにかを見つけたように椅子から立ち上がった。
「みんな見てよ! こいつ真面目に読書してるふりしてまた漫画読んでるし!  」
 声を高らかにして近づいた先には、相田あいださんという女子の机があった。
 相田さんは昼間も静かに読書をしている生徒で、クラス内では比較的目立たない存在だ。階級でいえば下位に位置する生徒であり、なぜか江藤さんによく目をつけられている。
「しかもキラキラの少女漫画! もしかして自分もこんな恋愛したいとか思っちゃってるわけ?」
 江藤さんは乱暴に相田さんの本を引ったくり、淡いピンク色の可愛いブックカバーを無造作にがし取った。そのまま漫画の表紙をクラスメイト全員にさらすように掲げている顔は悪魔のようにも見えるが、一組にとって江藤さんは誰も逆らうことができない女王様。日常的に尊大な態度を取ることが多くても、周りはなにも言わない。クラス全体が彼女の権威に屈しているかのようだった。
「お、お願い、返して……」
「どうせ漫画読みながら妄想とかしてるんだろ。マジできっしょ!」
 江藤さんの言葉に呼応するように、みんなの笑い声が響いた。高校二年生に進級してから約三か月。クラスに当たり外れがあるのなら、間違いなく一組は後者だろう。
 いつから相田さんがこういう扱いを受けているのかは知らないが、少なくともクラス替え初日から江藤さんはこのように振る舞っていた。
 なぜ相田さんを標的にするのか。相田さんに対してなにか恨みがあるのか、それとも大人しい性格だからなにをしてもいいと思っているのか。どちらにせよ私の知ったことではないと、自分の席に張り付いたまま窓の外に目を向けた。
 クラスに友達はいない。友達になりたい人もいない。誰かに関心を寄せられるわけでもなく、誰かに関心を持つこともない。自分がどの位置の階級に属するのかはわからないけれど、透明人間のように存在を消すことに努めているおかげで、私の世界はいつも静寂に包まれている。
「……う、ううっ」
 江藤さんの執拗しつような言葉責めに耐え切れなくなったのか、相田さんがついに泣き出してしまった。
「うっわ、このくらいで泣くの? 弱すぎじゃない?」
 江藤さんは反省する素振りも見せず、さらに面白がっている。開いている窓から入ってくる蟬の鳴き声が、教室中に広がる黒い笑い声を吸い込みながら響いていた。
 たしか蟬の声は4000ヘルツ。スマホが対応している周波数は3500ヘルツまでなので、蟬の音は電話越しには聞こえないという。
 それなら江藤さんの声は、なんヘルツなのだろうか。私の可聴域が低かったら、耳障りな声も聞こえずに済むのに。そっと目を細めて遠くの山の稜線りょうせんを眺めていたその時、不快な声がまた耳に飛び込んできた。
「そんなに弱いんじゃこれから生きていけないよ? ていうかお前もう死んじゃえって!」
 私は、ピクリと反応した。流れるように吐き捨てられた江藤さんの言葉を気にする様子もなく、周りはバカみたいに笑い続けている。
 生徒同士の派閥があろうと、暇つぶしのイジメが起こっていようと、私は当事者になる気はこれっぽっちもなかった。相田さんの好きなものが否定され、泣き崩れてしまっても興味はないし、どうでもいいことだ。
 だけど、江藤さんは今、明らかに一線を越えた。いや、私の中だけにある地雷を踏んだと言ったほうがいい。
 机についていた頬杖ほおづえをやめて、江藤さんのことをじっと見る。その視線にすぐに気づいたのか、彼女は鋭くにらみ返してきた。
「なに見てんだよ?」
「…………」
「なんか私に文句でもあるわけ?」
 文句はない。江藤さんも相田さんも心底どうだっていいけれど、さっきの言葉だけは聞き捨てならなかった。
「だったら、そっちが死ねば?」
「は?」
「人に死んじゃえって言うなら、江藤さんが死んじゃえばいいんじゃない?」
 教室の空気は瞬時に凍りついた。ついさっきまで誰も気に留めずに笑っていたクラスメイトたちは互いに顔を見合わせ、目を泳がせている。怖いくらいに静まり返っている中、鬼の形相をした江藤さんが近寄ってきた。
「っざけんな! お前、今なんて言ったんだよっ!」
「江藤さんの言葉を、そのまま返しただけだけど」
「てめえ…… 」
 女王様はどこへやら、一気に口が悪くなった彼女は怒りのまま私の顔を長い爪で引っいた。やられたらやり返すという本能が働いて、気づくと私も江藤さんの頰をたたいていた。それから擦ったんだの大騒ぎになり、教室に入ってきた担任に止められた。そんなに強く叩いたつもりはないのに、どうやら江藤さんの口の中が切れているらしい。血の味がするとひとみを潤ませる彼女に対して、もう一度言い返したくなる。
『このくらいで泣くの』
 だけど、その言葉はみ込んだ。こんなの、私らしくない。今朝、屋上から予定どおりに飛び降りて死ねていたら、こんなことはしなくて済んだのに……。
 ――『100日間だけ、俺と友達になってくれ』
 あの人のせいで、すべての計画が狂ってしまった。

「一方的な意見だけを鵜呑うのみにはできないから、ちゃんと柴崎の話を聞きたいんだよ」
 校舎一階にある生徒指導室。私は担任の渡辺わたなべ先生と向き合う形で椅子に座らされていた。
 もうすぐ一児の父になるらしい先生は、三十代後半の既婚者。生徒に対しては分け隔てなく接してくれるが、クラス内に漂うイジメには気づいていないようだ。
 江藤さんがうまくやっているというより、周りが協力して気づかせないようにしている。やっぱりそれだけ、彼女を敵に回すことが怖いのだろう。
「江藤さんは、私のことをなんて言ってるんですか 」
「柴崎が急に頰を叩いてきたって」
「じゃあ、それでいいですよ」
 私はあっけらかんと答えた。他の生徒に聞き取りをしたところで、みんなが江藤さんの肩を持つことは目に見えている。私が反論したって数では勝てないし、多くの証言を集めて自分の正当性を証明しようとも思わなかった。……だって私は、べつに相田さんを守ったわけじゃない。首を突っ込んだのは、勝手な自分の事情だ。
「いや、そういうわけにもいかんだろう。柴崎だって怪我をしてるわけだし」
「私もやり返しましたし、おあいこでいいじゃないですか」
「そんな簡単な話じゃないんだよ。お互いの意見を聞いて、それでも解決できなかったら親御さんに連絡を……」
「そ、それだけはダメ!」
 思わず前のめりになって両手をついたら、机が少しだけ浮いた。自分だけならいいけれど、そこに家族が入ってくるとなると話は変わってくる。
「家への連絡が嫌なら、ちゃんと話し合おう」
 うちの複雑な家庭環境を知っている先生は、諭すような言い方をした。江藤さんを叩いたことに後悔はないけれど、やっぱり余計なことはするんじゃなかった。
「わかりました。でも、話し合いは今日じゃなくてもいいですか? あんまり、その体調がよくなくて……」
 わざと声のトーンを落として、左胸をさするような動きをした。
「え、だ、大丈夫か?」
「はい。でも今日はこのくらいで終わりにしてもらえたらありがたいです……」
「わ、わかった、わかった。体調が悪いならこのまま早退してもいいんだぞ」
「そこまでじゃないので、自分で様子を見ます」
 先生が大袈裟おおげさな反応をするのは、私の体がみんなと違うからだ。そのことは一部の教師だけに共有されていて、他の人たちは誰ひとりとして知らない。自分の体のことで損したことは山ほどある。だけど、都合が悪い時だけこんなふうに言い訳としてうまく使えたりもする。

「なあ、柴崎いる?」
 生徒指導室を出て、もうすぐ一組に着くというところで、寺島光の姿が見えた。彼は教室の出入口にいて、頭上のサッシを片手でつかみながら中をのぞき込んでいる。
 私は今朝の一幕の後、直感的に彼と関わってはいけないと感じて、そそくさと屋上から逃げた。それはつまり友達になってほしいと言われたことへの答え、わば拒絶をわかりやすく伝えるための行動だったのに、どういうわけか寺島は、まだ私に用があるらしい。
 記憶の糸を辿たどっても、彼の目に留まるようなことをした覚えはないし、はっきり言えば私たちは真逆の場所にいるようなもの。
 寺島は教師たちも手を焼くほどの問題児である一方、友達は意外に多い。一匹狼というよりも、群れた羊という言い方がぴったりくる。交友関係に困ることはなさそうな彼が、なぜ私と友達になりたいと思ったのか。三時間が経った今も理解できない。
「えー柴崎さん? 担任に呼び出されてたから、職員室か指導室じゃないかな」
 鼻にかけたような声で教えていたのは、よりにもよって江藤さんだった。彼女だけじゃなく、女子の大半はよく寺島のことを話している。『少し怖いけど、そこがいいよね』とか『顔がいいからなんでも許せる』だとか、彼と仲良くなりたいと思っている人は多くいるのだろう。
「呼び出し? なんかやらかしたの 」
「やらかしたっていうか、あの子いきなりヒステリックになって私のことをビンタしてきたの。ほら、見て。ここのほっぺたがれてるでしょ?」
 江藤さんは保健室で手当てを受けたのか、見せつけるように大きな湿布をほっぺたに貼っていた。
 私に対して怒っているであろう彼女の瞳の奥には冷たさが宿っていたが、寺島に向かっては心配して欲しそうに振る舞っている。クラスの女王様の次は、傷を負ったヒロイン。どう転がっても自分が注目されないと気が済まないのかもしれない。
 悪者として扱われるのなら、やっぱり早退したほうがよかったかも……と思っていたら、ふいに寺島と目が合ってしまった。
「お、いたじゃん」
 彼は江藤さんのアピールを無視して、私のほうに歩いてきた。履きつぶした上履きのこすれる音が、キュッキュと響く。まるでデジャヴを疑いたくなるほど、寺島は今朝と同じように至近距離まで迫ってきた。
「顔にすげえ三本傷ついてる。大丈夫か?」
「……なにか、用でしょうか?」
「用っていうか、今日の放課後ってなにか予定ある?」
 ざわざわ、がやがや。廊下にいる人たちのどよめきに合わせて、私の心臓も痛いくらいに上下していた。この人は、自分が目立つということをわかっていないのだろうか……。
「どうせ予定ないだろ? ちょっと時間作ってほしいんだけど」
 相手にする必要はないのに、暇であることを決めつけた言い方をされてムッとした。
「私はあなたと話すことはありません」
「お前はなくても、俺はあるんだよ」
「じゃあ、ここでしてください」
「べつにできなくもないけど、いいの?」
「はい?」
「そっちもバレたくないことは多いほうだろ」
 したり顔をされて、私はなにも言い返せなくなった。
 寺島とは去年も同じクラスではなかったし、委員会などで一緒になったことはおろか、話したこともなかった関係だ。
 彼が私の秘密を知っているはずがない。だけど、知っているのではないかと思ってしまうほど、寺島の言動には引っ掛かるところが多すぎる。彼の口車にまんまと乗せられるのはしゃくだけど、“100日間”という具体的な数字の真意だけは、確かめておかなければいけないと思った。

 迎えた放課後、私は寺島とファミレスにいた。夏の日差しが差し込む窓際の席に案内され、ガラス越しには駅前のにぎわいが見える。彼は席に着いてすぐテーブルの上に置かれたタブレットを手に取り、メニューをスクロールし始めた。
「俺、BLTサンドと大盛ポテト頼むけど、柴崎はどうする?」
 寺島は、画面に視線を落としたまま尋ねてきた。「私は水だけでいいです」と答えると、彼はこちらを見て困った顔をした。
「いや、それはさすがに気まずいからなんか頼んで。ここは俺がおごるから」
 仕方なくタブレットに目を通すと、小さなプリンが目に留まった。寺島に奢られるつもりはないので、一番リーズナブルなデザートを頼んで、ソファに背中を預けた。
 ふたりきりで話すなら人目がある場所がいいと言ったのは私だ。それがファミレスになるとは思わなかったけれど、警戒心だけはまだ強く持っている。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だって」
 タブレットを元の位置に戻した彼は、私と同じようにソファに寄りかかった。
 目の前に、同級生の寺島光がいる。普段交わらない場所にいる私たちがこうして向き合って座っているなんて、どう考えても不自然な光景だった。
「それで、私に話ってなんですか?」
「まずはその敬語だけなんとかして。俺らタメじゃん」
「じゃあ、単刀直入に言うけど、いきなり友達になってくれなんて普通におかしいと思う」
「でも、俺は本気でお前と友達になりたいって思ってるよ」
「今までしゃべったことすらなかったのに?」
「そう、俺は柴崎のことをなにも知らない。だからこそ、知る必要があると思っただけ」
「意味わかんない。まさか、話っていうのもそれだけじゃないよね?」
「俺が本気だって話をしに来ただけだけど?」
「……なにそれ、来なきゃよかった」
「来るよ。俺は今日の放課後、柴崎とこの店に入るって朝からわかってた。そんで俺はハンバーグのソースが跳ねて手の甲を火傷やけどする」
 ……え? 今なんて言った?
 こっちの戸惑いなんてお構い無しに、彼は平然としていた。
「私のこと……からかってる?」
「からかってないよ」
「じゃあ、朝からファミレスに来ることがわかってたってなに? そもそも寺島が頼んだのはハンバーグじゃなくてBLTサンドでしょ」
「うん、防御策として熱くないものを選んだ。でもそうしたところで――」
 ガシャンッ!
 彼が言い終わる前に、ホットコーヒーが入ったマグカップが降ってきた。それはテーブルの隣を通りすぎようとした女性がドリンクバーから運んできたもので、誤って指を滑らせてしまったのだ。
「す、すみません 大丈夫ですか……!?」
 女性は慌てた様子で、寺島の手を気にしている。目の前で起きた出来事に啞然としていた。偶然か否か熱々のコーヒーは、彼の手の甲にかかっている。
「あーこのくらい平気っすよ」
 寺島は笑顔で女性を安心させるように答えていた。自分の手の甲に赤く残ったあとがあっても、その笑みには動揺の色が全く見えない。
「で、でも火傷をしてたら……」
「本当に大丈夫ですから」
 寺島は柔らかくそう言って、不必要に女性を責めないどころか、制服にもコーヒーが飛び散っているのにクリーニング代さえ請求しなかった。その場を収めに入った店員さんがテーブルをき、床にこぼれたコーヒーを片付けてくれた後に、私たちが注文した料理が運ばれてきた。
「……手、平気なの?」
「ちょっとヒリヒリするけど、大したことねーよ」
 彼は何事もなかったように、大口でBLTサンドを食べている。私はまだプリンに手を伸ばせないまま、寺島の言葉と現実に起きた出来事を頭の中で反芻はんすうしていた。
 彼はさっき『ハンバーグのソースが跳ねて手の甲を火傷する』と言っていた。だから熱くないBLTサンドを頼んだと。そして実際に、彼はコーヒーだけど手の甲を火傷した。……これは一体どういうことなのだろう。
「べつに深く勘繰らなくていいよ。ハンバーグのソースじゃなくても、こうやってなんらかの不可抗力が働くだけだから」
「……全然、意味不明なんだけど……」
「意味もわからなくていい。ただ俺にとって柴崎と友達になることも避けられない運命ってことだ」
「寺島って……占い師かなんかなの?」
「井の中のかわずってとこかな」
「それって、当たらずといえども遠からずって言いたい?」
「似たようなもんだろ」
 彼のことがわからない。わからなすぎて詐欺師に会ってしまったような気分だ。私はこのまま、高価なつぼでも売りつけられるんじゃないかと、本気で考え始めた。
「まあ、一方的っていうのはフェアじゃねーから、俺と友達になってもいいか柴崎が見極めていいよ」
「どう、やって?」
「たとえば友達っぽいことをしていって、お互いのことを少しずつ知っていくとか?」
 寺島の提案は普通の友達関係の構築方法のように聞こえるが、やっぱりなにか裏があるような気がしてならない。
「……私、友達いたことないから、そういうのもよくわかんない」
「お、じゃあ、友達ができたらしてみたいことを俺とすればいいじゃん。それで、俺がどんなやつか判断すればいい」
 彼のことを信用していいのか、どうなのか。また口車にうまく乗せようとしている可能性もある。
「……寺島は100日間だけ友達になってって言ったけど、なんで100日なの?」
 質問を投げかけると、寺島は一瞬だけ沈黙した。月数に表せば、約三か月。それは私の人生のタイムリミットでもある。
「単純にキリがいい数字だから」
「本当に……それだけ?」
「ポテト、食う?」
 あからさまに話題を変えられた。ほら、やっぱりなにか都合が悪いことがあるんだ。
「そもそも友達っていうのは自然にできていくものだから、わざわざ『友達になろう』って約束してなるものじゃないと思う」
「急に『みつを』みたいなこと言うじゃん」
「ねえ、本当に私のことをからかってるだけなんでしょ?」
「からかうためだけにこんなことをやるほど、俺って暇に見える?」
「見える」
「うわ、ひどくね? まあ、まあ、とりあえずプリンだけでも食えよ」
 なだめるように、プリンの器を私のほうに差し出してきた。ようやく手をつけたプリンは、少しだけ柔らかくなっていて、上に載っていたクリームも溶けていた。黙々と食べている姿を、なぜか寺島に凝視されている。
「な、なに?」
「プリンに醬油をかけたら、なに味になるか知ってる?」
「ウニでしょ」
「じゃあ、ポテトとプリンを一緒に食べたら?」
「それは知らない。なに味?」
「スイートポテト」
「絶対噓」
「やってみ?」
 言われるままに、ポテトとプリンを一緒に口に運ぶ。二つの食感と味が混ざるように咀嚼そしゃくしても、どこにもスイートポテトの気配はない。むしろ、ポテトの塩気とプリンの甘さがぶつかり合っている。ポテトが足りなかったのかもしれないと思っていると、寺島の肩が小刻みに震えていることに気づいた。
「ぶはっ、我慢できない! スイートポテトになるなんて、うそうそ! まさかやってくれると思ってなかったから……くくくっ」
 だまされたことが悔しくて、仕返しにポテトを半分以上も食べてやった。そんな私のことを見て、彼がまた大笑いしている。なにがそんなに面白いのかわからずため息をつきながら、窓からうかがえる低木に視線を向けた。そこの植え込みに茶色のなにかがあると思えば、蟬の抜け殻が転がっている。
 羽化した蟬は、どこへ飛び立ったのか。今頃うるさく鳴いているのか、それとも幼い頃を思い出して、地面の上で死を待っているのだろうか?
 今日は雲ひとつない青空だったから、逝けると思った。
 屋上のフェンスに足をかけたところまでは順調だったのに、私はまだ生きている。
 あれもこれもぜんぶぜんぶ、目の前にいる問題児のせいだ。


2 きみと分け合い


 毎晩のようにお父さんのひざに乗って、絵本を読んでもらっている夢を見る。
 お父さんはいつだって優しかった。
 ずっと傍にいてくれると思っていた。
『この疫病神!』
 怒りに満ちた声が私を揺さぶる。
 目の前には、こちらを睨みつけている少女がいた。
 それは紛れもなく、幼い頃の自分だ。
 幸せだった時間を、私自身が壊してしまった。
 今日も、うなされながら目を覚ます。部屋はまだ、深い夜の中に沈んでいる。

「……はあ、もう」
 ベッドから体を起こして、無造作に髪をき上げた。汗ばんでいるパジャマが気持ち悪い。着替えよりも先に、のどの渇きをなんとかしたくてリビングへと急ぐ。冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出し、喉を鳴らす勢いで一気飲みをした。冷たい水が体を巡り、汗がすっと引いていくのがわかる。
「こんな夜更けに、どうしたの?」
 その声に、ビクッと肩が震える。振り向くと、そこには義母の陽子ようこさんがいた。私と同じで水を飲みにきたらしい陽子さんと私の間に、血のつながりはない。
「あ、ちょ、ちょっと目が覚めちゃって……」
「体に障るから早く寝なさい」
「は、はい」
 陽子さんがリビングを出ていくと、安堵あんどのため息をついた。
 陽子さんが私のお母さんになったのは今から八年前――小学三年生の時だ。それまでお父さんとふたりで暮らしていたが、陽子さんと再婚したことによって、私には母だけじゃなく、二つ上の姉もできた。いきなり家族が増えたことに戸惑うこともあったけれど、陽子さんもお姉ちゃんになった乃亜のあちゃんも優しくしてくれた。
 血縁なんて関係ない。これからは四人家族として幸せに暮らしていくと思っていたが、その日常は一年前に音もなく崩れた。お父さんが仕事場で倒れ、そのまま帰らぬ人となったのだ。
 死因は最後までわからず、突然死と判断されたけれど、医師は過労が原因だったのではないかと推測していた。お父さんは昼夜問わずに働いていた。私の……治療費のために。

 私は生まれつき心臓の形状に問題がある。血液の流れが普通の人とは異なり、医師たちは心臓移植が最善の選択肢だと勧めてきた。
 幼い頃から何日も病院のベッドで過ごすことが多かった私はその重要性を理解していたが、どこかで現実のものとして受け入れられていなかった。
 お父さんはそんな私をつねに支えてくれていた。心臓移植の手続きを早速進め、私の名前を希望者リストに登録した。国内のドナー不足などの事情により、海外での移植も想定していた。移植にかかる費用の心配はしなくていいと、誰よりも私の心臓に適合するドナーが現れることを願っていたのに、お父さんのほうが早く天国に行ってしまうなんて、想像もしてなかった。
 お父さんの死は、私たち家族を一気に変えた。もう、お父さんが繫いでくれた仲良しな家族はどこにもいない。陽子さんと私はギクシャクした関係に陥り、乃亜ちゃんも家を出てしまった。
 私は夢の中で言っていたとおりの疫病神。本当のお母さんの命と引き換えに生まれてきた時から、ずっとずっと。
 だから神様は私に不良品の心臓を与えた。私はなにも望んではいけない。やりたいことも、かなえたいことも、なにひとつ持つべきではない。
 ――『じゃあ、友達ができたらしてみたいことを俺とすればいいじゃん』
 こっちの事情も知らないで勝手なことを言う寺島は、怖い人じゃなくて変な人だ。

 翌日、私はまた生徒指導室にいた。個別での話し合いは平行線をたどり、今日は江 藤さんと同時に呼び出されていた。生徒指導室は薄暗く、重苦しい空気が漂っている。部屋の片隅には古びた書類が山積みになり、壁には過去の行事のポスターが所々がれかけて貼られていた。
「だーかーら、私は被害者なの!」
 江藤さんは終始不満そうな顔をして、自分の潔白を渡辺先生に主張し続けている。彼女の高く張り詰めた声が、部屋の空気を一層緊張させた。
「クラスのみんなにも聞き取りをしたんでしょ? 私が一方的に柴崎さんにたたかれたことはもう証明されてると思うんですけど」
 渡辺先生はため息をつきながら、手元の書類を見返した。その姿は、いかにも疲れきった様子だ。
「もちろん聞き取りはしたけど、相田だけは柴崎は自分のことをかばってくれただけだって言ってたよ」
「そんなのデタラメに決まってるじゃん。大体こっちは口の中が切れてて病院代を請求したっていいのに、穏便に済ませたいから我慢してるんです。せめて柴崎さんは深々と私に謝るべきじゃないですか?」
 江藤さんの言葉に、渡辺先生も困り果てていた。
 これ以上、話し合いが長引けば家に連絡がいって、陽子さんの耳に入ってしまう。こういう時、下手なプライドがなくてよかったと思う。私はあっさりと江藤さんに頭を下げた。これで事が収まるなら、謝ることくらいなんてことはない。彼女はそれでいいのよ、と言わんばかりの表情で、満足げにしていた。
「……柴崎さん!」
 生徒指導室を出て廊下を歩いていると、相田さんが私の名前を呼びながら駆け寄ってきた。顔色は青白く、今にも泣き出しそうな表情をしている。先ほど一足先に教室に戻っていった江藤さんは、きっと今頃上機嫌で私が謝罪した話をクラスメイトたちに披露しているだろう。
「私のせいで、ごめんなさい……」
 両手を胸の前でぎゅっと握りしめた相田さんは、申し訳なさそうにまゆを下げた。
「勝手にやったことだからいいよ」
「それでも本当にごめんね。私のことを庇ってくれてありがとう」
「庇ってないよ。私はただ……」
 続きの言葉が、うまく出なかった。私はただ、江藤さんが相田さんに向けて言った『死んじゃえ』という一言が許せなかっただけだった。
 だけど冷静に考えれば、屋上から飛び降りようとしていた私に、死生観をとやかく言う資格はなかった。生きることよりも、死ぬことのほうが近いからこそ、誰になんと思われようとなんだっていいし、どうでもいい。
 だからこそ、私は簡単に江藤さんに謝った。私の中に少しでも『相田さんのため』という気持ちがあれば、あの場面で頭を下げるより、イジメを告発していたはずだ。誰かを思いやる心なんて……今の私にはない。
「謝罪もお礼も本当にいらないから」
 勘違いされないように、そそくさと相田さんと距離を取った。

――『あなたの心臓は、もって三か月だと思ってください』
 通院している病院でそう宣告されたのは、二週間ほど前のことだった。定期検査の 結果を聞きに、この日だけは陽子さんと一緒に来てくださいと医師に言われた時から、なんとなく予感はしていた。
 診察室の冷たい椅子に座る私の隣で、陽子さんは終始無言だった。医師の口から告げられた言葉は重く、その場の空気が一瞬にして凍りついたが、私自身はさほど驚きはしなかった。お父さんがいたらショックで泣き叫んでいただろうけれど、私と同じで陽子さんも落ち着いて主治医の先生の話を聞いていたように思う。
 お父さんが体を酷使しながら働いていた時、陽子さんは必死に止めていた。『もう少し休んだら?』『このままだと倒れてしまうわ』お父さんに何度も何度も問いかけていた陽子さんの姿が思い出される。それでもお父さんは、私の治療費のために無理をし続けた。
 陽子さんは、私を責めない。だけど、お父さんがいなくなってから、少しずつ変わった。なにかを言われたり、なにかをされたわけじゃない。だけど、お味噌汁みそしるの香りが漂うリビングで、向かい合って無言で食事をする陽子さんの影が、心の冷たさを物語っていた。
 当然だと思う。最愛の人を亡くす結果になっただけじゃなく、その原因を作った義理の娘と、これからも暮らしていかなければいけないのだから、心の置き所なんてあるはずがない。
 ……あと三か月なんて待っていられない。私が消えれば、陽子さんを解放してあげられる。陽子さんのために、私は消えるべきなんだ。そうやって自分自身に言い聞かせるたびに、お父さんの顔が浮かび上がる。お父さんに会いたい。

「やっと捕まえた」
「……わっ」
 突然、後ろから首に手を回され、驚きの声が自然と口から漏れた。顔を上げると、あきれた顔をした寺島と目が合った。彼が今朝から私のクラスの前を行ったり来たりしていたことには気づいていたが、見つかると面倒なのでうまく身を隠していた。
「ったく、ちょこまかと逃げやがって」
「べつに逃げてないし、私はそっちに用なんてないから」
 私の冷たさなんて関係ないほど、寺島の手は温かかった。昨日一緒にファミレスに行ったのは、100日という数字の具体性が気になっただけだし、なにを言われようとも私は誰とも関わる気がない。学校の廊下はざわめきと共に生徒たちが行き交い、何人かがまた私たちに視線を送っていた。
「とりあえず、このまま強制的に連行な」
「え、ま、待って。これから授業……」
「授業よりこっちのほうが大事だろ」
 寺島は私の意見なんて聞かずに、ぐいぐいと手を引いた。彼の手はしっかりと私の手首をつかんでいて、小さな反抗も無意味に思えるほどだった。
 授業をサボったりしたら陽子さんに連絡がいくかもしれない。ただでさえ波風を立てないように気をつけているのに、なんでこの人はそうまでして私に絡んでくるの?
 机と椅子が整然と並び、棚の中には調理実習で使う器具が置かれている。寺島は慣れたように家庭科室の椅子に腰かけ、カツサンドを頰張り始めた。そのカツサンドは見たことのない大きさをしていて、分厚いカツがパンからはみ出している。
「……え、なんで今パンを食べるの?」
「ちょっと早い昼飯だよ」
「昼って、まだ三時間目だけど……」
「これコンビニのカツサンドなんだけど、マジでコスパが最高でさ。食ったことある?」
 話が全然み合わない。パンを自慢気に見せられても反応に困るし、早めの昼食がしたいだけなら、ひとりですればいいのにと、呆れた顔で彼を見つめる。そんなことを思っている間に、授業のチャイムが鳴り響いた。その音が、学校生活の一部であることを思い出させ、少し現実に引き戻された。
「はっきり言うけど、私は寺島と友達にはならないよ」
「俺もはっきり言ったじゃん。友達になってもいいか柴崎が見極めろって」
「じゃあ、見極めた結果、寺島とは友達にはなれないと思いました。ごめんなさい」
「友達としてみたいことを一個もやってないだろ?」
「友達なんていらない。してみたいこともなにもないから」
 余命宣告をされた時、私はどこかホッとした。死んでもいい理由ができたとさえ、思った。こんな私に構うなんて、本当に時間の無駄だと思う。だからこそ、彼の真剣な眼差まなざしが鬱陶うっとうしく感じられた。
「じゃあ、話を変えるわ。柴崎はいつも昼飯はどこで食ってんの?」
「え、どこって教室だけど……」
「次から俺と食う?」
「は、え……?」
 思わず間抜けな声を出していた。「ここ、静かでいいだろ?」なんて、まるで彼は家庭科室が自分のものみたいな言い方をしている。
「た、食べるわけないでしょ?」
「教室でひとりのほうがいいの?」
「それは……」
 いいとは言えない。昼休みになれば、クラスメイトたちはグループを作る。今までは自分の席で黙々と購買部のおにぎりを食べていたけれど、おそらくこれからは透明人間ではいられない。江藤さんたちが面白おかしく絡んでくることは明白だ。
 一瞬の沈黙の後、私は視線をらした。家庭科室の窓の外には、青々と生い茂る大きなけやきが見える。その枝葉は風で揺れ、太陽の光を受けてきらめいていた。窓を閉めているからか、外の世界の喧噪けんそうは遮断され、蟬の声はひとつも聞こえない。
「寺島は……いつも友達と一緒に食べてるんでしょ?」
「お前も友達だよ」
 彼が迷いなく言った言葉に驚き、まゆをひそめる。カツサンドみたいに友達にも厚さがある。切っても切れないような厚い関係もあれば、ぺらぺらに薄い関係もあるだろう。私たちは圧倒的に後者だ。なのに寺島は私のことを、昔から知っている友達みたいに接してくる。
「なんで……なんで私なの?」
 心の奥底に潜んでいた疑問があふれ出した。今まで寺島を校舎で見かけることは何度もあった。威圧感があっても周りから『てら、てら』と親しみやすい愛称で呼ばれたりもしている彼は、どう考えたって私と関わるべきではない。
「なんでって、柴崎のことが知りたいからだよ。だってお前、いっつも死にたそうに空見てんだもん」
 その言葉にびっくりして、思わず固まった。この学校では誰も私に関心がないから、死にたい気持ちで空を見ていても気づかれることなんてないと思っていた。
「いつから……見てたの?」
「いつからって言われても困るけど、なんか俺、いつの間にかお前を見てるのが日課になってるみたい」
 そんなの、勝手に日課にしないでほしい。窓ガラスに映り込む欅のざわめきが、私の心の動揺を表しているようだった。
「あ、やべ。俺、そろそろ学年主任に見つかって、説教される時間だわ」
 おもむろにスマホを取り出した彼は、時計を確認するなり急に立ち上がった。またおかしなことを言い出したかと思えば、私のことを勝手に連れてきたくせに、勝手に家庭科室を出ていこうとしている。
「大丈夫。柴崎は死ぬことを選ばねーよ。少なくとも100日後まではな」
 意味不明な言葉の意味を問いかける暇もなく、扉が閉まった。ひとりきりの部屋にぽつんと取り残された私は、なんとも言えない孤独感に包まれた。寺島の足音が消えていく余韻が広がる中、ふと机の上を見た。
 彼が座っていた場所には、カツサンドがもう一つ残されている。袋に手を伸ばすと、そこには【お前のぶん!】と大きな字で書かれていた。さっき書いていた素振りはなかったから、最初から用意していたのだろうか。私が一緒に家庭科室に来るとは限らないのに。
“俺は今日の放課後、柴崎とこの店に入るって朝からわかってた”
 まさか、またわかっていたとでも言うの?
「……やっぱり、変な人」
 カツサンドを持ったら、パンとは思えないほどの重量があった。こんなの、ひとりじゃ食べきれない。これを半分ずつにして食べてくれる友達がいればいいのに。そんなことが頭に浮かんだ。友達としてみたいこと。なにも望んではいけないと打ち消していたものがゆっくりと浮上してくる。
 本当は友達と内緒で授業をサボってみたい。
 ひそかに願っていたことは、もしかしたらもうかなってしまったのかもしれない。
 きっと彼はまた私の前に現れる。きみのせいで今日も私は死に損ないだ。

* * *

 一説によると、脳というのは全体の2%しか使われていないらしい。
 役割が判明していない部分をサイレントエリア、なんて呼ぶ研究者もいるそうで、要するに人間は潜在能力だらけだということだ。
 そう思うと、俺はなにかの手違いで脳の使用率がバグったことになるんだと思う。

「あ、てら帰ってきた! おかえり〜!」
 学年主任からの説教が終わり教室に入ると、いつもつるんでいるやつらが声をかけてきた。二組はどういうわけか素行が悪い生徒が多く集まっていることもあり、わりと存在が浮くこともなく、クラスに溶け込むことができている。
「おつかれー。今日はどんな説教されたん?」
 自分の席に座って一息ついたところで、一番仲がいいにいやまあらが近寄ってきた。荒太は高校に入ってからできた友達で、獅子ししのように見える髪型と快活な性格が特徴だ。誰に対してもダル絡みをするぶん話しやすさはピカイチで、俺もなんだかんだ一緒にいる。
「普通に髪色のこととかピアスのこととか。あとこれ以上無断欠席すんなって」
「これ以上したら留年確定?」
「さあ。でも留年はべつにどうでもいい。どうせ来年の話だし」
「いやいや、てらいないとつまんないから、一緒に三年になろうぜ!」
「まあ、これからはなるべく学校はサボらないようにするよ。あんまり時間もないしな」
「なんの時間?」
「…………」
「てらって都合が悪くなると黙る癖があるよな。そんなんじゃ奈央ちゃんのことなんて口説けねーよ?」
「は? なに? 奈央ちゃん?」
「うん。てらが最近狙ってる一組の柴崎奈央ちゃん」
 荒太は俺の反応を楽しんでいるような顔をしていた。「狙ってないし」と一瞥いちべつしながら、長いため息を漏らした。
「だって前にあの子の名前なに? って俺に聞いてきたじゃん。そこでピンときたわけよ。あーついにてらにも春がきたかって」
「アホか」
 たしかに俺は、荒太に柴崎の名前を聞いた。同級生とはいえ他のクラスで接点がなかったため、彼女のことを知ったのは、二週間ほど前のことだ。
 柴崎奈央を認識してから、俺はその姿を目で追った。どんな人物なのか遠巻きに観察してわかったのは、いつもひとりで、いつも無表情、いつも空ばかりを見ていることだけ。それじゃらちが明かないと思い、近づくタイミングをうかがっていたところ、前触れもなく好機が訪れた。
 ――『100日間だけ、俺と友達になってくれ』
 学校の屋上で放った言葉は、自分のためでもあった。どんなに怪しまれても、どんなに強引でも、俺には柴崎のことを深く知らなければいけない理由がある。

 放課後。荒太から遊びに誘われたが、珍しくまっすぐ家に帰った。
 うちの家族は警備会社勤務の親父と、パート兼主婦の母さん。そして半年前から飼っているインコがいる。
 二階にある自分の部屋へと向かう途中、廊下の飾り棚が目に入った。そこには、俺の七五三の写真がいまだに飾られている。写真立ては、一切ほこりかぶっていない。母さんが毎日、掃除しているからだろう。少しだけ痛む心を落ち着かせながら、部屋のドアを開けた。
「おい、飯だぞ」
 俺の顔を見るなり、鳥かごの中でキャベツが羽を広げて暴れ始めた。キャベツとい う名前は、元々の飼い主である親父の同僚がつけたそうで、由来は単純に体の色が緑だったかららしい。その人が諸事情で飼えなくなったため、親父が譲り受けたけれど、なぜか俺が世話担当になっている。鳥かごは部屋の一番いい場所、窓際に設置されていた。
「お前、本当に緑色のものしか食わねーよな」
 キャベツの飯は小松菜に水菜にパセリ。大好物は豆苗で、ちなみにキャベツは食わない。
 人間で言うと二歳児並みの知能があるらしいキャベツが、俺のことをどのように見ているかは知らないけれど、こうして手渡しで餌をやれるのは、今のところ俺だけだ。
 鳥は好きでも嫌いでもないが、キャベツは鳴かないし、部屋の中で放鳥しても大人しい。愛嬌あいきょうもあって、そこそこ可愛がっているつもりだけど、ひとつだけ許せない不満がある。それは……。
「ちょっと! また学校から電話がかかってきたわよ!」
 突然、甲高い声が聞こえて心臓が縮み上がった。
「人様に迷惑かけることだけはするなって、いつもいつも言ってるでしょ!」
「聞いてるの? 返事くらいしなさい!」
「……おいおい、勘弁してくれ」
 母さんと同じ口調で喋り始めたキャベツに頭を抱えた。インコには、聞いた音を真似して発声するというコミュニケーション能力がある。根気強く同じ言葉を繰り返すことで人間のように話したりできるらしいが、裏を返せばそれだけ俺が同じ言葉で怒られているということにもなる。
「こんなの、覚えるなよ……」
「人様に迷惑かけることだけはするなって、いつもいつも言ってるでしょ!」
「だー、やめろっ!」
 キャベツの口をふさごうとしたら、手を突っつかれた。
 中学生の頃、俺は親が大嫌いだった。自分の世界が狭く、親の存在が大きくて、息苦しかった。反抗しすぎて親父に殴られたこともあるし、母さんが俺のために謝っている姿だって何度も見てきた。
 心が痛むどころか、なんとも思わなかった。反抗期は長い期間続き、高校に入ってすぐ反対を押しきって二輪の免許を取ったのもその一環だった。
 可愛がってもらっていた先輩からバイクを譲ってもらったことで、家に帰らず毎日のように夜の街で遊んだ。バイクのエンジン音が、まるで自分の魂の叫びみたいに思えて気持ち良かった。そんな毎日が自分の日常だったし、変える気もなかったし、たとえ誰にも迷惑をかけていなくても、誰かに迷惑をかけているはずだって思われても仕方ない生活を送っていた。
 ……だから、両親が“あの選択”をしたことは当然のことだと思っている。
 ガタッ。その時、玄関のほうから音がした。
「おかえり」
「ひゃっ!」
 パートから帰ってきた母さんを出迎えると、まるで泥棒でもいたみたいな顔で驚かれた。
「やだ、もう。まっすぐ家に帰ってくるなんて珍しいじゃないの。あ、さてはなにか悪いことでもしたんでしょう?」
「してねーって」
 周りから最近は角が取れて丸くなったって、よく言われる。自覚はないけれど、一切母さんと口を利かなかった頃を思えば、多少は落ち着いてきたのかもしれない。
 母さんはエプロンをつけ、キッチンへと直行した。夕飯の準備の音が、リビングに広がっていく。その様子をぼんやり眺めていると、自分の腹がぐぅっと鳴った。
「どうせ今日もご飯はいらないんでしょ?」
 母さんが肩越しに、こちらを見ながら尋ねてきた。
「いや、今日は家で食べるよ」
 その言葉に、再び母さんは驚きの表情を浮かべた。包丁を動かす手を止めて、本気の心配顔で振り返る。
「ちょっと、本当にどうしたの? 熱でもある?」
「これからは毎日じゃなくても、なるべく家で飯を食おうかって。母さんの飯もいつまで食えるかわかんねーし」
「なによ、いなくなるみたいな言い方しちゃって」
 ――『……この子が、光が誰かの役に立てるのなら、どうかよろしくお願いします』
 脳裏に、母さんの泣き声がこびりついている。それはまだ現実には起こっていないこと。だけど、必ず起きることでもあった。

 俺には未来が視えるという不思議な力がある。
 芽生えたのは、小学三年生の時。脇見運転をしていたトラックにかれそうになったことがきっかけで、なぜか未来がわかるようになった。
 最初は半年に一回、そのうちに一か月、一週間、一日と少しずつ未来がわかる感覚が短くなって、今では周期なんて関係なく、視えるようになってしまった。
 ――予知能力。近い未来の光景が頭の中に入ってくること。この不可思議な力に名前があるとしたら、まさしくこれに近いだろう。
 でも、世の中の天変地異や大事件が視えるわけではない。視えるのは、あくまで自分に関する未来だけだ。予知した未来は必ず訪れる。良いことも悪いことも。だから最初のうちは、自分に不都合な未来を変えようと必死になった。
 例えば、小学生時代に親友と喧嘩けんかをして絶交するという予知をした時、俺は喧嘩をしないようにそいつと距離を取った。結局、それが原因で親友だったやつとは疎遠になった。
 中学の時、他校の生徒にぎぬを着せられて警察沙汰ざたになるという予知をした時だって、色々な試行錯誤をしたが、やっぱりそのとおりになった。
 この前のファミレスの時もそう。行き着くルートは変えられても、絶対に結果は回避することはできない。
 もちろん、悪いことばかりではなく、いい未来を視ることもある。美人の先輩に告白される予知をしたこともあるし、テストの山勘が当たって赤点を免れるという予知を、先ほどの学校帰りにしたばかり。どうやら今年の夏休みは補習を受けずに済むらしい。
 この力のことは誰にも話していない。どうせ信じないだろうし、仮に信じてもらえたとしても、それが必ずしも自分にとってプラスになるとは限らないから、今後も誰かに打ち明けるつもりはない。
 未来が視えるのは、いつだって突然だ。瞬間的に体に電気が走る時もあれば、予知夢として眠っている間にわかる時もある。
 あいつとの……柴崎との未来が視えたのは夢のほうでだった。
 どうあっても変えることはできない、100日後に訪れる俺の未来だ。

(続きは本編でお楽しみください!)


書誌情報

書名:心は全部、きみにあげる
著者:永良サチ
発売日:2024年11月25日
ISBN:9784041152430
定価:770円 (本体700円+税)
ページ数:256ページ
判型:文庫判
レーベル:角川文庫
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322404000858/

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