見出し画像

【試し読み】「完全なる密室」の謎に挑む衝撃ミステリ 新名智『雷龍楼の殺人』前代未聞の冒頭を試し読み!

新名智さんの『雷龍楼の殺人』が8/2に刊行されました。新名さんは2021年に『虚魚』で横溝正史ミステリ&ホラー大賞を受賞しデビュー。当時、選考委員の綾辻行人氏からも激賞された抜群のミステリセンスを持つ新名さんが、満を持して放つ混じりっけなしの本格ミステリということで、ミステリ好きの間で注目が集まっています。孤島で起こる「完全なる密室殺人」の謎、そして島の外で繰り広げられる誘拐事件の行く末は――。刊行を記念して第1章を特別公開。犯人の名前が最初に明かされる「仰天の冒頭」をお楽しみください。

あらすじ

富山県の沖合に浮かぶ油夜島。この島にある外狩家の屋敷「雷龍楼」では2年前、密室で4人が命を落とす変死事件が起こった。事件で両親を失った中学生の外狩霞は、東京にいるいとこ・穂継の家へ身を寄せていたが、下校途中、何者かに誘拐される。霞に誘拐犯は、彼女を解放する条件となる「あるもの」を手に入れるため穂継が雷龍楼へ向かったと告げる。しかし穂継が到着した夜、殺人事件が発生。その状況は2年前と同じ密室状態で、穂継は殺人の疑いをかけられる。穂継が逮捕されると目的のものが手に入らないばかりか、警察に計画を知られてしまう。穂継の疑いを晴らしたければ協力しろ、と誘拐犯に迫られた霞は、「完全なる密室」の謎解きに挑む。


『雷龍楼の殺人』試し読み


「不可能なことを認められるもんか。
お前は二つの不可能から逃げようとして……何のことはない、
三つ目にはまりこんだだけだ!」
──エラリイ・クイーン『帝王死す』(大庭忠男訳)より


「──じゃあ、今は島に?」
「そう。前に話したでしょ。あぶらじま
「覚えてる。でも、どうして。もう住む人もいなくて、はいきよばかりって聞いたのに」
がり家の人たちはね、この島にときどき集まるの。先祖代々の屋敷があるから」
らいりゆうろう
「よく知ってるね」
「だって、話してくれたじゃない」
「そうね。──わたしも付き添いで来たの。今は家事手伝いだし、断れなくて」
「仕事を探せばいい」
「探してるよ。だけど、富山県の最低賃金って、いくらか知ってる?」
「ごめん。知らない」
「聞いたらびっくりするよ。これっぽっちで一人暮らしなんかできるわけないよね。デザイナーの求人も、こっちじゃなかなか見つからないし」
「東京に戻ってきたらいい」
「それこそ無理。──ううん、少なくとも、すぐには」
「お姉さんは頼れないの?」
「もうずいぶん甘えちゃったから。つぐくんも受験生でしょ。前みたいに、気軽に泊まりには行けないよ」
「だったら──でも──友達とか──」
「友達って、あなたたちのこと?」
「え?」
「あなたがわたしを救い出してくれるの、この島から?」
「わっ、わたしは」
「できもしないでしょ。結局そういうところなんだよ、あなたたちって。良識人を気取って、自分は賢いと思ってる。でも、本当に困っている人の気持ちはわからない」
「わかろうとしてきたよ。わたしは、きみを見下したつもりなんてない。いつだって対等だと思っていた──けど、それがありえないこともわかってる。人間は、みんな自分の目に映る世界の中でしか、考えたり悩んだりできない──」
「ねえ、要するに何が言いたいの」
「何が──何ってほどのことじゃない。どうしてるのかと思って」
「それだけ?」
「あと、来月、年明けにの結婚式がある。覚えてるでしょ、シェアハウスで一緒だった、おおさわ志乃」
「あの子、結婚するんだ」
「式の招待状を送っていいか、聞きたかった。それで電話したんだよ」
「お気遣いありがとう。せっかくだけど、遠慮しておく。志乃さんにはおめでとうと伝えておいて」
「──そうする」
「用件はそれだけ?」
「謝りたかった」
「何?」
「きみに謝りたかった。わたしは、きみを傷つけた。だから」
「よしてよ。それはもう済んだことじゃない。それに、わたしのほうも反省してる。考えてみたら、あれは単なるフィクションだもの」
「架空の物語にだって、書いた人間の意図がある」
「とにかく、お互い水に流しましょ。あなたも気にしないで──活躍、楽しみにしてるから──それじゃ──」
「ねえ、待って──」
「──きゃあっ!」
「ちょっと、どうかした?」
「なんでもない──びっくりしただけ。今ね──窓の外が光って──すごく大きな雷が、すぐ近くに──」


プロローグ


 わたしが初めて地下室に閉じ込められたのは、七歳のときだったと思う。
 理由は覚えていない。理由なんてなかったのかもしれない。お母さんが「地下室」と呼んでいた部屋は、実際のところ単なる床下収納で、高さは一メートルほどしかなかった。小さかったわたしは引きずられ、ぶたれ、最後は正方形の穴から落とされて、古い掃除機と季節外れの扇風機との間に座らされた。
 そこで反省しなさい、とお母さんは言った。そして戸が閉められると、目の前は真っ暗になり、何も見えなくなった。
 泣き叫んだりするのは逆効果だって二、三回目くらいでわかった。それはお仕置きの時間を長引かせるだけなのだ。だから、わたしはただひざを抱え、うずくまっているしかなかった。静かに息を止めて、人形のようになって、お母さんの怒りが解けるのを待っていた。
 でも、ひとたび闇を受け入れてしまえば、そこはむしろ安心できる場所だった。怒鳴りつけられることも、髪の毛をつかまれることもなければ、プラスチックの定規でひっぱたかれることもない。地下室にいる限り、わたしは自由だった。
 わたしは闇が怖くなくなった。見えないということはいいことだと思うようになった。自分とだれかを比べる必要もなく、ただ存在するだけでいい。闇が怖いなんて、いったいだれが決めただろう。わたしにとって恐ろしいのは光のほうだ。地下室の戸がふたたび開き、正方形の光が差し込む瞬間ほど恐ろしいものはなかった。わたしを守ってくれた暗闇がなくなり、刺すような現実が現れる瞬間。
 わたしはまぶしさに目を細めながらお母さんの顔を見る。そこに表情はない。カメラのフラッシュが凹凸を消し去るように、強すぎる光は人の心を見えなくする。お母さんの不満そうな声に促されると、わたしは地下からい出さなければならない。地下室に閉じ込められた何時間、何十時間よりも、その数秒のほうがわたしには苦しい。
 そして今、わたしは同じように閉じ込められている。
 ここは、あの地下室ほど狭くはない。窓だってあるし、大きな机や、椅子や本棚もある。その椅子に乗っても届かない高さの天井からは、ファンのついたおしゃれな照明がるされている──わたしを閉じ込める前は、だれかの書斎だったのかもしれない。本当なら女の子をしてくる予定なんかなかったと思う。その証拠に、この部屋には人間を監禁するための設備がぜんぜん足りていない。鉄格子がないのはもちろん、お約束のパイプベッドみたいなものもないから、わたしは床に敷いたマットレスの上で寝かされている。枕はなく、薄い毛布が一枚あるだけ。
 トイレは、言えば連れて行ってもらえる。わたしをエスコートするのは女のほうの犯人の役目だ。わたしをだまして車に連れ込み、誘拐を実行した張本人。個室の中まで入ってくるのはへきえきしたけれど、女のほうをあてがってくれるだけましだと思うことにする。
 もうひとりの犯人は男だ。おそらく車の運転手だったほう。そのときは顔が見えなかったけれど、同じ人だと思う。何人も手下がいるような組織だったら、監禁場所だってそれっぽい建物を選ぶに決まってる。こいつの役目は、わたしに食事を運んでくることだけ。それ以外のときは、ほとんど姿を現さない。
 学校の帰り道で車に押し込められ、この部屋で目を覚ましてから、今までに三回の食事が出された。温かいスープと冷たいパン。そして食べ終わるとすぐにわたしは眠ってしまった。たぶん食事に薬が混ぜられていたのだろう。どんな成分だか知らないが、目を覚ましたあともしばらくもうろうとしていた。おかげで今が何日目なのか、正確なところはまるでわからなくなっている。
 わたしが誘拐されたことを、わたしの家族は把握しているだろうか。きっとそうだと思いたい。今の家族は、死んだ両親ほど悪い人たちじゃない。夜になっても中学から帰らなければ、何かあったと気づくはず。叔父おじさんも叔母おばさんも、それから、にぃにも。
 にぃにのことを考えると少し元気が出てくる。にぃには、わたしよりずっと賢くて勇気がある。きっとすぐに行動を起こして、わたしの行方を追ってくれていることだろう。にぃには必ずわたしを助けてくれる。あのときだってそうだった。二年前、両親が死んだとき、真っ先に手を差し伸べてくれたのはにぃにだったから。
 問題があるとすれば──予定通りなら今頃、外狩家の人間は島に集まっているということだ。
 けれど、にぃにも叔母さんも、行くかどうか直前まで決めかねていると言っていた。こんなことが起きた以上、間違いなく予定はキャンセルされたはず。にぃにはもちろん島になど行かず、わたしのほうを優先してくれる。
 だから、わたしが今すべきなのは、にぃにの助けをじっと待つこと。大丈夫、暗闇で待つのは慣れている。にぃにがわたしを見つけ出してくれるまで、わたしはこうして寝そべっていればいい。
 退屈しのぎに、わたしは両手首にかかった手錠のようなものをいじくり回す。刑事ドラマで見るような金属製の輪ではなくて、革製のベルトみたいなものだ。そこに小さいナンキン錠がくっついて固定されているらしい。
 同じようなものが両足にもついている。さらに首にも。それぞれ錠がぶら下がっているので、動くたびにガチャガチャと耳障りな音がする。凶暴な死刑囚ならともかく、中学生の女の子に対して厳重すぎると思った。金属ではなく革の拘束具を選んだのは、長期間つけられるようにという配慮だったのかもしれないが、だとしたら浅はかだ。革はとにかく通気性が悪い。ここに来てからシャワーも浴びさせてもらえないし、今では手首も足首も、頭も顔もかゆくてたまらない。
 しきりに手錠をいじっているのは、脱出のためというよりは、そのかゆみを紛らわせるためになりつつあった。手首のベルト同士をつないでいるのは十五センチほどの長さの鎖で、左右の手はそれなりに自由に動く。おかげで革の隙間から指を差し込み、ひっかく程度のことはできた。すると多少は気持ちがいい。それでしばし楽になる。
 そうしている間、頭の中では、犯人たちの目的について考えている。
 今のところ、犯人のふたりはわたしに対して、なんの要求も命令もしてきていない。これが身代金目当ての誘拐だとしたら、家に電話をかけろとか、声を聞かせてやれとか、そういう作業が挟まるものだと思っていた。それがないということは何を意味するのだろう。犯人の狙いが別にあるのか、もしくは、単にわたし抜きで交渉を進めているだけなのか。
 犯人が男だけなら、もっと嫌な想像だってできた。わたしをりようじよくするとか、ペットにするとか、殺すとか。でも、どうやらそれはなさそうだとわかってきた。それどころか犯人のふたりは、どちらもなるべくわたしの体に触れないよう注意を払っている様子だ。まるで壊れ物を扱うみたいに。とすれば、やはりわたしは交渉材料なのか。交渉するだけの価値が、わたしにあればよいけれど。
 そのとき、部屋の外から階段を上る足音が聞こえてきた。
 これは犯人のうちの女のほうだ。彼女は大柄で、いつも大きな足音を立てながら歩く。男のほうが、まるで猫みたいに足音を消しているのとは対照的だった。
 ドアが開く。わたしはマットレスの上でわずかに姿勢を正し、さもくつろいでいたかのようなポーズを作る。女はふっと鼻で笑う。
「この暮らしにも慣れたようだな」
「おかげさまで」
 とっさに答えたが、内心では驚いていた。彼女がこんなふうに話しかけてくるのは初めてのことだ。女は机の前に置かれていたキャスターつきの椅子を引っ張り出し、腰かけた。やはり乱暴な座り方で、ドスンと床が揺れた。
たかもり穂継のことだが」
 にぃにが、と口にしかけて、慌てて言い直す。
「に、兄さんがどうかしたの」
「感謝するといい。交渉は成立した。おまえを助けるためなら、なんでもするそうだ」
 汗が背筋を伝って流れる。わたしは動揺を悟られないようにする。
「なんでもするって、兄さんはまだ学生だよ。身代金なんか払えるわけないじゃない」
 それを聞いて、女はまた笑った。馬鹿にされているみたいで腹が立った。
「何がおかしいの」
「わたしも、子供から金を巻き上げようとは思っていない。そもそも、わたしの目的はお金でもないし」
「お金目当てじゃないなら、なんでこんなことを」
 わたしは手錠で繫がれたままの両手を持ち上げ、女に見せつけた。わたしの疑問に女は答えなかった。けれど、沈黙の中に鋭い決意のようなものを感じた。この女は、何か別のものを奪おうとしている。
「わたしが欲しいのは、情報だ」
「情報?」
「そう。事によっては外狩家を破滅させかねない危険な情報だ。わたしたちはそれを必要としている。手がかりは島にしかない。外狩家の祖先が何百年も前から住み続けていたという、あの島にしか」
 あの島──嫌な予感がして、体中がこわばった。わたしは思わず彼女に尋ねた。
「ねえ、今日は何日?」
「十二月二日」
 やっぱりそうか。わたしがさらわれたのは十一月三十日、木曜日の夕方。わたしが計算したとおり、本当に二日が経っていたことになる。予定では、にぃには金曜に出発するはずだった。それで今日は土曜日。つまり、にぃにはもう島にいるのだ。東京から遠く離れたあの島──油夜島に。
「兄さんが島へ──叔母さんと一緒に?」
「いや、彼ひとりだけだ。そのほうがわたしには都合がいい」
「都合がいいって」
「穂継には、島でわたしの手足となって動いてもらうつもりだ。もうすぐ彼から最初の報告がある」
 彼女は机の上にコトンと何かを置いた。どうやら、彼女の携帯電話。
 大丈夫だろうか。わたしは不安だった。にぃには、厳密に言えば外狩家の人間じゃない。叔母さんは外狩家の生まれだけど、にぃにが育ったのは東京だった。勝手のわからない島で、女の言いなりになって情報を集めるなど、本当にできるだろうか。
伯父おじさんたちは、わたしなんかのためにお金を出さないと思う」
「だから言ってるじゃないか。金が欲しいわけじゃない」
「同じことだよ。あの家の人たちは、わたしを助けたりしない。兄さんのことだって疑うはず。家を追い出された娘の子供が、何を今更って──だからきっと、あんたの計画は失敗する」
「そうならないよう、穂継にはがんばってもらうだけだ」
 わたしは唇をんだ。女は愉快そうに椅子を揺らし、そのたびにキイキイという耳障りな音を立てる。この女は、外狩家のことを何も知らないのだ。だから簡単に考えている。
「いったい、あんたが欲しい情報って何?」
「それはだな──」
 女が口を開こうとした、まさにそのときだった。聞き覚えのある着信音と振動音が、同時に部屋に響いた。机の上のスマートフォンが鳴動している。来たな、と女はつぶやいた。わたしには見えないが、きっとディスプレイにはにぃにの名前か電話番号が表示されているのだろう。
 ああ、にぃに──わたしは声に出さず祈った。どうか無事でいて。あの人に何かあったら、わたしは生きていけない。だってにぃには、わたしの。
「何、なんだって、もっとよく説明しろ」
 電話に出た女は、何やら焦っていた。想定外のことが起きているのかもしれない。わたしは不安になる。にぃには彼女に、どんな内容を伝えているのだろう。女は電話の向こうのにぃにに質問を重ねて、状況を聞き出そうとする。だがそれも要領を得ないらしく、何度も何度も聞き返して、最後に女はこんなことを口走った。
「──いったい、だれが殺されたんだ?」


読者への挑戦


 思えば「フェアプレー」という言葉は、本格ミステリ作家としてキャリアを歩み始めたときからずっと、わたしの作品における至上命題のひとつであり続けた。
 その証拠に、わたしは過去のすべての作品において、必ず「読者への挑戦」という章を設けた。それはミステリのフェアネスを保証するらくいんのようなものだと思うからだ。ひとたび読者に対して挑戦状をたたきつけた以上、その作品は絶対的に「フェア」でなければならない。
 作家や評論家の間でも意見の分かれるこの概念を、わたしは次のような定義でとらえている。すなわち、これから挙げる三つの条件がすべて満たされるとき、その小説は「フェア」であると言うことができる。
 第一に、真相が存在すること。
 第二に、合理的な推論によって、その真相にたどり着けること。
 第三に、推論の根拠となる手がかりは、すべて作中で読者に対し提示されていること。
 これらの観点から、この作品──と呼べるかどうかわからないが、少なくともわたしがこれから書こうとしているもの──を眺めてみると、そのままでは満たしえない条件がひとつあることに気づいた。これはわたしにとっては由々しき事態である。だれに見せる予定もない原稿なのだからかまわないのではないか、と彼は言ってくれたが、そういう問題ではないのだ。生粋のミステリ作家として、フェアではない謎を作り、他人に挑ませることが、わたしには苦痛でならない。
 そこでわたしは、あるひとつの事実をあらかじめ宣言しておくことにした。これにより、先に述べた三つの条件が満たされるのは確実となる。なぜなら、これ自体が真相だからだ●●●●●●●●●●●。ゆえにこの事実を根拠とする限り、真相は自明であって、当然ながら推理可能なものとなる。
 今回、わたしはこの宣言をもって「読者への挑戦」に代えさせていただく。その場合でも読者には──というか、わたしには──別の難問が残っている。そう、言ってしまえば、こんな真相などどうでもいい。
 それではメモの用意を。

 これより油夜島で起きる連続殺人事件の犯人は●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●外狩詩子ただひとりである●●●●●●●●●●●●うたぐり深い読者のため、ここにはなんの叙述トリックも存在しないと付け加えておこう。外狩やすひろを殺すのも、うえかおりたいぞうの夫婦を殺すのも、ばやしけんを殺すのも、すべてうたひとりが計画し実行するという意味であって、それ以外の解釈はない。


第一章


穂継


 富山県というのは日本の海に面した県の中で、もっとも離島が少ない県だという。というのも富山湾は、陸地を少し離れると落とし穴のように深海まで達する、珍しい特徴を持つ海だからだ。当然、そんな地形ではとうしよが形成される余地はない。だから富山県の沿岸には島がほとんどないが、かろうじて湾の西側にあたる市の沖合に、いくつか小さな島があるだけだった。
 穂継が目指す油夜島も、その中にあった。上から見ると極端に細長い島で、東西の長さは一キロメートルほどだが、南北は広いところで五百メートルもない。そのため氷見の海岸から見たこの島は、まるで水平線上に突き出した針のようになっている。そしてもっと目を凝らせば、その針の中腹でジグザグに連なっている壁と屋根も見ることができる。
 かつて、この島には小さな集落があった。その集落の中心で、もっとも権力を持っていたのが外狩家である。一説には、へいあん時代に北陸地方を荒らし回った海賊のまつえいとも言われている。それが歴史の表舞台に登場したのは時代。きたまえぶねの水先案内役として、後にはみずからも船主として、数多あまたの航路を取り仕切るようになってからだ。
 外狩家の屋敷は、その当時からほぼ同じ場所にあったらしい。島の丘陵に絡みつくような建物の姿が、海上にそびえる楼閣のように見えたのかもしれない。いつしか屋敷には「雷龍楼」という異名がつくことになった。
 ただ、それを聞いても穂継は納得がいかなかった。
「『楼』はわかったけど、じゃあ『雷龍』はなんなの」
「サンダーとドラゴンだろ」
「そういうことじゃなく──」
 例のごとく、すぐにふざける康弘に向かって、穂継は声を張り上げたが、そのほとんどは風の音とエンジン音にかき消された。
 かつては氷見港だけでなく、南のふし港からも出ていたという油夜島行きの定期船だが、島の集落が無人となった今では一本も存在しない。それでも不自由しないのは、そもそも島へ渡る必要のある人間がほとんどいない上、その数少ない例外である外狩家は、自前で船をチャーターしていつでも行き来できるからだ。今となっては、外狩家の人間も全員が島外で生活している。一族が島に渡るのは年に数回ある法事のときだけ。それも二年前の事件があってからは、ずっと中止されてきた。
 横波が当たり、船が揺れる。穂継は船べりの手すりをしっかりとつかんだ。船など観光地の遊覧船くらいしか乗ったことがない。そういったものに比べると、この船の乗り心地はいいとは言えなかった。
「まあ、ひとつには雷だな」と、康弘が言った。「このあたりは雷の多発地帯なんだ。とくに冬は」
 冬の雷というのが、東京育ちの穂継にはイメージできない。
「十一月から十二月にかけて、暖かい海と冷たい空気との間に発達した雷雲ができる。それが風に乗って運ばれてきて、避雷針みたいな形の油夜島に雷を落とす。今朝の天気予報じゃ、今日あたりにもありそうらしい」
 穂継は思わず視線を上げた。十一月から十二月ということは、ちょうど今ぐらいの時期だ。青白くかすんだ空には、しかし、積乱雲など見えなかった。
「落ちるとしたら夜じゃないかな。その後、大雪になるとも言ってた」
「雪と雷が同時に?」
「雷雪って言うんだ。珍しいだろ」
 穂継はうなずいた。雷が鳴り、それから雪が降る。想像すると神秘的な光景のようにも思えた。
「『雷』はわかった。あと『龍』が残ってるけど」
「なんとなくじゃねえの。『雷楼』より、そのほうがかっこいいってんで」
「まさか」
「『雷龍』っていうのはね──海にんでいるウナギのことよ」
 その声に、穂継と康弘は振り返る。大きなサングラスをかけた穂継の伯母おばが、白い帽子を手で押さえながら、デッキの端に立っていた。
「香さん」
「ヤスちゃんだって食べたことあるでしょ。郷土料理だし。穂継くんはどうか知らないけど」
「どうだったかな」
「ウナギなら東京でも普通に食べますよ」
 穂継が口を挟むと、康弘は吹き出した。首をかしげる穂継に、香が説明する。
「普通のウナギじゃないの。ここらでれるのは、ヌタウナギってやつ」
「違うんですか」
「そりゃもう。見た目がとにかく気持ち悪くてね。口が吸盤みたいになってて──ああ、嫌だ」
 ヌタウナギは、がく類と呼ばれる生物の一種だと、今度は康弘が説明してくれた。その名の通りあごを持たない、せきつい動物の中でも相当古いグループで、生きた化石とも呼ばれている。それが島の周辺の海には多く生息しており、干物として食べられているという。
「しかし、あれのどこが『龍』なんだろう」
「『龍』じゃなくて『雷龍』。カミナリヌタウナギ。知らない?」
「電気でも出すんですか。デンキウナギみたいに」
「さすがに電気は出さないけど、雷が鳴ると増えるって言い伝えがあるのよ」
 穂継はスマートフォンを取り出し、カミナリヌタウナギと入力して検索した。香が言っていたとおり、グロテスクな生物の画像が検索結果に表示される。黄色みがかった白い皮膚を持ち、水槽の底でのたくっている姿は、ウナギというよりミミズか何かのようだ。少なくとも龍というほど神々しい生き物には見えない。
 雷龍が棲む海、その楼閣だから、雷龍楼。
 そうして話していると、またひとり別の人物がキャビンから出てきた。香の夫、泰造だ。縦にも横にも大柄な彼が歩くと、そのたびに船が傾くような気がして、穂継はちょっと不安だった。
「ヌタウナギだって言うほど悪かないじゃないか。あんなのよそじゃ食えないぜ」
「まあ、おいしくはないけど、まずくもないわね」
「穂継くんも、東京へのお土産に買っていくといい。なぎささんが懐かしがってくれるだろうし──」
「駄目よ」香が言った。「あの子は食べないわ。すっかり東京の奥様になったんだもの。田舎臭いって怒られちゃう」
 彼女の言葉を聞いて、全員が黙り込む。その空気と、目の前にいる穂継の存在に気づいた香は、わざと甲高い声で笑ってみせた。
「冗談に決まってるでしょ。ねえ、穂継くんも」
 穂継は愛想笑いを返す。自分の母が、その兄や姉からよく思われていないということを、穂継は理解しているつもりだった。それでも、その一端を現実の光景として目の当たりにするのは、いささかショックだった。
 妻の失言を取り繕うかのように、泰造が口を開いた。
「たしかに、もっとおしゃれなお土産がいいな。たとえば──ほら、お義兄にいさんのところの新商品の」
「白えびラングドシャですか?」
 康弘が答えると、泰造はうなずく。
「それそれ。前にテレビで特集してるのを見たよ。生地に白えびの粉末が練り込んであるんだって」
 説明を聞く限りでは奇怪な食べ物としか思えなかったが、これがどういうわけか売れているらしい。康弘は苦笑した。
 康弘の父である外狩えいいちろうは、先代のひでが死んだあと、一族が保有する会社のほとんどを継承した。水産加工食品を扱う〈とがり水産〉もそのひとつだ。康弘の両親は一足先に島に渡っているため、この船には乗っていない。一族の当主として、親族会議を開くための準備がいろいろとあり、忙しくしているのだという。
 英一郎と、弟のえいさく、それから目の前にいる上田香と、穂継の母親の高森渚、そして末っ子のあざみを加えたのが、穂継の親世代に当たる五人きょうだいだ。
 いや──五人きょうだい〝だった〟。
 船が島に近づくと、さっきまで晴れていた空は、不思議と曇りがちになった。海風はいっそう激しくなり、染みるような冷たさが肌を襲った。上田夫妻は寒い寒いと言いながらキャビンに戻っていく。穂継はダウンコートの前をきつく合わせた。手持ちの服の中で一番暖かそうなのを選んだつもりだったけれど、北陸の冬には勝てそうにない。その様子を見ていた康弘が、つぶやくように言った。
一昨年おととしも、こんな天気だったんだよな──」
 穂継は年上のいとこの顔を見上げた。高校まで富山で、今は関西の大学に通う康弘と、東京生まれの穂継とは、これまで数えるほどしか会ったことがない。だが二年前の事件があって以降、ふたりは頻繁に連絡を取り合う仲となった。
かすみはどうしてる?」
 と、康弘が言った。彼は霞──事件の後、高森家に引き取られたいとこ──の様子を気にかけていた。康弘にとって、同世代と呼べる親族は、これまで彼女しかいなかったからだ。
「元気にしてるよ。今日はちょっと」穂継は言葉を濁す。「来るのを嫌がって」
「まあ、そりゃそうだろうな」
 康弘はすぐに納得してうなずいた。それから遠い空を見上げて言った。
「霞のことだし、何か感じるところがあったんだろう。おれだって、今日はちょっと嫌な予感がする」
 康弘の言葉に穂継も同意した。霞には、どこか勘の鋭いようなところがある。それは穂継自身も感じていたことだ。周囲が隠していることに素早く気づいたり、知らないはずのことを知っていたり。まるで探偵みたいに。
 前にもこんなことがあった。日曜の午後、買い物のために出ていったはずの母親が戻ってきて、車のキーがない、と騒ぎ始めた。その後、父親とふたりであちこち捜していたが、穂継は関係ないと思ってくつろいでいた。すると急にいらちの矛先が穂継のほうへと向いた。実家から大学までは電車で通っている穂継だが、ときどき家の車を借りて遠出することもある。その日も午前中に使ったばかりだったので、穂継がキーを決まった置き場所──冷蔵庫の横にマグネットで取り付けられたフック──へ戻さないからなくなったんだろう、と言われた。
 穂継自身は間違いなく戻したつもりだった。ところが、そのように抗議しても信じてもらえない。そのとき二階から、口論を聞きつけた霞が憤慨した様子で下りてきた。霞はキッチンの冷蔵庫の下に迷わず手を差し込み、ほこりにまみれた車のキーを引っ張り出して母親の前に突きつけた。それから言った。
 ──にぃにのせいにしないで。にぃには、ちゃんと戻してたよ。
 穂継と両親はあっけにとられ、顔を見合わせた。霞によると、出かける前に母親がキッチンを掃除しているとき、冷蔵庫に掃除機がぶつかり、そのせいでキーが落ちたのだという。言われてみればそうとしか考えられないが、しかし、その現場を見ていたわけでもない霞になぜそれがわかったのか、とうとう教えてもらえなかった。
 その一件があって以来、穂継は霞の洞察力をひそかに信頼していた。身の回りで困った出来事や不思議な事件があると、穂継はまず霞に相談するようになった。そのたびに霞は穂継が思いもよらないような答えを返してくれた。穂継が礼を言うと霞も喜んだ。にぃにの力になれてうれしい、と。
 けれど、そんな彼女も目の前で起きた両親の死を止めることはできなかった。
 二年前の十二月。あの島では四人が死んだ。死んだのは霞の両親と、祖母のすみれと、叔母おばの薊。死因は一酸化炭素中毒ということになっている。たまたま別室で就寝していた霞だけが難を逃れ、生き残った。ひどいトラウマで口がきけない有様だった彼女は、それでも高森家に行くことを自分自身で選んだ。
「どうして穂継のところだったんだろうなあ」
 穂継は首を横に振ってみせたが、それは謎でもなんでもないと内心では思っている。霞はこの島を──外狩家を嫌ったのだ。だから、もっとも島と縁遠い家族を指名した。外狩渚──外狩家から逃げるように東京へ来て、実家に無断で結婚までし、長らく両親とも絶縁状態だった穂継の母親の家を。
「小さい頃、霞とはよく遊んでいたから」
「おれだって遊んでやったのに」
「でもヤスちゃんのことは、『にぃに』とは呼ばないでしょ」
「なんだ穂継、そんなふうに呼ばせてるのか」
 康弘に笑われ、穂継は決まりが悪くなる。笑われるような呼び方だとは知らなかった。
「まあ、元気になったなら何よりだよ。あの時期の霞は本当に──なんていうか、見てるこっちが不安になる感じだった」
 二年前、事件のことを知った穂継は、両親に連れられ、霞のお見舞いに出かけた。だが穂継が心配していたのは、彼女の体調や精神面というより、何年も会っていないしんせきの少女といきなり会って何を話せばいいのか、ということばかりだった。
 実際に顔を合わせて、穂継はさらにショックを受けた。霞は背が低く、せていた。まるで最後に会ったときから成長が止まっているかのようにも見えた。霞が両親から虐待に近い仕打ちを受けていたと知ったのは、もうしばらく後のことだが、すでに第一印象から察してはいたのだ。
 穂継の母親が彼女に慰めの言葉をかけている間、穂継はほとんどしやべらなかった。帰り際になって、不意に霞が穂継の服のすそを摑み、か細い声で言った。
 ──わたし、にぃにと暮らしたい。
 島が徐々に近づいてくる。穂継はそのシルエットを興味深く眺めた。それから、出発前に地図で見た島の全体像を頭に思い描いた。
 おおむね東西に長い油夜島は、上空から見下ろした場合、いびつな三角形というか、ちょうどギターのフライングVに似た形をしている。西にボディがあり、東にネックがあるといえばさらにわかりやすい。島の西端、ギターで言えばボディの引っ込んだ部分に港と集落があり、ネックの付け根あたりに外狩家の屋敷がある。屋敷の裏はずっと岩山が続き、やがて島内でもっとも標高が高い油夜神社の境内に至る。そこがギターのヘッド部分だ。
 船はその島を南に回り込んでいく。湾に入ってからは波も風も静かになった。港の桟橋にはいくつかの人影が立っている。そのうちのひとりが船長から投げ渡されたロープを受け取り、引っ張って接岸させる。ドンという鈍い衝撃とともに船が停止した。
「康弘くん!」
 声がしたほうを見ると、ポロシャツを着た若い男性が手を振っていた。康弘も手を振り返し、それから穂継に耳打ちした。
「親父の秘書をやってる小林さん」
 船を下りた四人は、小林の先導で移動し、ワゴン車に乗り換える。走っている間、窓の外を見ながら香が言った。
「いい加減、このあたりの家も取り壊したほうがいいんじゃないの?」
 穂継も車外に目をやる。島はすでに無人と聞いていたが、いかにもなはいきよは少なく、多くの家は原形をとどめているようだ。とはいえ手入れがされていないのは明らかで、放置すれば台風のときなどれきが飛んできて危ない。そういう意味のことを香は口にした。
 運転席の小林は、ちょっと考えてから答えた。
「勝手に壊すわけにはいきません。まず建物の所有者に連絡を取らないと」
「取れば」
「それがなかなか──島外への移住が始まって五、六十年になりますから、現住所のわからない人ばかりで」
 かつては富山湾の海上交通の要衝として栄えた油夜島も、近代汽船の発達によってその役割を終えた。戦後、外狩家の生活拠点が本土に移ったのをきっかけとして、島からの人口流出はますます加速し、ついには無人島となった。
 しかし外狩家は、その後も油夜島にある屋敷を、行事や儀式の場として使い続けた。建物自体が富山県の指定有形文化財で、条例に基づく管理が必要という事情──どうせ金をかけて維持するなら、使わないともったいない──もあるにはあったが、それ以上に、そこが数百年前から同じ場所に建つ、先祖代々の屋敷であるという自負も大きかった。
 車は集落を出て、曲がりくねった狭い坂道を進む。ただでさえ急な坂を、ぎゅうぎゅう詰めの重たいワゴンで上がるものだから、ギアもエンジンもすさまじい音を響かせている。
 悪戦苦闘しながら、のろのろと坂を越えた。すると突然、正面の視界が開けた。海上からじかに突き出たかのような岩山。その斜面に沿って並んだかわら屋根の小さな建物。それらをいくつかの渡り廊下がくし刺しにしてつないでいる。海賊の末裔という言葉が脳裏をよぎる。なるほど、たしかにこの屋敷は、本土を見張るために建てられた海のとりでのようでもある。
「雷龍楼へようこそ」康弘が、穂継に向かって言った。「来るのは何年ぶりだ?」
「さあ──十年くらいかな。でも、印象はぜんぜん変わらない」
 ワゴン車は、門をくぐって玄関の脇に停車する。運転席から降りた小林さんが、後部座席のスライドドアを開けながら、足元に気をつけて、と言った。見れば、そこかしこの日陰に雪が残っていた。
 玄関から中に上がって廊下を進む。屋敷のおおまかな構造については、ここへ来る途中、康弘から細かく聞いて知っていた。雷龍楼というのは、斜面に建てられた五つの家屋の総称だ。そのうち、ほぼ縦に並ぶ四つを「一の棟」「二の棟」「三の棟」「奥の棟」と称し、少し外れたひとつを「別棟」と呼ぶらしい。最初の三つは短い廊下と階段で結ばれ、ほぼ一連の建物のようになっているのに対し、奥の棟や別棟に行くためには長い渡り廊下を通らなければならない。
 一の棟は来客を迎えるための家屋で、広い玄関と応接間、そして庭に面した客間が存在する。二の棟にも四つの和室があるが、それらは普段、ふすまを取り払って大広間になっている。その他、二の棟には台所やなどがあり、ここがいわゆる母屋に近い。三の棟から奥には家族のための部屋が並び、その中のひとつが当主の居室ということになっているが、いずれも現在では使われていなかった。階段を何段も上らなければならず、単純に不便だからだ。今は物置になったり、屋敷に伝わる家宝の収納場所になったりしているという。
 別棟は、この中ではもっとも現代的な建物だ。建てられたのは昭和四十年代で、バランスがまの風呂やタイル張りのキッチンなど、当時としては最新の設備が整えられた。穂継たちの祖父母、英男と菫は、この別棟にある二部屋を自室として使っていた。
「おれにとっては、ばあちゃんの家ってイメージだ。島にいるときは、たいてい別棟にこもってたから──」
 しかし康弘は別棟について、それ以上は何も語らなかった。その理由は、穂継にはわかっていた。その別棟というのは二年前、あの変死事件が起きた、まさにその場所だったからだろう。
 穂継たちは、廊下を通って二の棟に入った。途中、清掃業者や仕出し業者と何度もすれ違う。これだけの人数が泊まれるのだろうか、と疑問に思った穂継は、康弘に尋ねてみた。すると代わりに、前を歩いていた小林が答えた。
「業者の方たちは、夕方の船で本土に戻ってもらいます。今夜、島に残るのはわれわれだけですね」
「われわれってことは、小林さんも?」
「ええ」
 それを聞いた康弘は、なぜか申し訳なさそうな顔をした。
「小林さん、ちゃんと親父に言ったほうがいいですよ。こんな身内の集まりにまで、いちいち秘書を連れ回すなって」
「けっこう楽しんでますよ。こう見えて歴史好きなものですから」
 小林は笑いながらそう言うと、襖を開けて大広間に入っていく。穂継たちもその後に続いた。広間の一番奥には法要のための祭壇が作られ、その前に、康弘の両親が正座していた。
 十二月三日は、外狩家の先代、外狩英男の命日だ。八年前に氷見の本宅で亡くなった彼は、遺言によって、生まれ育ったこの島に葬られた。以来、年忌法要を兼ねて、この時期になると親族が島に集まってくるようになった。
 二年前、事件が起きた日は、本当なら七回忌の法要が執り行われるはずだった。うやむやになってしまったそれを今年、無理にでも親族を集めてやり直そうと決めたのは、康弘の父である英一郎なのだという。
 その英一郎が、穂継のほうを振り返った。三つ揃いのスーツを着た威厳あるたたずまいは、テレビに出てくる政治家のようだ。実際、彼は富山県議会議員選挙に一度だけ立候補したことがあった。その際は惜しくも落選したが、政治への未練はまだあるらしい、というのは康弘の言だ。
 こうして島に親族を集めたのも、案外、それが影響しているかもしれない、と康弘は船で穂継に耳打ちしていた。もうすぐおこなわれる県議会の補欠選挙に出馬するため、選挙資金をねんしゆつする必要がある。そのための親族会議ではないかと──そうしたことに疎い穂継には、康弘の推測が的を射ているのかどうか、判断がつかなかった。
 英一郎の隣にいるのは、康弘の母親の詩子。彼女は、昔から無口な人だという印象だけがある。穂継もあまり話したことがなく、それ以上は知らない。親戚たちがあいさつをする間、彼女だけは何も言わずぺこりと頭を下げただけだった。
「ちょうどいいところに来た」と、英一郎は康弘に向かって言った。「奥の棟から荷物を出したいんだ。手伝ってくれるか」
「荷物って?」
「壊れ物だよ。会食用の漆器とか、絵皿とか──業者の人には頼めないからな」
「ああ、そっか」
 康弘は答えた。奥の棟に置かれた品々は、どれも外狩家に伝わるこつとう品だ。部外者が落として割ったりすると事後処理が面倒なので、家族でやるということだろう。
「なら、わたしも」
「母さんは座っててよ。昨日からの大移動で疲れてるだろ」
 康弘に言われ、詩子は腰を落ち着けた。康弘と英一郎、そして小林の三人が広間を出ていく。上田夫妻は、客間に荷物を置いてくるといって一の棟に戻った。あとには穂継と、詩子だけが残された。
 詩子は、魔法瓶からきゆうにお湯を注ぎ、人数分のお茶を入れた。穂継も勧められたので、仕方なくそれを飲む。本当なら、みんながせわしなく動き回っている隙に、自分も雷龍楼の中を見て回りたかったのだが、タイミングを逃してしまった。
 気まずい時間だった。数年ぶりに会う伯母と、いったい何を話せばいいのだろう。そういえば、自分は幼い頃からなんとなく、詩子のことが苦手だった気がする。穂継はそんなことを思い出しながら、やや出がらしっぽいせんちやをすすった。
「霞ちゃんは」詩子が言った。「元気にしてるかしら」
 ささやくような、抑揚のない声だったので、自分に話しかけているのだと一瞬わからなかった。穂継は慌てて答えた。
「元気ですよ──いや、元気なように見えます」
 返事に不自然なところがなかったか、自分でも気がかりだった。だが詩子は表情を変えない。
「そう。学校にも通えてるの?」
「はい。今年から、こっちの中学に編入したんです。まあ、一年だけですけど──行かないよりはいいかなって、母が」
「渚さんも、霞ちゃんのことを気にかけてくれているのね」
 詩子は目を細めた。第一声で霞のことを尋ねられるとは思わなかった。穂継は少なからず動揺した。動揺を悟られてはいけない。自分はあくまで、親戚の集まりにやってきた地味な青年を演じなければ。霞のことはだれにも勘づかれてはならないし、もちろん助けを求めるようなことをしてもいけないと、穂継は指示されている。
 だから詩子に知らせるわけにはいかない。当の霞が、今は何者かにされているなどと。
 穂継は平静を装って会話を続けようとした。だが、穂継が彼女について知っているのは、外狩家の長男の嫁であり、康弘の母親だということくらいだ。会話の取っ掛かりにはなりそうもない。
 何かないかと見回しているうち、詩子の羽織っている上着が、少し変わっていることに気づいた。最初はカーディガンだと思っていたが、よく見れば一枚の布だ。長方形の布を肩にかけ、ケープのように着ている。深い赤褐色の地に、絞り染めの細かい模様が浮き出て、なかなか美しい。
「伯母さん、その布は」
「え、ああ、これ」彼女は指で布の端をつまんだ。「油夜染よ。押し入れで見つけたの」
「油夜染というと」
「島に伝わる染物。これもたぶん、お義母さんが元気だった頃に染めたものじゃないかしら」
 近世の北前船が、えつちゆうから主に輸出したのは、にいかわ郡の木綿だった。やがて油夜島でも、木綿を素材として独自の染色技法が発展した。油夜染とは、その総称だった。
 染料に使われるのは、島の海岸に生えているマルバシャリンバイの樹皮だ。これを煮出して作った赤い色素の液に木綿を浸す。その後、布を水ですすいだら、今度は媒染液と呼ばれるものにけておく。これは染めた色を安定させるためにおこなう工程で、アルミ媒染や鉄媒染など、使用する金属によって発色が変わってくる。伝統的な油夜染で用いられるのは銅を使った媒染液で、シャリンバイの染料と組み合わせると、このような濃い赤に仕上がるという。
 正直なところ、穂継は染物にも伝統産業にも関心はなかった。ただ、それを淡々と説明する詩子には興味を覚えた。話している間、彼女がずっと布の端を、しわが寄るほど握りしめているのも気にかかった。おそらく、同じようにしてつけられたとおぼしきこんせきが、すでにいくつもある。
「その布、気に入ってるんですか」
 穂継が言うと、詩子は驚いたように目をしばたたかせた。
「どうしてそう思うの?」
「だって、わざわざ羽織っているから」
「寒いからよ。他にちょうどいいのを持ってないし」
 詩子はため息をつく。一瞬、その息が白く濁ったように、穂継には見えた。ファンヒーターが置かれた室内は十分に暖かく、息が濁るはずなどないのに、なぜかそう感じた。
「──この島がこんなに寒かったなんて」
 穂継はのみに残ったお茶を飲み干すと、立ち上がって部屋の外を指さした。
「ぼくも、玄関に荷物を置いたままなんです。客間に移動させておきたいんですけど」
「ああ、そう。だったら先に泊まる部屋を決めておかないとね」
 他の人たちは、いつも使う部屋が決まっている。一の棟には座敷が四つあり、二部屋が英一郎、詩子、康弘の家族に、一部屋が上田夫妻に。残りの一部屋が秘書の小林に割り当てられる。しかし、例年は訪れない高森家については、決まった部屋というものがない。
「前に来たときは、まだみんな小さかったから、わたしと子供たち全員と、四人で寝たのよね」
「ええ。遅くまで霞と騒いで、叱られたのを覚えています」
「そうだった、そうだった」詩子は微笑した。「さすがにもう、そういうわけにいかないか。そうね──あなたは、別棟を使ってちょうだい」
 その提案に、穂継は耳を疑った。詩子の口調は、有無を言わさぬものだった。
「でも、あそこは」
「何?」
 人が死んだ部屋じゃないか。穂継はのどもとまで出かかった言葉を、どうにか飲み込んだ。緩みかけていた詩子の表情が、一瞬だけこわばったのがわかった。
「──いえ、なんでもないです」
「わが家にはね、細かいルールがたくさんあるの。穂継くんも、三日間だけとはいえ、家族の一員として過ごすのだから」
 穂継は目を細めた。その言い方ではまるで、三日間を過ぎたら、家族ではなくなるかのようだ。まあ実際、そうなのだろうけど──穂継はこれまで、自分が外狩家の一員だと思ったことはなかった。彼らもそうだったというだけの話だ。
 それに、別棟に泊まるのは、穂継にとってもメリットがあった。そうすれば深夜、自由に屋敷内を動き回れるからだ。別棟の渡り廊下は二の棟に繫がっている。他の全員が就寝している一の棟を通らず、屋敷の奥へ入ることができる。
 ちょうどそこへ英一郎と康弘が食器を運び終えて戻ってきた。泊まる部屋について話していたの、と詩子が告げると、英一郎は言った。
「今朝は別棟も掃除したし、ストーブの灯油だって足してある。一の棟の部屋より快適だと思うよ」
 わがままな子供を説得するみたいな言い方だ。穂継は少しもやもやしたけれど、かといって言い返しはしなかった。だが穂継の代わりに、なぜか康弘が抵抗した。
「穂継に悪いじゃないか。ひとりだけ母屋から追い出すみたいで」
「そんなことないわ。穂継くんだって、静かなほうがいいわよね?」
 詩子に言われ、穂継はうなずいた。康弘は、ふたりの顔を何度か見比べ、それから言った。
「ま、穂継も年頃だし──一緒の部屋じゃ困ることだってあるよな──」
 無理に冗談めかしているように聞こえ、穂継はうつむいて頭をかいた。結局、穂継はひとりで別棟に泊まることになった。
 ただ、康弘の言葉は胸に引っかかった。ひとりだけ母屋から追い出す──これは、本当にそういう意味なのだろうか?
 玄関に置いてあった荷物を取りに行き、別棟まで運ぶ。途中の案内がてら、康弘が一緒についてきた。二の棟から奥へ続く廊下を途中で右に曲がる。引き戸を開けると、そこからは外の風が吹き込む渡り廊下になっている。屋根はあるが、壁の上半分が格子になっているのだ。
「夜は冷えるから通らないほうがいい。トイレは別棟にもあるし」
 格子窓の向こうは屋敷の庭だ。顔をくっつけて覗くと、右手には一の棟、左手には別棟が見えた。渡り廊下を通らなくても、縁側から庭に降りれば、ふたつの建物を行き来できる構造だった。
 渡り廊下の奥はまた引き戸になっている。そこで康弘は立ち止まって、言った。
「こっちの戸は、さっきの戸と違って、内側からかぎがかかるようになってるんだ」
「どうして?」
「理由はわからん。別棟は他の建物と離れてるから、独立して施錠できるようにしたかったのかも。ま、無人島に泥棒が出るはずもないし、開けっ放しでいいよ」
 内側、つまり別棟の内部からはサムターンで施錠と解錠ができる。逆に廊下側から開閉するには鍵が必要だが、それが屋敷内のどこに保管されているかは、康弘もすぐには思い出せないそうだ。
「まあ、たぶん納戸を探せば──」
「納戸?」
「台所の奥にある物置部屋。そこに屋敷中のいろんな鍵がごちゃごちゃと置いてあるんだ」
 穂継は自分の家にある、冷蔵庫横の鍵置き場をイメージした。ああいった場所はどこの家にもある。いちいち保管場所を覚えなくても、鍵といえばまずそこを探しに行けばいいような、そういうところだ。
 話しながら、ふたりは別棟の中へ足を踏み入れた。別棟には和室が二部屋あり、それを取り囲むようにコの字形の廊下がある。廊下を進んだところには小さなキッチン、そして奥にトイレと浴室とがあった。
「ただ、キッチンと風呂は使えない。ガスが来てないんだ。わかってると思うけど、例の事件があったから」
 穂継はうなずいた。ちゃんとした風呂は母屋にあるし、ここで炊事をするつもりもない。それでも念のため、浴室の中を確認した。風呂釜の操作パネルにはガムテープの封印が施され、どのつまみも回せないようにされていた。
 一通り説明を終えると、康弘は二の棟に戻っていく。穂継はふたつある和室のうち、奥にあるほうを使うことにした。荷ほどきをして、コートをハンガーにかける。畳の上にあぐらをかいて座り、室内を見回す。何も変わったところはない。
 畳の目に指をわせながら、穂継はこの部屋で死んだ叔母のことを思い出す。外狩薊──穂継の母の妹であり、実家を出て東京で暮らしていた彼女と、穂継はしばしば顔を合わせていた。外狩家の、他の親戚たちと違って。だから彼女の死は、穂継にとっても衝撃的だった。いったい彼女の身に何が起きたのか。穂継はまず、それを知りたいと思った。
 四人の死因は、風呂釜の不完全燃焼による一酸化炭素中毒だった。建物の外壁にある給気口が屋根からの落雪でふさがれ、酸素が不足したために大量の一酸化炭素が発生したのだという。室内で眠っていた四人は、異変に気づくこともなく命を落とした。
 事故以来、ずっと途絶えていた油夜島での親族の集まりが再開されると聞き、穂継はぜひ参加したいと思った。薊や、霞の両親が亡くなった場所を、あらためて自分の目でも見ておきたかったからだ。突然の不幸を乗り越えるために、それは必要な手順だと感じた。それが別の事件を引き起こすなんて思いもしなかった。
 穂継はスマートフォンを取り出し、着信がないことを確認する。そしてため息を吐く。誘拐事件。まさか、そんなことが自分の身に降りかかるなんて。
 昨日の夕方、正体不明の人物から、霞をさらったという連絡があった。無事に帰してほしければ要求に従え、という脅迫とともに。最初、穂継も両親も、単なるいたずらだろうと考えた。ところが、夜になっても霞は帰宅しなかった。脅迫は本物だと、その時点でわかった。
 犯人からの要求は風変わりだった。穂継がひとりで油夜島へ向かい、屋敷内に保管された〝あるもの〟を探すこと。それがなんであるかは、犯人から追って指示があるということだった。今の穂継に知らされているのは、それは外狩家の当主、外狩英一郎が所持している、なんらかの重要書類だということだけだ。どうやら霞を拉致した犯人は、その書類をどうしても手に入れなければならない事情があるらしい。そのために穂継は利用された。
 警察に言うな、という犯人からのお決まりの脅しを、東京で待機している両親が今も守っているのかどうかは知らない。穂継は犯人以外との連絡を禁じられている。相手の出方がわかるまで、一応は従っておくべきだという父親の言いつけを、穂継は守ることにしていた。霞を救い出すための具体的な計画については父に任せるしかない。今の穂継にできることは、犯人に命令されたとおり、英一郎の持つ書類を盗み出す、そのための準備をすることだけだった。
 犯人には、明日の朝、こちらから連絡するよう命じられていた。おそらく、そこで盗むべき書類の詳細が伝えられるのだろう。昼のうちに書類のありかの見当をつけ、どうにかして三日目の朝までに盗み出す。
 窃盗などやったこともないし、気軽に盗めるようなものかどうかもわからない。けれど、それをやることで霞の危険が少しでも減るのであれば、ちゆうちよしていられない。やるしかないのだ。
 穂継は立ち上がり、部屋を出た。外は日が傾きつつあった。ふと思い立ち、穂継は一の棟のほうに足を向けた。まだ明るいうちに客間の配置を確認しておこうと思った。一の棟の廊下は、アルファベットのHを少しゆがませたような形になっている。左の縦棒の下に玄関があり、右の縦棒の上が二の棟だ。そして横棒の上下には、ふたつずつ部屋が並んでおり、それらを客間と呼んでいる。
 二の棟から来た穂継は、左側の手前の部屋をのぞいてみた。船で康弘が持っていたボストンバッグが無造作に置かれていた。ここが康弘の部屋なのだろう。続いて右の手前の部屋を覗く。黒いスーツケースがあったが、だれのものかわからない。廊下を進み、右の奥の部屋を開けると、そこには上田夫妻の荷物があった。ということは、最後の残った部屋が英一郎と詩子の部屋だ。
 穂継はその部屋の襖に近づくと、引手に指をかけた。
「何か用?」
 突然、背後から声をかけられ、穂継は飛び上がりそうになった。振り向くと、少し離れた場所に詩子が立っていた。例の油夜染の布を羽織り、げんそうな目で穂継を見つめている。
「えっと──ヤスちゃんはどこかと思って」
「康弘なら、お風呂の支度をしてもらってるところ」
「そうですか。見当たらないわけだ。手伝ったほうがいいですか?」
「ええ。助かるわ」
 穂継は襖から手を離し、詩子の横をすり抜けて、足早に戻ろうとした。そのとき、すれ違いざまに彼女が呼び止めた。
「穂継くん」
「は、はい」
「和室でも、ノックはしたほうがいいと思う」
 詩子は微笑した。しかし、その目は笑っていないように見えた。
「すみません。次からは気をつけます」
 そう短く答えて、穂継は立ち去った。廊下の角まで来て、さりげなく後ろを見ると、詩子は襖のところで腕組みをしたまま、じっとこちらを観察していた。怪しまれただろうか、と穂継は思った。しかし、こちらの目的まではわからないはずだ。ましてや霞が誘拐され、その犯人に脅されていることなど知るよしもないだろう。
 詩子に宣言したとおり、穂継は二の棟の奥の風呂場へ向かった。康弘とふたりで浴室を掃除し、水を張って、ボイラーに火を入れる。一仕事を終えて戻ると、すでに大広間では夕食の支度ができていた。英一郎が連れてきた家政婦たちが調理したという。作り終えた彼女たちはすでに島を出ていた。今夜は本土の宿に泊まり、明日の朝、もう一度ここへ来るそうだ。
 夕食は、しかし、豪華とは言えなかった。持ち込める食材に限りがあったからだろう。それでも品数は十分あり、珍しい郷土料理も並んだ。中には、船で話に出たヌタウナギの干物もあった。食べてみるとコリコリした食感で、かすかに塩味を感じる。なるほど、ウナギとは似ても似つかない。香の言ったとおり、うまくもまずくもなかった。
 英一郎と香、そして泰造の三人は、ビールを酌み交わしながら明日の行事について話し合っている。外狩家のだん寺は氷見にあり、明日はそこの住職が島まで来て読経をしてくれるのだという。段取りを決めているのは、もっぱらその三人のようで、詩子は会話に加わらず、黙々と給仕をしているだけだった。
 穂継と康弘は大人たちから離れ、今日の出来事などを話し合った。穂継は、港から屋敷まで来る途中に見た、無人の集落について話した。
「今夜、この島にいるのはぼくたちだけってことだよね」
「なんだ、怖いのか?」
 康弘はからかうように言ったが、穂継は取り合わず、真剣な表情で続けた。
「もし、急病になったりしたらどうするの」
「本当にまずい状況だったら、本土からヘリを飛ばしてもらえる。二年前も、うちのおふくろ、ドクターヘリでたかおかの病院まで運ばれたんだぜ」
「伯母さんが、どうして?」
「残ってた一酸化炭素を吸い込んじまってさ。最初に中へ入ったのが、おふくろだったから──まあ、軽症で済んでよかった」
 穂継はうなずいた。とはいえ、夜から天候が崩れるというし、ヘリが飛ばせない状況だってありうる。そう言うと康弘は、二、三日くらいなら島に閉じ込められても大丈夫だ、と答えた。島には最低限のインフラがまだ残っている。電気は本土から海底ケーブルで引いてきているし、ガスや灯油も十分な備蓄がある。飲み水は溶かした雪を利用できるほか、海水から真水を作る装置もあるらしい。
 だが穂継の場合、それで安心とはならない事情があった。何しろ霞を人質に取られている。犯人から指定された期日は明後日あさつてだ。それまでに東京へ戻れなければ、どうなるかわかったものではない。想定外のことが起きてもらっては困る。
 すると急に、康弘が心配そうな声を出した。
「なあ、何か悩みでもあるのか?」
「え?」穂継は顔を上げた。「なんで?」
「思い詰めたような顔をするから。さっき船に乗っているときも、このまま海に飛び込むつもりなんじゃないかって、何度か思った」
「疲れたんだよ。それに──」
 一瞬、穂継は考えた。ここで康弘や、他の親戚たちに事情を打ち明け、助けを求めるべきではないか、と。それは悪くないアイディアに思えた。とくに英一郎の協力があれば、例の重要書類の件も、うまく片付けてもらえるかもしれない。たとえば、偽のそれらしい書類を代わりに渡してもらうことだって。
「それに?」
「いや、なんでもない」
 と、穂継はとっさに答えた。滞在期間は三日もある。慌てて判断すべきじゃない。犯人がなんらかの方法で、島内のやりとりを監視しているかもしれない。もしくは、この中に犯人の一味、あるいは協力者がいるおそれだってある。
 そうだ──なぜ気づかなかったのだろう。霞を拉致した犯人は、外狩家が島に集まることを知っていた。そこに穂継が参加することもだ。その時点で、まったくの部外者による犯行とは思えない。相手は外狩家の内情に通じている人物であるはずだ。
 穂継は広間を見回した。今、ここには自分を除いて六人いる。英一郎、詩子、香、泰造、康弘、小林。この中に、今回の事件を仕組んだ人物がいるとしたら──?
 今ここで考えても、答えは出そうになかった。とにかく、最低でも明日の朝までは様子を見よう。康弘に事情を話すのは、それからだって遅くはないはずだ。
 そうこうしているうちに、穂継はおぜんの上の料理を食べ終わった。大人たちはまだ飲み足りないらしく、石油ストーブの上になべを置いて、日本酒のかんをつけ始めている。穂継に付き合って食事を先にしていた康弘も、これには興味を引かれている様子だった。穂継は一足先に広間を出た。すると康弘から、風呂が空いているから入ってくるといい、と言われた。
 風呂から上がった穂継は、広間には戻らず、そのまま別棟に向かった。渡り廊下で夜風に吹かれると、一瞬で湯冷めしそうになる。きんとした冷たさで頭が締め付けられるようだ。しかし今夜の穂継にとっては、眠気をかき消してくれるこの寒さは好都合だった。
 和室に布団を敷いて横になり、しばし待つ。広間ではまだ宴会が続いているのか、騒ぐ声が別棟まで聞こえてきている。みんな、どれくらいで寝静まるのだろう。テレビすらない孤島の屋敷のことだし、そこまで夜更かしをするとも思えないが。
 そのとき、縁側に面した障子戸が、ぱっと明るく光った。
 車のヘッドライトで照らされたのかと思ったが、そうではない。一秒後、外からは太鼓を打ち鳴らすような雷の音が聞こえてくる。穂継は体を起こした。本当に冬の雷だ。
 障子戸を開けて縁側に出る。二重になったテラス窓の向こうに、白い雪が張りついている。ふたたび空に稲光が走ると、雪の舞い散る庭の景色がフラッシュをいたみたいに一瞬だけ明るく見えた。幻想的な眺めだ。穂継は思わず見とれてしまう。
 どれくらいそうしていただろう。突然、空がそれまでとは違うレベルの明るさで、まるで燃え上がったみたいに青白く輝いた。ほぼ同時に、爆発するような雷鳴が響き渡り、穂継は恐怖を感じて窓から離れた。
 バチンという音がして、部屋の明かりが消えた。あたりは真っ暗になる。停電だった。
 穂継は室内に戻り、枕元で充電器に繫いでいたスマートフォンを手探りで見つけた。バックライトを最大にして懐中電灯代わりにする。渡り廊下に通じる引き戸を開けてみると、母屋のほうも暗くなっていた。建物全体が停電したらしい。
 と、向こう側の引き戸も開いたらしい気配を感じ、穂継は大声を出した。
「何かあったんですか」
「穂継くんは動かないで、そこにいて」小林の声だ。「すぐに直ると思うから」
 言われたとおり、穂継は引き戸を閉じて中へ入った。島のどこかに落雷があって、その影響だろう。頭上ではまだ雷がゴロゴロと鳴っていたが、少しずつ遠ざかっている。その代わり、雪は激しさを増しており、横殴りに吹いてくる雪が窓を埋めてしまいそうだ。
 穂継は布団の上であおけになり、暗くなった天井の蛍光灯を見つめた。やがて眠気が襲ってきた。

 強い光を浴び、穂継は反射的に目を背ける。自分がうとうとしていたことに、そこで初めて気がついた。部屋の明かりがいているということは、停電は直ったのだろう。スマートフォンの時計は十一時を指している。停電が起きて、すぐに見たときは十時頃だったので、どうやら一時間近く停電していたようだ。
 布団から起き上がり、眠気を振り払うように目をこすった。こんな島で、いったいだれがどうやって電気を直したのか。そんなことを考えていると、渡り廊下に通じる引き戸が開く音がした。だれかが別棟に入ってくる。穂継は緊張して身構えた。
 障子戸が開き、康弘が顔を覗かせた。その前髪や上着には、雪の塊がくっついていた。
「おっ、まだ起きてたか」
 穂継はほっと息を吐き、それから首を横に振る。
「寝ようとしてたところだよ。ヤスちゃんのほうは?」
「おれはさっきまで復旧作業に駆り出されてた。明かりはともかく、暖房がつかないと凍えちまうからな」
 停電の原因はわからないが、落雷の影響であることは間違いなさそうだ。この時期、雷の多発地帯である油夜島では、こうした停電が頻繁に起きる。それに対する備えとして、屋敷の裏庭には、ガソリンで動く発電機が設置されていた。本土から電気工事業者が渡ってくるまではそれでしのげる。
 康弘は部屋のストーブの前に手をかざしながら一気に喋った。発電機のある小屋は、あいにく雪になかば埋もれてしまっており、小林とふたりで入り口を掘り起こさなければならなかった。それで時間がかかったのだ、とも。
「ご苦労さま」
「気にするなよ。この島じゃ日常茶飯事さ。──それで、今夜は隣の部屋を使わせてもらってもいいか?」
 穂継は首をかしげてみせた。内心では困った提案だと思ったが、それは顔に出ないよう気をつけた。
「一の棟のほうに泊まるんじゃなかったの?」
「親父に部屋を取られちまった。朝までに書き上げて、メールで送らないといけない書類があるそうだ」
 どうしようか、と穂継は悩んだ。深夜、ひとりの時間を利用して、屋敷内を偵察するつもりだったからだ。けれど、ここで変に食い下がって拒否するのも不自然ではある。それに英一郎が徹夜で作業しているなら、どのみち歩き回るのは無理かもしれない。
「まあ、いいけど」
「悪いな。できるだけ静かにしてるよ」
 康弘はそう言って立ち上がると、隣の和室へ通じる襖を開け、中へ入っていった。押し入れを開けて布団を敷いている音がする。穂継は部屋の明かりを消し、布団に潜り込む。雷はすっかりんでいて、外はしんと静かだった。穂継は目を閉じた。
 やっぱり、自分には泥棒やスパイなど無理だ。霞を人質に取られていても、それは変わらないということがわかった。想定外の出来事に対処できる気がしない。犯人からの指示をこなすため、一日目の夜をどう過ごすべきか、新幹線に乗っている間から考えていたのに、停電ひとつですべて狂ってしまった。
 明日の朝、まずは康弘に打ち明けよう、と穂継は決意した。みんなをだましたまま、伯父おじの書類を盗み出すなんてできっこない。その点、康弘は違う。面倒見のよい彼のことだ。穂継の代わりに知恵を絞ってくれるだろう。
 穂継は、まぶたの裏の暗闇に意識を集中させる。明日の朝には、きっと事態は好転している。そう、朝になれば。

 はっと気がつくと、部屋の中が明るい。障子紙を透かして白い光が差し込んでいる。夢も見ないまま眠っていたらしい。
 暖かい布団から這い出して手を伸ばし、タイマーで火が消えたストーブを、ふたたび点火する。それから洗面所で顔を洗うことにした。ところが、蛇口からは氷のように冷えた水しか出てこなかった。お湯を出すような仕組みはついていないようだ。仕方なく冷水で顔を洗った。一発で目が覚めた。
 備え付けのタオルで顔をぬぐい、部屋に戻ろうとしたとき、ドンドンと何かをたたく音が聞こえた。渡り廊下のほうからだ。
「穂継くん、開けてくれないか」
 小林の声がする。開ければいいのに、と穂継は不思議に思った。洗面所から縁側をぐるっと回って引き戸の前まで行き、手をかけて横に引く。ところが開かない。見れば、内側から鍵がかかっている。
「ちょっと待ってください」
 つまみを回して鍵を開けると、引き戸の向こうから小林が現れた。
「どうして鍵なんかかけてるんだい?」
「ぼくじゃないです。たぶんヤスちゃんが」
 すると小林はなぜかふっと笑った。
「ああ、やっぱりこっちで寝てたのか。一の棟にいないんで、先生が心配してるんだよ」
 先生というのは、英一郎のことだ。
「その先生に追い出されたって聞きましたけど」
「ははは。昨夜ゆうべはみんな酔ってたし、停電騒ぎでバタバタしてたからね」
 小林と穂継は、康弘が眠っている部屋の前まで移動する。障子戸をノックの代わりに軽く押さえ、声をかけた。
「ヤスちゃん、もう起きてる?」
 返事がない。
「開けるよ」
 穂継は障子戸をそっと開いた。部屋の真ん中に、ちょっと斜めに敷かれた布団がある。だが、布団の中に康弘の姿はなかった。毛布と掛け布団は、ぎ取られたみたいに部屋の隅で丸まっている。トイレにでも行っているのだろうか、と穂継は思った。
 と、小林が何かに気づいたような声を出した。
「ちょっと床を見てくれないか」
 それを聞いた穂継は縁側に出て、彼の指さしているあたりを見た。赤黒い染みが点々とついている。それは縁側の先の角を曲がり、浴室のほうまで続いているようだった。
 何か嫌な感じがした。別棟の中は静か過ぎる。小林と穂継は無言のまま、その痕跡をたどった。途中、テラス窓から外を覗くと、そこには一面まっさらな雪景色が広がっていた。雪が、夜の間に別棟の前庭を埋め尽くし、美しい銀世界に変えていたのだ。
 洗面所まで戻る。あらためて床を見てみると、浴室のドアの前のところに赤黒い液体が滴っているのがわかった。さっきは足元を気にしなかったので気づかなかったらしい。鼻をひくつかせると、独特の臭いがする。その液体の正体を穂継はもう察していた。血だ。
 小林のほうを振り返る。彼は黙ってうなずいた。穂継は浴室のドアを一気に開けた。臭気がさらに強くなった。
 浴槽の中に康弘の体があった。服は着たままで、ぐったりと力なく浴槽の縁にもたれかかっている。浴槽の中も外も赤い血で染まっている。穂継は叫んだ。康弘の名前を呼んだつもりだったのに、実際に口から出たのは、わけのわからない悲鳴だけだった。
 冬の早朝、柔らかい光と冷たい空気に包まれながら、外狩康弘は死んでいた。



「──で、なんでわたしにも聞かせてくれたの?」
 にぃにからの電話が切れるなり、わたしは言った。電話の最中は声を出すなという命令だったが、もう問題ないだろう。
 女は長らく黙っていたが、やがて答えた。
「おまえの意見を聞きたい」
「はあ?」
「まずい状況になったのはわかっただろう。それも、お互いに、だ」
 わたしは鼻を鳴らしてみせた。この期に及んで、こいつは何を言っているのだろう。まずい状況になっているのも、これからもっとまずくなるのも、犯人たちのほうだ。
「あんたたち、何をたくらんでたか知らないけど」わたしは勇気を振り絞って笑う。「なんにせよ、これで終わりだね。すぐ島に警察がやってくる。わたしを拉致したことだってばれるよ。この場所も逆探知かなんかで突き止められて、そうなったら──」
 だが言い終わらないうちに、首に冷たい手が触れた。わたしは息を飲む。女はわたしの喉を指で軽く締めつけたまま、低い声で告げた。
「残念だが、島に警察は来ない」
「そ、そんなわけないでしょ」わたしはあえいだ。「何を根拠に」
 強がったつもりだったが、声の震えはごまかせない。女もそれに気づいて満足したのか、すぐに手を放す。続く言葉にはちようしようが混じっていた。
「そうか、おまえは後半しか聞いていないんだったな。じゃあ、わかるように教えてやろう」
 女は、通話をスピーカーに切り替える前、穂継から聞いたという現地の状況を、わざわざわたしに説明してくれた。油夜島周辺では、昨夜の雷をともなった嵐の影響がまだ残っており、高波が続いている。そのせいで予定していた船は出港できず、にぃにたちは島に閉じ込められている。
 そして、それをいいことに伯父さん──外狩英一郎はこの件を、しばらく島の外へは知らせないことに決めたらしい。わたしにはとうてい信じられなかった。
「なんで、そんな」
「スキャンダルを避けるためだろうな。どうせ明日まで警察が来られないなら、慌てて通報してマスコミに速報を打たれるより、まずは身内だけで事態をコントロールしておこうという腹積もりらしい」
「スキャンダルって──息子が殺されてるのに──伯父さんは、そんな人じゃない」
「おまえが知らないだけさ」
「あんたは知ってるの?」
「少なくとも、新聞を読まない無邪気な女子中学生よりかは知っている」
 わたしは唇をんだ。新聞を読まないのはそのとおりだ。けど、そのことと伯父さんの振る舞いと、いったいどんな関係があるのか。だが女はわたしの考えなどお構いなしで、さらに続けた。
「いずれにしても、あと何十時間かは、事件があったことを隠しておくつもりだ。その間に穂継を説得して、警察に自首するよう仕向ける。島の連中の考えはそんなところだろう」
「自首?」
「ああ、そうだ。犯人が穂継なのは一目りようぜんだからな」
 それを聞いたわたしは怒りを覚えて立ち上がった。が、あしかせが引っかかって、すぐにしりもちをつく。女の冷たい声が頭上から降ってくる。
「おまえも話をちゃんと聞いていたらわかるだろう。別棟には内側から鍵がかかっていた。その状況で康弘を殺せたのは、穂継しかいない」
 にぃにが人を殺すわけない。しかも親戚のヤスちゃんを──絶対に、にぃには犯人じゃない。
「きっと、だれかが夜中に忍び込んだんだよ」
「だれかとは?」
「そんなの、わかんないけど」
「引き戸の鍵はどうなる。外からかけられるのか?」
 わたしはうなずいた。あの屋敷の構造はよく知っている。子供の頃から何度も行っているし、にぃにとヤスちゃんと三人で、隅々まで探検したこともある。
「納戸に鍵置き場があるから」
 と、わたしは説明した。納戸というのは二の棟の台所にある小部屋のことだ。飲み水や食料、灯油にガソリンといった、屋敷での滞在に必要な品々が保管されている。そして別棟の引き戸だけでなく、屋敷内の施錠に使う鍵は、すべて納戸の壁のコルクボードにまとめて置かれているのだった。
「犯人は、その鍵を使ったんだと思う」
 ところが、わたしの答えを聞いて女は言った。
「あいにく、それは不可能だ」
「不可能なんかじゃ──」
「引き戸の鍵は、康弘の死体のポケットから見つかったと聞いている」
 思ってもみない情報を与えられ、わたしは混乱した。ヤスちゃんは別棟の中で死んでいた。そのポケットから鍵が見つかったということは、つまり。
「ありえない。何かの間違いでしょ」
「間違いじゃないそうだ。納戸のコルクボードからは鍵が消えていて、死体が持っていたほうの鍵は、鍵穴にぴったりはまった。たぶん、康弘は別棟に来るとき、穂継が鍵をかけているかもしれないと思って、念のため持ってきたんだろう」
「でも」
 わたしの知る限り、別棟の引き戸に使える鍵は、そのひとつしかない。それが別棟の中にあったなら、だれかが別棟の外に出て鍵をかけるのは不可能だった、ということになる。
 そう伝えると、女は何かを考えるように黙り込み、しばらく経ってから言った。
「実は鍵が複数あるということはないのか?」
「ない、と思う」
 わたしは言った。
「合鍵の有無は重要な手がかりだ。はっきり答えてもらいたいな」
「わからない。それだって、めったに使うことはないから。少なくとも、わたしはそのひとつしか見たことがない」
「まあいいだろう」
 トントンと床を叩く音が部屋に響いた。女が苛立ったように足を踏み鳴らしている。わたしの答えが気に入らなかったのだろうか。しかし、知らないものを知らないと言っただけだ。
「その場合、やっぱり犯人は穂継ということになるな?」女は言った。「鍵は内側からしかかけられなかった。渡り廊下を通る以外、別棟を出る手段はない」
「出なかったのかも」
「ほう?」
「犯人は、朝になるまで別棟に潜んでいた──そして小林さんが入ってきたあとで、こっそり外に出た」
「だが、さっきの話では、穂継は起きてすぐ洗面所へ行き、それから引き戸の鍵を開け、小林とふたりでまた浴室まで戻り、死体を見つけたということだった。その間、犯人はどこに潜んでいたんだ?」
 わたしは、記憶にある別棟の構造を脳裏に描く。ふたつの和室を縁側が取り囲み、その両端に渡り廊下と洗面所がそれぞれ繫がっている。話を聞く限り、にぃにはそれらをまんべんなく見て回ったように思える。ということは、犯人がどこに潜んでいたにせよ、途中で移動しなければ必ず鉢合わせしていたはずなのだが。
「えっと──犯人はまず、隣の和室にいたんだと思う。で、兄が出ていったあとは、兄の部屋に移動して──」
「ずいぶん綱渡りじゃないか。物音を聞かれたり、気まぐれで襖を開けられたりしたらおしまいだ」
「でも実際には、そうならなかったわけでしょ?」
「穂継によれば、小林は別棟に来る前、他の親族全員と顔を合わせているらしい。朝まで現場に潜んでいる犯人がいたとすると、そいつは外狩家以外の第三者ということになるな」
 わたしはいぶかしんだ。島で起きている不可解な事態に、ではない。事件に関する情報を、女がやけに細かく聞き取っているということに対してだ。彼女にとっては、穂継が犯人だろうとそうじゃなかろうと、どうでもいいことではないか。それなのに、なぜ。
「なぜ」
「ん?」
「なぜ、事件のことをそんなにも気にしてるの。さっきから、あれこれ質問したり、推理したり。まるで刑事みたい」
 女は返事をしなかった。だが、指摘されてうろたえているという雰囲気ではなかった。むしろ反対に、わたしが疑うのは織り込み済みで、どこまで手の内を明かすか迷っている、そんな感じの沈黙だった。
 やがて、女はためらいがちに言った。
「われわれの利害は一致していると思わないか」
「答えになってない」
「これが質問への答えだよ。わたしたちは、ある目的のため、おまえの兄さんを島へ送り込んだ。だが今の状態では、その目的を達成できそうにない。殺人のぎぬを着せられているうちは自由に行動できないだろうし、それどころか、おまえを助けに戻ってこられるかも怪しい」
 女の指がわたしの頰をでた。わたしはびくっと体を震わせ、顔を背ける。女は笑った。
「正直な話、わたしたちも困っているんだ。こんなことになるとは思っていなかった。無論、リスクを冒すつもりはない。これ以上の危険が迫れば、おまえを切り捨てて退散するしかなくなる。ただ──」
「ただ?」
「今のところは協力しあえる。だってそうだろう。おまえは兄さんを助けたい。わたしたちは穂継を自由の身にしたい。つまり、目指すところは同じだ」
 親しげな調子で言われた。それでも信用できない、とわたしは思った。なぜなら、こいつはまだ肝心なことをひとつも喋っていないからだ。わたしはそのことを告げた。
「協力したいなら、目的を教えて。あの島で、に、兄さんに何をさせる気なのか」
 女はふふんと笑う。
「交渉できる立場か?」
「できないならできないでいい。警察がちゃんと調べれば、兄は無実に決まってる。わたしは殺されたってかまわない」
 虚勢を張った。実際、死ぬのは怖い。当たり前だ。それでも、にぃにを失うことに比べれば、たいしたことじゃない。決意のこもったわたしの目を、もちろん女は見ていなかった。彼女は静かに、わたしの提案を吟味している。
「穂継には、ある書類を盗み出すよう命じた──いや、命じる予定だった」
 女はゆっくりと話し始めた。明らかに考えながら喋っている。部分的に伏せているのか、まるごと噓なのか、こちらに判断する手段はない。ひとまず最後まで聞くことにした。
「外狩英一郎は五年前、県議会議員選挙に出馬したらしいな。しかも落選したあとで、ちょっとした事件があったというじゃないか」
 わたしはうなずいた。それくらいは、さすがにわたしも聞いたことがある。選挙期間中、選挙区に住んでいる有権者宛てに伯父さんの会社──〈とがり水産〉から、高額のギフト品が届いた。これが選挙違反ではないかと疑われたらしい。結局、そのギフト品を送ったのは無関係の人物だったということで、疑惑は晴れたそうだけれど。
「今、富山県では、知事のリコール問題が盛り上がっている。発端はみずしんみなと地区の再開発計画だ。老朽化した沿岸部の工業地帯を整理して、跡地に観光客向けの商業施設を建設するという話だったが、ここにストップがかかった。県知事が数年前、静岡県にある〈やい貿易株式会社〉という会社から多額の政治献金を受け取ったことがわかったからだ。その商業施設には、大規模な水産加工品の直売所が設置される。献金の見返りとして、委託先の選定に便宜を図ったのではないか、という疑いがかかった」
「なんの話か、ちっともわからないんだけど」
「ところが、実際に直売所の運営会社として選ばれたのは、〈とがり水産〉だった」
 わたしは黙って、頭の中身を回転させる。政治の話は苦手だ。だけど、何かよからぬ関係性が掘り起こされたらしいことは理解できた。女は、ふっと笑って言った。
「ついてこれたか?」
「馬鹿にしないで」
「ここでひとつの仮説が浮かんでくる。〈焼津貿易株式会社〉が金を出し、〈とがり水産〉が利益を受け取る、そんな取引が裏でなされたんじゃないか、という」
「そんなことをして、相手の会社に得がある?」
「まさにその点だ。ふたつの会社は、一見するとなんの関係もない。かたや北陸の水産会社、かたや静岡の貿易会社だ。主要な取引先というわけでもない。そこで──きみの兄さんの出番だ」
 わたしは首をひねった。
「具体的に何をさせたいの」
「彼には、外狩英一郎と例の会社との関係を示す証拠品を盗んでこいと命じたかった。なんでもいいんだ。会社名が書かれた領収書一枚でもあれば、手がかりになる」
 そこまで説明されて、ようやくわたしにも犯人たちの狙いが、少しは読めてきた。こいつらの標的はわたしやにぃにではなく、伯父さんの会社なのだ。さっきもスキャンダルがどうとか言っていた。女たちは、なんらかの方法で伯父さんの弱みを握ろうとしている。身代金なんかよりも大きな利益を得るために。
 とはいえ、人質相手にこうもあっさり白状するというのが、どうにも怪しい。わたしのためならなんでもしてくれるとは言っても、にぃにはしょせん、ただの学生だ。脅迫して産業スパイに仕立てるには、明らかに力不足だった。計画のリスクに対して、リターンが小さすぎやしないか。
 わたしには人の心を読むことなどできないが、話していることが真剣かどうかくらいはわかる。子供を軽んじて、理屈で言いくるめようとする大人の顔を、わたしはたくさん見てきた。そして今の女の話し声には、かすかにそんな気配があった。
「そんな危ないもの、伯父さんがわざわざ島に持ち込むと思う?」
「思うね」
「根拠は?」
 すると女は、自分の言葉に酔ったみたいな、芝居がかった調子で答えた。
「島には、必ず秘密があるものさ」
 わたしはあきれて何も言えなかった。女のほうも静かになり、わたしたちは無言のまま、しばらく向かい合っていた。
 油夜島に秘密などない。凍える海に浮かんだ、殺風景な島でしかないのだ。あの島に隠された何かがあるというのは、女の勝手な思い込みだった。でも、そのことをあえて指摘してやる気はなかった。にぃにの安全を守るためには、できるだけ利用価値があると信じさせておかなければ。
「いいよ、わかった」
 と、わたしは言った。
「何がわかったんだ?」
「あんたに協力するって言ってるの。兄さんよりわたしのほうが、島については詳しいもの。知ってることはなんでも教える。その代わり」
「おまえの兄さんが無事に目的を果たして島を出られるよう、お互いに手を貸すということだな」
 わたしはうなずいた。今のところ、女の持っている携帯電話が、にぃにと連絡を取り合う唯一の手段だ。これを失ってはまずい。それに、にぃにの声が聞こえるだけでも、わたしにとっては大きな助けになる。
 女はポンと手を叩いた。交渉成立だ。
「それじゃあ、まずは目下の課題にふたりで取り組もうじゃないか。鍵のかかった別棟で、康弘を殺した真犯人は、どうやって消えせたのか」

(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)


書誌情報

書名:雷龍楼の殺人
著者:新名 智
発売日:2024年08月02日
ISBNコード:9784041152102
定価:1,870円(本体1,700円+税)
総ページ数:288ページ
体裁:四六判 変形
発行:KADOKAWA

★全国の書店で好評発売中!
★ネット書店・電子書籍ストアでも取り扱い中!

Amazon
楽天ブックス
電子書籍ストアBOOK☆WALKER
※取り扱い状況は店舗により異なります。ご了承ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?