【期間限定試し読み】竹林七草『警視庁呪詛対策班 出向陰陽師と怪異嫌いの刑事』第1章まるごと公開!
超常現象による犯罪を法で裁く!
竹林七草さんが手掛ける人気オカルトミステリ「警視庁呪詛対策班」シリーズより、待望の第2弾『警視庁呪詛対策班 蠱毒と生霊と呪われた物件』が登場!
刊行を記念して、シリーズ第1弾『警視庁呪詛対策班 出向陰陽師と怪異嫌いの刑事』の第1章を期間限定(※)でまるごと特別公開します!
物語のはじまりを、どうぞお楽しみください。
※公開期間:2024年11月25日(月)~2025年1月24日(金)17時59分まで
あらすじ
『警視庁呪詛対策班 出向陰陽師と怪異嫌いの刑事』試し読み
第一章 水子の手形で、詐欺罪の立証はできるのか?
1
斉藤柚葉の夢は、庭付き一戸建ての持ち家だった。
今どき古い夢だと、そんな時代じゃないと、柚葉自身もわかっている。
しかし生まれたときからマンションにしか住んだことがない柚葉にとって、それでも一戸建てに住むのは想像するだけで心躍る、子どもの頃からの夢だったのだ。
そんな柚葉が結婚したのは、二八歳のときだった。
相手は二つ上の男性で、柚葉が当時アルバイトをしていた喫茶店の常連の客であり、いきなり告白してきたことがきっかけだった。
柚葉の外見はスラリとした細身の身体にショートカット、面長の顔には縁の丸いロイドメガネがよく似合っている。客の男性はそんな柚葉を一目見たときから、熱烈なまでに岡惚れしてしまったらしい。
喫茶店近くの会社に勤めている男性は、なんでも来週には都内の支店から異動となって、地元の茨城に帰るらしい。だからこそ勇気を出しての一念発起であり、その告白は彼が異動するまで一週間以上、毎日続いた。
普通にただの迷惑行為だが、でも男性との交際経験が少なかった柚葉は、その熱意にほだされてしまった。むしろ相手が地元に帰るなら多少の距離ができるわけで、それならつかず離れずぐらいの感覚で試しに付き合ってみようかと、そう思ったのだ。
そんな軽い気持ちで交際を始めて一年、柚葉自身もどこか他人事めいた驚きを感じつつも、その客と結婚することになってしまった。
当然ながら、柚葉は一軒家に住むことが夢だという話を元客――今や夫に伝えてある。夫の収入だととても都内の土地付き一戸建てには手が出ないが、でも結婚後に柚葉も移住する取手市付近ならば、将来設計をしっかりしていけばなんとかなる見込みだった。
最初は取手市内の賃貸マンションで生活しながら貯金して、子どもができたら家族で暮らせる一軒家を買おう、というのが夫婦の取り決めだ。
だが家を買う契機となるべき子どもが、なかなか授からなかった。
こればかりはしょうがないものの、気がつけば結婚から五年も経過し、年々自分が年を取っていくことに柚葉は焦りを感じていた。
加えて世の中では物価高が席巻してもいた。建築資材価格の高騰で住宅価格はどんどん上昇し、倹約し貯めていた頭金の額は相対的に足りなくなっていた。
今後、住宅価格が今より下落することはないでしょう――ワイドショーのそんなコメントに踊らされ、柚葉が日々不安を抱えていた時分に、とうとう懐妊した。
このとき結婚から六年目であり、柚葉はもう三四歳になっていた。
年齢的にも家を買うならここが最後のチャンスだと、そう思った。
夫は既に三六歳になっている。今後は住宅ローンを組むのもどんどん難しくなっていくだろう。この機を逃せば一戸建ての生活は一生手に入らないかもしれない、そんな強迫観念じみた思いに柚葉は囚われていた。
――一刻も早く、終の棲家となる持ち家が欲しい。
心安らげて、生まれてくるお腹の子を安心して育てられる、そんな憩いの一軒家が柚葉はどうしても欲しかった。
しかし頑張って貯めた資金は世の情勢に左右されて今や心許なく、数年前と比べて跳ね上がった建売住宅の値段を見ていると将来の不安ばかりが胸中へと募る。
そんなとき、日課であるネットの不動産サイト巡りをしていて目についたのが、今の家だったのだ。
二階建て3LDKと、柚葉の理想そのものな間取りだったその家は、中古住宅だった。
だが中古とはいえ、築年数はたったの一年。それでいて同じ規模の新築と比較した場合、近隣の土地価格を考慮しても、相場よりどう考えても五〇〇万は安かった。
夫の会社に抜群のアクセスとは言えないが、そこは電車通勤から車通勤に変えてもらえればなんとかなるだろう。むしろドアツードアで考えれば、渋滞に巻き込まれない限りは電車で通っていたときより早くなるぐらいの距離だ。
この物件を逃せばきっと後悔する――そんな思いに駆られた柚葉は、パート先での休み時間のうちに会社にいる夫に電話して、早くもその日の退勤時には夫と二人で不動産屋を訪れたのだ。
ほぼ即決だった。外壁の白いタイルもまだ真っ白く、新築と見まがうばかりのこの家が相場より五〇〇万も安い。早く決めないとなくなるかもしれませんよ、なんて不動産屋の決まり文句が、今ばかりは噓とは思えなかった。
購入を決断し、夫のローンの審査が通ってからはあっという間だった。たまたま今住んでいる賃貸マンションの契約更新が迫っていたこともあり、退去のため解約をするとあとはいっきに話が進んでしまって、ちょっと怖いぐらいだった。
――だけれども。
新築とはいかなかったが、それでも僅か築一年の中古住宅を購入し、柚葉は一戸建てでの新しい生活を手に入れたのだ。加えてあとおおよそ四ヵ月ほどで、新しい家族も増える。柚葉にとってそれは、夢にまで見た理想の生活だった。
とはいえ不満や不自由がないわけではない。その一つが自動車だ。夫が電車通勤から車通勤に切り替えたことで、日中の足にいささか苦労していた。車が二台あればいいのだろうが、今の斉藤家にそんな余裕はない。だから柚葉は往復で三〇分かかるスーパーに徒歩で買い物に出掛けなければならない。
よって今日もエコバッグを肩に提げつつ玄関から出たところ、
「あら! また大きくなったんじゃないの、そのお腹」
声をかけてきたのは、柚葉の家と並んだ真隣に住む三沼家の奥さんだった。
柚葉たちは中古で買ったこの家だが、おそらく最初は建売だったのだろう。町中ではたまに建築メーカーが買った土地に同じ形の建売住宅が並んでいるのを見かけるが、柚葉の住む家と隣家の三沼宅がまさにそれで、二軒はまるきり同じ造りをしているのだ。違いは外壁タイルの色だけ。斉藤家が白なのに対し、三沼家の外壁は青みがかった灰色だった。
そんな双子みたいな家に住むお隣さんも、どうやら柚葉と同じタイミングで買い物に出ようとしていたらしく、電動自転車を押しながら柚葉のほうへとやってくる。
年齢は、たぶん六〇手前ぐらいだろう。明るめの茶髪が若々しいので、あるいはもう少しだけ実年齢は上かもしれない。どちらにしろ柚葉よりだいぶ年上だが孫どころかお子さんもいないらしい三沼家は、旦那さんとの夫婦二人暮らしだった。
「昨日も同じことをおっしゃってたじゃないですか。たった一日でそんなに大きくなったりしませんよ」
現在妊娠六ヵ月目となる柚葉のお腹は、元から細身ということもあって確かに目立つようにはなってきている。でも今日の柚葉の服装はかなり大きめのジャンパースカートだ。パッと見でお腹の変化などわかろうはずがない。
「そう? 私には元気に大きくなっているようにしか見えないけど」
近づいてきた三沼が、身をかがめて柚葉のお腹を覗き込む。女性とはいえまじまじとお腹を凝視されて、柚葉はなんとなく気まずい思いで僅かに身を捩った。
まったくもって悪い人ではないと思う。むしろトラブルがあってもなかなか逃げることのできない一戸建ての住宅事情で、隣人が陽気な人で良かったとも感じている。けれどもこのやたら近い距離感が、柚葉はほんの少しだけ苦手でもあった。
「私のお腹よりも、お買い物はよろしいんですか?」
「あぁ、そうね。今のうちに行っておかないと、午後からのパートに遅れちゃうわね」
柚葉に会釈をすると、三沼は電動自転車に跨がって市街地の方へと去っていく。
本当なら柚葉も買い物に行こうとしていたのだが、大きくないこの町のスーパーは一つしかない。出先で三沼と会ってまた挨拶をするのも気まずいため、買い物は午後にしようと玄関から再び家の中へと戻った。
昼前の家の中はやたら静かだ。この付近は住宅街であり、家のすぐ前にはやや大きめの道路が通っているものの、夕暮れ時でもない限り車の通りは少ない。道路を挟んで反対側には昔からある古めの戸建てが何軒も並んでいるが、こちら側に建つ家は自分の家と隣の三沼宅だけ。その三沼宅も今は無人で何の音もしなかった。
僅かに聞こえるのは、川の音だけだった。
家の裏手から三〇メートルほどのところを流れる、関東地方の水源でもある大きな川の水音だけが微かに聞こえてきていた。
最近はとかく水害が多い。この家を買うとき唯一感じた不安が川が近いことだった。しかし不動産屋が言うには、水害が増えているからこそ治水工事も進んでいるという。この家は万が一に備えて土台も底上げしているので、水害に関しては問題ないと説明されてうなずいた。むしろその万が一に不安を感じるからこそこの家は相場より安いのかもしれないと、柚葉はそう考えて納得もした。
なんだろう――買い物に行く予定を急に変えたせいか、ちょっと落ち着かない。
ソファーに腰掛けていた柚葉は気分を変えるため、五〇インチのテレビのすぐ横の、リビングの壁にある採光窓のカーテンをサーッと開けた。
やや薄暗かった室内が、一瞬で明るくなる――が、柚葉は驚き目を見開いた。
「……なに、これ」
透明な窓ガラスに、下から上へと向かう泥の足跡が点々とついていたのだ。
いつからついていたのか。この出窓のカーテンは、たまたま隣の家のベランダで洗濯物を干す三沼と目が合ってから閉めきりにしていたはずだ。確かそれがこの家に越してからまだ一週間と経っていなかった頃だから、この窓のカーテンを開けていたのは引っ越してきてから最初の数日だけだったはずだ。
リビングの壁から外に向かって台形に広がった窓のガラスに、柚葉が顔を寄せる。透明なガラス面に等間隔に並んだ泥の跡は、何かの生き物の足跡だろうとは思うものの、しかし泥は一部剝落していて、それが何の足跡かまでは判別できなかった。
「……猫、かしら?」
そう口にしておきながらも、柚葉は自らの首を捻る。当たり前だが窓のガラス面は地面と垂直の状態だ。いくら猫が身軽でも、こんな風に窓ガラスの上を歩けるものだろうか。ならば鳥かとも考えてみるが、やはりそれも変だ。飛べるからといって、垂直の窓を歩いて足跡を残せる鳥なんているはずもない。
だが実際に、こうして泥の足跡はある。しかもこれほどべったり泥が付いているのなら、家の裏手にある川の岸辺を歩いて来たか、あるいは川の底へと潜って泥に身を浸してから這い出てきた、といったところだろう。
とにかく川の泥に塗れた手足で、垂直の窓ガラスの上を歩く――そんな正体不明の謎の生き物が、この辺りにはいるのだろうか?
柚葉の脳裏に疑問が浮かぶも、しかし現実問題として今はそんなことより汚れ自体が問題だ。もしも足跡が窓の外の外壁にまでついていたら、落とすのは手間だろう。
そんなことを思って柚葉がため息を吐いたところ、ふと――目が合った。
最初、それは電柱の影なのかと柚葉は思った。印象としてそれぐらい、その男の身体は大きく、そして黒かった。
――三沼宅よりもさらに先の道端で電柱に寄り添うようにして立つ、シングルスーツを着た黒ずくめの大男がじっと柚葉の家の窓を見ていたのだ。
目線に気がついた瞬間、柚葉は「ひっ」という悲鳴を上げながらカーテンを閉めた。
どう表現したらいいのか……とにかく男は不穏だったのだ。ただの不審者とも違う、真っ黒い影法師みたいな姿の大男。
あんな男がどうして自分の家の窓を見ていたのか。もしや泥棒に入る下見ではなかろうか。もしかしたら警察を呼ぶべきかもしれないが、カーテンの開いていた窓を遠くから見ていたというだけで通報するのも、いくらなんでも過剰かとも思った。
だからもう一度だけ。柚葉がカーテンの合わせ目から、こっそり外を見て確認する。
――いない。
勇気を出してカーテンを開け、出窓のガラス際まで身をのりだし確認してみるが、三沼宅の向こう側にいた黒い大男はどこにもいなくなっていた。
遠目での見間違いだったのかと思いたくなるも、でも確かに自分は目が合ったのだ。
異形めいた黒い大男の姿は、もうどこにもない。
それはわかっているのだが、しかし自分が追いやるように買い物に行かせた隣家の三沼が早く買い物から戻ってこないかと、柚葉はそんな身勝手なことを考えていた。
2
上がり框に座り、面倒臭がって指だけで古びた革靴を履こうとする夫に、柚葉が冷たい視線を送りながらくつべらを差し出した。
柚葉と同じように線が細く、ともすれば神経質そうにもとれる顔の夫が苦い笑いを浮かべ、柚葉からくつべらを受け取り不承不承ながら踵と靴の間に差し込み靴を履いた。
くつべらを下駄箱の上に置き「じゃ、いってくるよ」と夫が立ちあがると同時に、柚葉は見計らったように口を開いた。
「ねぇ……また、例の出窓に足跡がついているの」
通勤用のトートバッグを提げた夫の肩が、僅かにビクリと跳ねた。
「またなのかい?」
「えぇ、またなの。ちょっと見てもらえない?」
不安そうな柚葉の顔を前にし、出勤直前だった夫が憂鬱そうにため息を吐いた。
「……じゃあ、見ようか」
サンダルを足に突っかけた柚葉が、先導するよう玄関からポーチへと出る。庭の駐車場に停めた車の後ろを通り抜け、そのまま三沼宅に面した白い外壁の前に立つと、ぷっくり外に突き出た出窓をさした。
後ろからついてきた夫が怪訝そうに目を細め、眉間に皺を寄せた。
それもそうだろう。出窓の透明な窓ガラスには、まるで水玉模様ででもあるかのように、無数の足跡がついていたのだ。
――柚葉が出窓の足跡を最初に見つけた日から、既に一週間が経っていた。
初めて見つけた日、柚葉は雑巾を使って窓ガラスの足跡を丁寧に落とした。幸いなことに泥の足跡がついていたのはガラス面だけで、白い外壁にまで広がっていなくて良かったと、その日は単にそう思っただけだった。
しかし翌日。ちゃんと落ちたかを確認すべく、家の外に出て出窓のガラスを見たところ、柚葉は愕然とした。
同じ窓に再び足跡がついていて、しかもいっきに数が増えていたのだ。前日はガラス面の上を通り過ぎただけのように見えたのに、今日は犬が地面の臭いを嗅いで回ったかのごとく、何かを探すようにガラス面の上を歩き回ったみたいな跡になっていた。
さらには、その二日間だけではなかった。
その翌日も、そのまた翌日も、翌朝になると同じ足跡がまた窓ガラスについている。しかも窓にこびりつく足跡の数は、洗うたびに増え続けていった。
そして何度も掃除しているうちに、やがて柚葉には足跡が足跡に見えなくなっていた。
元から疑問はあったのだ。最初は泥が乾いて崩れていたからそうは思わなかった。でも毎日洗うようになって、新しくてしっかり形の残った足跡を見る度に、柚葉はどんどんとこの足跡が獣のものには思えなくなっていった。
獣にならあって然るべきはずの爪の跡や丸みのある肉球の跡がない。変わりにあるのは親指を除く四本の指の付け根の位置がほとんど変わらない掌と、獣にしてはあまりにすらりと伸びた指の跡だ。しかも小さい、それは決して大人のものではない。
もはや柚葉には、窓についた足跡は人の子どもの、それもまだ小さな赤ん坊の手形にしか見えなくなっていた。
「いやぁ、困ったもんだね。やっぱり高圧洗浄機を買おうか、こう頻繁だと君も洗うのに手間がかかってしょうがないだろう?」
白々しい夫の言葉に、柚葉はただ眉を顰めて抗議する。
当然、夫にも手形にしか見えないことは話してある。掃除なんてもうどうでもいい。その程度のことなら、ここまで必死に相談したりはしない。
柚葉が「そうじゃないでしょ」と冷たく言い放つと、途端に夫が頭をボリボリと搔きむしり苛立ちを露わにした。
「あぁ! 君が言いたいことはわかっているよ、だからそれ以上は口にしなくていい。でもなんと言われたところでこれは猫の足跡だよ。猫以外にはありえない!」
「猫は、地面と垂直の窓ガラスの上を歩けないし、こんなに指も長くないわよね?」
「ああ、そうかいっ! 猫じゃないって言うのならアライグマか? それともハクビシンか? どっちにしろそれでもう決まりだ!」
目の吊り上がった夫の顔を柚葉が冷めた目で見据え、夫もまた自分を批難するような柚葉の顔をキッと睨み返した。
「そんなに不満そうな顔をするのなら、ちゃんと教えてくれよ。これが猫の足跡じゃないって言うのなら――君が言うようにもしも本当に赤ん坊の手形なら、どうしてそんなものがうちの窓につくのか。納得いくようにしっかりと説明してくれ」
柚葉が「それは……」と口ごもった。柚葉だって、自分がどれだけ異常なことを話しているのかわかっている。猫も歩けない場所を赤ん坊が這うなんて、なおのことできるはずがない。まして足跡は夜中につく。猫ならばまだ少しは腑に落ちるが、でも真夜中にどこからともなくやってきて窓に手形を残していく赤ん坊なんて、いるわけがない。
「……だからさ、何度も言ってきたようにこの足跡は猫のものなんだって。河沿いを歩いてきた猫が、たまたまうちの窓ガラスを気に入って毎日のように泥のついた足で踏み荒らしているだけのことだよ。それ以外に納得できる理由なんてないだろ?」
そう考えるべきなのは柚葉もわかっている。わかってはいるのだが、でも今はもう窓につくのが猫の足跡などにはとても思えなかった。悔しさともどかしさと、得体の知れない何かへの恐怖が混じりあった思いで、柚葉がぐっと唇を嚙みしめる。
「悪いけど、会社に遅刻するから」
ばつが悪そうに夫はそう口にすると、出窓の前で無言で立ち尽くす柚葉を残し車に乗り込む。あとはもう柚葉を顧みもせずに、車で会社に行ってしまった。
遠ざかっていくエンジンの音を聞きながら、夫はズルいと柚葉は思った。仕事に行ってしまえば、とりあえず家の状況から逃げられる。それだけで忘れることができる。
でも柚葉は違うのだ。今は妊娠中のため、仕事も辞めて家にいる。車もなく、自転車もなく、この家で一日のほとんどを過ごさなければならない。そして本来なら家の中でも一番くつろげるはずのリビングに、この出窓はある。
ソファーに座っても、ダイニングテーブルに座っても、採光カーテンの向こうには、赤ん坊の手形が夜毎につくこの窓があるのだ。
そのことを思い出すだけで、まだ九月なのに柚葉は寒気を感じた。まるで天井の照明に膜でも張ったかのように、リビングが薄暗く感じられるようになる。
「どうしたの? 旦那さんと喧嘩でもしたの?」
いつのまにか隣家の玄関から外に出てきていた三沼に、背後から声をかけられた。出窓の前に立ったまま涙ぐんでいた自分に気がつき、柚葉が慌てて表情を取り繕う。
「朝から騒がしくしてすみません。別になんでもないんです」
どうにか愛想笑いを浮かべることのできた柚葉だが、しかし三沼の目は柚葉の顔ではなく、後ろの窓ガラスへと向いていた。
「あら、大変。うちの窓もたまにやられるのよ、その足跡」
瞬間、柚葉が目を丸くした。
「えっ? それって本当ですか?」
「本当よ。でも……確かにここしばらく、うちはやられてないわね」
柚葉が胸のうちだけで安堵のため息を吐いた。
隣家でも同じことが起きていた。そしてそれを隣家の住人は不思議には思っていなかった。そのことが柚葉の得体の知れない不安を軽くしたのだ。
周りの家でも起きているのなら、夫の言うようにやはりこれは猫の足跡なのだろう。こういうちょっと変わった足の形をした猫が本当にいて、この辺りを縄張りにしてあちこちで悪戯をしているに違いない。それはそれでとても困った話ではあるが、でも猫とわかれば怖くはないと、三沼がいる手前、柚葉は密かに胸を撫で下ろした。
――しかし。
「……ごめんなさい。全然違う話なんだけど、一つだけいいかしら」
三沼が急に申し訳なさそうな表情を浮かべた。
突然の表情の変化に少し戸惑いながらも、柚葉は「はい」と答えた。
「あのね、お隣同士だからこういうときはお互い様と思うし、あまりどうにかできるものでもないでしょうから、口にしてもとも思うのだけれど……でも、うちの旦那も元から不眠気味なところがあってね、少し神経質になって困っているのよ」
歯切れの悪い前置きをする三沼に、話が見えてこない柚葉が首を傾げた。
「悪いのだけれども、もう少しなんとかしてもらえないかしら?」
「……なにをでしょうか」
「真夜中に聞こえてくる――赤ちゃんの、夜泣きよ」
三沼がそう口にするなり、せっかく軽くなっていた柚葉の気持ちがいっきに沈んだ。
――赤ちゃんって、なに?
「親戚の赤ちゃんでも預かっているのよね? ほんと大変だとは思うわよ、あの声の大きさじゃ斉藤さんたちもきっと寝不足でしょう。でもね、うちの旦那も参っちゃっているのよ。できるものなら、もう少しだけあの夜泣きをなんとかして欲しいの」
まったく話が見えずにきょとんとなる柚葉だが、それでもどうにか口を動かす。
「あの……親戚の赤ちゃんなんて、うちにはいませんけど」
察するに、三沼はどうやら柚葉の家で赤ちゃんを預かっていると思い込んでいて、その赤ちゃんの夜泣きの声をどうにかして欲しいと、そうお願いしているらしい。
でも柚葉の家に、赤ん坊なんていやしない。いるのは柚葉のお腹の中の子だけであり、お腹の子が夜泣きをするなどそれこそありえない。
だからそのお願いは見当違いも甚だしいのに、しかし事実である柚葉の返答を聞くなり、三沼はなんとも困り切った微妙な笑いを浮かべた。
「……うん、だいじょうぶよ。私は、夜泣きなんて気にしていないの。こう見えても、子どもの泣き声とか好きなぐらいなのよ。うるさいぐらいのほうが、賑やかで気持ちが落ち着くぐらいなの――だからね、もうほんのちょっとだけ。うちの旦那が目を覚まさないように、少しだけ声を抑えてもらえるようにしてくれるだけでいいから」
「そうは言われても……本当にうちに赤ちゃんなんていないんです」
柚葉の訴えに、三沼の目が何とも気まずそうに宙を泳いだ。
「……そう、ごめんなさいね。私、変なこと言っちゃったわね。そうよね、人様の家の中のことに口出すなんてダメよね。あの……どうしてもってわけじゃないから、気に障ったのなら今の私のお願いは忘れてちょうだいね」
まるっきり言葉が通じない。柚葉の家には、本当に夜泣きをする赤ちゃんなんていないというのに、でも三沼はそのことをまるで信じてくれない。
どう言ったら信じてもらえるのか、と柚葉が言葉を探しているうちに、気まずそうな顔のまま三沼がぺこりと頭を下げた。いそいそと自分の家に戻っていく背中に向かって柚葉が「本当に子どもなんて……」と声をかけるも、あからさまな愛想笑いとともに三沼は会釈をしてからバタンと隣家の玄関の戸を閉じた。
一人取りのこされた柚葉の口から「……なんなの」という声が自然と漏れ出た。
わけがわからない――わからないのに、しかし意味は通じてしまった。
つまり柚葉の主張がいっさい信じられないほど、真夜中になると柚葉の家から聞こえてくる赤ちゃんの夜泣きに三沼家は悩まされているのだろう。
でも本当の本当に、柚葉の家には夜泣きをする赤ちゃんなどいない。かといって三沼が噓を言っているとも思えない。三沼が柚葉に、そんな噓をつく理由がない。
だからきっと、三沼とその旦那さんには本当に聞こえているのだろう。
――真夜中になると柚葉の家の方角から響いてくる、赤子の泣き声が。
その結論にいたったとき、柚葉は急に何かの気配を感じた。うなじに浮き出た鳥肌がじわじわと広がり、全身にまで広がっていく。
――いるの、だろうか?
そう思うだけで柚葉の呼吸は自然と荒くなり、早鐘のように勝手に鼓動が早まった。
――泥に塗れた手でもって、赤ん坊が窓ガラスの上を這い回る。
――真夜中に窓の上を這い回りながら、甲高い泣き声を上げる。
この家が相場より安いのは、川が近いからだと思っていたが、違うのだろうか。
柚葉が知らないもっともっとおぞましい何かが、この家にはあるのだろうか。
柚葉がぶるりと身震いしながら、赤ん坊の手形がついた窓を怖々と見つめる。
すると手形と手形の間のガラス面に映っていた黒い何かが、ぬっと動くのが見えた。
突然のことにびくりと肩を跳ねさせ、反射的に振り返る。
柚葉の目に飛び込んできたのは、黒いスーツ姿の男の背中だった。いつぞや三沼宅の向こう側に目撃したあの不審な大男が、道路を挟んだ向かいの家の間の小路に吸い込まれるように消えていく瞬間だった。
――また見られていた。
この窓と、それから震えながら赤ん坊の手形を見つめる自分を。
気がつけば、柚葉は膝から崩れるようにその場に蹲っていた。この家に引っ越してきてから畳みかけるように襲ってくる不可解で不気味な事象の連続に、柚葉はもう気持ちが折れそうだった。
「……いったいなんなのよ、この家は」
独りでに漏れ出た、柚葉の嘆き。
まるでその問いに答えるかのように、柚葉のお腹の奥がちくりと痛んだ。
3
その後も赤ん坊の手形は、出窓につき続けた。
出窓のカーテンを採光用から遮光用に変えると、いっそうリビングの中は暗くなった。少しでも窓ガラスが見えないようにと配慮したつもりだったのだが、その結果としてリビングは昼間から夜のような陰気な雰囲気に変わってしまった。
そのせいもあってか、夫との会話は減った。加えて朝は、窓につく手形のせいで夫と言い争いをすることが日課となっていた。
今の家に引っ越す前は、一軒家を買ったら子どもを育てる準備をしていくはずだったのに、今の家の中には子育てどころでない剣吞な雰囲気が充満している。
――どうしてこんなことになってしまったのか。
あの日以来、三沼との会話もなくなった。これまでは顔を見れば話しかけてきて、必ず柚葉のお腹のことを話題に上げてきた人が、今は遠目から頭を下げるだけでいそいそと柚葉の前から去る。それでも三沼のよろしくない顔色と表情から、いまだに赤ちゃんの夜泣きの声は聞こえていて睡眠不足になっているのだと、そう察せられた。
柚葉は悔しかった。夫からも隣人からも、自分の言っていることは受け入れられない。
だから柚葉が考えたのは、防犯カメラを設置してみる方法だった。
出窓の手形は洗っても洗っても翌朝にはついているが、夕方についていたことは一度もない。つまり夜中のうちにつけられているのだ。だから夫が頑なに言い張るように手形が猫の足跡なら、仕掛けた防犯カメラには夜中にやってきた猫が写るはずだった。
もしも本当に猫の仕業であれば、それでもう解決だ。三沼家で聞こえる夜泣きだって、きっと猫の鳴き声に違いない。盛った猫が柚葉の家からは聞こえず、でも三沼の家では目を覚ますぐらいに大きく聞こえるような場所でもって、夜毎に鳴いているだけに過ぎない。どちらも現実的な理由で説明できるようになる。
そんな微かな希望を抱き柚葉がネットで購入したのは、Wi‐Fi 経由でスマホにデータを送信し録画できるカメラだった。無線式を選んだ理由はまだ新築同然の家に穴を開ける必要がないのと、レコーダーが不要で簡単にスマホに録画ができるからだった。
届いたカメラを二階のベランダにセットする。ソーラー電池を取り付けて、角度を調整し、問題の出窓が上から写っていることを確認する。これで何かが出窓に近づけば、あとはセンサーが感知し勝手に録画データがスマホに送られてくるはずだった。
これでようやく真偽がわかる。写っていたのが猫ならそれでいい。
けれど、もしも本当に垂直の窓ガラスの上を這う赤ん坊が写っていたならば……。
カメラをセットした翌朝、柚葉は夫が出勤してから意を決して録画データを確認してみたが、しかしそこには何も写ってなどいなかった。
もっと正確に表現すれば、大事な部分になった途端に映像が欠落していた。
明け方近くになって、センサーが反応しカメラが起動したのは間違いがない。でも一瞬だけ暗い景色が映った直後、録画データの時間は飛んでしまっていたのだ。
しかもだ、最初に僅かに映ったときには綺麗なままだった窓ガラスが、映像が戻った際にはもう足跡がびっしりとついた状態になって映っていた。
つまり何者かが来て足跡を残す、その間の分の映像だけが消失していたのだ。
そのことに気がついたとき、柚葉はあまりの気持ち悪さにスマホを投げ捨てていた。
はたして――こんな偶然が、あるのだろうか。
どうして肝心なところだけ、写っていないのか。それは写らないからじゃないのか。出窓に手形を残している存在は映像には残らない、そういうモノだからじゃないのか。
そんな身の毛のよだつ考えを確認すべく、柚葉はセットしたままのカメラの録画データを再び再生してみたのだが、結果はまるっきり同じだった。
明け方近くに汚れていない出窓のガラスが映るとやはり映像が途絶え、そして戻ったときにはもう泥の手形で汚れたガラスが記録されていた。
二度も確認をすれば、それでもう十分だ。カメラは二階のベランダにあるので、出窓付近でセンサーを反応させた存在がすぐにいじることは不可能だ。無線だから線を抜いたりすることだってできやしない。
だからこれは、そういう類いの現象なのだろう。
映像という証拠を突きつけられ、柚葉は心臓が止まるような気持ちの中で涙ぐんだ。カメラなんて仕掛けるんじゃなかったと、後悔すらした。
でもこの映像を見たところで、頑迷な夫はただの機械トラブルだと主張するだろう。出窓の手形は、あくまでも猫の足跡だと意固地に言い続けるに違いない。
得体の知れない何かの仕業なのはもう確実なのに、決してわかってはもらえない。
その日の朝の喧嘩は、ひとしおだった。柚葉は映像のことは何も言わない。理解をしてもらえないから言えない。そんな恐怖と悔しさと怒りがない混ぜとなって柚葉の言葉の端から滲み、夫も夫で柚葉の態度に怒りを露わにしながら出勤していった。
現実への直視をいっさい放棄した夫に憤慨しつつ、柚葉は一人で家の外に出て今朝も出窓についた赤ん坊の手形を確認した。
最近は、この手形を見る度にお腹の奥がチクチクと痛んだ。子宮が収縮して、中の子までもが得体の知れない怪異に怯え、身を縮こまらせているような気さえした。
――このままではダメだ。
この子のために、どうにかこの家を安心できる場所にしなければならない。
夫が頼りにならない以上、自分で自分の家を安らげる場所にしなければならない。
そう奮起した柚葉は、まずは道路を挟んで向かいの家に住むご近所さんたちに話しかけてみることにした。
「……すみません。ちょっとよろしいですか?」
昼前の時間帯には、いつも道端で井戸端会議をしている初老の女性二人。勇気を出して柚葉が声をかけた理由は二人の住む家にそれなりに年季があり、柚葉が越してくるずっと前からこの土地のことをよく知っていそうだったからだ。
普段は話しかけてこない柚葉が自分から声をかけてきたことに驚く二人だが、
「うちが住んでいるあの家に、以前はどんな方が住んでいたのかご存じありませんか?」
そう質問をするなり驚きを超えて、二人の顔色が変わった。
今の今までゲラゲラ談笑していた二人の急な変貌に、柚葉の心にも緊張が走る。
「知ってはいるけれども――それは、いったい何番目の方?」
「……えっ?」
訊いたのは自分だったはずなのに、逆に質問で返されて柚葉が口ごもる。
でもそれ以上に、何番目とはどういう意味なのか。
柚葉の家は中古住宅だが、まだ築一年だ。たった一年な上にアパートでもなく、戸建ての建売住宅だ。そう容易く住人が入れ替わるはずがない――のだが。
鳩が豆鉄砲を喰ったような顔をする柚葉を気の毒そうな目で見ながら、訊き返した方ではないもう一人の女性が口を開いた。
「斉藤さんが入居される前に、あの家の住人はもう三回も変わっているの」
――三回っ!? まったく想定していなかった話に、柚葉が目を白黒させる。
「あの家に住む家族はね、あなたたちご夫婦で四組目なの。正直、私たちも驚いているのよ。うちなんかと違ってあんなに新しくて立派ないい家なのに。それなのに住んだ家族はみんな三ヵ月足らずで、逃げるように出て行ってしまって……。
この辺ではね、そろそろあの家のことが噂になり出しているの」
つまりあの家は、自分たちよりも先に三組もの家族が購入していて、そしてすぐに売りに出した家ということになる。
家は人生を左右する買い物だ。実際に柚葉たち夫婦も、これから三〇年はあの家のローンに縛られていくことになる。そしてそれはきっと、あの家に住んだ他の家族も同じだったはずだ。
なのに出て行った。おそらく借金が嵩むだけなのに、それでも家を売って逃げ出した。
だから何かがあったのだ。損失など度外視で住人が逃げる何かがあの家にはあるのだ。
その何かに心当たりがある柚葉は、目眩がしそうになるのを堪えて質問を続けた。
「……あの家が建つ前、あの土地にはいったい何があったのでしょうか?」
世に事故物件などという言葉があるが、でも住んだ家族がみんな出ていったのならば、新築で最初に住んだ家族もまた逃げたということになる。だとしたら家が建ってからではなくその前、もともとの土地に何か問題があったのではないのか。
そう思っての質問だったのだが、二人は困惑して顔を見合わせた。そのあからさまに含みがある挙動に、胸のうちで渦巻く不安を柚葉はいっそうかき乱される。
やはりあの土地には曰くがあるのでしょうか――そう口にしかけるも、柚葉の表情から勘違いを察した一人が、慌てて首を左右に振った。
「あ、違うのよ。別にね、あなたの家がある場所で事件とか事故とか、そういうことはないの。私はここに嫁いでもう四〇年も住んでいるからそれは間違いないわ。私が来たときから、あの家の土地は長いことずっと放置気味の畑だったのよ。でもね……」
「でも? ……なんでしょうか」
言い淀んだ相手に先を促すと、もう一人の女性が気まずそうに口を開いた。
「実はね、昨日もあの家に関してまるっきり同じことを訊かれたの。いつものようにここで立ち話をしていたら見慣れない男の人が近寄ってきてね、斉藤さんのお宅を指差しながら、こう質問をしてきたの。
――あそこの家が建つ前、あの土地は何だったかご存じありませんか? ってね」
「そうなのよ。だからね、今と同じように昨日はこう答えたの。
――あの家の場所は何の変哲もない畑でしたよ、畑を相続したらしい息子さんが土地を売ったらすぐに二軒並びで家が建ちましたけど、ってね。でもそれ以上のことは何も言ってはいないわよ」
結果として二人が顔を見合わせばつが悪そうにしたのは、他人に柚葉の住む家のことを教えたからだろう。
でもそれはそれとして――柚葉は、ごくりと喉を鳴らした。
どうして、自分の家が建つ場所の過去を探ろうとする人がいるのか。
「……その男の人は、どんな感じの人だったんですか?」
「なんというか、正直に言うと怖い雰囲気の人だったわね。真っ黒いスーツを着ていて、おまけにとても背が大きくて、まさに大男って感じだったわ」
喉までせり上がってきた「ひっ」という悲鳴を、柚葉はなんとか飲み込んだ。
――あの男だ。何度か見かけた、手形のつく出窓をじっと見つめていた黒い大男。
なんで、あんな不穏な大男が自分の家のことなど調べているのか。いったい何を近所の人から聞き出そうとしていたのか。
気がつけば表情を強張らせていた柚葉の耳に、急に猫撫で声が入ってくる。
「ねぇ、斉藤さん。実は私たちもね、あの家のことがとても気になっているの。どうしてみんなすぐに出ていってしまうのか。ご近所だもの、ひょっとしたら力になれることがあるかもしれないから、私たちにもあの家のことを詳しく教えてもらえないかしら」
力になれることがあるかも、なんて聞こえの良いことを口にしつつも、二人の目の色がただの興味本位だと如実に語っていた。
柚葉は本当に辛くて苦しいのに、まるで察しない発言に心底から腹が立った。
「……すみません。ちょっと用があって急ぎますので、今日はここで失礼します」
二人に向かって丁寧に頭を下げるなり、柚葉は家と反対方向に歩き出す。
二人から「ちょっと、斉藤さん!」と批難するような声が背中にかけられるが、柚葉は一度だけ振り返って愛想笑いを浮かべると、強引にその場を後にした。
向こうは持ちつ持たれつの情報交換とでも思っているのかもしれないが、柚葉としては自分の家の話題なのだから堪ったものではない。ローンがある以上は、これからも住んでいくことになる家なのだ。“赤ん坊の手形が窓につき、夜毎に赤ん坊の泣き声も響く家”なんて噂が広まりでもしたら、困るどころの話ではなかった。
とにかく二人から距離をとるため、柚葉は急ぎ足で歩く。
用があるなんてでまかせを口にした手前、家には戻れない。
でもそれで良かった、とも内心で思った。
たった一年間で三組もの住人が逃げ出した家――そう聞いた直後に、出窓に手形がつくあの家に一人きりでいられるほど、柚葉の肝は太くはなかった。
とはいえ住宅地であるこの辺りに喫茶店などない。市街地に出ようにも、車は夫が通勤で使っていて今はない。だから柚葉は歩いた。産婦人科から急な体重増加を指摘されていたこともあり、少しぐらいなら大丈夫だろうと行けるところまで歩いてみた。
すると畑ばかりが広がる景色の中で、舗装された道沿いに近代的でやたら大きな建造物が目に飛び込んできた。柚葉は引っ越してきてから、まだ一ヵ月ばかりだ。この辺の地理もわからなければ、施設もまるで知らない。
だから遠目には学校の校舎のようにも見えるその建物に気になって近づいてみれば、正面玄関前にある白い大きな看板には『図書館』と書かれていた。
建物の正体を知るなり閃く――そうだ、自分でも調べてみればいいのだ、と。
あの家が建っていた場所は、以前は畑だったらしい。それは墓地や祠だったなどと言われるよりよっぽど胸を撫で下ろす話だが、同時にまったく腑には落ちなかった。何もない土地なら、最初にあの家に住んだ家族はどうして逃げ出したのか。なんであの家の窓には赤ん坊の手形がつき、なぜに夜中には赤ん坊の泣き声が響くのか。
柚葉としては、納得のいく答えを得たかった。理由がわからなければ、手を打つことすらできないのだから。
今の状況が続けば、遠からず自分の頭と心はきっとやられてしまうだろう。
だからこそ、自分でもあの土地の過去を調べてみようと、そう思ったのだ。
平日昼間の図書館内は人がまばらだった。本を読みに来たというより、どちらかといえば空調が効いた空間に休みに来た、という雰囲気の人の方が多い気さえする。
静かなロビーを抜けて二階に上がり、誰ともすれ違わない廊下を通って、柚葉はジャンルの表示を目で追い、人の背丈よりも高い書棚に挟まれた奥の奥へと進んでいく。
そして突き当たりにいたり、ようやく郷土史コーナーに辿り着いた。
タイトルからめぼしい本を何冊か選んで抜き取ると、両手で抱えながら戻って自分一人きりの閲覧席へと座る。分厚いカバーの本を机の上に積み上げ一冊開いてみたが、読書の習慣がない柚葉はページいっぱいにびっしりと詰まった文字を前にくらくらとしてしまった。
それでも目次の見出しを確認しながらなんとか本のページをペラペラと捲っていくと、とあるカラーページを開いた瞬間にふと柚葉の手が止まった。
そのページに印刷されていたのは、一枚の絵だった。どことなく浮世絵にも似た気がする筆致のその絵は、おそらく大正や明治よりも前に描かれた絵なのだろう。
絵に描かれていたのは女だった。
畳の上に敷いた茣蓙の上に座り、頭に鉢巻きをしている女だった。
鉢巻きをしてまで気合いを込めた女が絵の中で何をしているのかといえば、自分で産んだと思われる赤ん坊の口を、自らの手でもって塞ぐことだった。
障子に映った女の影には、鬼のごとく角が生えていた。
その様をすぐ近くで見ているお地蔵様は、泣いていた。
本を開いたまま、柚葉はただただ啞然としてしまう。
この絵は『子返しの絵馬』というらしい。なんでも今はとあるお寺に保管されているのだが、かつては小さなお堂の壁にかけられていたものだそうだ。
そしてそのお堂のあった場所というのは――柚葉が住む家と、同じ地名だった。
その絵が記載された前後の文面を、柚葉はなんとか読み下す。
なんでも柚葉の家のすぐ後ろを流れる川は、昔はよく氾濫したのだそうだ。氾濫をするたびに飢饉となり、付近の住人は生きるか死ぬかという困窮状態に陥ったらしい。
その果てに、子を間引いた。
この『子返しの絵馬』というのは間引きを戒めるために描かれたものらしい。しかし戒めるということは、かつて間引きがこの地でも行われていたということの証拠でもある。
そんな絵が、自分の家が建つ場所と同じ地域のお堂に祀られていた。つまりあの辺りでは、昔は赤ん坊の間引きが行われていたということだ。
気がつけば呼吸が荒くなっていた。自然と、お腹を守るように手が下腹部に伸びた。
だがそれでも、柚葉はお腹をさすっていない方の手でページを捲っていく。
その先に書かれていたのは、実際に子を間引いた手段だった。産まれた子に乳を与えないネグレクトのような方法もあれば、絵馬に描かれたのと同じく濡れた紙を赤子の口に当て窒息死させるというやり方もあったと、そう書かれてある。
そうやって間引いた子どもたちは、川へと流したのだそうだ。
産まれ出てきた地に留めおかずに、水へと流してあの世に返したのだそうだ。
きっと――家の裏手を流れるあの川でも、多くの間引かれた子が流されたに違いない。
何百何千、ともすれば何万という赤ん坊が、この世に産まれ出でるなり母親の手で殺され、そしてあの川の中へと捨てられていったのだ。
――それはどんな気持ちだったろうか。
人の身体は重いから、川に流された水子たちはきっと水に浮かばない。晴れることのない想いとともに川の底へとゆっくり沈んでいき、哀れな水子たちの死骸は泥の中へと次々に堆積していくのだ。
そんな水子たちの願いは、おそらく母の子宮に帰ることだろう。痺れるほどに冷たく暗い水の底で眠りながら、静かで温かく何ものにも害されることのなかった胎内へと戻ることを夢見るに違いない。
ゆえに帰ることのできる場所を求め、流されたはずの水子たちは夜になると川底から這い上がってくるのだ。
柚葉の家は、水子たちにとってはいい目印だろう。これまでただの畑でしかなかった場所に建った新しい家は、やたらと目に付くはずだ。
川底から這って出てきた水子たちは、まっすぐに柚葉の家を目指す。すぐに白い外壁からぷっくら膨らんだ出窓を見つけるだろう。カーテンは引かれているものの、室内の灯りがぼんやりと窓の外に滲んでいるのだから。
そして水子たちは、川底の泥に塗れた手をガラス面にべったりと張り付け、カーテンの僅かな継ぎ目から部屋の中へと目を凝らす。
その視線の先にいるのは柚葉だ。新しく買った家でこれから子育てをしていこうと考えていて、子の宿ったお腹を大事そうに抱えている妊婦なのだ。
自分たちは遺骸となって冷たい川底に眠っているというのに、これから産まれるあの胎児は温かい家の中で大切にされながら、親の腕に包まれ眠る日々を過ごすのだろう。
産まれるなり殺され川に捨てられた水子たちは、その差をどう思うのだろうか。
きっと妬ましく、憎らしいに違いない。どうして自分は間引かれ、あの子は生かされるのか。
できるものならば、あの腹の中の子にも川の底で眠る同じ苦しみを。
出窓に張りつく水子たちは、そう思いながら隣家にまで響き渡るほどの怨嗟の泣き声を夜な夜な上げるのだ。
――そこまで想像した瞬間、柚葉は胃がめくれそうなほどの吐き気に襲われた。
これ以上は想像してはダメだと、慌てて本を閉じた。
だが一度頭の中に思い描いてしまった、川底の泥に塗れた水子たちが家の出窓にへばりついて自分のお腹を睨みつける映像は、易々と瞼の裏から消えない。
柚葉は吐き気を堪えつつ、本を手に閲覧席から立ち上がった。
知らなければ知らないで不安しかなかったわけだが、でも今はもう土地の過去など調べるべきではなかったと後悔していた。だが後悔しても、もはや遅い。自分の住む土地に残っていた間引きの記憶は、既に柚葉の頭の中に刻印されてしまった。
とにかく本を返して図書館を出ようと郷土史の棚へと向かうも、書架に囲まれた薄暗い通路を奥に向かって歩いているうちに、ザーという激しい耳鳴りがした。
その直後、すーっと足の力が抜けてよろめき、柚葉は書架に寄りかかってしまった。バラバラと頭の上に何冊か本が落ちてくるが、かまってなどいられない。
ぐるぐると回る視界に翻弄され、地面に吸い込まれるように倒れていくも――、
「だいじょうぶですかっ!?」
誰かが、真横に倒れていく柚葉の身体を途中で支えてくれた。
最初、その人のことは女性だと思った。
鋭角な顎のラインにまで伸びた亜麻色の髪。まさに細面といった縦長の輪郭の中で、ぴっと横に伸びた切れ長で涼やかな目。あっさりとしつつも芯のある、その整った顔立ちがあまりにも優美だったからだ。
けれども自分を支える細いながらもしっかりとした身体付きに加えて、Tシャツの上から羽織った濃紺のジャケットが男物であることからも、すぐに男性だと気がついた。
眉目秀麗な若い男性にもたれかかったこの状況に気がつくなり、柚葉の顔が一瞬で真っ赤に染まる。
「だ、だいじょうぶです!」
とっさに一人で立ち上がろうとするも足に力が入らず、くにゃりと腰が砕けたようになって再び男性によりかかってしまう。
「いけません! お一人の身体ではないのですから、お腹の子のためにも無理はやめてください」
「……あ、はい」
思いのほか強い言葉で言われてしまい、柚葉が目を丸くして口を噤む。
というか、自分のお腹はそんなに目立つだろうか。確かに元々細く、膨れてきたお腹は大きく張り出し始めている。でも最近はことさら身体のラインが出にくい服装をしていて、今日だって緩めのジャンパースカートだ。それなのにどうしてこの人は、初見で自分のことを妊婦と見抜いたのだろうか。
そんな疑問がちらりと柚葉の脳裏をよぎるも、でも今はそれどころではなかった。
両肩に添えられた手で支えられたまま「少しだけ歩けますか?」と訊ねられる。
柚葉は小さくうなずくと、どうにか足を動かし書架コーナーから歩いた。なんとか廊下にまで戻ってくると、壁際に据えられた背もたれのないソファーへと腰を落とす。
「おそらく貧血でしょう。少し足を伸ばされたほうがいいですよ」
そう言われて、柚葉はようやく自分が貧血を起こしたのだと気がついた。学生の頃に貧血で倒れたときも、確かにさっきのような耳鳴りがあったことを思い出す。
とりあえず促されるまま横に長いソファーの上で脚を伸ばすと、「失礼します」と声をかけてから男性がフラットシューズを脱がせてくれた。柚葉の顔が再び赤くなる。
「貧血には、よくなられるのですか?」
「……いえ、妊娠してからは一度もありません」
「そうですか」
と、彼は困ったように僅かに小首を傾げた。
別に何も悪いことなどしていないのに、なんだか申し訳ない気持ちになってしまった柚葉が落ち着かずに身体を捩る。その拍子に、手に抱えていたままだった本が床にドサリと落ちて、パラパラとページが捲れた。
そしてピタリと止まったのは、あの『子返しの絵馬』が載ったページだった。
その絵を目にした瞬間、男性の眉間にみるみると皺が寄った。
「妊婦さんが、どうしてこんな本を読んでいるのですか」
「いや、これは……ちょっと土地のことを調べていただけなんです」
「そうだとしても、あまり感心はできませんね」
ぴしゃりと言われてしまい、柚葉が思わず目を伏せた。
「人の身体というのは、自分で思っている以上に心に引き摺られるものです。ご自身の身体の状態、ちゃんとご理解されていますか?」
柚葉としてはぐうの音も出ない話だった。実際こんなものを読んでから、柚葉はみるみると気分が悪くなったのだ。貧血だってきっとその影響だろう。もしもあのまま下手な倒れ方をしてお腹を打ち、人の寄りつかない書架の奥で動けなくなっていたとしたら、どうなっていたことか。
「……すみません。おっしゃるとおりですね、助けてくださりありがとうございます」
座ったままの姿勢で柚葉が深々と頭を下げると、男性は引き結んでいた口元を「しかたないですね」と言わんばかりに緩ませた。
「少しぐらいおかしな現象に遭遇しても、そういうものは気にしないのが一番です」
「えっ?」
その妙な言い回しに柚葉が頓狂な声を上げると、まるで悪戯に成功した子どものように男性が不思議な笑みを浮かべた。
「一つ、いいことを教えてさし上げましょう。あなたとね、それからあなたの家にも水子の霊なんて憑いていません。変わり者な同僚に言わせれば『水子なんてものは除霊ビジネスが産んだ概念』ということになるのですが、まあその真偽はともかくとして、少なくとも今のあなたの周りには水子なんていやしないんです。
――あなたが気配を感じとっているそれら全ては、ただの思い込みと錯覚ですよ」
今度は驚きの声すらも出なかった。わけがわからぬまま、ただただ心の内で湧いた疑問が柚葉の喉から声となって出てくる。
「……どうして、そのことを知っているんですか?」
ここしばらく柚葉を苦しめている恐怖の混じった懊悩を見透かされ、目を皿のようにして目の前の人物の顔を見続けるが、その問いに答えが返ってくることはなかった。その替わりに、男性が妙に意味深な表情でパチリとウインクを一つ返してくる。
「まあ、細かいことは気にされずに――不安で不安でたまらなくなるような自分の妄想ではなく、あなたを助けた僕の言うことの方を信じてみてくださいよ。鰯の頭も信心からと言いますでしょ。大事なのは些細な異変になんて惑わされず、ご自分の健康とこれから産まれてくる子の将来のことだけを考え日々を安らかに過ごすことです。そうすれば、すぐに水子のことなんて忘れてしまいますよ」
柚葉の視界が急にぼんやりと滲んだ。自分でも驚いたことに、たったそれだけの言葉で涙ぐんでしまったのだ。
思えば出窓に手形がつくようになってから、夫との関係はずっと剣吞だった。あれほど欲しくて買った一軒家なのに、少しも楽しくない。リビングにいるだけでカーテンを閉め切った出窓が目に入って、どこまでも憂鬱な気分になってしまうのだ。
加えて知らない土地への引っ越しで、柚葉は周りにほとんど知り合いがいなかった。多少なりとも仲良くなったのは隣家の三沼だけ。だがその三沼にも、いもしない赤ん坊の夜泣きの話が出てからは距離を置かれている。
どうやら自分で思っていたよりも、ずっとずっと心に負荷がかかっていたらしい。
「何事も気楽に考えることが一番です。それが色んな不安を解消するコツですよ」
涙を堪えて何度もうなずく柚葉を目にし、男性が優しく微笑んだ。
「そのご様子なら、もうだいじょうぶそうですね。それでは僕はこれで行きますが、あなたはもう少し休んでから帰られたほうがいいですよ」
柚葉が座ったソファーの横で、片膝をついていた男性がすっと立ち上がり、そのまま一階へ降りる階段の方に向かって歩き始める。
遠くなり始めた背中に、柚葉が「本当に助かりました!」と慌てて声をかけると、最後にほんの少しだけ振り向いて、あの柔和な笑顔のまま小さく会釈を返してくれた。
それから一〇分ほどソファーに座ってじっとし、耳鳴りも目眩も治まっていることを確認してから、柚葉は揃えて床に置かれていたフラットシューズを履いて立ち上がる。さっきまでの体調不良が噓のように、足が軽かった。むしろ貧血を起こして倒れる前より体調が良くなっているような気さえした。
例の『子返しの絵馬』が載った本を廊下にあった返却台の上に載せてから、柚葉は図書館を後にする。
自分の家へと向かって歩き始めてから、柚葉は道端でふと気がついた。
「……そうだ、あの人の名前も連絡先も訊いてなかった!」
我ながらの迂闊さに、道端で天を仰ぎそうになってしまった。
――親切なあの人に、また会えるだろうか。
こんな小さな町だ、きっと何度も図書館に通ってみればまた会えるだろう。無事にこの子が生まれた際には、会えるまで図書館に通ってみよう。
そして無事に再会できたら今度こそしっかりお礼を言おうと、柚葉はそう思った。
行きは重たかった足が、今はこんなにも軽い。貧血を起こした直後だから辛ければタクシーを呼ぼうとも思っていたが、その必要性をまるで感じなかった。
どこか晴れやかな気持ちで歩いていると、瞬く間に自宅に戻ってきてしまった。
白のタイルを基調とした外壁の、新築も同然の一軒家――でもそんな我が家を目にするなり、柚葉は禍々しさを感じてしまった。
この家は、たった一年で三組もの家族が逃げ出した家なのだ。
――何事も気楽に考えることが一番です。
柚葉は深呼吸をしながら、あの親切な人に言われたことを口の中で繰り返す。
そう……気にしたらダメなのだ。一度気にしたらそこからどんどん気になって、ますます恐怖心から抜け出せなくなっていく。
窓につく猫の足跡なんて、ただの泥の汚れに過ぎない。洗えば簡単に落ちるのだから、そもそも気にする必要すらないのだ。
夜泣きの声だって、思い返せば柚葉は聞いてさえいない。聞いていないのだから、ただの三沼の気のせいという可能性だってありうる。
――多少は無理があっても、そう信じることこそが大事。
目の前の不安よりも図書館で会ったあの人を信じてみようと、柚葉はそう思った。
努めて平静を心がけながら、柚葉が解錠した玄関のドアを開ける。
すると――家の中に入ろうとした瞬間に、何かが柚葉の頭の上に落ちてきた。
あまりにいきなりなことに「ひゃ!」という短い悲鳴をとっさに上げ、冷たい感触のする頭の上に落ちてきた何かを、柚葉が手で払い飛ばした。
落ちてきた何かはそれだけで簡単に頭から離れ、玄関の床の上にぺしゃりと落ちる。
落ちたものを確認するべく柚葉はしゃがみこみ、床にぺたりと貼りついた何かを指でつまんで持ち上げてみた。
それは一辺が五センチほどの、ぐっしょりと水に濡れた紙だった。
しかもプリンターに使うコピー用紙などとは違う、繊維の粗さが見てとれる和紙だ。
「……なんでこんなものが」
そうつぶやくなり、雷に打たれたかのごとく柚葉の頭にある記憶が蘇った。
同時に背筋が反り返るほどの猛烈な悪寒に襲われ、つまんでいた和紙を玄関の外に向けて放り投げる。
柚葉の脳髄に浮かんだ記憶とは、図書館で読んだあの本の内容だった。
『子返しの絵馬』が載ったページに書かれてあった『濡れた紙を赤ん坊の口の上に被せて窒息死させた』という間引きの方法だった。
「あぁ……ああああっ」
間引きの記録が残るこの場所で、子どもを宿す自分の頭の上に落ちてきた濡れた和紙。
当たり前だがドアの上には何もなく、仮に風が吹いても濡れた紙は容易く飛ばないし、ましてや和紙なんてこの家のどこにもない。
だからさっきの和紙は、何もない宙からいきなり降ってきたものだ。
この家に纏わりつく視えないモノが、自分の頭の上へと濡れた和紙を落としたのだ。
――そんなもので、私に何をしろというのか。
――あの濡れた和紙で、いったい何をさせようとしているのか。
「いやぁぁぁああああぁぁっっっ!!」
瞼の裏に浮かぶ『子返しの絵馬』の残像を見つつ、柚葉の喉から絶叫が噴き出た。
――やっぱり噓だった。気楽に考えるのが一番とか、まるで意味がなかった。
気にしようが、しなかろうが関係ない。やはり川底から這い出てくる水子たちはこの家の周りにいるのだ。視えないまま忍び寄ってきて、こうして自分たちにしたことと同じことを自らの子にもしろと、そう祟ってきているのだ。
その事実をようやく悟った瞬間、柚葉は身体が前に折れ曲がるほどに強い痛みを下腹部から感じた。恐怖心から滲んでいた呻き声が、お腹の痛みに耐える唸り声へとみるみるうちに変化していく。
開けたままの玄関から家の外へと出ようとするが、もはや痛みで立つことすらままならず、柚葉はその場で膝から崩れてしまった。
まるで誰かが子宮を直接押し潰そうとしているかのようだった。視えない手を柚葉のお腹の中へと突き込み、子どもごと子宮を捻り潰そうとしているように感じられた。
柚葉の目からポロポロと涙がこぼれ出す。
――やはり水子たちの狙いは、このお腹の子だ。
――この子を自分たちと同じように、水子にしようとしているのだ。
ここにいてはダメだと、柚葉が家の敷地の外の往来にまで這って出ようとしたところ、
「斉藤さん、どうしたのっ!?」
柚葉の悲鳴を聞きつけた三沼が、隣家から柚葉の家の玄関前までやってきた。
駆け寄ってきた三沼の脚を、地面に這いつくばった柚葉が縋るように握り締める。
「助けてくださいっ! お願いですから、この子を水子たちから助けてくださいっ!」
瞬間、脂汗にまみれた柚葉の意識がすーっと遠くなり始める。
気を失う手前の柚葉の目に映った最後の光景は、わけのわからぬだろうことを言われて隣人に縋られてしまい、顔を真っ青にして怯えた三沼の顔だった。
4
三沼が呼んでくれた救急車で運ばれた柚葉に、病院が下した診断は切迫早産だった。
早産とは、妊娠二二週目から三六週目までに子どもが生まれてしまうことを意味する。切迫早産とはまさにその、早産になりかかっている、という状態のことだ。
既に流産から早産と呼ばれる妊娠期間に入っているとはいえ柚葉はまだ妊娠六ヵ月目、まさに今が境目の二二週目だ。この時期に早産した場合の胎児の生存率は約六割――四割近い子が、産まれてもすぐに死亡してしまうということになる。
そんな説明を医者から受けたとき、柚葉の頭に浮かんだのは『子返しの絵馬』だった。
裏手の川から這い出てくる水子たちからお腹の子を守るため、柚葉は医者の指示に従い病院のベッドで安静にし、母胎にも胎児にもなるべく負担をかけないようにした。
救いだったのは喧嘩しがちだった夫が優しかったことだ。柚葉が救急車で運ばれたと聞くなり、お腹の子とそれから柚葉の身も案じてすぐに駆け付けてくれた。
数日ほどして退院となり家に帰るときも、しっかりと付き添ってくれた。
しかし夫だって、いつまでも会社を休んではいられない。何しろ今は家のローンを抱えているのだ。夫にはちゃんと会社に行って仕事をしてもらわなければ、たとえお腹の子が無事に生まれてきても、その先で家族三人して路頭に迷ってしまう。
ゆえに柚葉は、夫が出勤してからも一人布団で横になり安静を心がけていた。
それで身体は休めるが、でも心中はまるで穏やかではなかった。むしろじっとしていればじっとしているだけ、ザワザワと不安ばかりが胸の中で蠢いた。
――風が吹けば、出窓にまとわりつき中を覗く水子たちの姿が目に浮かぶ。
――家鳴りがすれば、甲高く泣き喚く水子の声が鼓膜の内側より聞こえてくる。
そうやって柚葉は、頭まで被った布団の中で日がな一日ぶるぶると震えるのだ。
なんでこんな目に遭わなければいけないのだろうか。この子ができたことを契機に、この子の将来も考えて買った家なのに、今やその家がこの子の命を奪おうとしている。
きっと自分たちの前に住んでいた家族たちも、同じだったのだろう。
土地に根付く水子たちに生活を脅かされ、借金を覚悟でこの家から逃げ出していったのだと思う。
だが、そんな家を望んだのは柚葉だ。小さい頃からの夢だからと主張して、この一軒家を買おうと夫を説得したのは柚葉だった。相場より安かったとはいえ、それでも夫婦二人で一生かけて返すほどの借金を既に背負ってしまっている。
それなのに「この家は、いやだ」なんて、どうして今さら柚葉から言えようか。
本当は今すぐにでも、この家から逃げたい。
でも柚葉には、自分からそれを言い出す勇気なんてない。
できることは自分の選択を後悔しながら、日々さめざめと泣くぐらいだった。
――だが。
朝から晩まで床に就くようになってから数日が過ぎた日の午前中に、家のインターホンが鳴った。
荷物が届く予定がなかった柚葉は、どうせ何かの勧誘だろうと思い最初はその呼び出し音を無視した。そのまま対応しなければ普通はすぐ立ち去るのに、でもその来客は異常だった。何度も何度も、それこそ一〇回以上もインターホンを押し続ける。
ただならぬ気配を感じた柚葉はやむなく二階の寝室から一階のリビングに降りて、インターホンのカメラを確認した。
映っていたのは恰腹の良い女性だった。年は初老と呼べるような年齢だろう。かなり明るめの茶色の髪色は、白髪染めの意味合いもあるのかもしれない。真っ赤なシャツ・ワンピがやたら印象的なのだが、しかしそれ以上に柚葉の目を引いたのはその手に大きな房のついた本格的な数珠を握っていたことだった。
何度目となるかもわからないインターホンの音が鳴る。
柚葉としてはこのまま無視し続けたい気持ちもある。でも柚葉は数珠を手にしたその女性のことがなんとなく気になり、意を決して通話のボタンを押してみた。
「……何かご用でしょうか?」
瞬間、女性がほっと大きく息を吐きながら、安堵した表情を浮かべた。
「突然に申し訳ありません。私は仕事の都合でこの近くに来た者なのですが、なんだかいやな予感と妙な胸騒ぎがしてこの道を歩いていたところ、お宅が目に入りまして」
「……はい?」
いきなり意味のわからないことを言われた柚葉が不審な声を上げるが、しかしモニター越しの女性の顔色は変わらない。
「もしも私の言うことが信じられなかったり、心当たりがなかったときには謝罪します。実はこちらのお宅の前を通りかかるなり、急に赤ん坊の泣き声が聞こえたんです。それで気になって道端から霊視をしてみたら、お宅の出窓に無数の水子が張りついている様子が視えたんですよ」
柚葉が自然と自らの口を両手で覆う。それはないどころか、心当たりしか思いつかない話だった。
「これね、恐ろしく強くて厄介な水子たちですよ。洒落にならないほどに業が深い。だからこの家では何かしらの霊障が起きているに違いないと思って、それで思い切ってお声がけしてみたんです。もしもあなたが水子に苦しめられているのならば、きっと私が助けになれるはずです」
その話を聞き終えるよりも先に、柚葉は自分が寝間着であったことすら忘れて玄関のドアを開けていた。
女性が左右の中指に数珠をひっかけながら合掌し、柚葉に向かって深々と頭を下げる。
女性は、自らを荒川真如と名乗った。
なんでも真如とは仏教用語で真実の姿という意味らしいのだが、しかしこの人は尼僧の類いではないらしい。尼僧ではなくて、荒川真如は自らを霊能者と称した。
「よろしければお話をうかがいつつ、家のご様子を視せていただけませんか?」
正直なところ、初見の人間を家に上げるのは抵抗があった。だがこの人は当の柚葉ですらわからない、三沼だけが聞いている赤ん坊の泣き声を言い当てたのだ。さらには遠目からパッと出窓を見ただけで、あの窓にやってくるのが水子とも見抜いた。
この人にはきっと、柚葉には見えないモノが視えているのだろう。だとしたら柚葉にはわからなかった水子たちの問題への解決策を教えてくれるかもしれない。
――もしかしたらこの出会いは、不運を帳消しにする降って湧いた幸運かもしれない。
そう思ったとき、柚葉は「どうぞ」と言って荒川を家の中に招き入れていた。
それから問題の出窓があるリビングのダイニングテーブルへと座り、柚葉はこれまでこの家で起きた様々な怪異を語った。柚葉の話を聞きながらも、荒川の視線がちらちらと例の出窓の方に向くのが印象的だった。
そうして一通り話し終えると、荒川はテーブルの上で組んでいた柚葉の手の上に、肉厚な自らの手をそっと重ねた。
「がんばりましたね。邪悪な水子たちの手から、よくぞ今日までお腹のお子さんを守ってこられました」
その言葉を耳にするなり、柚葉は不覚にも涙をこぼしてしまった。誰にもわかってもらえなかった苦労が全て報われたような、そんな気持ちになったのだ。
「えぇ、ほとんど斉藤さんが思っている通りです。家の裏手にある川から這い上がってきた水子たちが、泣き喚きつつそこの出窓から家の中を覗き込んでいます。その目的はお腹の子を自分たちの仲間に引き摺り込むためです。頭上に落ちてきた和紙というのも、水子たちからの脅しです。――本当に危ないところでしたよ、ご無事で良かった」
これまで自分だけの妄想の可能性もあった推測が、荒川の霊視で客観的に証明されていく。誰にも理解をしてもらえなかった心のモヤモヤが、急速に晴れていく。
でも同時にどこか漠然としていた恐怖が、これで具体的な形を得て柚葉の心を襲った。
「荒川さん、この子は何年も望んだ末にようやくできた子なんです。絶対にこの子を失いたくありません。どうかこの子を水子たちから守っていただけないでしょうか?」
「ええ、もちろんです――と、申したいところなのですが、はっきり言ってこの家が建つ土地は業が深過ぎます。この業をどうにかすることは生半ではありません。もし可能であるのなら、私はこの家から引っ越しされることをお勧めいたします」
「それは……」
柚葉が思わず口ごもった。
急に表情を沈ませた柚葉を前に、荒川が困ったように苦笑を浮かべた。
「家を買ったばかりなのに引っ越しというのは、確かに難しいですよね」
「……すみません」
「いいえ、謝ることはありません。斉藤さんのご事情は、当然です。ただ……引っ越すことが無理となると、それなりの道具を用いた荒療治が必要でしょう」
「荒療治、ですか?」
「家を建てるときにも、その土地の質が悪ければ地盤改良をしますでしょ? それと同じことを、既に家が建ってしまったこの土地に施そうと思います。土地の業を抑えつければなんとかなるかもしれません。そのためには良質の念を込めた鎮め物を埋める必要があり、念を込める器の準備にはそれなりの費用がかかることになります」
それなりの費用、という言葉に柚葉が反応し、おずおずと訊ねる。
「あの……その費用というのは、具体的にいかほどでしょうか?」
「そうですね。このひどい有り様の土地の状況を改善させるだけの強い鎮め物ですから、おおよそ三〇万ぐらいはみて欲しいです」
「三〇万っ!?」
予想以上の高額に、柚葉がつい声を荒らげてしまう。
「さぞお困りだと思うので、これでも私自身の祈禱料や相談料などは引いての金額なのですよ。でも起きている霊現象の酷さからしてもこの因縁に塗れた土地の質を変えるには、ちょっとやそっとの鎮め物では歯が立ちません。三〇万というのは、この土地を住めるようにするために最低限必要な額だと思ってください」
そう言い切られてしまっては、柚葉としてはそれ以上は何も言えなかった。だが三〇万は、今の柚葉にとってはとんでもなく高額だ。
しばし悩んだ末、柚葉は「少し考えさせてください」と荒川にお願いをした。
連絡先を交換した荒川が帰ってから、柚葉はすぐにネットで『荒川真如』という名を検索してみた。するとすごいヒット数の検索結果が出た。
どうも荒川真如というのは、柚葉がまだ幼かった頃にテレビでは引っ張りだこだった有名な霊能者であるらしい。
動画サイトには、荒川真如の霊能力が本物か否か検証する昔のテレビ特番もあった。コメンテーターが見ている前で、番組側が用意したゲストの過去を次々と荒川が言い当てていく。体型こそほっそりしていて今とはまるで違うが、でも数珠を手にしながらも強烈な赤色のシャツ・ワンピ姿の女性は、確かにさっきまで自分の話を聞いてくれていた初老の女性の若かりし姿に違いなかった。
それ以外にも、荒川に纏わるいろいろな記事を柚葉は読んだ。噓か実か、荒川真如はFBIに協力して行方不明者の捜索をしていた、なんてことまで書かれていた。
一通り調べ終えたとき、柚葉はこの人なら信頼できるかもしれないと感じた。
テレビの前でもさまざまな超常現象を起こしてきた荒川真如であれば、きっとこの家の怪異も収めてくれる。現にたまたま家の前を通っただけで、この家で起きている怪異をぴたりと言い当てたのだ。その霊能力は間違いなく本物だ。
柚葉は預金通帳を取り出してくると、すっかり減ってしまった残額を見返す。霊能者という仕事の都合上、荒川は現金一括でしか受けられないと言っていた。
何度見たって通帳の残額は変わらない。変わりはしないが、でもこの先は出産育児一時金も入ってくる。それを前借りしたつもりで、お腹の子のために三〇万円を払おう。
そう決心するなり、柚葉は荒川の電話番号が載っている名刺を財布から取り出した。
5
荒川による土地の業を鎮める儀式は、平日の昼間に行ってもらうことにした。
平日の昼間であれば、夫は家にいない。
夫がオカルトの類いが嫌いなのは前から知っていたが、この家に越してきてからますます実感した。もし霊能者に家のお祓いをしてもらうなんて知れたら、絶対に反対するはずだ。さらにはその金額が三〇万と知ったら、間違いなく大喧嘩となる。
だから柚葉は、有事の際にと残していた貯金を一人で銀行から下ろしてくると、夫には全て秘密のまま荒川に土地の浄化をお願いしたのだ。
水晶であろう数珠を手に、荒川が柚葉の家の中を回って一部屋ずつ拝んでいく。荒川が言うには、土地を鎮める前に家の中の邪気を祓っているとのことだが、柚葉にはよくわからなかった。
ただリビングだけは、荒川が「えいっ!」と気合いを込めてから例の出窓のカーテンを開けると部屋の中がはっきり明るくなったのがわかった。もっとも問題の出窓は採光用のものなので当たり前といえば当たり前なのだが、でもずっと薄暗かったリビングにようやく光が差し、柚葉の気持ちも少しだけ明るくなった。
「さて、それでは仕上げと参りましょう」
家の中を一周した荒川が額の汗を拭いつつ、持参した麻の袋の中から取りだしたのは、二〇センチ四方の正方形の形をした白木の箱だった。
「これが鎮め物です。この箱の中に収めてあるモノが、間引かれたことで荒ぶり続ける水子たちの霊を慰撫し、この土地を清浄にしてくれるはずですよ」
つまりこの小さな箱が、既に荒川に払っている三〇万の対価であるらしい。
「荒川さん、この中にはいったい何が入っているんですか?」
パートをしていたころの数ヵ月分の給料に値する箱をまじまじと見つめながら、柚葉が率直に訊ねた。でも荒川は苦笑しながら首を左右に振る。
「神社でいただくお守りなどは、中を見ると効力がなくなると聞いたことはありませんか? こういう類いのモノは中身を知れば、それだけで効果がなくなるんですよ。ですから知ってはいけません。それからこの箱も決して開けてはいけません」
「……そういうものですか」
「えぇ、そういうものなんです」
荒川からにこやかにそう言われてしまうと、柚葉としてはうなずくしかなかった。
「それではお宅の敷地の中で、この鎮め物を埋められる場所に案内してもらえますか?」
それは前もって決めておいて欲しいと、あらかじめ荒川に言われていたことだ。今どきの家だけあって、柚葉の家の敷地はほとんどコンクリートで舗装されている。そんな中で何かを埋められる場所があるとすれば、道路との境目に作られた花壇だけだった。
出産して生活が落ち着いてから何かを植えようと思っていた、でもまだ何も植えてはいない、地面が剝き出しの花壇にまで荒川を連れていく。
花壇を前に、荒川は持参した移植ごてで地面を掘り始めた。すぐにぽっかりと大きな穴が空いてその中に白木の箱を置くと、今度は逆の手順でもって土を箱の上へと被せていく。時間にして五分とかからず、鎮め物を埋める作業はあっさりと終わった。
「それでは最後に埋めた鎮め物の上を、斉藤さんが跨いでくれますか? それをもって儀式は完了です」
柚葉はこの手のことはわからない。わからないが、でも荒川の指示だ。柚葉は言われるがまま、埋め直して土の色が変わっている花壇の上を大きく跨いだ。
瞬間――ぶわりと地面の下から風が吹いたような気がした。
それぐらいの勢いで、爪先から旋毛にまで一気に悪寒が駆け抜けた。
「……なに、これ」
跨いでから、僅かに放心してしまう。
なんだろう……何か取り返しがつかないことをしてしまったような、そんな気がした。とてもおぞましい何かが憎しみをもって自分を睨みつけたかのような、そんな恐怖を柚葉は感じたのだ。
「その様子からして、どうやら成功のようですね」
「成功?」
「えぇ、そうですよ。魔をもって魔を制す、なんて昔から言うでしょ? 怖いものを押さえて鎮めるようなモノには、ときに怖い面も必要なんですよ。ですから絶対に、さきほど埋めた鎮め物の箱を掘り返してはいけませんよ」
荒川は笑顔でそう言う。柚葉としては言われるまでもないことだった。むしろ頼まれたって、さっきのような悪寒を感じるモノを掘り返すのは御免だった。水子たちのせいでただでさえ身の毛がよだつ日々なのだ。これ以上、怖いモノと関わりたくなんてない。
「だいじょうぶです。これでもう今夜から安心して眠れますから」
そして最後に「もしもまた何か困ったことが起きたら、連絡をください」とだけ言い残し、荒川は去っていった。
その晩は、荒川の言葉通りに柚葉はひさしぶりにぐっすりと眠ることができた。
昼間の儀式のせいで疲れていたこともあったのかもしれない。でもそれを差し引いたって、しばらくぶりに深く静かに眠ることができたのだ。
翌朝、目を覚ました柚葉は夫を起こさぬよう静かに寝室を出ると、一人でリビングに降りた。そして例の出窓のカーテンを怖々と開けてみた。
昨日までは朝になると泥に塗れた赤ん坊の手形がついていた窓ガラスだが、しかし今日は汚れ一つない綺麗な状態のままだったのだ。
透明な窓ガラス越しに、日の光がリビングを明るく照らす。
それは翌日も、そのまた翌日も同じだった。
だからこれまでは閉めきっていたカーテンを、隣家に人がいなそうな時間を見計らって柚葉は開けることにした。
たったそれだけで、家全体の雰囲気ががらりと変わった気がした。
夫とも喧嘩をしなくなった。自分の話をいっさい聞いてくれず、あれほど苛立たしかった夫の態度が変わったのだ。ひょっとしたらその理由は、柚葉の表情が和らいだからかもしれない。人と人の関係は鏡と似たようなものだ。これまで赤ん坊の手形に悩まされていた柚葉の態度が元に戻ったからこそ、夫も元に戻ったのかもしれない。
そう考えると、全ては荒川のおかげだった。荒川がこの土地に跋扈する水子たちを鎮めてくれたから、柚葉の心は安らかになったのだ。
産婦人科での健診の結果も悪くはなかった。医者はまだまだ安静にと言うが、柚葉としてはじっとしていられないほどに、浮かれた気持ちになった。
確かに三〇万は痛手だが、それでもお腹の子の命を考えれば安すぎたぐらいだろう。
全ては、荒川のおかげだった。
荒川がこの家を訪ねてくれたから、柚葉とお腹の子は救われたのだ。
――一週間後に夢を見るまでは、柚葉はそう思っていた。
6
それは、嬰児の夢だった。
まさに産まれた直後らしく目は閉じたままの、肉片らしき塊が混じったドロドロとした血に塗れたままの裸の嬰児だった。
それが寝室の布団で横になる柚葉の、大きなお腹の上に乗っていた。
柚葉の身体は動かない。金縛りだ。目玉だけはどうにか動かすことができるが、でもあまりの嬰児のおぞましさに視線は自らのお腹の上から離せなかった。
嬰児が血濡れた小さな手を前に突き出し、柚葉の腹の上を這う。皺の寄った猿めいた顔が徐々に自分の顔に近づいてくる様に、柚葉は悲鳴を上げてしまいそうになるが、金縛りにあった喉からは呻き声しか出ない。
やがて両の乳房の上にまでやってきた嬰児が、パクリと口を開けた。その口はあまりに大きくて、身を濡らす血と同じ色をした赤黒い口腔が顔の半分を占めている。
柚葉の視線が否応なくその口腔の中に吸い込まれると、
「イギャーッ! イギャーッ! イギャーッ!」
金属を擦り合わせたような硬質な泣き声が、嬰児の口から噴き出てきた。
その声はまるで威嚇をする獣のごとく敵意に満ちていて、柚葉はどうにか身を捩って逃げようとするも、やはり身体は動かない。
柚葉が動けないことをいいことに、嬰児は泣き声を上げながら柚葉の胸からさらに上へと、頭の方に近づいてくる。
柚葉の視界の中で、徐々に大きくなっていく嬰児の口腔。鼓膜を通して柚葉の頭の中に侵入してくる泣き声に、柚葉の奥歯がガチガチと震えて勝手に音を鳴らし始める。
――いやだ、もういやだ!
できるものなら恐怖に身を任せて意識を失いたいと思うがその願いは叶わず、柚葉は嬰児の顔からいっさい視線を逸らせない。
やがて柚葉の顔を覗き込める距離へと迫った嬰児は、これまで閉じたままだった両の瞼をゆっくりと開けた。
瞬間、柚葉の呼吸が喉の途中で止まった。
嬰児の目の中は空っぽだった。洞穴のように、ただ闇が詰まっていただけだった。
「イギャーッ! イギャーッ! イギャッ――――ッ!!」
泣き声は止まらない。むしろその音量はさらに上がり、がらんどうの目に睨まれたまま正気を失いそうになったところで――。
柚葉は、布団の中でようやく目を覚ました。
がばりという音がしそうな勢いで半身を起こし、掛け布団をすぐさまはね除ける。
でも柚葉の大きくなったお腹の上に血塗れの嬰児などいない。汗でいくらか寝間着が濡れているものの、血塗れの嬰児が這えば当然つくはずの汚れもいっさいなかった。
強張っていた肩がすとんと落ち、柚葉が大きなため息を吐いた。
「……なんて、夢」
そう口にしながらも、自分で口にした夢という語に柚葉はどこか半信半疑だった。
それぐらい、今見た夢はあまりにも生々しかったのだ。
夫は隣の布団でいまだに寝息を立てており、今の時刻はまだ六時前でいつもの起床時間よりも三〇分は早い。
とはいえとても二度寝する気にはなれなかった柚葉は、そのまま起き上がった。いよいよ重くなってきたお腹に手を添え階段を降り、朝食の用意のためリビングへと入る。
起き出しても、まださっき見た夢への恐怖は消えない。だから気分を変えるべく、隙間から朝日が差し込んでいるリビングの出窓のカーテンを一気に開け放った。
途端に――カーテンを開けたままの姿勢で柚葉の動きが止まる。
「…………うそ、でしょ?」
荒川のおかげで消えたはずの怪異、確かに収まってくれた霊現象。
――それなのに。
柚葉が勢いよく開け放った出窓のカーテンの向こう側には以前と同じか、あるいはそれ以上のおびただしい数の、泥に塗れた赤ん坊の手形がついていた。
その日を境に、怪異がぶり返した。
出窓の窓ガラスには再び水子の手形がつくようになり、しかも前より数が増えているのだ。以前からびっしりついているとは思っていたが、今は隙間などなくなるほどに増えて、まるで集まってくる水子の数が増したかのように見える。
三沼の態度もさらに悪化した。柚葉の顔を見れば、気まずそうにしてまるで逃げるように自分の家に駆け込んでいく。目の下のクマは前よりも悪くなっており、それだけで眠ることができないほどの夜泣きが、まだ聞こえているのだろうと想像できた。
嬰児の夢は、あれから毎夜見続けていた。夢の内容はいつも同じで、目を覚ましても決まって夢か現か悩むほどに、凄まじい生々しさに悩まされるのだ。
さらにはその夢を見始めてからというもの、急激にお腹が重くなった。体重計に乗っても指す針の位置はまるで変わっていないのに、でもやたらお腹が重いのだ。まるでもう一人、視えない赤ん坊が自分のお腹に張りついているかのようにずしりとしている。
結局のところ、柚葉が再び荒川に連絡を入れるまで、鎮め物を埋めてもらってから二週間とかからなかった。
『――なるほど。どうやら私が思っていたより、はるかに業の深い土地のようですね』
「なんというか前よりも手形の数が多くなって、水子の数も増している気がするんです」
『それは、抵抗ですよ』
「抵抗?」
『えぇ。一度は抑え込んだ水子たちが、鎮め物の力に抗うために激しく暴れ回っている証拠です。毎晩見るというその夢が、特にいけません。その夢を見続けるようであれば、本当に水子たちにお子さんをとられてしまいかねない。お腹が重いというのは、水子がいよいよお子さんにまで手を出そうとしているということです』
夢で見るおどろおどろしい嬰児の姿が柚葉の脳裏に浮かび、同時にキュッと子宮が縮むような感覚が下腹に走った。
その感覚には覚えがあった。切迫早産と診断された際に感じた痛みとそっくりだった。
「荒川さん! どうにかもう一度助けていただけないでしょうか」
『……手はありますよ』
「ほんとですか?」
『はい。前に埋めた鎮め物でダメだったのであれば、より強力な鎮め物で対抗すればいいのです。水子たちも抵抗できないほどに圧倒的に強く、比較にならないほど霊験の高い鎮め物を使えば、その家は今度こそ必ず人が住める家となります』
そう断言した荒川だが、しかし柚葉は力強い言葉の内容とは別の不安を抱いていた。
「あの……その比較にならないほどに強力な鎮め物というのは、やはり前のものと同じぐらいのお金がかかるのでしょうか?」
夫に黙って三〇万の貯金を下ろしてきたとき、口座にはもうほとんど残額はなかった。仮に三〇万をもう一度払って欲しいと言われたって、ない袖は振りようがない。
だから電話口の荒川が『いいえ』という声を発するなり、柚葉は安堵のため息をもらしたのだが――、
『同じくらいではありません。より強い鎮め物を用意するには五〇〇万ほどかかります』
荒川の言葉に、柚葉は思わずスマホを取り落としそうになった。
「えっ……えぇっ!! ご、五〇〇万ですかっ!?」
『戸惑われるのはわかりますよ。ですが前と同じような霊験の鎮め物では短い間しか効かないことは、斉藤さんも身をもってご理解されたはずです。その土地の業は、あまりに深過ぎるのです。その家に住もうとする限り、規格外に強力な力でもって水子たちを鎮めなければ、何度だって川の底から這い出てきますよ』
荒川の言葉に、柚葉がごくりと喉を鳴らした。
「それはわかりますが、さすがに五〇〇万なんてお金はどうにも……」
『斉藤さん……これでも、本来なら一〇〇〇万はかかるだろうものを用意しようと思っているのです。私だって一度とりかかった以上は、半端な仕事をしたくありません。ですのでなんとか妥協できるギリギリの額で申し上げています。それもこれも新しい家を購入されたばかりで、引っ越すのが難しいだろう斉藤さんのご事情を斟酌してのことですよ。残念ながらこの額は、今後もその家で暮らしていこうとする限り、どうしても必要な金額です』
「少し……考えさせていただけませんか?」
『えぇ、もちろんいいですよ。ですが……水子たちはお腹のお子さんを狙っています。お腹の子のためにもなるべく早めにご決断されることを、お勧めします』
荒川との通話を切るなり、柚葉は足の力が抜けてフローリングの床の上にへたり込んでしまった。お腹の奥がズキズキと痛む。
「……どうしてよ。どうしてこんなことになるわけ?」
宙に向かって、柚葉が問いかけた。
問いかけてはみたものの――でも本当は、理由なんてわかっていた。
それは、この家が安かったからだ。
安いからには、やはりそれなりの理由があったのだ。
ここら付近の似た築年数の家の平均的な相場と比べて、この家は五〇〇万も安かった。
そして荒川から提示された金額もまた、同じく五〇〇万だった。
この家を見つけたとき、安いなんて浮かれていた自分がバカだったのだ。
安いなら安いで、もっといろいろと疑ってかかるべきだったのだ。
けれども、もう遅い。柚葉と夫は既に人生を左右する買い物を終えている。
柚葉が提案してわがままを言ったから、もう終えてしまった。
――でも。
だからこそ、荒川と出会えたのは幸運だったとも考えられるのではないか。
相場の差額と同じ五〇〇万を払いさえすれば、この家はこれからも住んでいくことのできる普通の家となる。荒川がそうしてくれる。
だったら、それでトントンだ。
本来なら不動産会社に払わなければいけなかったものを、単に荒川へと支払うだけのことに過ぎない。
だから――一晩悩んだ末に、柚葉は隣街にまで出ることにした。
車は今日も通勤で夫が使っているため、移動はバスだった。奇しくも三〇万を下ろしに銀行に出向いたときと同じ時刻のバスだった。
お腹の奥に違和感があるが、今はあえて気にしないようにした。なぜならこのお腹の中の子を水子たちが狙っているからだ。今は医療の力に頼るよりも、荒川の言うように急いで新しい鎮め物を用意することがこの子を守ることに繫がるだろう。
市街地でバスを降り、お腹を両手で支えつつ柚葉が向かったのは駅前の都市銀行だった。とはいえ三〇万ですらあれほど悩んだ柚葉の口座に、五〇〇万もの大金なんてあろうはずもない。
だから今日、柚葉が銀行に向かう理由はお金を下ろすためではなかった。
あの家を担保に五〇〇万を個人融資してもらえないか、その相談のために柚葉は銀行を訪れようとしていた。
もちろん夫にはまったく相談していない。反対されるのが明らかだからだ。
ゆえに融資してもらえることになっても、夫には秘密のまま借りるしかなかった。
……払えるだろうか。
毎月の家のローンもあるのに、そこから夫にバレないように五〇〇万もの借金を少しずつ返済していくなんて、本当にできるのだろうか。
もしも返せなくなったらどうなるのか。家は、間違いなく失うだろう。それから夫も、きっと失う。それはこれから産まれてくるこの子を交えての、幸せな家族での生活を全て失うということと同義だった。
それを想像するだけで、柚葉の足は竦んでしまった。
銀行の名前が書かれた自動ドアに怖じ気づき、銀行前の歩道の端に置かれたベンチに座ると、そのまま動けなくなってしまった。
――今日のところは、とりあえず帰ろうか。
そんな弱い考えが、心の中でムクムクと頭をもたげてくる。
でも、そうはいかない。手ぶらで家に帰っても、何も事態は変わらない。
お腹の奥にあった違和感が、少しずつ痛みに変わっていく。
さらに今日は、ことさらお腹が重かった。
……荒川の言うように、やはり狙っているのだろう。このお腹の子を仲間にするために、出窓ではなく自分のお腹に張りついて、水子が子宮の中を覗き込もうとしているのかもしれない。だからこそ手遅れとなる前に、荒川にあの土地の水子たちを鎮めてもらわなければならないのだ。
一時間か二時間か、はたまたもっとか。銀行の前のベンチでずっと座ったままだった柚葉が、ようやく決断した。
――借金で全てを失おうが、それでもこの子の命は残る。
その思いだけを頭に充満させて、柚葉が銀行の自動ドアの前へと立つ。
だが――自動ドアは開かなかった。
それどころか、いつのまにか自動ドアと柚葉の間に黒い壁が聳えていた。
正面を向いた柚葉の視界が真っ黒に染まり、自然と「えっ?」と声が出る。よく見たら、黒いそれは壁ではなかった。細身の柚葉より三回りも四回りも大きな肩幅をした、見上げるほどに背の高い、真っ黒なシングルスーツを着た男性だったのだ。
間違いない。この男は柚葉が家の周りをうろついていた、あの大男だった。
遠目から家の出窓を眺めては目が合うとすぐ消えてしまう、向かいの住人たちに柚葉の家が建つ土地が元はなんだったのかを訊いてきた、不気味で不穏な黒い男だった。
いきなりの遭遇に柚葉が息を吞んで動きを止めていると、しかめ面をした大男が柚葉を見下ろしながら口を開いた。
「斉藤柚葉さん、失礼ながら今朝方からあなたを尾行しておりました。突然で驚いているでしょうが、でもこれ以上被害が拡大するのを見過ごせません。もしも高額の除霊料をふっかけられて銀行からの融資をお考えであれば、おやめになったほうがいい」
見た目通りの野太い声ながら、でも意外なほどに丁寧な口調の言葉が降ってきた。
しかし、あまりのことに柚葉の頭はまったく理解が追いつかない。
――尾行? 被害? この黒ずくめの大男は何を言っているのだろうか。
そもそもこの人は何者なのか。まるで自分のことを心配しているような口ぶりだが、家の周囲をうろつくこの男のせいで柚葉の不安が助長されていたことは間違いないのだ。
「……あなたは、誰ですか?」
勇気を出してそう問いかけるなり大男が首を前に傾けて、ずいと柚葉に顔を寄せた。刈り込んだ短髪に眼光鋭い目、顔の輪郭は面長なのだが、あまりに厳めしい雰囲気過ぎて長方形のように見えた。
怯えて再び黙ってしまった柚葉に対し、大男が上から告げる。
「荒川真如――こと、本名荒川初枝には詐欺の嫌疑がかかっています」
「…………えっ?」
「あなたは荒川が仕掛けた劇場型の霊能詐欺に騙されている可能性が高いと、自分たちはそう心配しているのです」
――詐欺? 劇場型の霊能詐欺って、いったいどういうこと?
そもそも水子たちによる祟りは、荒川と出会う前から起きていた。それを一目で当てた荒川は、一度は水子たちを鎮めることに成功したのだ。
だから荒川の霊能力は本物だ。詐欺であろうはずがない。
噓ですっ! ――柚葉がそう叫ぼうとした瞬間、腹部に急激な重みが生じた。
それは嬰児の夢を見て以降、ずっと自分の腹に張りついている気がする別の赤ん坊が、突然鉄にでもなったかのような、そんな劇的な感覚だった。柚葉の膝が耐え切れずに、舗装された固い歩道の上で崩れ落ちそうになる。
でもすんでのところでもって、柚葉の両肩を大男が支えてくれた。
「だいじょうぶですかっ!?」
そういえば図書館でも似たようなことがあった――なんて場違いなことを柚葉が思った直後、まるでパンッと水風船が割れたかのように腹部の重みが弾けて、霧散した。
いきなりの感覚の変化に驚く柚葉だが、しかし動転しているような間はなかった。
何者かの手が子宮を押し潰そうとするかのような、前に救急車で運ばれたときと同じ猛烈な痛みが、下腹部から襲ってきたのだ。獣じみた「うぅ」という呻きだけを出して、その場に柚葉が蹲る。
ぶわっと脂汗が吹き出てきた柚葉の顔つきを見て、大男の血相が変わった。
「いけないっ! しっかりしてください、いま救急車を呼びますから」
すぐさまスマホを取り出し、大男が送話口に向かって何かを叫んだ。
目の前の大男の叫び声をまるで遠くの出来事のように聞きながら、柚葉は下腹に両手を添え「……まだ出てきちゃダメ」と必死に訴えていた。
7
「柚葉っ!」
顔色の青い夫が病室に駆け込んできたとき、柚葉はベッドで半身を起こしていた。
――病院に運ばれた柚葉に下った診断は、またしても切迫早産だった。
同じ月に二度も救急車で運ばれたこともあって、医者からは「とにかく安静に」とかなりきつく言われ、精密検査も兼ねてそのまま入院することになったのだ。
張り止めが効いてきたおかげもあって、普段とほとんど変わらない顔色をした妻を前に夫が安堵のため息を吐いた。
「前に運ばれたときも、なるべく安静にするようにって言われたんだろ? それがどうして隣の市の駅前にいたんだよ。頼むから今は身体を大事にしてくれ」
夫は今日は都内にまで出張の予定で、帰りは遅くなるはずだった。それなのに柚葉が病院に運ばれてから僅か二時間で来たということは、出張先から病院まで急いできたということだ。最近は喧嘩ばかりしているが、こうして仕事を放ってまで駆け付けてくれたことが柚葉は少しだけ嬉しかった。
でも同時に、胸が裂けそうなほどの申し訳なさも感じた。
「……ごめんなさい」
安静を言われている柚葉が出掛けた理由は、夫に内緒で借金しようとしたからなのだ。
それを言えぬ柚葉が目を伏せたところ、病室のスライドドアがすーっと開いた。
同時に「失礼」という声とともに室内に入ってきたのは、頭が天井に届くのではないかと錯覚しそうなほどに大きな黒スーツの男だった。
いきなり病室に入ってきた仏頂面の見知らぬ男性に仰天して、夫が柚葉を庇うかのように男の前に立つ。
「……し、失礼ですが、どちら様でしょうか?」
その夫の問いに答えたのは、当の大男ではなく背後にいる柚葉だった。
「あっ! 違うの……その人は私が倒れたとき近くにいてくれて、救急車を呼んで付き添ってくださった人なの」
そう聞いた途端、大男の威容に気圧されていた夫がばつの悪そうな顔をした。
「そうでしたか。そうとは知らず、この度は妻が大変お世話になりました」
慌てて頭を下げた夫に対し、大男が首を左右に振った。
「いえいえ、まったく礼には及びませんよ」
おそらく見舞いの品なのだろう。今しがた病院の売店で買ってきたらしいペットボトルが何本も詰まったビニール袋をサイドテーブルに置きつつ、大男が苦笑する。
「あのときあの場所に私がいたのは、奥様である柚葉さんを尾行させてもらっていたためなのですから」
いきなりとんでもないことを口にした大男に、夫が言葉を失う。倒れる前にそんなことを言っていた気もするが、柚葉もあらためて正面切って言われ押し黙ってしまう。
「実を申しますと、私はこういうものでして」
二昔前の刑事ドラマそのものな台詞を口にしつつ、男がスーツの懐から取り出したのは警察手帳だった。上下に開いたパスケース型の手帳の上部には、目の前の厳めしい顔と同じ顔の写真が確かに貼られ、下部の警察を示す記章には『警視庁』の文字が書かれている。
「警視庁の生活安全部で警部補をしている、大庭猛と申します」
無言のまま夫の目が飛び出んばかりに見開くが、だがそれ以上に仰天していたのは柚葉の方だった。
黒い大男――あらため大庭を、柚葉はこれまでたびたび家の付近で目撃していた。自分の家の出窓を凝視する不穏な気配の大男を、柚葉は赤ん坊の手形や泣き声などと同列の怪異の一種のようにさえ感じていたのだ。
それがまさか、あの黒い大男が警察官であったとは。
「茨城県警でもない警視庁の刑事さんが、どうして妻の尾行なんて」
柚葉よりもやや衝撃が少なかった夫が、当然の疑問を口にした。
「ご安心ください。別に柚葉さんに嫌疑がかかっているわけではありません。自分が調べているのは、既に柚葉さんと接触をしていると思われる荒川初枝という人物です」
荒川の名前に、柚葉の顔から血の気が失せた。
一方で、まるで話のわからない夫は、狐につままれたような顔で首を傾げる。
「実は、あなた方が現在お住まいであるお宅が、既に三度も所有者が変わっているということはご存じですか? 築一年のあの家に住むのは、あなた方で四番目なんです」
「よ、四番目っ!?」
夫は驚いて声を上げるも、知っていた柚葉は黙ったまま目を泳がせる。
「そうです。調べてみると前に住まわれていたどの方もローンでもってあの家を購入されているのに、その全員ともが僅か三ヵ月ばかりで家を売りに出し、引っ越されている。これがどれほど異常なことかは、説明するまでもありませんよね。
そしてどの家族が住んでいたときにも、あの家には荒川真如という霊能者を自称する人物が出入りしていたことが自分らの捜査からわかっています」
話がさっぱりわからない夫が「その荒川というのは……」と口にする。
でもその直後に、うつむいた柚葉が大庭と目を合わせぬままで声を発した。
「……荒川さんの霊能力は本物です。胸騒ぎがしたから家の前を通り、そうしたら水子たちの泣き声が聞こえたからって、心配してうちを訪ねてくれたんです」
何も知らない夫が目を皿のようにして柚葉の顔を見る一方で、大庭が口を開いた。
「残念ながらそのようなことはありえません。胸騒ぎなんてのは荒川の舌先三寸でしょうし、そもそも柚葉さんは水子の泣き声とやらを自分で聞いたことがありますか?」
「……確かに、私は水子の泣き声を聞いたことはありません。でも荒川さんだけじゃなく、隣家に住む三沼さんも水子の泣き声を聞いているんです。三沼さんはうちのほうから聞こえてくる夜泣きの声に夜毎悩まされて、それを本物の赤ちゃんの泣き声だと勘違いし、私に困った目を向けてくるんです。それにあの家で起きている不思議な出来事は、泣き声だけじゃありません。あの家の出窓には、水子たちの手形がつくんです。流され捨てられた水子たちが川の底から這い出てきて、家の中を覗こうと泥に塗れた手で夜な夜な窓の上を這い回るんです。その霊現象を荒川さんは、鎮めてくれたんですよ!」
最後は声を荒らげて吐き捨てた柚葉の様子に、驚いたのは大庭ではなく夫だった。どこか怖い目つきをした柚葉を、信じられないものでも見たように見つめる。
「そのことなんですがね……実はお宅の隣家に住む三沼秋穂には、荒川の共犯者の疑いがあります。三沼は荒川と共謀し、水子に祟られているとあなたに思い込ませるために、赤ん坊の泣き声の偽証や手形の怪異の偽装を行っていた可能性が高いと考えています」
あまりに予想外だった大庭の返答に、柚葉が口を開けたまま固まる。
――三沼が、荒川の共犯者?
「正直申しまして、柚葉さんが荒川を庇いたい気持ちは理解できなくもありません。荒川のおかげで助かったと、きっとそう思われたことでしょう。ですがあなたを苦しめていた怪異が、荒川の指示で三沼が仕組んでいたものだったとしたら、どう思いますか? 偽の怪異であなたを追い詰めるだけ追い詰め、精神的に参ったタイミングでやってきて、助けるふりをして金を奪い取ろうとした相手に、本当に感謝する気になれますか?」
大庭の言葉に柚葉は深くうな垂れるも、しばし逡巡してから口を開いた。
「……それでも誰も理解をしてくれず本当に苦しかったとき、私の悩みを聞いてくれたのは荒川さんなんです。何を言っても夫からは相手にしてもらえなかったのに、荒川さんだけは私の話を信じてくれて『がんばりましたね』とまで言ってくれたんです」
今度、目を伏せたのは夫だった。柚葉の話に心当たりが山ほどあるのだろう。柚葉の思いを知った夫は、ショックを受けた表情でもって自らの唇を嚙んだ。
「なるほど、柚葉さんの思いはよくわかりました。確かに、自分が性急過ぎたと思います。であれば今日のところは、自分からの話はここまでとしましょう」
腕を組んだ大庭が、瞑目しながら深くうなずく。威圧感のある大庭の話が終わるということに、夫も柚葉も少しだけ安堵する――も。
「ですがお身体の具合がよろしくないときに難しい話をしてしまったお詫びとし、水子の霊に悩まされている柚葉さんに、除霊ができる人物を一人ご紹介させてください」
驚いた柚葉が伏せた顔を上げたとき、大庭はもう手にしたスマホからメッセージを送信したあとだった。
直後、柚葉が「あっ!?」という廊下にまで響きそうな大声を上げる。
その人物はたぶん廊下で待機していたのだろう。メッセージを送った大庭がスマホをしまうよりも早く、病室のドアをスライドさせてその人は室内に入ってきていた。
その人の顔は、柚葉が見知ったものだった。見知っているとはいえ知り合いではない。それ以前の関係で、むしろどうすれば再会できるかとさえ考えていた相手だった。
「はじめまして――ではありませんね。柚葉さんとお会いするのはこれで二度目です。大庭と同じく警視庁生活安全部に所属する芦屋玲璽と申します」
芦屋と名乗ったその男性は、いつぞやの図書館にて貧血で倒れた柚葉を介抱してくれた、あの男性だったのだ。
白い患者衣を纏いベッドの上で上半身をもたげる柚葉を目にし、芦屋が困ったように苦笑した。
「……だから『気にしないのが一番です』と、そう申したんですよ」
前に助けてもらった柚葉としては、芦屋の忠告を聞けず申し訳ないと思う。でも一方で、あれだけ激しい水子たちの祟りを気にしないなんて無理な話だとも思った。
「ですが……これはさすがに仕方ありませんね。どうやら全部が全部とも噓とは言えなくなってしまったようですし」
ベッドの傍らに立った芦屋が目を細め、布団の上から柚葉のお腹の辺りを見据えた。
わけのわからない柚葉が「はぁ」と間の抜けた声で応じた。
「こいつは自分と同じ警察官なのですが、まあ変わり種でして。さきほど申したように除霊の真似事ができるんですよ」
「なに言ってんだよ、除霊なんて胡散臭いことはできないよ。僕にできるのは撫物さ」
「普通の人からすればどっちも変わらん。いいから、やれ」
難しい顔で眉間に皺を寄せた大庭に対し、芦屋が「はいはい」と、飄々と肩を窄めた。
柚葉と向き直った芦屋は手近な椅子に座り、あらためて柚葉のお腹の上に目を向ける。
「……これは、大変だったでしょう」
「えっ?」
「ここしばらくずっと、お腹が重かったんじゃないですか?」
「……はい、そうです。確かに重かったです」
「そうですよね。まるでもう一人赤ん坊がお腹に乗っているような、そんな感覚ではなかったですか?」
荒川以外には誰にも話していなかったことを看破され、柚葉が目を見開いた。
「今はどうですか?」
「今は、だいじょうぶです。病院に着く前からずいぶんと軽くなりました」
「そうですか。ならよかった」
優しげな面持ちで芦屋はそう言うと、Tシャツの上に羽織ったジャケットの内ポケットから何かを取り出した。
それは和紙だった。和紙で怖い体験をした柚葉はギョッとなるも、でもそれは自分の頭上に落ちてきた和紙とは違うと、すぐに気がついた。芦屋が取り出した和紙は人の形に切り抜かれ、しかも人形の胸の辺りには星形のマークが書かれていたのだ。
「これを使って、今から柚葉さんに憑いた水子を祓ってさしあげますからね」
「あの……さっき大庭さんもそれらしいことを言ってましたが、芦屋さんは霊能者なんですか?」
その問いに芦屋は僅かに驚いた表情を浮かべるも、それはすぐに悪戯めいた表情に変わり、人差し指を自分の口に添えながら柚葉の耳の近くで囁いた。
「これは誰にも内緒ですよ。僕はね、陰陽師なんですよ」
そのあざとすぎる芦屋の仕草がなんだか妙に可愛くて、本当なら驚くべきところなのだろうが柚葉はくすりと笑ってしまった。
「ですから安心してください。霊能者になんて負けません。今から柚葉さんを苦しめて苛んできた水子たちを、みんなこの人形に封じ込めて楽にしてあげますからね」
芦屋はそう言うと、隣にいた夫に向かって手にしていた紙の人形を差し出した。
「服の上からでいいので、これで柚葉さんのお腹を優しく撫でてあげてください」
いきなり話を振られて驚く夫だが、空気を読んでか静かにうなずいた。それから人形を受け取り、どことなく怖々とした動きでもって患者衣の上から柚葉の腹を撫で始める。
すると――なぜだろうか。あれほど辛かったお腹の張りが、夫が一撫でするごとに和らいでいく気がした。普通に考えれば張り止めの薬が効いてきたからということなのだろうが、でもそれだけが理由ではないように柚葉には思えて仕方がなかった。
「水子たちの祟りに脅かされた日々は、さぞストレスだったでしょう。そういう不安は家の中に充満し、仲の良い人同士の間にさえ不和を呼び起こす。だから安心してください。こうして旦那さんが柚葉さんのお腹を撫でて、外からやって来る水子を封じてさえくれたら、それだけでもう全てがうまくいきますからね」
「そうですか……夫と喧嘩して辛かったのも祟りのせい、だったんですね……」
柚葉の目と顔つきが急にトロンとなり、口調がたどたどしくなった。張り止めの薬を飲んでいるので本来なら動悸や頭痛がするはずなのに、そんな副作用などまるで感じさせない穏やかな表情を浮かべたまま、柚葉がコクリコクリと舟を漕ぎ始める。
それほどまでに、気を張り詰めていたのだろう。それが傍目にもはっきりとわかるからこそ、無言で妻のお腹を撫でていた夫は身を小さくしながらただ唇を嚙んだ。
「えぇ、だから安心してください。この人形で祟りを鎮めれば、それでもう夫婦喧嘩なんてしなくなりますよ。旦那さんには同じ人形を何枚も渡しておきますからね。だからもし苛々したり悲しくなったりしたときは、二人のお子さんがいるこのお腹をこうして優しく撫でてもらってください。それだけできっと万事うまくいくはずですから」
「……ありがとうございます。それで……除霊料は、おいくらでしょうか?」
もはや目を開けることすら辛そうな柚葉が、ぼんやりした意識で口にする。本当に苦しめられているからこそ、夢現でも自然と出てきてしまったのだろうその問いに、芦屋が僅かに笑みを強張らせた。
「だいじょうぶですよ、そんなものは要りませんから」
「こういったことは……お高い、はずです……」
「でしたらこれはお詫びということにしましょう。銀行前で大庭と会ったのが偶然でないように、図書館で僕と会ったのも偶然ではなく捜査で尾行していたからです。そんな失礼なことをしたことに対しての、これはせめてものお詫びですよ」
柚葉が「……ですが」と困った声を出すも、そこが限界だった。それきりベッドの背もたれに上半身を預けて、首を傾けた状態でもって寝てしまった。
「――もう手を止めてもらって、だいじょうぶですよ」
芦屋に言われて、静かな寝息を立て始めた柚葉のお腹から、紙の人形を握っていた手を夫が離した。妻の様子から、切迫早産の原因だろうストレスの要因が自分にもあると悟り、夫が無言で肩を落とした。
そんな夫に、芦屋がさっき使ったものと同じ人形を数枚差し出す。
「もし柚葉さんがまた不安がり出したときは、今と同じように『悪いものはこれに移す』といってこの人形を使ってお腹を撫でてあげてください。そのとき肝要なのはどれほど柚葉さんが苛立っていようとも、旦那さんが穏やかで落ち着いた気持ちで語りかけてあげることですよ。ただでさえ普段と違う身体の状態に、柚葉さんは戸惑っているんです。せめて外からかかるストレスは、できる限り取り除いてあげてください」
「……はい」
人形を受け取りながら殊勝に頭を下げた夫の様子に、芦屋が満足そうにうなずいた。
二人のやりとりが終わるなり、大庭が口を開く。
「さて、大変なときに長々とお話をしてしまい、申し訳ありませんでした。自分たちはこれでいったん退室しますが、柚葉さんが目を覚まされたらよくよくご家庭のことを話し合ってみてください」
「……おっしゃるとおりですね。一度、柚葉の話をよく聞いてみます」
「おそらく柚葉さんのお話の中には、荒川真如という名の霊能者が出てくるはずです。その人物を自分たちは詐欺師と考えています。柚葉さんとお話をされた上で、どうか捜査へのご協力をいただけるとありがたいです」
大庭から差し出された名刺を、夫が人形を握ったままの手で受け取った。
そのまま踵を返して病室を出ていく二人に向けて、夫が再び頭を下げた。
8
「馬鹿野郎っ! おまえなんでわざわざ陰陽師と名乗ったっ!」
病院の駐車場に停めておいたセダン車に乗り込むなり、大庭が芦屋を怒鳴りつける。
ちなみに助手席が大庭で、運転席が芦屋だ。きっちりシートベルトを締めて助手席で腕を組む大庭の頭は天井スレスレで、やたら窮屈そうに見えた。
「別にいいじゃないか。ああ言ったら、柚葉さんはいっそう安心できるだろ?」
「だからって、ほいほいと前職の名を出す必要はあるまい」
「前職じゃなくて、僕は今でも陰陽師が本職だよ。警視庁には、宮内庁からの要請で出向しているだけなんだからさ」
「だとしてもだ! 内密な情報をおいそれと参考人に明かすな!」
鼻息荒く捲し立てる大庭を、芦屋が肩を窄めて「はいはい」と面倒臭そうにいなした。
「というか、大庭よ。それはそれとしておまえ、柚葉さんの身体に触れただろ」
「目の前で倒れそうになった妊婦を支えんわけにはいかんだろうが。破廉恥ながらも、手で肩を支えさせてもらった。水子のことで悩んでいるとは思っていたが、まさか倒れるほどに神経をやられているとはさすがに想像以上だったがな」
「はたして倒れたのは、本当に水子が原因か? 案外に祟りへのストレスじゃなく、突然に飛び出てきた大庭のおっかない顔に驚いて気が遠くなったってことはないか?」
「そんなことあるか! 失敬な」
腕を組んだまま、大庭が眉間に皺の寄った厳めしい顔でギロリと芦屋を睨みつける。たいがいの者はそれだけで震え上がるほどの迫力なのだが、芦屋は大庭を嘲笑うように涼しい表情で鼻を鳴らすだけだった。
「戯言はもういい。いいから――おまえが視たところ、どうだったのかを教えろ」
「説明する必要があるからこそ、おまえが柚葉さんに触れたことを責めているんだよ。まったく視にくいったらありゃしない。でも――当たりだろうね。大庭が触れたから綺麗に散っているけれど、嬰児の形をしたモノがお腹にぶら下がっていた痕跡は残っているよ。相当、重くて怖かっただろうね。あれは以前に図書館で会ったときには、間違いなくなかったモノだ」
「だとしたら、荒川はやっぱりクロということだな」
「まあ資料映像で見た昔の様子と違って、今はもうたいした力はないと思うけどね」
芦屋のあっさりとした物言いとは対照的に、大庭は眉間に浮かべた皺を深めた。
「それで、これからどうする気だい? 捜査の結果、もしも荒川がただの詐欺師だったら捜査二課に引き継ぐという話だったと思うけど」
「荒川がクロ――本物の呪詛を使った容疑が高いとわかった以上、答えは決まっている。これは間違いなく、自分たちが解決すべき事件だ」
迷いのない大庭の断言に、芦屋も神妙にうなずいた。
「しかしそうは言っても、今回の件は妊婦である柚葉さんとの相性は最悪だ。のんびり通常捜査なんてしていたら、最悪の事態に発展する可能性もあるだろうね。――なんだったら荒川がもう新しい呪詛をかけられないよう、僕から先に仕掛けようか?」
それまでの微笑みとは毛色がまるで違う、陰湿な笑みを芦屋が急に口元に浮かべた。
途端に大庭がカッと目を見開いて、芦屋を睨みつけた。
「よさんかっ! 冗談でもそんなこと言うな、今はおまえも俺と同じ警察官だ!」
ほんの少しだけ芦屋はつまらなそうに苦笑すると、肩を竦めた。
「はいはい。わかってるから、そんなに目くじらたてなさんなって。――とはいえ悠長にできないのは確かだろ。これからどうするつもりだ?」
「案ずるな、令状請求での通常逮捕だけが事件解決の手段ではない。柚葉さんが捜査協力をしてくれるのであれば、ちゃんと別の手もとれる」
腕を組んだ大庭が、口をへの字に結びながらもしたり顔を浮かべる。
大庭に策あり――ならば警察官としては後輩に当たる自分はその指示に従うだけだ。
芦屋はそう思いつつ、車のエンジンをかけた。
9
「隣の斉藤です。――ご心配おかけしましたが、なんとか昨日退院してきました」
午前中のまだ早めの時間に、三沼宅の門柱に付いたインターホンを柚葉が押す。
すると家の中を走る音が聞こえてから、すごい勢いで三沼家の玄関が開いた。
驚いて固まる柚葉の顔とちゃんと大きなままのお腹とを交互に見て、化粧をしたばかりであろう三沼の眦に急に涙が浮かんだ。
「……どうしたんですか?」
「ごめんなさいね。無事に斉藤さんが戻ってきてくれて本当よかったと思って……」
話をしているうちにみるみる三沼の目から涙がこぼれ出し、漏れ出す嗚咽を隠すように口元に手を添えた。
隣人の過剰すぎる反応に戸惑う柚葉だが、でも無事に戻ってきたことを喜んでもらえて悪い気はしない。
三沼が落ち着くまで数分ばかりじっと待ってから、あらためて柚葉も声をかけた。
「……そんなに喜んでもらえるなんて、まるで思ってもいませんでした」
「そんなの当たり前でしょ、お隣同士なんだから。それに――お腹のお子さんが無事で、本当に良かったわ」
また涙ぐむ三沼の笑顔に、柚葉自身もついもらい泣きをしそうになる。
――けれども。
「まだ赤ちゃんの夜泣きは聞こえていますか?」
「えっ?」
ピシリという固まる音がしそうなほどに、三沼の顔が一瞬で凍りついた。
さっきまでの泣き笑いの表情のまま、顔色だけが急速に青くなっていく。
「……どうしたの、突然に」
「前におっしゃっていましたよね、赤ん坊の夜泣きがうちから聞こえてきて辛いって」
「えぇ……そうね」
「ですから私がいない間もその声が聞こえていたのかどうか、気になりまして」
さっきまで潤んでいたはずの三沼の目が、途端に泳ぎ始める。
「……変わらずよ。あい変わらず毎晩、赤ちゃんの夜泣きの声は聞こえていたわ」
「そうですか」
冷淡な声で柚葉がそう返すと、三沼の眦が僅かにひくついた。
「ご、ごめんなさいね。せっかく退院されてきたのだから上がってもらってお茶でもとは思うのだけれども、これから私もパートの時間なの」
「いいえ。こちらこそ急に押しかけてしまって、すみませんでした」
愛想笑いを浮かべて柚葉がそう言うと、三沼はいそいそと自分の家に引っ込み玄関の戸をバタンと閉じた。柚葉も三沼宅の敷地を出て自分の家へと戻る。
途中、三沼宅側の壁にある出窓へと目を向けてみる。泥に塗れた手形はついておらず、出窓に嵌められたガラスは透明のままだった。
自分が入院中に夫が洗ってくれていたわけではない。消しても消しても翌朝にはついていた水子たちの手形が、柚葉が入院した日を境にぴたりとつかなくなったらしいのだ。
柚葉が自分の家の玄関をカードキーで解錠する。ドアを開けるときほんの少しだけ頭上が気になったが、でも濡れた和紙など落ちてはこなかった。
スリッパに履き替え、リビングへと向かう。出窓のカーテンを閉めているため午前中にもかかわらずリビングは薄暗く、柚葉がドアの近くにある照明のスイッチを押した。
途端に室内が明るくなり、二つの人影がリビングに浮かび上がった。
夫は既に会社に行っている。いつもならこの時間に家にいるのは柚葉だけだが、
「……照明ぐらい、勝手に点けてくださってかまいませんのに」
そう口にした柚葉に返ってきたのは、やたら野太くて生真面目な声だった。
「どうぞお気になさらず。自分らがこの部屋にいることを、三沼に感づかれるわけにはいきませんので」
出窓のカーテンの合わせ目から前屈みになって外をうかがう大庭がそう言うと、ダイニングテーブル用の椅子に腰掛けて頰杖をついていた芦屋が苦笑した。
――切迫早産で入院してから一週間後。劇的に出血とお腹の張りが治まった柚葉に退院許可が下りてから、大庭と芦屋は柚葉に捜査協力を求めてきた。
その協力の内容は『柚葉の家から隣家の様子をうかがわせて欲しい』というもので、柚葉は少し悩んだが、夫はほぼ二つ返事だった。退院後もなるべく安静にしなければならない妻を、独り家に残して仕事に行くことが不安だったのだろう。
柚葉は、確かに大庭と芦屋には助けられた。だから協力すること自体はやぶさかではないのだが、でも同時にまだ荒川のことを疑い切れないでもいた。荒川は本当に苦しかったときに助けてくれた恩人であり、その想いは簡単に割り切れなかった。
「……荒川さんは、本当に三沼さんと通じているのでしょうか?」
お腹を抱えながらソファーに座った柚葉がポツリとつぶやくと、大庭と芦屋の二人の目が同時に細まった。
「やはり、信じられませんか?」
「……えぇ、正直なところまだ少し」
詐欺に遭ってお金を騙しとられたとは思いたくない――そんなプライドが、働いている自覚も柚葉にはある。だがそれを差し引いたって、柚葉は自分の身を襲った数々の怪異が全て噓だったとはいまだに信じられなかった。
「夜泣きの件、三沼に訊ねてみましたか?」
「はい、尋ねてはみましたが……」
その先を柚葉はつい口ごもってしまった。
先ほどの三沼への挨拶は、実のところ大庭に協力を頼まれてのものだった。以前に聞こえていた夜泣きがどうなっているのかを三沼に訊ねてみて、その反応を教えて欲しいと言われたのだ。
そして夜泣きのことを訊いたときの三沼の態度は、確かにおかしかったのだ。
三沼の様子を言い淀んだ柚葉を見て、大庭は柚葉の複雑な心情を察したのだろう。腕を組みつつ「ふむ」と唸ってから、口を開いた。
「柚葉さんにも知っておいてもらった方がいい気がするので申しますが、実は隣の三沼宅は柚葉さんたちが購入されたこちらのお宅と違って、借家なのですよ」
「……えっ? 持ち家じゃないんですか?」
驚いて、つい返してしまった柚葉の問いに、大庭がうなずいた。
二軒並んだ色違いの双子のような家。中古とはいえ自分の家が持ち家だから隣の三沼宅も同じと思い込み、疑うどころか柚葉はそんなことを考えたこともなかった。
「三沼宅を含めた、前のここらの土地の持ち主は、現在は仕事でマニラに赴任されているのですよ。そのため土地を相続して売りに出す際に、不動産屋に条件を出したんです。
斉藤さんが今お住まいのこちらの家は土地ごと全て不動産屋に売却するが、隣家の三沼宅は自分が日本に戻ってきたときに住むので、家を建てたら期限付きの借家として貸し出して欲しい、とね」
そういえば道を挟んだ向かいの住人と話をした際に、黒い大男こと大庭の話が出たことがあったのを柚葉は思い出す。今になって思えば、あれはきっと捜査の一環だったのだろう。大庭はこの家と土地の、過去を調べていたのだ。
「そして三沼秋穂は、斉藤さんのご自宅であるこの家が新築で売りに出た際に、いの一番で内見に来たこともわかっています。つまりこの家を買おうと考えた、最初の人物が三沼なのです。だが三沼は、当時建売だったこちらのお宅を買うことはできなかった」
「……どうしてですか?」
大庭の話に仰天しつつも、素で感じたままの疑問を柚葉が挟む。
「急に購入資金が足りなくなったのですよ。内見をした直後、まさにローンの計画を立てていた最中に、旦那が連帯保証人をしていた弟の会社が倒産してしまったんです。それで家を買うために貯めていた預金を、全て銀行に押さえられてしまった。
当時の三沼夫妻は社宅に住んでいたのですが、まもなく六〇歳を迎える配偶者が正社員から嘱託に切り替わるため、引っ越しせざるを得なかった。それもあって終の棲家の購入を検討していたのでしょうが、突然に降りかかった不運で買うことができなくなり、とりあえず急場を凌ぐために隣の借家を借りた――ということのようなのです」
なんというか、少しだけ身につまされる話だった。柚葉もまた、資材高騰で家の値が上がっていく中で、予算に合った家を見つけるなり急いで購入した身だ。それが直前になって頭金が消えて買えなくなり、でも住むところを得るためにすぐ隣の家を借りたとなれば、どんな気持ちになるだろうか。
なんとなくだが、悔しい三沼の胸中が柚葉には推し量れた。
「失礼ながらこれも調べさせてもらったのですが――柚葉さんがこちらのご自宅を購入された際、購入額は相場よりもかなりお安かったですよね?」
「……はい。かなり安くて、それが買う決め手になりました」
「ご承知のとおり、こちらのお宅は築一年という浅さで既に三度も転売されています。家自体には何も問題がないのにそれでも住んだ人間が短期間で売りに出すので、不審に感じた不動産屋がなるべく早く売り抜けようとどんどん値を下げているんです。ですからその値段の推移をネットで見つつ、三沼はたぶんこう思っているはずですよ。
柚葉さんたちがこの家を手放せば、この家の値はもっと安くなる――とね」
大庭の口から出たその結論に、柚葉がはっと息を吞んだ。
「三沼秋穂は詐欺の実行犯です。とはいえやっていることは悪戯レベルですがね。真夜中にこっそりこの家の敷地に忍び込み、出窓に泥の手形をつけていく。本当は聞こえてなどいないのに、赤ん坊の泣き声が聞こえるとクレームをつける。やがて不安を感じたこの家の住人は土地のことを調べ始め、すると必ず『子返しの絵馬』へと辿り着くのです。あれは世の中的にはさして有名ではありませんが、とある学術的な界隈では知らぬ者がいないほどに有名な絵なのですよ。そうやって住人の不安を煽りに煽った段階で――『この家は水子に祟られています』と、荒川が登場するのです」
……言われてみれば、確かにそんなタイミングだった。荒川が家にやってきたときまさに救いの神という感じだったのだが、それは柚葉が最初に倒れて「この子を水子たちから助けてくださいっ!」と、三沼に叫んだ後のことだ。
「前の住人のときも、そのまた前の住人のときも、この家に荒川が出入りしていたのは確実です。そして何度か出入りして除霊料を受け取ると、荒川は住人の前から急に姿をくらまします。荒川の目的は金ですから、高額の除霊料をせしめさえすればもうこの家と住人に用はないのです。でも三沼は違います。自分が欲しかったこの家の住人を追い出し、そして家自体の値を下げていくことこそが目的なのです。
ゆえに荒川からの連絡を受けた三沼は、一度目の除霊後はいったん怪異の偽装をやめます。でもすぐに前以上の勢いで再開し、怯えた住人はさらに高額の除霊料を荒川に払うも、三沼はその後はもう怪異の偽装をやめない。借金してまで除霊したのに怪異は収まらなかったことで、家族仲を険悪としたまま住人はこの家から逃げ出していく。そして前よりさらに安くなったこの家に、すぐにまた新しい被害者がやってくるのです」
柚葉の顔が青くなった。それはあまりに思い当たる節の多い話だったからだ。
荒川に鎮め物を埋めてもらって以降、確かにこの家の怪異は収まった。でも安心したところでぶり返した。そして二度目は、借金をしなければ払えぬほどに高額の除霊料を提示された。
仮に銀行に入る直前に大庭に止めてもらわなければ、柚葉は借金して五〇〇万もの除霊料を荒川に支払った可能性が高く、それは遠からず夫の知るところとなって関係は険悪となり、そのまま離婚してこの家から出て行ったかもしれない。
そのもしもの状況を想像し、ショックを受けた柚葉がソファーに座ったまましばらく黙っていると、家の外のやや遠くでもってガチャリという金属音が聞こえた。
「どうやら話題のお隣さんが、外出をしたみたいだね」
ダイニングテーブルの椅子に座ったままの芦屋が口にしたことで、柚葉も今の金属音が隣の家の玄関が閉まった音なのだと気がついた。
「あぁ。自転車に乗って――たった今、路地を曲がって姿が見えなくなったところだ」
そう言うなり、合わせ目から隣家を監視していた出窓のカーテンを大庭が開けた。
急に光が差してリビングが明るくなり、柚葉は反射的に目を細めてしまう。
「それでは三沼が共犯である証拠を集めるために、水子の祟りの正体を暴きましょうか」
最初に大庭と芦屋が向かったのは、玄関だった。
柚葉の身体を気遣いつつも、三人揃って玄関のポーチにまで出る。
「柚葉さんの頭上に落ちてきた濡れた和紙というのは、確か図書館まで外出してから家に帰ってきたときに降ってきたという話でしたよね」
今朝方に大庭から「この家で遭遇した、水子の祟りと思しき現象を全て教えてください」と尋ねられた際に説明した話の概略を問われ、柚葉が「はい」と答える。
うなずいた柚葉の様子を確認した大庭が、ドアの上部に手を伸ばした。大男の大庭の手は悠々とドア枠のサッシの部分にまで届き、丁寧になぞってからポーチ側に立つ柚葉と芦屋に向かって振り向いた。
「思ったとおりです。僅かですがサッシのここにヘコみがありますね」
ドアノブからちょうど真上辺りの部分を大庭が指さす。目を凝らせば、ぴったり嵌まったドアと枠の間に、ヘアラインのように黒い線の隙間があるのが柚葉にも見てとれた。
柚葉の隣にいた芦屋が、肩を竦めながら小さく鼻で笑う。
「……なるほどね。それぐらい小さなヘコみだったら、中古住宅として販売されるときにも補修されない可能性が高い。たぶんこの家が建った最初の頃に、三沼が人目を盗んでバールか何かでこじったんだろうね」
「そうだ。確かに小さなヘコみだが、それでも和紙の一枚を差し込むには十分な隙間でもある。入れることさえできたら、あとはスポイトなりなんなりを使えば中の和紙だけを後から濡らすことなんて造作もない」
「濡れているとはいえドアの上に載せただけの和紙だから、勢いよくドアを開ければ枠に貼りついていたのが縁とぶつかって剝がれて落ちてくる、ってわけだね」
大庭と芦屋の会話を聞きながら、柚葉が大きく開いた口元に手を当てた。
「それじゃ、私が救急車で運ばれたときに落ちてきたあの和紙は――」
「まず間違いなく、柚葉さんが図書館に赴いた隙に三沼が仕掛けたものでしょう。雑な仕掛けですから失敗も想定して様子をうかがっていたからこそ、柚葉さんの悲鳴を聞きつけすぐにやってきたのだと思います。あるいは証拠の和紙をどさくさで回収するために、玄関で外に出るタイミングを虎視眈々とうかがっていたのかもしれません」
柚葉の頭の上に落ちてきた和紙は、その後探しても確かに見つからなかった。てっきり救急車のドタバタでどこかに消えたのかと思っていたのだが、駆け付けてくれた三沼が回収していたのならば見つからないのも納得だ。
信じられなくて――というよりも、あまり信じたくなくて声を失っている柚葉だが、その心中を知ってか知らずか、大庭と芦屋は今度は三沼宅との境目側に移動した。
そこには例の赤ん坊の手形がつく出窓があるも、しかし大庭が最初に目を向けたのは窓ではなく、柚葉が二階のベランダに設置をした防犯カメラだった。
「手形がつく瞬間になるとどうしても録画映像が止まる、とおっしゃっていたカメラはあれですか?」
「……はい、あのカメラです」
自分で答えて、柚葉は気がついた。頭に落ちてきた和紙が仮に三沼の仕業でも、カメラの録画映像を自在に止めることは無理だ。というのも二階のベランダにはどうやっても手は届かないからだ。仮に脚立か何かを使ったとしても、センサーの範囲に入った段階でその姿が記録されるだけのことになる。
しかし柚葉のスマホに記録された映像は、人影などまったく映らずにただブツ切れとなっている。やはりこれは人の手では為せない怪現象――そう思ったのだが。
「あのカメラじゃ、ダメだね」
「ああ、あのカメラではまるで防犯の意味がない」
同意し合う芦屋と大庭の会話を耳にし、柚葉の目が丸くなった。
意味がわからず戸惑う柚葉に、解説でもするかのように大庭が語りかける。
「あのカメラは、Wi‐Fi を経由しスマホに映像を送るタイプですよね?」
「えぇ、そうですけど」
「だったらダメです。無線で動画を記録するカメラというのは、簡単に妨害ができてしまうんです」
「妨害?」
「そうです。Wi‐Fi を無効化するジャマーはネットで手軽に購入ができます。それを懐に忍ばせてやってくるだけで映像を送信する電波は阻害され、録画データは端末に保存されなくなってしまうんです。そもそもからして、ジャマーを使わずとも家庭用の Wi‐Fi は電波が不安なことが多い。ソーラー電池式の無線カメラは、壁に穴を開けて通線する必要がない点でとても便利ではありますが、防犯の観点からの信用性は極めて低いんです。犯罪の証拠をつかんでやろうと思うなら、外部からの干渉がしにくい同軸ケーブルなどを用いた実線式のカメラを使うべきなんですよ」
大庭の勢いに押されて、柚葉が「はぁ」と間の抜けた声を上げた。
「ところで、一番問題であったはずの窓ガラスの手形がありませんね」
ベランダのカメラから窓ガラスに視線を移した大庭の言葉に、柚葉がうなずいた。
「……そうなんです。これまで毎日ついていたのに、夫に確認したところ私が二度目の入院をしたその日から、この窓に赤ん坊の手形がつかなくなったようなんです」
大庭が厳めしい面の眉を八の字にし、ふむと唸る。
「それなら、以前のものを撮影した写真とかはありませんか?」
「ごめんなさい。最初は足跡の正体を調べられればと撮影していたんですけど、あるときからスマホの中にあんな写真があること自体が気味が悪くなってしまって……」
その柚葉の話を聞いて動いたのは、芦屋だった。
「だったら、実際に似ているかどうか見てもらおうか」
そう口にして、ジャケットの内ポケットから妙なものを取り出す。
それは腕だった。淡い赤みを帯びた赤ん坊の腕――でも本物ではない。
それは子どものままごと用に作られた、等身大の赤ん坊を模した人形の腕だった。
合わせて取り出した小さなタッパーに、芦屋がソフトビニール製の人形の手を突き入れる。そのタッパーの中に入っていたのは泥だった。
そして泥に塗れた人形の手を、芦屋が綺麗なままの窓ガラスに押しつけると、
「あぁっ!!」
柚葉が、今日一番の大声を上げた。
窓ガラスに張りついた、泥に塗れたのっぺりとした手形――それは柚葉を脅えさせて、悩まし続けたあの手形と同じものに見えたのだ。
「人間の手であれば、バラつきはあれど指紋や手の皺も手形に残ったりするものです。しかし人形のものならば、つくのはこのように五本の指と掌の跡だけになります。もしもこの手形が、これまで柚葉さんを悩ませたものと酷似しているのであれば、同じ手法で三沼がつけた可能性が高いと考えるべきです」
正直なところ、柚葉は今にも泣きたい気分だった。今日まで自分が脅えていたものの正体を大庭と芦屋に教えてもらう度に、自分はこんな子ども騙しに脅えて人生を左右する借金をしかけていたのかと、情けなく感じてしまう。
だからこそ、つい率直に口にしてしまった。
「……私は枯れ尾花に怯えていただけで、やはり本物の怪異なんてないのですね」
――でも。
その自責の言葉を口にするなり、大庭は柚葉から目を逸らした。
大庭だけではない。芦屋もまた、どことなく気まずそうな表情を浮かべる。
「――とりあえず、三沼から一度じっくりと話を聞いてみましょうか」
「それはいいのですが……でも、素直に話していただけるものなのでしょうか?」
「安心してください。自分ら警察官は、任意で話を聞き出すタイミングはよく心得ていますから」
10
正直に言って――三沼秋穂は、もはやまったく気が乗らなくなっていた。
荒川から依頼をされていたのは、ただの悪戯のはずだ。
隣家に対して軽い悪戯をしてくれればそれだけで十分と、そういう話だったはずだ。
夜中にこっそりと隣家の敷地に入って、裏の川から掬った泥を塗った人形の手を隣家の窓ガラスに押しつける。
隣家の人間と親しくなってきたら夜中に赤ん坊の泣き声がして困っていると主張し、たまにでいいので隣家が留守のときを狙ってドアの隙間に濡れた和紙を挟み込む。
そんな子ども染みた悪戯をするだけで、いずれ隣の家が安く買えるようになる――と、そう三沼は荒川に囁かれたのだ。
それなのに……ただの悪戯だけのはずが、どうしてこんなことになっているのか。
自分が呼んだときも含め、ここ最近で柚葉は二回も救急車で運ばれた。その原因にストレスが関係していることは、まず間違いないだろう。なぜなら自分がしている悪戯は土地に記録が残る間引きを連想させるものだからだ。こともあろうに妊婦に向けて、自分はそんな悪戯を仕掛けているのだ。
もともと細身の人だからお腹が目立っていたものの、それでも臨月はまだまだ先だ。胎児はできる限り母胎の中で育つほうがいい。早産は早ければ早いほど、胎児の死亡率と後遺症が残る可能性が高くなってしまう。
だとしたら、水子の祟りの偽装は間接的な人殺しではないのか?
もしも早産となり新生児に後遺症が出てしまえば、それは傷害ではないのか?
ならば自分のしていることは悪戯ではなく、紛うことなく犯罪だ。
そう自覚したとき、三沼はこれまで自分がしてきたことが恐ろしくなった。
柚葉たちが住む前の三組の家族に対しては、そうは感じなかった。自分が買うつもりだった家に住む、幸せそうな家族たちの姿を目にするだけで苛々してきて、荒川に言われるがままに水子の祟りの偽装を何度も三沼は繰り返したのだ。
隣の住人たちが疲弊していく様を傍目でせせら笑ってから荒川に連絡すると、やがて荒川が隣家に出入りするようになり、幸せそうだった家族はみんないがみ合いながら出ていって、ほどなくして隣家は売りに出されるのだ。
荒川が言っていたように、隣家の値はどんどん安くなっていった。
――だから、もう一回だけ。
旦那が弟の連帯保証人になっていたことでこれまでの貯金はなくなってしまったが、でもまだ旦那の退職金がある。もう少し安くなれば、退職金と合わせて年金からの支払いローンできっと隣の家を買えるはずだ。
そう思っていた矢先に隣家を買って入居してきたのが、妊婦である柚葉だったのだ。
三沼とは親子ほども年が違う柚葉だが、不思議と馬が合った。それはこれまでの住人たちと違い、柚葉が内向的な性格だったからかもしれない。
本当のことを言えば、三沼は対人関係が得意ではない。元は内気な性格だ。でも水子の祟りを偽装するためには、最初は陽気に隣人と接していく必要がある。だから気さくな人を装って柚葉とも会話していたのだが、そのうちに情が移ってしまった。
三沼は来年で還暦を迎える。旦那も同じ歳であり、さすがにもう子どもは望めないだろう。それを自覚しているからこそ、隣に住む柚葉のお腹が少しずつ大きくなっていく様を、いつしか三沼は楽しみにし始めていたのだ。
そんな柚葉が、三沼が仕掛けた濡れた和紙が頭に落ちてくる悪戯で、泣き叫んでいた。柚葉自身ではなくお腹の子を助けてと、自分の足に縋りついてきた。
お腹を抱えて必死に自分に訴えていたそのときの柚葉の表情が、三沼は忘れられない。救急車を呼んで柚葉が運ばれてからも、三沼は自分が水子の祟りの偽装をしている証拠となりかねない和紙を、しばらく回収し忘れていたぐらいだ。
その後、市街地に出掛けた際に柚葉がまた救急車で運ばれ入院したと、道を挟んで向かいの住人たちが噂しているのを耳にした。きっと同じだったのだろう。そのときもお腹を抱え、水子の祟りから必死に自分の子を守ろうとしていたに違いない。
だからこそ荒川から定期連絡の電話がかかってきたとき、三沼はこう伝えたのだ。
もうやめたい――と。
やめたところで、これまでやってきたことが取り消されるわけではない。だがそれでもいやだった。これ以上、柚葉とそのお腹の子を三沼は追い詰めたくはなかった。
告解にも近い三沼の話を聞いた荒川は、しばらく黙ってから「……あと一回だけ、もう一度だけで片がつきますから」と、そう囁いた。
準備も仕掛けも、既に全て終えている。後は柚葉が連絡をよこすのを待つだけだ。
だから最後のもう一押しだけしてくれたら――、
「それで隣の家が買えて、旦那さんともども恥をかかずにすみますよ」
そう、言われてしまった。
夫の会社の社宅を出るとき、三沼は自分の友人や知人、それから親戚などにも新築の家を買うのだと喧伝していた。終の棲家なのだと嬉しくて自慢し、内心ではみんなに見て欲しくてたまらなくて、引っ越し先の住所まであちこちに教えて回った。
それが夫の弟の事業失敗で貯金を失い、突然ダメになってしまったのだ。
今にして思えば、降って湧いた不運で家が買えなくなってしまったと、知り合いにも正直に言えば良かった。でもあのときは、見栄が邪魔してそれが言えなかった。身内の恥の上に、さらに自分の恥を上塗りすることができなかった。
だからこそ番地が一つしか違わない、隣の家を借りたのだ。家主が日本に帰ってきたときは、自分たちが引っ越さなければならない契約になると不動産屋に言われたが、それでもいっときの恥を凌ぐため、期限付きの借家である今の家に住むことにした。
そして自分たちが買うはずだった隣家に最初の入居者が入ってきたころ、義理の叔母が有能な霊能者を紹介すると言ってきた。タイミングの悪い不幸は悪い霊の企みの可能性が高いからと、そんな意味のわからないことを口にして、一度霊視してもらったほうがいいと無理に勧めてきたのだ。
若いころにテレビ特番などでたまに見た霊能者に、義理の叔母が入れあげているという話は親戚から聞いて知っていた。三沼はその手のことを信じていない。百歩譲って占い師ならまだしも、霊能者なんて胡散臭いだけで会いたくなんかないと思っていたのだが、でも強引に叔母に押し切られた。
叔母の顔を立てるためしぶしぶと家に荒川を招き入れ、おおまかな事情を説明し終えたところで――荒川は、三沼に詐欺の手伝いを持ちかけてきたのだ。
荒川が詐欺師ではないかと最初から疑ってはいたが、それでもよもや共謀をもちかけられるとは思っておらず、始めは頑として断った。
――だけれども。
「詐欺とかそんな大袈裟なものではなくて、ただの悪戯ですよ。三沼さんが不運に見舞われて買えなかったことも知らず、のうのうと隣家に住んでいる人たちをほんの少しだけ驚かせて欲しいだけなんです。窓に泥の手形をつけたり、赤ん坊の泣き声が聞こえると言ってみたりする程度の悪ふざけに過ぎません。
――でもそんな些細なことをするだけで、いずれ隣の家を安く買えるようになります」
結果として、荒川の誘惑に負けた。
願い望んだ隣家を買えるならばと、たかが悪戯程度のことでいいのであればと、そう思って三沼は荒川の詐欺の片棒を担ぐことにしたのだ。
そして三沼は今夜、最後の悪戯を柚葉の家にするつもりだった。
丑三つ時も終わりかけの朝の四時前に、三沼は旦那と二人並んで寝ている寝室を静かに出る。玄関を出る前にはインターホンのカメラで外に誰もいないのを確認し、それから下足箱の中に隠してあるエコバッグを手にして、音をたてぬように家の外へと出た。
まず最初に向かうのは家の裏手を流れる川だ。エコバッグから取りだした小さなバケツで、浅瀬の川底から泥を掬った。泥だけは新しいものを使わないと、窓ガラスにうまく手形がつかないのだ。
他にエコバッグの中に入っているのは、ネットで買ったソフトビニール製の赤ん坊の人形の腕と、それから荒川に買い与えられた Wi‐Fi 用のジャマーだ。
バケツの底に堆積した泥に人形の手を差し込むと、三沼はジャマーを片手に足音を殺しながら隣家の出窓に近づいていく。隣家に住んだどの家族も、窓に手形がつき始めるとカメラを設置したが、その全てが無線式のカメラだった。おかげで三沼の姿が、これまでカメラに写ったことはないはずだ。
この一年間、数え切れないほど繰り返してきた隣家への悪戯を今夜も行う――それだけのはずなのに、しかし三沼の足どりは重く、文字通りに二の足を踏みそうだった。
――もしも自分がしている悪戯のストレスで柚葉が実際に早産してしまい、産まれた子も運悪く亡くなってしまったら、仮に隣家を買って住むことになっても、その家の中からは本物の水子の泣き声が聞こえるようになるのではなかろうか。
自分のことを恨んで憎む、早産させられて僅かしか生きることのできなかった水子の声が、夏のセミの鳴き声のようにきっと途絶えることなく聞こえる気がする。
三沼は霊なんて信じていない。でもその声だけは絶対に聞こえるだろうと、そう思った。鼓膜を震わせることはなくても、それでも脳の中で、あるいは心奥にて、間接的に胎児を殺した自分に向かって、きっと水子は喚き続けるだろう。
そんな家に住めるはずがない。他人を追い出すだけでなく、水子を生み出してまで手に入れた家でもって、のうのうと幸せに暮らすことなんてできるわけがない。
それがわかっているのに、でも三沼は自分でも足を止められない。止めてしまったら、これまで何のために荒川に言われるがまま隣人を追い出して、罪を重ねてきたのかわからなくなってしまうからだ。
隣家の出窓の前にまでやってきた三沼は、バケツの中から人形の腕を引き抜く。泥に塗れた掌側を、手形が綺麗につくようにガラス面に近づけていく。
でも――もう、いやだ! 私は、胎児を殺したくなんかないっ!
三沼が心の中でそう悲鳴を上げた瞬間、
「三沼秋穂さんですね? すみませんが、少々お話をうかがわせていただけませんか?」
いきなり背後よりかけられた声に、三沼は飛び上がらんばかりに驚いて振り向いた。
そこには三沼の逃げ道を塞ぐようにして立つ見知らぬ男性二人と、その後ろには悲しそうな顔をしてじっと自分を見つめている柚葉がいた。
三人の立ち位置からして、おおよそのことを理解した三沼は「あぁ、ようやくなのね」と小さくつぶやき、自らの胸を撫で下ろした。
……これでやっと、この胸の痛みから解放される。
二人の男のうち、やたら背の高い方が一歩前にずいと進み出て「よろしいですよね?」と、威圧的な表情で三沼を見下ろした。
三沼はにっこりと笑う。男に対してではない、その後ろの柚葉に向かって。もっと正確に言うのなら柚葉のお腹の中にいる子に対して、三沼は微笑みかけたのだ。
常軌を逸したようにも見える反応に三人がギョッとするも、でも三沼は気にしない。
「えぇ、もちろんです。私が知っていることは、すべてお話をいたします」
そう言うと、三沼はもう一度だけ柚葉のお腹に向かって笑いかけた。
11
「三沼秋穂が、荒川から詐欺の共謀をもちかけられたことを自供しました」
水子を彷彿とさせる窓の手形や夜中の泣き声、それから濡れた和紙の件も、すべて荒川の指示でしたことだと、三沼は驚くほど素直に語ったらしい。
その話をリビングで大庭と芦屋から聞いた柚葉は、なんとも複雑な気持ちになった。
「私はやはり、詐欺師に騙されていただけなのですね……」
本来であれば荒川に対し怒りを露わにすべきところだろう。でも今の柚葉はそれ以上に自分が情けなかった。自分さえしっかりしていれば、過剰なストレスで体調不良を起こすこともなく、お腹の子を危険な目に遭わせることだってなかったのだ。
おまけにもしものときの備えだった三〇万を騙しとられたうえ、五〇〇万もの借金までするところだった。それもこれも全ては自分が過度なまでに水子の祟り――今となっては三沼の悪戯に脅えてしまったからだ。
何のことはない、頭から信じることを放棄していた夫のほうがずっと正しかったのだ。
萎れる柚葉を見て大庭が声をかけようとするも、でもここは自分の役目とばかりに、芦屋が大庭を手で制止して口を開いた。
「そんなに落ち込むことはありませんよ。確かに気にしないのが一番とは言いましたが、それでも理解できない不気味な現象に怯えてしまうのは、しかたのないことです」
「……でも本当は、水子なんてどこにもいなかったんですよ。全てお隣の三沼さんがやった悪戯で、私はまんまと荒川さんの手の上で踊らされて、自分の想像した水子の姿を瞼の裏に思い浮かべては独りで馬鹿みたいに怯えていただけなんです」
今にも涙をこぼし始めそうな柚葉を前に、芦屋が困ったように自分の頭を搔いた。
「どうも勘違いしているみたいですが、本物の水子の霊は柚葉さんの前に現れてますよ」
「……えっ?」
うつむいていた柚葉が急に面を上げ、芦屋に向かって疑問の声を投げた。
「でも『水子なんていやしない』って、図書館で会ったときに芦屋さん自身が言っていたじゃないですか」
「それは図書館でお会いした、あの時点でのことですよ。あのときは間違いなく柚葉さんの周りに水子なんていなかった。でもね、その後に状況は変わったんです」
「……何が変わったというんですか?」
「柚葉さんは、夢を見たのですよね? 血塗れの嬰児に威嚇をされる、夢と現の狭間が曖昧に感じられるほどに生々しい夢を」
「はい。確かに……でも、あれは夢です。あれだけ自分の妄想に怯えていれば、水子の夢ぐらい見たっておかしくないじゃないですか」
「いいえ、違うんですよ。その夢の中の水子だけは悪戯の類いではない、この世の理の外に位置している本物の“呪詛”なんです」
芦屋の言葉に驚き、柚葉は口を半開きにしたまま固まってしまう。
そこに追い打ちを掛けるように語り出したのは、大庭だった。
「今回の事件の中で、間引きに起因する“水子の祟り”なんてものは存在しません。ですが、荒川が確実に柚葉さんを騙すために仕掛けた“水子を使役した呪詛”は存在しているのです」
――この人たちは、突然に何を言い出すのだろう。水子の祟りを現実の事象へと貶め解体してくれたのは、この二人だ。荒川が霊能力者ではなく詐欺師だと証明してくれたのも、この二人だ。
それなのに、どうしてここにきて真逆のことを言い出すのか。
「荒川の手口は実に巧妙で悪質なんです。怪異を装った詐欺の癖に、一点だけ本物の怪異をつけ加える。まさに画竜点睛、説明のつかない本物の怪異が一つ混じるだけで、さながら全て本物の怪異のごとく思えてきてしまう。テレビに出ていた全盛期のような強い霊能力はもはや失っているようですが、それでも人を呪詛して悪夢を見させるぐらいの力はまだ残っている。これを許してはならんのです。こんな悪辣な呪法を用いる外法遣いを、いくら法に抵触せぬとはいえ見逃すわけにはいかないのです。ゆえに荒川は、詐欺を扱う捜査二課ではなく自分と芦屋が追っていたのです」
大庭の話を聞き終えた柚葉がごくりと喉を鳴らした。いつのまにか乾いていた口を動かして、得体の知れない話を始めた二人に頭に浮かんだとおりの疑問をぶつける。
「……あなた方二人は、いったい何者なのでしょうか?」
「申していますように、警察官ですよ。自分も芦屋も間違いなく警視庁の警察官です。
ただし自分と芦屋が所属する部署は少しばかり異色でして、悪質な呪詛や呪法から市民の生活と安全を守ることを目的に設立された――『呪詛対策班』と申します」
何が何やらさっぱりな柚葉が「呪詛対策班……ですか」と鸚鵡返しにつぶやくと、悪戯が見つかった子どものような顔をした芦屋が「その部署名は他言無用でお願いしますね」と付け足した。
「正直に申しまして、自分と芦屋が最も心配しているのは柚葉さんのお腹のお子さんです。三沼を押さえたことで怪異の偽装は止まりますが、しかし三沼と連絡がとれなくなれば荒川がさらなる呪詛を仕掛けてくる可能性がある。偽装ではない本物の怪異によって、再び激しいストレスを感じるようになれば、いつまたお腹の痛みが再発するかわかりません。だから荒川の身柄を早急に押さえる方向へと、捜査方針を切り替えようと思っています。そのためにも、柚葉さんには今以上の捜査協力をお願いしたいのです」
いまだに柚葉はさっぱり状況が飲み込めない。何が欺瞞で何が真実か、それさえもわからなくなっている。でも一つだけ、自分のお腹の子を心配していると口にしてくれたときの大庭の真剣な目は信じられると、そう思った。
だから頭を下げた大庭に対し、柚葉も覚悟を決めて静かに首を縦に振った。
「わかりました。お二人を信用し、全面的に捜査に協力をいたします」
「ありがとうございます。――ならばさっそくですみませんが、荒川が埋めたという鎮め物を、今から掘り返させていただけないでしょうか?」
「……えぇ、それはいいですけど」
むしろそんなことでいいのかと、やや拍子抜けした声で柚葉が了承すると、二人はすぐに掘り出す準備を始めた。
なんでもこういうときのために、大庭たちの車には常にスコップが積んであるらしい。柚葉としてはいったい何がこういうときなのかとも思うのだが、きっと素人である柚葉にはわからない何かがあるのだろう。
もう隣家の三沼を気にして隠れる必要もないため、大庭と芦屋は昼過ぎの明るいうちから鎮め物を埋めた花壇を掘り返し始める。本格的なスコップを手にした男性二人がかりということで、荒川の埋めた木の箱があっという間に土の中から姿を現した。
大庭が目配せすると芦屋がうなずき、慎重な手つきでもって箱を持ち上げて花壇の横のコンクリートの地面の上に置くと、紐を解いて木の箱を開けた。
中に入っていたのは、壺だった。
おそらく直径で二〇センチほどの小さな壺。色味はくすんだ灰色で、丸いぽっちのような取っ手がついた蓋が、底が浅くて扁平な壺の上に載っていた。
それをまるで爆発物でも扱うような手つきで芦屋が箱からとり出し、蓋を外す。
壺の中に入っていたのは、真っ黒く干からびたスルメのような塊だった。
「干物……でしょうか?」
黙って後ろから見ていた柚葉が、思ったことをつい口にしてしまう。
柚葉の隣に立っていた大庭が、神妙な表情でもってうなずいた。
「えぇ、そうです。おそらくこれは胞衣――人間の胎児と一緒に母胎から出てきた胎盤を熏し、干物にしたものだと思われます」
何気なかったはずの質問に返ってきた答えに、柚葉がギョッとする。大庭の言ったことが正しければ、これは紛れもなく人の身体の一部ということになる。
荒川は、そんなものを鎮め物と称して自分の家の敷地の中に埋めたのか。
「本当に質が悪いよ。予想通りだけど、実際に目にしたらムカムカしてきた」
自分の頭をガシガシと搔きつつ、芦屋が珍しく苛立った声を出す。
「あぁ、同感だ。そしてこいつを確認したからには、やはり放置はできんな。
――柚葉さん、先ほどのお話通りにもう少し我々にご協力ください」
12
荒川初枝は戸惑っていた。
最後に三沼と電話で会話して以降、あれからもう三日も連絡がとれていない。SNSアプリでメッセージを送っても、既読さえもつかなかった。
三沼の住んでいる場所はわかっている。連絡がつかなければ直接に家を訪ねればいいのだが、しかしそれができないからこそ荒川は困っていた。三沼の家を自分が訪ねているところを、万が一にも隣家の柚葉に見られるわけにはいかないのだ。
柚葉に仕掛けた詐欺は、今や仕上げの段階だ。ここで勘繰られたら、これまでの苦労が全て台無しになる可能性がある。荒川だって手間暇をかけて柚葉を騙している。柚葉から騙しとった最初の三〇万だけでは、あまりに割に合わなすぎるのだ。
とにかく柚葉に提示した二度目の除霊料である五〇〇万が手に入れば、自分に付きまとう借金取りもしばらくは黙るだろう。荒川としては、なんとしても柚葉に五〇〇万を用意させなければならなかった。
それなのに、ここにきて三沼が日和り始めたのだ。
最後に連絡がとれたとき、三沼は「こんなことはもうやめたい」なんて抜かしていた。
それから「人殺しにはなりたくない」ともほざいていた。
荒川はそこをなんとか宥めて「もう一度だけで片がつきますから」と返したのだ。
ついでにそうすれば「恥をかかずにすみますよ」とも囁いておいた。
三沼には隣家に“水子の祟り”を連想させる偽装をやらせ続けてきたが、しかしこれまで三沼は実利を得ていない。三沼の目的は何度も隣家の人間を追い出した果てに、安くなったその家を購入することだからだ。
これまでに何も得ていないからこそ、三沼は詐欺に加担している意識が薄い。自分の言ったことを真に受けて、妬ましい隣家に本当にただ悪戯をしているぐらいの気持ちでいるのだ。
だから簡単に「やめたい」なんて言い出す。本当はもう三家族も破滅させた癖に、まだ謝れば許してもらえるとでも思っているに違いない。そこまで馬鹿ではないと思いたいが、でも思い余って誰かに本当のことを話されたら、今度は荒川の身が危なくなる。
こんなことなら報酬と称し、三沼に多少の金を握らせておけばよかったと思う。最初に会って話を聞いたとき、この女ならタダで手伝わせることができると感じたからこそ声をかけたのに、この土壇場で裏目に出てしまった。
柚葉の件は、もう手を引いて逃げる算段をすべきかもしれない。でも一度目で信頼させて、本命である二度目の高額除霊料を騙し取れる、その寸前の状況なのだ。
だからこそ諦めきれず判断に悩んでいたところ――、
「荒川さん。ようやくお金のご用意ができました。私も覚悟を決めましたので、あらためて新しい鎮め物のご用意をお願いいたします」
柚葉からの連絡が荒川に入った。
金を回収するときが一番危ない。だからこれまで詰めとなる除霊料を受け取りに行く前には、必ず三沼に連絡して隣家の状態を聞いていた。その上で問題ないと判断してから赴いていたのだ。
でも三沼と連絡がつかない以上、今回はそれができない。柚葉とその家族の状態がどうなっているのか、三沼から聞き出せない。
荒川は悩む。確かに確認できない怖さはあるが、でも柚葉は前に住んでいたどの家族よりも騙しやすかった。柚葉が妊婦であることが水子の祟りの偽装に想定以上に嵌まっていて、むしろこれで騙せなければその方が不思議なぐらいだった。
それに――柚葉には呪詛を仕掛けてある。
かつて各地に存在していた、我が子の胞衣を人知れぬ場所に埋めるという風習。胞衣は呪物だ。後産として子とともに産まれ落ちるからこそ、魂の分身と考えられた。ゆえに胞衣にはそれと繫がった者を支配する類感の呪力がある。
そして柚葉の敷地に鎮め物と称して埋めた胞衣は、死産した嬰児のものだ。この世に産まれ落ちることができぬまま、子宮の中で無念に力尽きた存在の胞衣なのだ。
つまりあの胞衣が繫がっているモノは死んだ胎児の魂――水子の霊だ。
その上を柚葉に跨がせた。埋めた胞衣の上を跨がれると、繫がったモノは跨いだ存在を怖れるとされている。ゆえに水子の霊は、柚葉を怖れている。だから怖れ、憎み、敵として認識し、負けじと威嚇して、柚葉を排除しようと攻めるのだ。
あれは、そういう呪詛だった。
三沼の偽装なんかとは生々しさが違う、本物の水子の霊をけしかけた呪詛だ。
あの呪詛をかけた以上、今も妊婦の柚葉は本物の水子の霊に悩まされ続けているだろう。誰でも知っている藁人形などと違い、あれは素人が簡単に見抜ける呪詛ではない。土地を鎮める呪具が、よもや自分を呪うための呪物だったとは思ってもいないはずだ。
だとしたら、柚葉は怪異に怯えて本当に金を用意したに違いない。
そう思いいたったとき、荒川は一人ほくそ笑んだ。
三沼と連絡がつかない以上は、本当のところ確証はない。でも欲に目がくらんだ。なにしろ五〇〇万だ。同じ払うにしても、自分たちが相場よりも安く買った額までなら心理的にも出しやすい。だからこそ何度もリスクを重ねて家を安くしていき、柚葉の番でようやくそれだけの額が提示できるようになったのだ。
加えて五〇〇万をせしめて借金が払えず柚葉が出て行けば、三沼がきっとあの家を買う。そうなれば三沼もまた、利益供与を得た共犯だ。柚葉から金を回収することが、三沼の口封じにもなるはずだった。
あの胞衣壺だって回収しなければならない。地中に埋めていた大昔と違い、産汚物と同等の扱いな胞衣は今は非合法な手段でしか手に入らない。あれは貴重な呪物なのだ。
やはり柚葉の元に行かない選択肢はない。
そして金さえ得れば、それで万事がうまくいくはずだ。
――だからこそ。
「助けに来ましたよ、斉藤さん」
連絡をもらった翌日にはもう、荒川は柚葉の家を訪れていた。
約束した時間通りに柚葉の家の前に立ってインターホンを押し、カメラに向かってここぞとばかりに人の好さそうな笑みを浮かべた。
いつもだったらもう少しもったいぶる。鎮め物に念を込める儀式に時間がかかるとか、精進潔斎をする必要があるなんて言って、それだけの価値があると匂わす。
でも今ばかりは、そんな時間をとる気にはなれなかった。
――早く終わらせたい。さっさと決着をつけて、この件から手を引きたい。
荒川が心中でそんな思いを抱えていると、玄関を開けて姿を見せた柚葉がどことなく幸薄そうな力のない笑みを浮かべた。
「お辛そうですね、ちゃんと眠れていますか?」
「いえ……眠ると水子の夢を見てしまうので、それが怖くて怖くて」
内心で舌舐めずりをするも――しかし柚葉の姿を前にして、荒川は僅かに目を細めた。
柚葉のお腹にぶら下がっているはずの水子が、いなくなっていたのだ。
それは胞衣を通して柚葉にかけた呪詛が、解けていることを意味していた。
どうして――と混惑するも、しかし先ほどの柚葉は水子の夢を見ると言っていた。だとしたら、いっときは間違いなく呪詛にかかっていたはずだ。
それが、どうして……呪詛が消えている?
荒川は訝しむが、でもここまできてしまったらもう後には退けない。
「……夢見が悪いというのは、まずいですね。霊というのは夢に干渉しやすいものです。きっと水子たちの祟りが強くなっている証拠でしょう。準備をして、さっそく水子たちを鎮めてしまいましょう」
「はい。どうか、よろしくお願いいたします」
玄関口に立つ荒川に向けて、先に廊下に上がった柚葉が家に入るよう仕草で示す。
なんとなく嫌な予感がする荒川は家に上がりたくないのだが、でも五〇〇万ものやりとりだ。さすがに玄関口でとは言いだせなかった。
顔は笑顔のまま、でも内心ではしぶしぶと荒川は家に上がり、柚葉の先導でもってリビングに入った。
途端に「えっ?」という声が出てしまった。
てっきりこの家にいるのは柚葉一人だと、荒川は思っていた。というのも柚葉の夫は霊的なものに無理解で、除霊なんて絶対に認めないと前に聞いていたからだ。
だから前回同様、今回も柚葉だけがいるだろうと思っていたのだが、リビングには荒川の見知らぬ黒いスーツ姿の男が立っていた。
しかも――でかい。頭が天井に届くのではないかとすら感じられるほどの巨体で、そんな大男が荒川の姿を目にするなりのっしのっしと近づいてきたのだ。
思わず「ひっ」と悲鳴が出そうになるのを、ぎりぎりで堪える。
目の前に立った大男は巌のような強面で荒川を見下ろすも、次の瞬間にはにっこりという擬音が聞こえそうなほどに破顔した。
「いやぁ、昔にテレビでお見かけした通りのお姿だ! かのご高名な荒川先生とお会いできて、自分はいまとても感激しています!」
図体通りの大声を上げるなり、大男が強引に荒川の手を握ってぶんぶんと振り回した。どうやら握手のつもりらしく、男からさしあたっての敵意は感じられない。
「えぇと……この方は、いったい?」
隣に立つ柚葉に向かって荒川がどうにか問いを発すると、大男ははたと何か気づいたように手を放し、一歩後ろへと下がった。
「いやぁ、これは失敬! 不調法者のため、ご容赦ください。自分は大庭猛と申します」
丁寧な仕草で頭を下げた大庭を前に、少しだけ調子を取りもどした荒川がごほんと咳払いをする。
「……なるほど、あなたは大庭さんとおっしゃるのですね。それで、その大庭さんとやらはどうしてここにいるのですか? 今日の私はとても大事な用事があって、こちらのお宅にお邪魔しているのですが」
大庭が下げていた頭を上げる。その目の鋭さに、荒川が自然と喉をごくりと鳴らした。
「無論、自分の目的も荒川先生と同じです。因業深い水子に憑かれたこの家の窮状を察して、自分もまた柚葉さんを助けに参ったのですよ!」
13
「あらためまして。自分は怪異の解決を生業としております、大庭と申します。どうぞお見知りおきください」
ダイニングテーブルを挟んで荒川の対面に着座した大庭が、テーブルの上にぶつかりそうなほどに深々とお辞儀をした。
大庭の隣に座っている柚葉の話だと、なんでも大庭は荒川と同じくたまたまこの家の前を通りかかったところ、水子の姿を視て押しかけてきたそうだ。
だが柚葉はもう荒川に相談をしていたため、その旨を説明しお帰りいただこうとしたものの「かの有名な荒川先生ですかっ! それは是非とも自分にもお手伝いさせてください!」と、主張してまったく譲らなかったらしい。
しかも大庭は、金銭はいっさい要らないという。後学のため荒川の手伝いをさせてもらえたらそれで十分なのだと言い張り、柚葉も柚葉で荒川の助けになるのならばと思って、今日も押しかけてきた大庭を家に上げたのだそうだ。
話を聞き終えた荒川が眉間に手を添え、ふぅと大きなため息を吐いた。
「それで――大庭さんは先ほど怪異の解決を生業としているとおっしゃいましたが、それは私と同じ霊能者ということでしょうか?」
「いえいえ、私は霊能者なんて大層な存在ではありませんよ」
「……だったら、どうぞお引き取りください。この家の中では、今もなお危険な霊障が起き続けています。専門家でもない方の同席など、とても認められません」
「困りましたね……私の友人には確かに陰陽師がいたりもしますが、私はあんな胡散臭い奴ともまた違いますし……強いていうなら呪詛や呪法の類いを憎んで怪異を消してしまう、そういう特殊な専門家です」
――実に、白々しい。
この大男が本物の霊能者ではないことなど聞くまでもない。何しろ柚葉の家を襲っている怪異の大半は、三沼による偽装だからだ。柚葉に仕掛けた呪詛も解けている今、霊能力が本物であればあるだけ水子の怪異など視えようはずがないのだ。
つまるところこの男も自分と同じ詐欺師だろう――と、荒川はそう考えていた。
「まぁ、大庭さんがどんな肩書きを持つ者でも関係ありません。土地の悪霊を鎮める儀式は極めて繊細な作業です。鎮め物を用意しているとはいえ、一つ間違えれば何が起きるかわからない。あなたも専門家を名乗るなら、それぐらいのことはおわかりでしょう?」
「いいえ、だからこそですよっ!!」
怒声めいた大庭の大声に驚き、荒川の肩がびくりと跳ねた。
「柚葉さんからうかがっていますよ。荒川先生は、一度はこの地の水子たちを鎮め物で封じたのだと。さすがは荒川先生と申す以外に言葉がありません。土地神の力を増すことでこの地に宿った因業を鎮めるなど、見事過ぎる手腕です。柚葉さんからその方法をうかがったとき、自分はいたく感服しました」
持ち上げられるだけ持ち上げられるも、柚葉の手前でどう返していいかもわからず、荒川はただ「はぁ」とだけつぶやいてしまう。
「ですが、そんな荒川先生の手腕をもってしてもなお、この地に根付く水子たちが再び活性化し始めたということは、この地に宿った業の深さが想像以上であったという証左でしょう。これは手強い。荒川先生のことです、以前よりも圧倒的に強力な鎮め物を用意して対抗されるに違いありません。それは重々承知をしておりますが、水子たちも今以上の抵抗をしてくるであろうことも予想ができます。そうなったとき、荒川先生は自分の身を守れるでしょうから問題ない。でも柚葉さんに限ってはそうではない。むしろ危ないのは柚葉さんと、そのお腹の子です。仲間を増やしたいと思っている水子たちは、真っ先に柚葉さんのお腹の子に手を出すでしょう。いくら荒川先生とてここまで凶悪な水子たちを相手どるとなれば、柚葉さんのお腹の子への守りまでは手薄となるはずです。そこで僭越ながら、自分の出番なのです。荒川先生が鎮め物の儀式に集中している間、自分が柚葉さんのお子さんを守ります。そうすれば荒川先生も水子たちに集中して向き合うことができますし、柚葉さんの不安もいくらか薄れるでしょう。決して私は荒川先生の邪魔をする気はないのです。むしろ荒川先生が水子を鎮めることに集中できるようにと、そう心得てここにきたのですよ!」
大庭の語りに圧倒され、荒川が息を吞んだ。でもここで引き下がっていたら、自分だって商売上がったりなのだ。荒川は「ですが!」と反論を試みようとするも、
「えぇ、そう声を荒らげずともわかっております。荒川先生のことですから、きっと私なんていなかろうとも、誰一人として犠牲を出すことなく凶悪な水子たちを見事に鎮めてみせるでしょう。でもそれと柚葉さんのストレスは別問題なのです。子どもを守ることに必死な妊婦というのは、ときに必要以上にストレスを感じてしまうものです。ですから柚葉さんの気休めになるためにも、どうか私も同席をさせていただきたい」
大庭の言い草に、荒川は秘かに奥歯をぐっと嚙んだ。
この男は、何をどう言っても同席をする気なのだろう。
それはどういうつもりで? ――決まっている、自分への脅しだ。
儀式の間中付き添うことで、いつだって本当のことをばらせるのだぞ、と。そういう脅しに違いないと、荒川は判断した。
この男の望みはいくらなのか。一〇万か、二〇万か、あるいは一〇〇万か。
こんなハイエナは本当なら突っぱねてやるところだが、この男はどうしてかこの家で行っていた水子の偽装の件を知っている。
ひょっとしたら……三沼が関わっていたりすることはないか? 三沼が裏切り、柚葉から巻き上げる金の取り分を要求するため、この男を差し向けたのではなかろうか。
もしそうならば、それはそれでいい。
三沼が進んで共犯者になるというのなら、口止めのためにも多少の金額であれば応じてやらないこともない。
「……なるほど。大庭さんのおっしゃること、承知しました。確かに私が水子たちに意識を向けている間、依頼者を守っていただけるというのならありがたいお話です。ここは柚葉さんのためにも協力をして水子を鎮めることにしましょう」
「いやぁ、さすがは荒川先生です! ご理解をいただけてとても嬉しい」
大仰なまでに相好を崩し、大庭がテーブルに手を突き再び直角に頭を下げた。
荒川は短く刈られた大庭の頭を微笑んで見つめながらも、内心ではこの男が憎々しくてたまらなかった。
でも今は、金を用意したという柚葉を騙しきることが優先だ。
「それでは、さっそくとりかかるとしましょうか」
「えぇ、そういたしましょう!」
荒川が前回埋めたのと同じ形の白木の箱を取り出し、ダイニングテーブルの上に置く。手順としては前回に埋めた鎮め物を掘り出して回収し、今度は中身が空であるこの箱を代わりに埋め、それでおしまいだ。後は柚葉から五〇〇万を受けとるだけとなる。
荒川としてはそういう算段なのだが、自分の仕掛けに便乗しピンハネするつもりだと思っていた大庭もまた、ごとりとやや重い音がするものをテーブルの上へと置いた。
瞬間、荒川の目が丸くなった。
――どうしてそれがここにある? なんでそれをここに出す?
自分に見せつけるように置かれたそれは、柚葉を呪詛することに用いた胞衣壺だった。
「お、大庭さん……これは、いったい?」
隠しきれない動揺をそれでもどうにか抑え、荒川がかろうじて疑問の声を発する。
「柚葉さんから聞き及んでおりますよ。柚葉さんを悩ませていた土地の因果に起因する水子たちの霊障を、荒川先生は往来からこの家を見ただけでぴたりと言い当てた、と。さすがは、かつて日本中に雷名を轟かせた荒川真如です。全国のお茶の間を唸らせたその希代の霊能力に、私は深く感銘を受けているのです!」
荒川が眉間に皺を寄せながら、苛立たしげに自分の唇を嚙む。
この男は本当にわけがわからない、だから何が言いたいのか。
「なるほど、なるほど! まさに神業の域にも達しようという荒川先生の霊査ですが、とんでもなく根の深い因業を捉えておびただしいまでの水子を目にしていては、たった一体の別の水子を見逃してしまうのもさすがにやむを得ないことでしょう」
「……別の、水子?」
「まったくこの世は塞翁失馬、禍い転じて何が福となるのかわかったものではありません。本来なら荒川先生ほどの非凡の才がないこの身を嘆くべきでしょうが、今回は私が無能であることが幸いしました。土地の業を見抜けなかった私には、実は一体しか水子が視えなかったのです。ですが視えたのが一体だけだったからこそ、私にはその正体がはっきりとわかりました。その水子は、呪詛として使役されたモノです。――数多の水子たちの霊障に潜ませ、柚葉さんに水子を用いた悪質な呪詛をかけた者がいます」
大庭が鋭く目を光らせ、テーブルの上の胞衣壺を荒川の前へと押し出した。
瞬間、荒川の顔からさーっと血の気が引いた。どんなに表情は取り繕えても、皮膚の色までは誤魔化せない。自分の顔が青くなっているのを感じつつも、だがそれでも荒川は動揺をひた隠そうとする。
「呪詛なんて……そんな馬鹿な。私にはまったくそんなもの感じられませんでしたよ。大庭さんの勘違いではありませんか?」
大庭がわざとらしいほどに大きく目を見開いて、驚愕の表情を浮かべた。
「なんと! これは荒川先生らしくもない。こうして目の前に呪詛の証拠があるではないですか。この胞衣壺は間違いなく呪詛に用いられた呪物です。そもそも胞衣とは母の胎内から、子と合わせて産まれ出るもの。いうなれば胎児と一対の存在であり、胎児の魂と胞衣は繫がっている。ゆえに胞衣の上を跨がれると、繫がった胎児もその相手を怖れることになる。今でこそ胎盤は各自治体の条例にて専門機関での処分が義務付けられていますが、かつては他人に利用されることがないよう人知れず埋めて隠すものでもありました。これは胞衣というそんな強力な呪物を介し水子を操る、悪辣な呪詛です」
我慢しきれずに、荒川はギリリと奥歯を鳴らしてしまう。
どうして柚葉の前でそれを言う。そんなことをして、この男に何の得があるのか。
「確かに大庭さんがおっしゃるような呪詛は存在します。ですがその壺の中に入っているだろう胎盤が人のものとは限りませんよね? 例えば……そう、犬とか。昔から多産ゆえに犬は安産の守り神ともされてきました。ですから呪詛ではなく、むしろ犬の呪力を用いた安産のお咒いなのかもしれませんよ」
「安産のお咒いですかっ! それは確かに思ってもいませんでした! ですがそれが本当なら、どうして当の妊婦に何の説明もなく敷地内に胞衣を埋めるのでしょうか?」
うるさい、黙れっ!――そんな言葉が、喉まで出かかる。
この男が欲しいのはいくらなのか。一〇〇万か、二〇〇万か。半分までなら手を打とう。悔しいし納得もいかないが、それでもゼロとなるよりましだ。
「すみません、柚葉さん。例のものを持ってきてもらえますか?」
大庭に言われた柚葉が「はい」と答えて立ち上がり、キッチンへと向かう。
すぐに戻ってきた柚葉が、大庭と荒川が向かい合うテーブルの上に置いたのは、卓上用のカセットコンロとサラダ油だった。
わけがわからず呆気にとられた荒川の前で、大庭が胞衣壺を五徳の上に載せる。次いでコンロの上に置いた壺の蓋を開けると、中にドボドボと油を注ぎ始めた。
自分の大事な呪物を油まみれにされて、荒川がたまらず大庭に喰ってかかる。
「ちょっと! 何するつもりですかっ!」
「決まっています。呪詛返し、ですよ」
「……呪詛、返しですって?」
「そうです。荒川先生もご存じですよね? 古くからの呪詛返しの作法の一つに、呪詛に用いられた呪物を煮えたぎった油の中に投じれば、かけられた呪いはより強力な呪詛となって返る、というものがあります。今からここでそれをするのですよ」
真顔で口にした大庭の言葉に、荒川が青い顔でごくりと生唾を吞んだ。
「呪詛返しなんてよしなさいっ! たかが胞衣を使っただけの呪詛でしょ!」
瞬間、大庭が両目をカッと見開いた。テーブルの上に両手を突き、体重をかけたら天板が割れそうなほどの巨体で、ぐいと前に身を乗り出す。
「どんな呪法であっても『たかが』で済まされる呪詛なんてありません。
たしかに現行法の世界では呪詛は不能犯罪とされています。実際に藁人形に五寸釘を打って人が死のうともそこに因果関係は認められず、呪った本人はなんら罪に問われない。でも人が悪意をもって他人を害そうとするのが呪詛である以上、そんな無法が本当に許されると思いますか? まして今回の場合は、相手が妊婦であるのに水子を彷彿とさせる呪詛を仕掛けるなど言語道断、まさに外道です。ストレスから柚葉さんが早産し、子どもの身に何かあればどうする気だったのでしょうか。仮に呪詛をかけた側にそこまでの意図がなかったとしても、これは紛うことなく殺人です」
「……殺人だなんて、それはいくらなんでも大袈裟でしょう」
「いいえ。この呪詛を行ったものはこの世に産まれ出るはずだった子の命を奪いかけるという、人として許しがたい罪業を犯しました」
荒川を睨みつつ大庭が毅然と言い放つも、荒川とて簡単に尻込むわけにはいかない。
「人として許しがたいなどと言っても……先ほど、自分でも口にしていましたよね? 呪った本人はなんら罪には問われない、と。呪詛をかけても警察が捕まえることができない以上、呪詛はこの国では犯罪ではない。つまり罪などではないんですよ」
そんな苦し紛れの荒川の言い訳に、大庭の目がいっそう鋭くなった。その怒りすら滾っている大庭の目に怯み、荒川の背筋はしゃんと勝手に伸びてしまった。
「――なるほど、ごもっともです。確かに呪詛は犯罪ではないですし、それはぐうの音もでない正論です。ですが、だからこそ、なのですよ」
「……だからこそ?」
「えぇ。だからこそ、呪法を悪用した呪詛など決して認めてはならないのです」
そう言うと、大庭は油で満たした胞衣壺が載ったコンロに火を点けた。
すぐさま青い高温の炎がゴォーという音をたてて壺を熱し始め、荒川が「あぁっ!」という悲鳴にも似た声を上げた。
咄嗟にコンロのスイッチへと荒川の手が伸びるも、荒川のものより三回りは大きい節くれた大庭の手が、横から荒川の手首をつかんで止めた。
「荒川先生、どうしてそこまで呪詛返しの邪魔をしようとするのですか?」
「うるさい! いいから火を消せっ!」
「わかりませんね。この地に根ざした“水子の祟り”をこれから鎮める荒川先生にとって、別物である水子の呪詛を排除することは助けにしかならないはずですが」
油の温度が急激に上がり、壺の中にプツプツという気泡が生じ始める。
顔を真っ青にした荒川が、胞衣壺を叩いてでもコンロの上からどかそうとするが、振り上げた手もまた大庭により摑まれてしまう。大庭の手をどうにか振り解こうと腕を振り回そうとするも、自分の手首を易々と掌に収める大きな手はビクともしない。
コンロの熱で炙られて、顔の表面にヒリヒリしそうなほどの熱さを感じる。
だが――その反面、荒川は自分の背後が急速に冷え始めているのを感じていた。
――ゆっくりゆっくり、ひたひたと呪詛が戻ってくる。
自分が放った水子の形をした悪意が、そのままの姿でもって自分の元へと返ってくる。
荒川の耳には、嬰児の泣き声が聞こえ始めていた。
鳥類めいた「イギャー! イギャー!」という甲高い泣き声が、使役された分の恨みも追加して、遠くから自分の延髄の辺りに向かって徐々に近づいてくる。
壺の中で胞衣が蠢き躍り始めた。間もなく油は沸騰するだろう。沸騰してしまえば、大庭が言うように呪詛が返ってくる。
自分が仕掛けた呪詛など比ではない、圧倒的な強さとなって自らに戻ってくるのだ。
昔と違ってほとんど霊能力を失っている自分では、その力に抗うことなどできやしない。きっとひどい死に方をするはずだ。死産だった哀れな嬰児を弄んだ分だけ、苦しい思いをすることになるのだろう。
――背後から小さな手が、自分の肩に乗る感覚があった。次いでずしりと重たい何かが、背中にのし掛かってくる。きっとこの、自分が放ったものよりずっとずっと重い悪意に潰されるのだ。何もできることなく道端のヒキガエルのように轢き潰され、そして血反吐と内臓をぶちまけるのだろう。
荒川は、そんな死に様なんて御免だった。
「……わかったわ。もう認めるから……だから、火を消してちょうだい」
「それは何を認める、というんだ?」
上目で鋭く睨みつけてくる大庭が、質問でいっそう自分を追い詰める。本当ならば歯嚙みをしたいぐらいだが、今はもうなりふり構う時間すらも惜しい。
「えぇ、そうよ! 斉藤柚葉に呪詛を仕掛けたのは、私よ!」
その叫び声に、これまで黙って大庭の隣に座っていた柚葉が悲しげにうつむいた。
「おまえが、柚葉さんを呪詛した理由はなんだ?」
「お願いだから、先に火を消してよっ!」
「いや、理由が先だ」
「三沼秋穂に偽装させた“水子の祟り”に、本物の水子の霊を混ぜてより確実に斉藤柚葉を脅すためよ。脅して怖がらせて、お金を巻き上げるために決まっているでしょ!」
「つまり、柚葉さんを詐欺にかけたということだな?」
「そうよ! だから――もうこれでいいでしょ、早く火を消してちょうだいっ!!」
その言葉で大庭が荒川の手首を放した。途端に荒川がドタバタとテーブルの上に身を乗り上げ、大急ぎでコンロの火を消す。
同時に背後に憑きかけていた嬰児の気配が薄れ、荒川はテーブルに乗り上げたまま、胸を撫で下ろし脱力した。
「おいっ! 今の問答はちゃんと聞こえていたな?」
みっともない姿の荒川を横目に大庭が声を張り上げると、リビングのドアが即座に開き、線の細い優男――芦屋が室内に入ってきた。
「そんなに怒鳴らなくても聞こえてるよ。おまえが口にした『柚葉さんを詐欺にかけたということだな?』の問いかけに、荒川初枝が『そうよ』と答えたことぐらいはさ」
苦笑しながら近づいてきた芦屋が、腹ばいのままテーブルの上で啞然としている荒川の目の高さに合わせ、懐から警察手帳を取り出して開いた。
鼻先に突き出された警察手帳を目にするなり、荒川は本当に半分ぐらい目玉を飛び出させてから、芦屋と大庭と柚葉の三人の姿を代わる代わる見る。
――そして。
「荒川初枝。斉藤家に対する詐欺の自白により、一〇時五〇分をもって緊急逮捕とする」
抵抗する間もなく、荒川の手首に黒い手錠がかけられる。
あまりに突然過ぎる展開にまったく理解が及ばないらしく、荒川は金魚のごとく口をパクつかせる――が。
「加えて胞衣の無許可での取扱いは都条例により禁じられている。にもかかわらず土地の所有者にも内容物を開示せず敷地内に胞衣の投棄をしたことで、廃棄物処理法違反の容疑も追加となる。――覚えておけ。法には抵触せずとも、それでも呪詛は罪だ」
大庭が自分の警察手帳も取り出して開くと、荒川の首ががくりとうな垂れた。
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「身重なのにわざわざお越しいただいて、すみません。本来なら僕たちから赴いてお話をうかがうべきなんですが、どうしても大庭が動けなくなってしまいましてね」
そう言って頭を下げた芦屋に柚葉が案内されたのは、木目調のテーブルと淡いベージュのカーテンが印象的な、明るい雰囲気の応接室だった。
「調書を取るという話だったので、もっと殺風景な部屋に通されると思ってました」
室内をさっと見回してから、柚葉がお腹を支えつつクッションのある椅子に座る。木目調のテーブルの上には、既に二人分のアイスコーヒーが用意されていた。
「ドラマでよくみる殺風景な部屋は取調室ですよ。被疑者として勾留もされていない人には縁のない部屋です。――ちなみにそのコーヒーはカフェインレスですから、よろしければどうぞ」
その芦屋らしい気遣いが、妙に嬉しかった。柚葉は「でしたら遠慮なく」とガムシロップをたっぷり入れると、紙製のストローでやや酸味の強いコーヒーを啜った。
――大庭から「荒川の件で調書を取らせてください」と電話があったのが、昨日のこと。柚葉が「わかりました」と自宅に二人を迎える準備をしていたところ、今朝になっていきなり「今日の予定をキャンセルさせてもらえませんか」と芦屋から連絡があったのだ。なんでも急に大庭に用事ができて、都内を離れられなくなったらしい。
前の日の大庭との電話で、荒川が送致されたという話は聞き及んでいた。柚葉は決して法律に明るいわけではないが、それでも容疑者を逮捕できる期間は定まっていて、その間に証拠を集めて起訴しなければならない、ということぐらいは知っている。たぶん柚葉から調書を取りたいというのも、証拠集めの一つなのだろう。
だから「……もしよろしければ、私がそちらに行きましょうか?」と返したところ、やはり切羽詰まっていたらしく、芦屋が恐縮しながら「ではお言葉に甘えて、お願いしてもいいですか?」と返してきた。
幸いなことに早産の危険性はだいぶ薄れたと産婦人科からは言われており、それもこれも大庭と芦屋のおかげだと柚葉は思っている。警視庁がある東京メトロの桜田門駅までは、柚葉の家の最寄り駅から一時間半だ。それぐらいなら多少の運動がてらと思うことにして、柚葉は警視庁の本庁舎にまで一人でやってきたのだった。
柚葉がコーヒーを半分ほど飲み干しグラスをテーブルに戻したところで、テーブルの上に置いた芦屋のノートPCがちょうど立ち上がった。
「それじゃ、さっそくで申し訳ないのですが――」
という芦屋の言葉で、柚葉からの聞きとりが始まった。とはいえ質問はほとんどは形式的なものらしく、前に大庭と芦屋に話したことばかりだった。
柚葉が荒川と知り合ったのはいつか、どんな会話を荒川としたのか、そして荒川からはどのような被害を受けたのか。それを三沼のことも交えながら柚葉の口から説明し、気がつけば三〇分ほどで一通りの話が終わって、芦屋がPCを閉じた。
「ありがとうございました。これでどうにか花ちゃんから怒られずにすみますよ」
晴れやかな表情をした芦屋の口からぽろりと出た、一周してもはや聞き慣れない感すらある名前に、柚葉はつい「花ちゃん?」と小首を傾げてしまった。
「あぁ、花ちゃんというのは、うちの担当検事の名前なんですよ。これが黙ってさえいればそこそこ可愛いのに、すぐ怒って角を出すからとにかくおっかないんです」
芦屋が両手の人差し指を突き立てた手を、自分の頭の上にポンと乗せる。子どもっぽくも、でもどこか芦屋らしいその仕草に、柚葉はコロコロと笑ってしまった。
柚葉の屈託のない笑みを前にし、芦屋はテーブルの上で手を組み優しく眦を下げた。
「どうですか? そろそろ事件に関するショックは薄れてきましたか?」
「……そうですね。正直に言えば、今でもよくわからないことばかりです。でも昼間に例の出窓のカーテンを開けたままリビングでうとうとしたりすると、こないだまでの水子に怯えていた自分は何だったのかと、そう思ったりもします」
さっきまで芦屋の調書に協力していたこともあり、柚葉の脳裏にはここ一ヵ月ぐらいの悪夢めいた出来事がいくつも蘇っていた。
その中でも最も苛烈に記憶に残っているのは、やはり大庭と荒川の対決だ。呪詛返しを匂わせながら、荒川を詐欺の自白に追いやった大庭――でも柚葉はあのときのことで、どうしても気になっていることがあった。
「あの……一つだけ、お訊ねしてもいいですか?」
「えぇ、どうぞ」
「実は、大庭さんが荒川さんにしようとした呪詛返しですが、あれ途中で終わっていますよね。あの壺を使った水子の呪いが本物であったのなら、呪詛返しを半ばでやめてしまって、呪いをかけられた私とお腹の子はだいじょうぶなんでしょうか?」
柚葉としてはそれなりに勇気を出して口にした質問に、以前に陰陽師と名乗った警察官が困ったように苦笑した。
「なるほど……疑問は確かにごもっともですね。でも、実のところまったく問題ないんですよ。何しろ大庭がいたわけですから」
芦屋の答えの理由がまったく理解できず、柚葉が微かに眉を顰める。
すると、さっき逡巡していた以上に弱りきった笑みを芦屋が浮かべた。
「柚葉さんが呪詛の影響で見ていた血塗れの嬰児に威嚇される夢ですけれど、その夢をいつ頃から見なくなったか覚えていますか?」
「えぇ、覚えています。銀行前から救急車で運ばれたあの日、つまり芦屋さんに撫物をしていただいた日からです」
「そうですね。でもあの撫物は、実はただの気休めなんです。というのもあの段階で、もう荒川が柚葉さんにかけた呪詛は解けていたんですよ。――救急車で運ばれる前、柚葉さんの身体に大庭が触れましたよね?」
質問の言葉に一瞬ギョッとするが、どうやら変な意味ではないらしい。だから柚葉は少し考え、銀行前で倒れかけたとき大庭に身体を支えてもらったことを思い出した。
……そういえば、あのときは自分のお腹にぶら下がった視えない何かが、突然に鉄のように重くなって倒れかけたのだ。その何かが、大庭が触れた途端にスッと消えて、それ以降はまったく感じなくなった。
「あの堅物はね、実は大の怪異嫌いなんですよ。特にこの世の法則をねじ曲げる呪詛はことさら大嫌いでしてね、虫唾が走ってしょうがないそうです。できるものなら呪詛の存在を否定し、この世にそんなものはありはしないと思いたくて仕方がない。そんな思いが強すぎてね――あいつは近づくだけで生半可な呪術を打ち消してしまう『怪異殺し』の体質になっているんです。だから倒れかけた柚葉さんを大庭が支えたとき、その段階で僕が手を出すまでもなく荒川にかけられた呪詛は綺麗さっぱり消えていたんです」
あまりにも突拍子のない、とても簡単にうなずけるものではない芦屋の話に、柚葉は「はぁ」と生返事をする。
「ついでにもう少し種明かしをしますとね、もともと荒川は都内で似たような詐欺を繰り返していたんです。ほとんど偽装の怪現象の中に、一点だけ本物の呪詛を混ぜる。その呪詛は本物だから、周りの怪異もそうだと思い込み詐欺の被害届はまるで出てこない。そのやり方があまりに悪質でして、僕と大庭の二人で捜査していたんですよ。そうしたらあるときを境に都内での活動をやめ、別の県へと移っていた。それから県を跨いで捜査を進めていくうちに行き当たったのが、いま柚葉さんがお住みのあの家なんです。
ですから荒川に対し、僕たちは証拠を集めての通常逮捕を目指していました。でも柚葉さんの様子を見て、大庭は考えを変えた。柚葉さんに仕掛けられた呪詛はそれほど大きな影響があるものではないのですが、妊婦のあなたとの相性は最悪だった。『怪異殺し』の影響で呪いは解けたものの、しかし荒川はあれでもかつて一世を風靡した霊能者の残りカスです。第二、第三の呪詛をかけることだって可能だったんですよ。なのでこれ以上の呪詛をあなたにかけさせないため、大庭は一計を案じて荒川を罠に嵌め、そして時間のかかる通常逮捕から緊急逮捕に切り替えて身柄をおさえたんです」
大庭の話をする芦屋の顔は、どことなく誇らしげだった。
今のような話は、きっと柚葉のような参考人にすべき話ではないだろうに、でもまるで友人のことを自慢するような口調で芦屋は語ったのだ。
「信じる者は救われると言いますが、自分の信念にそぐわないものを真っ向から否定して信じたくないと思う奴も、どうやら救われるみたいなんですよね」
今日一番の機嫌の良さで、芦屋が楽しそうに微笑んだ。
――そんな按配でもって、柚葉の事情聴取は終了した。
その後はロビーまで芦屋に送ってもらった。「今日はありがとうございました」と頭を下げる芦屋に、柚葉も「こちらこそ」と頭を下げ、入口で立哨する制服警察官の横を通り抜けて本庁舎を後にする。
警視庁から東京メトロ桜田門駅までは一分とかからない距離だ。警視庁の敷地から歩道に出て、すぐ目の前にある地下鉄への入口階段を手すりを使って降りていく。
するといきなり「柚葉さんっ!」と呼びかけられて、階段を降りる足を止めた。
突然に響いたその胴間声は、大庭のものだった。桜田門駅の方角から階段を上がってくる大庭と、柚葉はばったり出くわしたのだ。
「芦屋から聞いております。別の捜査で動けなくなった私のせいで、わざわざ本庁までご足労いただいたそうで、大変恐縮です」
大庭は柚葉より二つ下の段に立っているにもかかわらず、それでもなお柚葉よりも目の位置が高い。そんな大男が直角に近い角度で頭を下げる姿は、律儀過ぎてほんの少しだけ滑稽だった。
「いえ、お気になさらずに。むしろこちらこそ、その節は本当にありがとうございました。こうして電車で都内に出られるぐらいに回復したのも、大庭さんたちのおかげです」
「……いやいや、そう言っていただけると警察官冥利に尽きますね」
角刈りの頭に手を添えて、いかつい顔にまったく似合わない照れた表情を浮かべながら、大庭が盛大にはにかんだ。
そんな見た目とのギャップがすごい大庭の様子を前にし、柚葉は笑いを堪えつつ、ふと芦屋から聞いた信じられない話を思い出した。
「あの……つかぬことをうかがってもよろしいでしょうか?」
「はい、なんでしょうか」
「大庭さんが『怪異殺し』というのは、本当ですか?」
柚葉が口にした途端に、大庭の眉がぴくりと跳ねて顔が固まった。
目だけで周囲を見回し、周りにほとんど人がいないことを確認してから「それは、芦屋が言ったのですか?」と小さな声で柚葉に問いかける。
柚葉は別に口止めされなかったよね、と思いながら、おずおずとうなずいた。
「まったく……あの出向陰陽師は自覚がまるで足りないゴンゾウで、本当に困ったものです。あの不良警察官の性根を、もう少し叩き直してやらないといかんですね」
と、大庭はため息を吐くも、柚葉の耳に顔を近づけると囁くような声で付け足した。
「……『怪異殺し』のことは、誰にも内緒ですよ」
芦屋みたいなその言い草がちょっとだけおかしくて、柚葉は微笑みながら無言のままで首を縦に振った。
「それと、もしも誰かに呪詛されていると感じた際には、どうぞ自分たちにご連絡ください。この国は法治国家です。どれだけ被疑者が悪辣な呪法を用いようと、必ず現行法にのっとって司法警察たる自分ら『呪詛対策班』が対処をいたしますので。
――ちなみに私の体質もそうですけれど『呪詛対策班』のことも口外禁止ですから、もし相談をくださるときにはこっそりご連絡ください」
「はい、わかりました」
「まあ、もっとも呪詛のようなあってなきがごとしの怪異の類いなんてものは、本当は信じないようにするのが一番なんですけどね」
告げるなり、往来にもかかわらず大庭が「あははっ!」と豪快に笑った。
柚葉も釣られて「ははっ」と笑ってしまう。
「本日は捜査へのご協力、まことにありがとうございました。それでは他の事案がありますので、自分はこれにて失礼いたします」
最後にもう一度頭を下げ、大庭が柚葉の横を歩き抜ける。
柚葉が慌てて振り向くと、大庭は背を向けたまま片手を振りつつ、警視庁の正門に向かって歩いていくところだった。
柚葉はほんの少しだけ襟を正すと、それから去りゆく大庭の背中に向かって深々と一礼をした。
(気になる続きは、ぜひ本書でお楽しみください)
書誌情報
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