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【第2回】『リーガル・ピース! ~その和解、請け負います~』加藤実秋

『メゾン・ド・ポリス』『警視庁アウトサイダー』など話題のドラマ原作を手掛ける加藤実秋の新シリーズが開幕。実在する「ADR=民間のトラブル調停組織」を舞台に、“白黒つけたい女”と“グレーを愛する男”の異色コンビが誕生! 弁護士、弁理士、臨床心理士、一級建築士……など、各分野で一流の腕を持ちながら一癖も二癖もある個性的な仲間たちとともに、あらゆるトラブルを<裁判せずに>解決することを目指して奮闘する、新感覚リーガル・エンタテインメント!
『リーガル・ピース! ~その和解、請け負います~』の第1話・第2話を、全6回の連載形式でお届けします。どうぞお楽しみください!


【連載小説】加藤実秋『リーガル・ピース! ~その和解、請け負います~』

CASE1「グレーな和解なんてあり得ない!」

5
 
「Juliana's Tokyo!」
 玄関に入るなり、男の雄叫びが聞こえた。ぎょっとした明日花の耳に、続いて流れだした歓声と、ハイテンポなテクノ音楽が届く。
 またか。うんざりして、明日花はスニーカーやサンダルが並ぶの隅でパンプスを脱いだ。
 冒頭にジョン・ロビンソンのこのかけ声が流れて、一曲目がこれってことは、ジュリアナ東京の「~THE BEST20~」ってコンピレーションアルバムだな。玄関に上がり、スリッパを履きながら察するのと同時に、そんな自分が情けなくなった。ジュリアナ東京は、かつて東京・しばうらに所在したディスコで、一九九○年代のバブル末期ににいっせいふうした。その花形DJだったのが、ジョン・ロビンソンだ。
 玄関の先の廊下を進み、奥のドアを開けた。大音量で流れるテクノ音楽に眉をひそめながら部屋を進む。十二畳のリビングダイニングキッチンで、手前のキッチンの先にダイニングセットが置かれ、その奥にある掃き出し窓の前には、白い革張りのソファと、ガラス製のローテーブルが並んでいる。明日花はソファの手前で立ち止まり、フローリングの床に荷物を下ろして眼前の光景を眺めた。
 ソファの脇には若い男が立ち、胸に古いCDラジカセを抱えていた。音楽の発生源はそれで、男はリズムに合わせて体を揺らしている。そしてソファの上では、中年の男女がダンスの真っ最中。二人とも、片手に持った団扇うちわを頭の上でひらひらと振り、音楽に「フゥ~!」「ソレソレ~」と、合いの手を入れながら、腰をくねらせている。
「ただいま」
 声をかけたが、三人は気づかない。うんざりし、明日花は若い男の隣に行ってCDラジカセの停止ボタンを押した。ぶつりと音楽が途切れ、動きを止めた三人が明日花を見る。
「お帰り」
「お疲れ」
 まず、ソファの上の男女が反応した。女は明日花の母・、五十二歳。小柄で、顔も小作りだ。一方、男は明日花の父・りょう五十五歳で、こちらも小柄だが、派手な目鼻立ちだ。ソファから下りる二人に、明日花は訊ねた。
「何してるの。仕事は?」
「お母さんは、今日は在宅ワークなの。投稿用の写真の撮影とか、打ち合わせとかね」
「お父さんは……ほら、あれだ。次の作品への充電期間ってやつだな」
 しれっと答えた二人だが、明日花の胸には不信感が湧く。茉子の肩書きは美容系インフルエンサーで、亮太はマルチクリエイターを名乗っている。
「それがなんで、ジュリアナごっこになっちゃうの? いつも言ってるけど、うちは音楽とかテレビとか、音が大きすぎ。近所迷惑でしょ」
「ごめんね。つい昔の血が騒いじゃって。見て、これ。ジュリせんの代わり」
 そう言って、茉子は手にした団扇を突き出した。ジュリ扇とは「ジュリアナせん」の略で、がみの部分に派手な色使いの羽根が付いている。バブル時代のディスコでは、これを持った女性がフロアに備えられたステージ、通称「お立ち台」に乗って踊っていたそうだ。そんな茉子の今日のファッションは、今どきどこで買ったのか、分厚い肩パッドの入った白いブラウスに黒いパンツだ。
「お母さんは、ディスコクィーンだったからな。げきマブで目立ちまくってたし」
 なぜか自慢げに、亮太も言う。激マブとはバブル期に使われた言葉で、ものすごくかわいいという意味らしい。亮太はシンプルなポロシャツにジーンズ姿だが、こんがりと日焼けし、ポロシャツの襟をぴんと立てている。
「お父さん、クィーンは言い過ぎ。激マブは本当だけど」と茉子が訂正し、亮太は「そりゃ、めんごめんご」と謝って、一緒にけたけたと笑う。明日花が二人を横目で睨んでいると、CDラジカセを抱えた男が振り返った。
「俺が、母さんたちに頼んだんだよ。次に来そうなトレンドをひらめいちゃってさ」
 すらりとした体を、人気ストリートブランドのロゴが入ったスウェットの上下に包んだこの男は、明日花の兄のまんろう、二十六歳だ。「何を閃いたか、知りたい?」と問うた万太郎は、明日花の返事を待たずに語りだした。
「俺の予想では、次にくるのは『シルバーお立ち台』。近ごろ、九○年代にディスコで遊んでた人たちをターゲットにしたイベントが、人気なんだよ。だから、手すりとかリフトとか付けて、いま五十代の人が高齢者になっても、安心して踊れるお立ち台をつくれば、売れると思うんだ。母さんたちは、ど真ん中世代だろ? だからリサーチとして、当時の踊りを見せてもらってたんだ」
 彫りの深い整った顔を輝かせ、万太郎は語った。一方、明日花の頭には「『次』って言うけど、いま五十代の人が高齢者になるには、そこそこ時間がかかると思うんだけど。それに、手すりやリフトを使ってまでお立ち台で踊りたい人って、どれだけいるの?」という突っ込みが浮かんだが、面倒臭いので口には出さない。
 万太郎の職業はフリーのトレンドスポッターで、前に明日花がネットで検索したところ、時代の変化を読み、流行を予測する仕事らしい。しかし、その予測が企業などに採用されたという話は、聞いたことがない。
 茉子と亮太は、明るくてノリもいいものの、言動の端々にバブル臭が漂う。二十三歳の明日花が当時の流行や風俗に詳しいのは、その影響だ。そして、万太郎はイケメンだが、何かと的外れ。加えて、その三人は横文字の、よくわからない職業を名乗り、ちゃんと働いているのか定かではない。結果、明日花は幼い頃から家族のフォローに廻ることが多く、それは今も続いている。
「ところで、明日花。それはどうしたの?」
 ふいに万太郎が話を変え、明日花の足元に置かれた、永都建物の社名入り紙袋を指した。茉子と亮太の目もそちらに向き、明日花は「来たか」と緊張して答えた。
「会社に置いてあった私物。実は私、永都建物を辞めたの」
 部屋に沈黙が流れ、明日花が事情説明を始めようとした矢先、万太郎が言った。
「なあんだ」
 驚き、「えっ?」と返した明日花に、万太郎はこう続けた。
「お菓子かと思ったのに。明日花はときどき、『会社でもらった』って、レアもののガレットとかバウムクーヘンとかを持って帰って来たから」
「ひとが仕事を辞めたっていうのに、お菓子? ひどい……そもそも、平日の真っ昼間に帰って来た時点で、おかしいでしょ。お母さんとお父さんは、そう思わなかったの?」
「もちろん思ったわよ。でも、あなたは昔から切り替えが早くて、違うなと感じたことはすぐにやめてたでしょ? ほら、幼稚園の時にバレエスクールに入ったけどすぐにやめて、『あっちの方がいい』って、同じビルでやってたそろばん教室に入り直したじゃない」
「まあ、そうだけど」
「ね? それと同じよ。会社なら、お母さんも一度、辞めたことがあるし」
 茉子が意味不明の言い訳で話をまとめ、それに亮太も乗っかる。
「しばらく、のんびりするといいよ……ちなみに、お父さんは二度、会社を辞めてる」
 最後のワンフレーズは胸を張って言い、「二度」とピースサインを掛けたつもりか、右手の人差し指と中指を立てて見せる。すかさず、万太郎も続いた。
「俺は一度も就職したことないけど、バイトを三日でクビになったことがある」
「そういう話をしてるんじゃないでしょ」
 抗議した明日花だが、脱力して言葉に力が入らない。
 なんでこんなことに。午前中と同じ疑問が浮かび、やるせなくなる。あの時、部長に渡された紙袋の中身を見なければ。あるいは、札束に気づかなかったふりをしていれば……ううん。私は間違ってない。自分で自分に言い聞かせたが、迷いは消えず、不安も湧いた。
「疲れちゃった。寝るから、起こさないでね」
 家族にそう告げて荷物を持ち、明日花は廊下の先にある自室に向かった。
 
6
 
 翌朝。明日花は、和解センターノーサイドを再訪した。一晩考え、裁判ではなく和解あっせん手続というかたちでもいいから、真相を明らかにしたいと思ったのだ。
 明日花が昨日の非礼を詫び、決意を伝えたところ、津原元基は「わかりました」と応え、
今後の流れをざっと説明して、一枚の書類を差し出した。それは和解あっせん手続のもうしたてしょというもので、明日花は住所氏名の他、申立の理由や紛争の内容などを書き込んだ。さらに津原の助言を受けながら、和解にあたっての条件は、紙袋の二百万円と自身に対するパワハラの事実関係の確認と謝罪、慰謝料として五十万円の支払いだとも記した。完成した申立書を受け取った津原は、「後ほど、連絡します」と告げ、明日花と一緒に事務所を出た。そしてその間ずっと、彼は昨日と同じ薄い笑みを浮かべていた。
 津原が階段を駆け下りて行ってしまったので、明日花は一人で一階に戻った。時刻は午前十時過ぎだ。ラウンジを横切って、出入口のドアに向かおうとした時、
「よう」
 と声をかけられた。立ち止まって横を向いた明日花の目と、傍らの壁の前に並んだテーブルの一つに着いた男性の目が合う。昨日、ここに来た時も見かけた人だなと思いつつ、明日花は「どうも」と会釈をした。他のテーブルにも、いくつかの人影がある。
「彼女、津原さんとこのお客だろ? お茶でも飲んで行きなよ」
 そう言って、男性は部屋の中央に置かれた、楕円形の大きなテーブルを指した。明日花は「いえ。このあと予定が」と返そうとしたが、男性に背中を押され、テーブルに向かってしまう。仕方なく、明日花が椅子を引いてテーブルに着くと、男性は問うた。
「何を飲む? ここ、このビルのロビー兼ラウンジなんだ。向こうのカウンターで、大抵のものはれられるぜ。コーヒーに紅茶、あとは、緑茶かウーロン茶もあった気が」
「緑茶とウーロン茶。あるのはどっちですか?」
 そう切り返した明日花に、男性はきょとんとする。ライトブラウンのツーブロックヘアに、オーバーサイズの白いジャージという格好で、両手の指と左の耳たぶに、シルバーのごつい指輪とピアスを装着している。すると、
「緑茶ですね」
 と、別の声が答えた。顔を上げると、ドアの前に人影があった。こちらも昨日ここで会った、管理人らしき年配の男性だ。昨日同様ベージュの作業服姿で、ビルの外の掃除をしていたのか、手にほうきとちり取りを持っている。明日花はまずツーブロックヘアの男性に、「緑茶をお願いします」と答え、年配の男性には、「昨日は、ありがとうございました」と会釈した。
「いえいえ。お茶は私が淹れますよ。ちょうど、一休みしようと思っていたところです」 
明日花とツーブロックヘアの男性ににこやかに告げ、年配の男性は手にしたものをドアの脇に置いて、カウンターバーに向かった。「ありがと」と返し、ツーブロックヘアの男性は、当たり前のように明日花の隣に座った。そして、
「てな訳で、べんしまこうせいです。よろしく。ちなみに二十八歳、独身な」
 と、「ら行」を巻き舌で言い、人差し指と中指の間に挟んだ名刺を明日花に渡した。それは真っ黒で、左上に金色の墨文字で「戸嶋特許事務所」と書かれ、中央に楷書で「弁理士 戸嶋光聖」とあった。その下に記された住所は、このビルの二○二号室だ。
「弁理士?」
「そう。発明やデザイン、商標等の権利を、依頼人に代わって特許庁に出願したり、トラブルが起きた時は、その対応もしたりする。つまり、知的財産権のスペシャリストだな」
「なるほど」
 明日花が相づちを打つと、戸嶋はさらに続けた。
「実は俺、元ヤンキーでさ。ガキの頃は酒、煙草、バイクにケンカざんまい。でもハンパやってらんねえし、猛勉強の末、国家試験に合格して開業したんだ」
 遠い目でそう語ったかと思いきや、「これ、弁理士のしょう。俺はだいもんって呼んじゃったりしてるんだけど」と訴え、ジャージの左胸を引っ張って見せた。そこには、弁護士のものに似たデザインの金色のバッジが取り付けられている。
「はあ」
 確かに、見た目と話し方はいかつい。でもステレオタイプというか、ドラマやマンガに出て来るヤンキーそのままという感じだ。さらに小柄で童顔だからか、戸嶋からは、迫力や威圧感といったものは伝わってこない。明日花がそう感じた直後、
「なに言ってんのよ」
 と声がした。並んだテーブルの一つから女性が立ち上がり、コツコツとヒールの音を響かせながら近づいて来る。シャープな顔立ちの美人で、長い髪を肩に垂らしている。この人も、昨日ここで会ったな。そう思い、明日花は黒いパンツスーツをきりりと着こなした女性を見上げた。彼女も明日花を見て、言う。
「いまの話、真に受けちゃダメよ。戸嶋くんのは、ただのキャラ設定、ビジネスヤンキー。開業して間もないから、ちょっとでも目立って仕事を取ろうってこんたんなの」「へえ」
 戸惑いつつ、明日花はそういうことかと思う。美女は椅子を引き、戸嶋とは反対側の明日花の隣に座った。眉根を寄せ、戸嶋が騒ぐ。
くればやしさん、営業妨害はやめてよ。俺はビジネスヤンキーじゃねえし。偏差値三十五の、東京中のワルが集まる高校出身だし」
「入試の時に発熱して、そこしか受からなかっただけでしょ。在校中は、いじめられないように周りに合わせてただけで、大学はしっかりけいおうに入ってるじゃない。いまだにたがの実家暮らしで、家族とあいあい。そのピアスだって、子ども用のシールのやつだし」
 そう応戦し、紅林というらしい美女は鼻を鳴らした。
「えっ。そうなんですか?」
 思わず明日花は問い、戸嶋はうろたえた様子で手を上げ、左の耳たぶを隠した。と、着信音が流れだし、戸嶋はジャージのポケットからスマホを出した。そして画面を見るなり、明日花に「ちょっとごめん」と告げて立ち上がった。
「ママ? いま仕事中なんだけど――え? クロワッサン? わかった、買って帰るから」
 スマホを耳に当て、困り顔でやり取りしながらテーブルを離れる。それを唖然と見ている明日花に、紅林が「ね?」と笑いかけた。と、思いきや表情を引き締め、言う。
「挨拶がまだだったわね。私は紅林ぐさりんしょうしんをやってて、ここの三階で開業してるの」
「江見明日花といいます……臨床心理士さんっていうと、カウンセリングとかしてるんですか?」
「そう。話したいことがあったら、いつでも来て。津原さんの依頼者なんでしょ? これから、大変だと思うから」
「そうなんですか? あの、津原さんってどんな方ですか?」
 チャンスだと、明日花は問いかけた。戸嶋は電話中で、年配の男性はカウンターの中でお茶を淹れている。くるりと、紅林が首を回して明日花を見た。気の強そうな大きな目と、小さな口。メイクも上手いが、歳は三十代半ばか。
「そう見えないかもしれないけど、やり手よ。『和解の達人』って呼ばれてるぐらいだし」
「達人? ふうん」
 そう呟いた明日花に、紅林はいたずらっぽく笑って訊ねた。
「それより、明日花ちゃんって、曖昧なことが嫌いで、何でもはっきりしないと気が済まない性格でしょ? さっきの、緑茶がどうのって戸嶋くんとのやり取りを聞いて、ピンときちゃった」
 気まずくなった明日花だが、大当たりなので「はい」と頷くしかない。万事いい加減な家族の中で育った反動か、いつしか明日花は「私だけはしっかり、白黒はっきり」をモットーにするようになった。
「すごいですね。お仕事柄、わかるんですか?」
「まあね。でも、明日花ちゃんはわかりやすすぎ。服装にも現れてるし」
 即答し、紅林は明日花が身につけたものに目を向けた。今日は、黒いジャケットに白いカットソー、赤いスカート。つい、はっきりした原色を選んでしまいがちだ。
「俺も仕事柄、いろいろわかるぞ」
 低くぼそりとした声がして、明日花は「わっ」と声を漏らす。いつの間に来たのか、後ろに太った中年男性がいた。彼も、昨日ここで見かけた。動じる様子もなく、紅林は「あら」と言って中年男性を明日花に紹介した。
えいしんさん。一級建築士で、二階の戸嶋くんの事務所の隣に、アトリエを構えてるの……彼女は、江見明日花ちゃん」
「ど、どうも」
 たじろぎながら挨拶する明日花を、諏訪部がわった小さな目で見つめる。セミロングの髪を頭の後ろで小さなポニーテールに結い、台襟の黒いシャツとスラックスを身につけている。明日花を見つめたまま、諏訪部は言った。
「お前の家、ブロックガラスをはめ殺しにした窓があるな? で、リビングルームにフラミンゴのかたちをしたライトを置いてる」
「いえ。うちは普通のマンションで」と返しかけた明日花だが、自宅の窓の一つがブロックガラスのはめ殺しだと気づいた。加えて、リビングルームにフラミンゴの形をしたランプはないが、瀬戸物でできた、大きなヒョウの置物があるのにも気づく。江見家には他にも、イルカの絵のリトグラフ、音に反応して動く花の形をしたおもちゃ等々、茉子と亮太が買い集めたバブル臭漂うアイテムが並んでいる。
あたらずといえども遠からずって感じか」と呟き、諏訪部は低く笑った。つい身を引いた明日花だが、閃くものがあり、諏訪部と紅林、まだ電話中の戸嶋を見て問うた。
「建築士、臨床心理士、弁理士。弁護士の津原さんも含めて、みなさん、が付く仕事、いわゆるぎょうなんですね」
「そう。このニュー東京ビルヂングのテナントは、士業従事者が多いの。私たち以外にも、いろいろいるわよ……ちなみに、あそこのきよみやりゅういちろうさんも同じ。ここの管理人で、ビル管理士の資格保持者。でも司法試験の合格を目指してて、勉強中」
 そう紅林が説明した時、清宮がカウンターから出て来た。湯飲み茶碗が載ったお盆を手に、テーブルに歩み寄る。
「ほんのヒマ潰し、年寄りの手習いですよ」
 そうちょうし、清宮は明日花の前に湯気の立つ湯飲み茶碗を置いた。気づけば、今日もカウンターの上には、参考書らしき本とノートが乗っている。礼を言い、明日花は湯飲み茶碗を口に運んだ。
 新橋って場所柄、士業従事者が多いのはわかる。でもこのビルの人って、津原さんを含め、なんか変。胸騒ぎがしたが、お茶はほんのりと甘みがあり、香りもよかった。思わず「おいしい」と言うと、清宮は無言で微笑み、カウンターに戻って行った。
 
7
 
 その三十分後。津原元基は喫茶店にいた。新橋のオフィス街にあり、歴史を感じさせる店内の天井にはシャンデリアが輝き、椅子は赤いベルベット張り。客は中高年ばかりだ。
 テーブルの上に開いたメニューを眺める津原に、店員の中年男性が歩み寄って来た。
「ご注文は、お決まりですか?」
「コーヒーというところまでは。その先が、なかなか」
 メニューに目を落としたまま、深刻な顔で答える。ここはコーヒー専門店らしく、メニューには十種類ほどの銘柄が並んでいる。店員の男性が言った。
「酸味が強いものがお好みでしたら、キリマンジャロ。苦味をお求めでしたら、マンデリン。バランスがほどよいのは、サントスですね」
「なるほど」
 相づちを打った津原だが、その説明で情報が増し、さらに迷う。「う~ん」と唸って腕組みした直後、店のドアが開いた。入って来たのは茶色のスーツを着た、小柄な中年男。津原が立ち上がって会釈すると、小柄な男は店内に視線を巡らせ、通路を近づいて来た。気を利かせ、店員の男性はテーブルを離れようとした。が、小柄な男はメニューも見ずに、
「ブレンド。ホットで」
 と告げ、津原の向かいに座った。その迷いのなさにつられ、津原は「同じものを」と言ってしまう。店員の男性が立ち去り、津原は小柄な男に向き直った。
「永都建物の高部和真さんですね?」
「ええ。そちらは弁護士の……津原さんでしたっけ?」
 そう問い返し、高部は目を動かして津原を見た。「はい」と頷き、津原は名刺を差し出した。それを受け取った高部は、怪訝な顔をする。
「和解センター? 江見さんのことで、話があるんですよね」
「はい。江見明日花さんは、永都建物を退職するに至った理由は職場内のパワーハラスメントにあり、その発生原因は元上司であるあなたと、使用者である永都建物にあると考えています。この件について江見さんは裁判ではなく、和解あっせん手続による解決を望んでおり、そのあっせん人として、私を指名しました。こちらが、和解申立書の写しです」
 淡々と告げ、津原は和解申立書の写しをテーブルの高部の前に置いた。そこには、申立人である明日花と、あっせん人である津原、さらに和解の相手方にあたる高部と永都建物の名前と住所が記され、その下に申立の趣旨と理由、紛争の内容、和解にあたっての明日花の条件も記されていた。驚いた様子でそれを読む高部に、津原は続けた。
「高部さんが和解手続に応じられた場合、事件の事実関係と事情を聴取する、第一回の審理を行う日時を決めます。審理は弁護士である私が運営しますが、事件の性質によって、専門委員が加わる場合もあります」
「事件?」
 顔を上げ、高部が問う。そこに店員の男性がコーヒーを運んで来たので、彼が立ち去るのを待って津原は答えた。
「民事訴訟法にのっとった手続なので、そう呼びます。ただし、和解あっせん手続は裁判とは違い、非公開で行われるため、紛争の内容が外部に漏れることはありません。ですから」
 そう説明を続けようとしたが、高部に強い口調で「冗談じゃない」と遮られた。
「私は、江見さんの退職とは無関係です。仕事上の指導をしたことはありますが、社内の規程はもちろん、労働施策総合推進法、いわゆるパワハラ防止法に抵触するような言動は取っていません」
 予想通りの反応なので、津原は「そうですか」とだけ返す。和解申立書の一箇所を指し、高部はさらに訴えた。
「ここに紙袋に入っていたお金について書いてあるけど、誤解なんです。あれは尾仲社長が個人的な買い物の支払いのために銀行から下ろし、紙袋にしまったのを忘れて、私に渡してしまったものです。お金はすぐ社長に返したし、後日、江見さんにもそう説明しました。しかし彼女は納得せず、精神的に不安定な様子だったので、社の担当部署の判断で仕事を減らし、落ち着いてもらおうとしたんです」
「では、その担当部署の方は、これからいらっしゃるんですか? 御社の法務部、あるいは人事部の方は? 通常、こういった場には同席なさるはずですが……さらに言えば、私が御社の前からお電話差し上げたにもかかわらず、社内の応接室などではなく、喫茶店を面会の場所に指定するというのも、珍しい」
 コーヒーカップを口に運び、あくまでも穏やかに屈託なく、津原は告げた。わかりやすくうろたえながら高部が返す。
「たまたま出かける用があったんですよ。まさか、こんな話なんて思わなかったし」
 それには反応せず、津原はカップをソーサーに戻して話をまとめた。
「お忙しいでしょうし、そろそろ結論を。高部さんは、今回の和解あっせん手続に応じますか? 手続は申立人と相手方、双方の承諾がなければ行えない決まりです」
「応じません。賄賂なんて、言いがかりもいいところだ。そもそも、証拠はあるんですか?」
「どうでしょう」
 穏やかに、しかし言葉に含みを持たせ、津原は返した。顔を強ばらせ、高部が黙る。それを確認し、津原は「失礼します」と告げて立ち上がり、伝票を手にレジに向かった。
 
8
 
 さらに三十分後。明日花は、まだニュー東京ビルヂングのラウンジにいた。
 紅林と戸嶋は話が面白く、諏訪部は不気味だったが、清宮がお茶に続いて和菓子や果物を出してくれたこともあり、つい長居して、自分が津原に和解手続を依頼するに至ったいきさつを喋ってしまった。すると、その津原がドアからラウンジに入って来た。今朝会った時と同じ、ベージュのジャケットとパンツという格好で、モスグリーンのバッグを斜めがけにしている。テーブルに着いた明日花を見ても驚く様子はなく、「連絡しようと思ってました」と微笑み、歩み寄って来た。向かいの席に座ってバッグを下ろし、こう続ける。
「永都建物の高部さんに会いましたよ」
「えっ」
 明日花ははっとし、それが合図のように紅林と戸嶋、諏訪部が立ち上がった。それぞれ慣れた様子で元のテーブルに戻り、清宮もカウンターバーに向かう。それを見送り、明日花は訊ねた。
「部長はなんて?」
「和解手続を拒否するそうです。江見さんの主張は、誤解と言いがかりだとか」
「ひどい。なんでそんな……これから、どうするんですか? まさか、お終いじゃありませんよね?」
 ショックと不安で取り乱し、明日花は身を乗り出した。部屋の奥から視線を感じるので、紅林たちはそれぞれ作業をしつつ、こちらに聞き耳を立てているのだろう。
「もちろん。最初はこんなもんですよ。ここから、どうやって手続を承諾させ、和解に持っていくかが、腕の見せ所です」
 薄く微笑みつつ、津原は答えた。が、その様子に不安が募り、明日花は問うた。
「もう一度、警察に相談するのは? 証拠がないとダメですか? 津原さんも、あの札束は私の誤解で、正しいのは部長だと思いますか?」
「さっきの面会の様子からすると、そうとも思えないんですよね。多分、江見さんが見た札束は、尾仲社長からの賄賂でしょう」
「やっぱり! なら、裁判しましょうよ。依頼を和解手続じゃなく、訴訟に変えます。できますよね?」
 希望が湧き、明日花は席を立った。しかし、津原はこう答えた。
「それはできないかなあ」
「どうして? いま、あの札束は賄賂だって言ったのに。違うんですか?」
「和解センターノーサイドは、ADR機関ですから。ADRは、警察にも手が出せない事件を扱い、解決します。でも目指すのは、事件の当事者双方が納得する妥協点。どっちが正しいとか正しくないとかは、重要じゃないんですよ」
 津原にしては珍しく、真顔できっぱりと断言した。しかし明日花はまた答えをはぐらかされ、さらに自分のモットーを否定された気もして、怒りが湧いた。
「正しい正しくないが、重要じゃないって。それでも津原さんは、弁護士ですか? 『和解の達人』って聞いたけど、どこが? やっぱり信じられない。詐欺なんでしょ」
 そうぶつけたが、津原は無言。いつもの薄い笑みに戻り、明日花を見返している。と、
「明日花ちゃん」
 と声がして、肩に手を置かれた。いつの間に戻って来たのか、隣に紅林が立っている。
「お茶しない? 付き合ってよ」
 態度は穏やかだが、明日花の肩を掴む力は強い。仕方なく、明日花は「はあ」と応えた。
 
(つづく)


 ■ 連載各話はこちら

『リーガル・ピース! ~その和解、請け負います~』は、第1話・第2話を全6回に分けて配信します。隔週金曜日の正午に配信予定です。
マガジン「【連載】『リーガル・ピース!』加藤実秋」に各話をまとめていきますので、更新をお楽しみに!


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