【第3回】『リーガル・ピース! ~その和解、請け負います~』加藤実秋
『メゾン・ド・ポリス』『警視庁アウトサイダー』など話題のドラマ原作を手掛ける加藤実秋の新シリーズが開幕。実在する「ADR=民間のトラブル調停組織」を舞台に、“白黒つけたい女”と“グレーを愛する男”の異色コンビが誕生! 弁護士、弁理士、臨床心理士、一級建築士……など、各分野で一流の腕を持ちながら一癖も二癖もある個性的な仲間たちとともに、あらゆるトラブルを<裁判せずに>解決することを目指して奮闘する、新感覚リーガル・エンタテインメント!
『リーガル・ピース! ~その和解、請け負います~』の第1話・第2話を、全6回の連載形式でお届けします。どうぞお楽しみください!
【連載小説】加藤実秋『リーガル・ピース! ~その和解、請け負います~』
CASE1「グレーな和解なんてあり得ない!」
9
歩道を歩きだすのかと思いきや、ビルを出た紅林は通りに出てタクシーを拾った。戸惑いつつ、明日花は紅林に促されるまま、タクシーに乗り込んだ。車中、事情を訊こうとしたが、その間もなく、タクシーは停まった。地下鉄大門駅近くの大通りだ。
二人で降車すると、紅林は大通りから脇道に入った。そこは小さな商店街で、飲食店やコンビニ、マッサージ店などが並んでいる。ランチタイムとあって、会社の昼休みらしき男女や、近隣住民と思しき人たちで賑わっていた。二人で歩き始めて間もなく、
「やあ」
という声がした。傍らには精肉店があり、商品が並んだショーケースの向こうに中年の男性が立っている。紅林は足を止め、笑顔で会釈した。
「どうも。お久しぶりです」
「今日はどうしたの?」
親しげに、中年の男性が問う。ショーケースの端にはコロッケや唐揚げなどの惣菜もあり、その前には数人の客がいて、男性の隣に立つ女性が応対している。紅林は何か答えようとしたが、精肉店に新たな客が入って来た。男性は「またね」と手を振り、紅林も手を上げて応え、歩きだした。
ここは、紅林さんの地元? でも、なんで? 訝しがりつつ、明日花も歩きだす。少し行くと、今度は若い女性が「紅林さん」と声をかけてきた。そこは生花店の前で、女性はトレーナーに胸当てエプロンを付け、スタンドに花束を並べている。再び足を止め、紅林は微笑んだ。
「こんにちは。お元気ですか?」
「お陰様で。その節は、大変お世話になりました」
花束を手に、女性は頭を下げた。と、店の中から「店長。注文の電話です」と別の若い女性が顔を出した。「じゃあ、また」と紅林が促すと、女性は「はい」と返し、店に入って行った。
以後も、歩く道々で青果店やスーパーマーケットなどの店員から声がかかり、その都度、紅林はにこやかに応えた。そして商店街を抜けて間もなく、紅林は立ち止まった。鉄筋の建物の前で、植栽やエントランスの様子からしてマンションかと思いきや、壁には「介護付き有料老人ホーム やさしさの郷」とある。
紅林は自動ドアから建物に入り、傍らの小窓に歩み寄った。小窓の向こうにはここのスタッフらしき若い男性がおり、紅林と二言三言話すと、奥の部屋に通じるドアのオートロックを解除してくれた。
部屋の手前には長い廊下が延びていて、その奥には入居者の居室と思しきドアが並んでいる。昼食が終わったところなのか、廊下の傍らの部屋から、入居者たちが出て来た。杖をついたり、車椅子に乗ったりしている人も多く、揃いの青いユニフォームを着たスタッフが付き添っている。それらの人とすれ違い、紅林は廊下を進んだ。老人ホームに来るのは初めてということもあって戸惑う明日花だが、付いて行くしかない。
傍らの部屋は、広々としていた。椅子がセットされた長机が並び、奥には大型の液晶テレビもある。居室に戻るのは順番なのか、室内には五、六人の入居者がいた。紅林は奥で話している女性のグループに歩み寄り、一人に声をかけた。歳は九十近いだろうか。ショートカットの髪は真っ白だが顔の色艶はよく、しゃれた編み込みのセーターを着ている。グループの他の女性たちも、似たような年格好だ。
紅林は脇に立って身をかがめ、セーターの女性に何か話しかけた。それに笑顔でうんうんと頷いた女性だが、目の焦点がいまいち合っていない。長机の手前で二人を見ていた明日花を、紅林が手招きする。さらに戸惑いながら、明日花は紅林の横に行った。
「小幡さん。この人は、私の友だちの江見明日花さん……こちらは、小幡千代さんよ」
前半は小幡に向かってゆっくり、大きな声で、後半は明日花を見ててきぱきと、紅林は告げた。ぎこちなく、「こんにちは」と挨拶をした明日花に、小幡は穏やかな声で「はい、こんにちは」と返す。その顔を覗き、紅林は訊ねた。
「ここの暮らしはいかがですか? お友だちもできたようですね」
すると小幡はまた頷き、
「そうなの。とっても楽しいわよ」
と答えた。目の焦点は合わないままだが、言葉には実感が籠もっている。紅林は「よかったです。何かあったら、いつでも言って下さいね」と返し、体を起こして明日花に目配せをした。二人で部屋の出入口の脇に移動すると、紅林は語りだした。
「小幡さんは、もともとこの近くで独り暮らしをしてて、さっき通った商店街の常連客だったの。でも半年ぐらい前から、店の商品や接客に無茶なクレームをつけるようになった。それがあんまりひどいので、三カ月前、商店街の人たちが伝手を辿って津原さんのところに相談に来たの。その人たちは、和解を勧める津原さんに『納得できない』『法的な処置も辞さない』って訴えたそうよ」
「へえ。あんなに穏やかそうな、おばあちゃんなのに」
明日花の返事に紅林は「でしょ?」と頷き、こう続けた。
「だから津原さんは、許可を得て、小幡さんに私のカウンセリングを受けさせたの。結果、小幡さんは、寂しくて誰かに話を聞いてもらいたかっただけだとわかった。加えて、病院を受診してもらったら、初期の認知症を発症してることもわかったわ。それで津原さんは、小幡さんを説得してここを探し、商店街の人にはいきさつを説明して和解を取り付けたの」「そんなことがあったんですか」
「うん。だから津原さんは明日花ちゃんにも、考えがあった上で和解を勧めてるんだと思う。おのおのの理念はどうあれ、依頼者のために尽くし、不利になるようなことはしない。それが、私たち士業従事者のルールであり、誇りだから」
そう告げて、紅林はシャープな顎を上げた。それで、私をここに連れて来たんだ。合点がいった明日花だが、とっさに返す言葉が見つからない。
視線を部屋の奥に向けると、小幡はグループの女性たちとのお喋りを再開していた。もっぱら聞き役だがよく笑い、その度に明るい声が部屋に響く。続けて、明日花の頭にはさっき見た、商店街の記憶が蘇った。活気に溢れ、紅林に声をかけてきた人はみんな、活き活きと働いていた。気持ちが揺れ、明日花はそっと息をついた。
10
一夜明けた午前十時。明日花は新橋にいた。昨日はあの後、大門の駅前で紅林と別れ、帰宅した。今日は一日、家にいるつもりだったのだが、朝からリビングに集まり、仕事だと言ってノートパソコンやタブレット端末を弄ってはいるものの、すぐどうでもいい話を始め、お茶休憩を取る家族にうんざりし、出かけてしまった。気分転換に買い物でもしようかとも思ったが、無職の身ゆえムダ遣いはできない。そうこうしているうちに、気づくとこの街に来ていた。
昨日、あんなことを言ってしまった上に、気持ちの整理もついていない。津原や紅林にどんな顔で会ったらいいのか。駅からの道でそう思案した明日花だが、答えが出る前にニュー東京ビルヂングの前に着いてしまった。ドアから様子を窺うと、ラウンジには明かりが灯り、人の気配もある。すると、
「おう」
と声をかけられた。声のする方を向いた明日花の目に、通りを歩いて来るスーツ姿の中年男が映る。新橋中央署の刑事、重信零士だ。とっさに「どうも」と会釈した明日花に、重信は続けた。
「江見さん。胃薬持ってない? 二日酔いで」
そう問いかけて胃の辺りを押さえる顔は、一昨日同様、色艶が悪い。脱力して「持ってません」と返した明日花だが、私の名前を覚えただけいいかとよぎり、問うた。
「今日はどうされたんですか?」
「様子を見に来たんだよ。あの後、津原さんのところに行ったんだろ?」
立てた親指で傍らのビルを指し、重信が問い返す。一昨日は素っ気なかった彼が自分を気に掛けていてくれたのが意外で、明日花は「ええまあ」と口ごもる。その矢先、向かいのビルのドアが開いた。明日花と重信が視線を上げると、ドアの脇から津原が顔を出した。
「おはようございます。ちょうどよかった」
そう告げ、中に入るように手招きする。まず重信が、「久しぶりだな」と当然のようにラウンジに入り、明日花も続いた。
ドアの脇のカウンターバーには清宮がいて、司法試験の勉強中らしい。傍らの壁際に並んだテーブルには戸嶋と紅林、諏訪部の姿もあった。明日花は四人に会釈し、紅林には「昨日はどうも」の目配せもし、部屋の奥に進んだ。そこには昨日、一昨日と明日花が着いた楕円形のテーブルがあったが、今日その上座には、永都建物の高部和真が着いていた。目が合うと高部ははっとし、明日花もテーブルの手前で固まる。高部の斜め前の席に座った津原は、明日花に「座って下さい」と促し、隣の椅子を引いた。それに従った明日花だが、顔が強ばり、胸に警戒心と怒りが湧く。一方、重信はカウンターバーに歩み寄り、清宮に「こんちは」と親しげに挨拶し、隣のスツールに腰かけた。
場に張り詰めた空気が流れる中、津原が口を開いた。
「先ほど、高部さんがこちらを訪ねて来られました。昨日の返答を取り消し、江見さんとの和解あっせん手続に合意し、パワハラの慰謝料として、個人的に百万円を支払いたいとのことです」
「えっ!?」
明日花が声を上げると、高部はテーブルに両手をつき、がばと頭を下げた。
「江見さん。辛い思いをさせて、申し訳なかった。許して下さい」
「いえあの……なんで急に? 昨日は、全部私の誤解だとおっしゃったんですよね?」
明日花の疑問に、高部は頭を下げたまま答えた。
「悪いのは、きみに誤解させるような言動を取った自分だと気づいたんだ。すまない」
「いえ、私が謝って欲しいのはそういうことじゃなく――そもそも、本当のことを教えて下さい。部長、あの札束は何だったんですか? なんで私は、仕事を奪われたんですか? ……あの会食の晩。私に『これからも期待してるよ』と言ってくれましたよね? 部長のことを尊敬してたから嬉しくて、がんばって期待に応えようと思いました。なのに」
訴えるうちに胸が苦しくなり、目から涙が溢れた。同時に、街づくりがしたくて永都建設に入ったこと、花形の再開発プロジェクト事業部に配属され、嬉しかったことなどを思い出し、切なくもなる。しかし高部は、無言のまま頭を上げない。すがるような気持ちで、明日花はさらに問うた。
「お願いですから、答えて下さい。間違ってるのは私と部長、どっちですか?」
すると、津原がいつもの薄い笑みとともに割って入ってきた。
「まあまあ。落ち着いて」
そして腰を浮かせ、高部のスーツの肩を軽く叩いて顔を上げさせた。が、その顔は真っ青で目は虚ろ。職場で見ていた、自信に溢れ、溌剌《らつ》とした姿とは別人で、明日花は驚くのと同時に違和感を覚えた。と、カウンターバーの重信が振り向き、明日花に告げた。
「そのぐらいで、勘弁してやんなよ」
明日花は言い返そうとしたものの、言葉が出て来ない。とっさに首を縦に振りそうになった矢先、津原が言った。
「相変わらず、重信さんは優しいですね……しかし和解あっせん人として、今回の条件では合意できません。理由はおわかりですね?」
最後のワンフレーズは高部に向かい、問いかける。薄く微笑んだままだが、眼差しは鋭く、威圧感もあった。
「理由?」
明日花と重信が同時に問いかけ、高部を見る。固まったように津原を見返した高部だが、すっと立ち上がり、言った。
「すみません。ちょっと息苦しくて。煙草を吸って来てもいいですか?」
「構いませんよ。大丈夫ですか?」
津原の問いに「ええ」と頷き、高部はドアに向かおうとした。と、テーブルの一つに着いた戸嶋が言う。
「屋上に行くといいよ。テナントに開放してて、喫煙所にもなってる」
「……どうも」
そう返し、高部は戸嶋が立てた親指で示した階段に向かった。それを見送り、明日花は涙を拭いた。紅林が隣に来て声をかけてくれ、清宮もお茶を淹れてくれたので、じきに落ち着きを取り戻した。やがて十五分ほど経ったが、高部は戻って来ない。
「遅いですね」
津原の言葉に、戸嶋が「言い逃れの算段でもしてるんじゃねえの? さもなきゃ、裏の非常階段から逃げたとか」と顔をしかめて返す。が、津原は「いや」と呟き、立ち上がって階段に向かった。その深刻な顔が気になり、明日花も席を立って後に続く。
駆け足で階段を上がる津原から遅れること、約一分。明日花は四階から階段室に上がり、ドアを開けて屋上に出た。意外と広く、戸嶋が言った通り、鉄製のテーブルと椅子がいくつか置かれている。その手前で明日花が乱れた呼吸を整えていると、後を追って来たらしい戸嶋が階段室から姿を現した。そして「やべえ」と呟くなり、前方に走りだした。
顔を上げた明日花の目に、ビルの外壁と同じ曲線を描く屋上の手すり壁と、奥の一角に立つ津原と高部が映った。津原は手すり壁の内側にいるが、高部は外側に、こちらに背中を向けて立っている。手すり壁を乗り越え、屋上の庇部分に出たのだろう。
状況を察知し、明日花の胸がどくんと鳴った。同時に体が動き、津原たちの元へ走る。
気づけば、手すり壁の前の地面には、煙草の吸い殻が落ちている。明日花は先に着いた戸嶋の横に立ち、言った。
「部長、落ち着いて下さい!」
が、高部は幅四十センチほどしかない庇に立ち、俯いている。戸嶋も言った。
「その通りです。ご家族も、いらっしゃるんでしょう? 早まってはいけません」
さっきまでとは別人のような、丁寧で上品な口調。高部に屋上を勧めた責任を感じているのかもしれないが、これが戸嶋の素という可能性もある。が、高部は前屈みになったまま。今度は津原が口を開いた。
「高部さん。抱えているものを、話して下さい。あなたと江見さん、お二人の気持ちが収まり、新たな生活に踏み出せるような答えを、必ず見つけます。それが僕の仕事ですから」
薄く微笑みつつ片手で自分を指し、語りかける。すると高部は顔を上げ、思い詰めたような目でこちらを見た。その目を見返し、明日花は訴える。
「失礼があったなら、お詫びします。私は、部長を追い詰めたい訳じゃなかったんです」
「いや」と返し、高部は首を横に振った。そして、意を決したようにこう続けた。
「本当は誤解じゃなく、江見さんの言った通りなんだ。菓子折の下にあった二百万円の札束は、尾仲社長からの賄賂で間違いない」
「やっぱり!」と声を上げかけた明日花を、津原が眼差しで止める。高部は語った。
「ただし、賄賂を贈られたのは僕じゃなく、再開発プロジェクト事業部の岩貞局長。あの札束は、局長が尾仲社長の会社に仕事を発注する代わりに、受け取るはずだったキックバックだ。ところが、受け渡し役を命じられた僕は酒に酔い、誤って札束の入った紙袋をきみに渡してしまった。言い訳を考えて、きみが退職するように仕向けたのも局長だ」
最後は訴えるような口調になる。しかし話から受けたショックが大きすぎて、明日花は何も返せない。代わりに、津原が答えた。
「思った通りです。では、昨日僕に一人で対応したのも、江見さんへの慰謝料を個人で支払うという申し出も、岩貞局長の指示ですか?」
「そうです。でも僕は、賄賂の件はこれ以上会社に隠し通せないと思って、局長に『もう無理です』と言ったんです。すると局長は、『ふざけるな。元はと言えば、お前のミスだ。こんなに使えないやつだと、思わなかった』と怒って……僕は若い頃から、ずっと局長の後に付いて来たんだ。局長も、そんな僕を信頼してくれてると信じてた。だから、内心では『やりたくない』『申し訳ない』と思っても、汚れ仕事を引き受けたのに」
そこで声を詰まらせ、高部は顔を前に戻した。そして庇の縁まで進み出て、下を覗く。「いけません!」
津原は叫び、腕を伸ばそうとした。が、高部はそれを「来るな! もう終わりだ」と怒鳴りつけて止め、上半身を空中に突き出す。
「ダメ!」
とっさに明日花は叫び、戸嶋も何か言う。と、次の瞬間、明日花たちとは反対側の高部の傍らから人影が現れた。そしてこちらに駆け寄り、手すり壁から身を乗り出して、両腕を前に伸ばした。高部が庇から飛び降りようとした直前、人影の両手は彼の肩と腕をむんずと掴み、手前に引き戻した。
「バカ野郎!」
その場に響いた怒鳴り声で、明日花は人影が刑事の重信だと気づく。重信は、手すり壁に背中を押しつけられた格好で「放せ!」と暴れている高部をしっかりと押さえ、こちらを振り返った。
「見てないで、手伝え!」
その声に津原と戸嶋が慌てて動き、高部の体を押さえたり、声をかけたりした。それから、明日花も一緒になって必死になだめると、高部はなんとか落ち着きを取り戻した。津原と戸嶋の手を借りて、手すり壁の内側に戻る彼にほっとしつつ、明日花は重信に告げた。
「ありがとうございました。でも、いつの間に?」
「雲行きが怪しくなったから、江見さんたちの後からここに来たんだ。で、反対側から回り込んで、あそこの影に隠れてた」
そう答え、重信は傍らの手すり壁を指した。そこには、大型のエアコンの室外機が横並びに据えられている。納得し、明日花が再度礼を言おうとすると重信は、「二日酔いの人間を、走らせるなよ。吐きそうだ」と顔を歪めた。
明日花たちがやり取りしている間に、津原と戸嶋は高部を屋上に置かれた椅子の一つに座らせようとした。が、高部はレンガ敷きの地面に座り込んで俯いたままで、明日花はその姿を呆然と見下ろした。
私が部長を尊敬してたように、部長も局長を尊敬してたのね。なのに、使えないやつ呼ばわりされて、切り捨てるようなことまで言われて、絶望しちゃったのかな。だからって、部長が間違ったことをしたのに変わりはない。でも、一番間違ってるのは……。明日花はそう思い、大きな体を高そうなスーツに包んだ岩貞局長の姿が頭をよぎった。重信が言う。
「さっきの話が本当なら、刑事事件として立件できるぞ」
「その通り! 立件しましょう。裁判です……今度は、できないとは言いませんよね?」
テンションを上げ、明日花は隣を見た。が、そこに立つ津原はこう答えた。
「僕が求めるのは、紛争にふさわしい妥協点。善悪のジャッジではありません」
そして、座り込んだままの高部に、
「あなたは終わりじゃない。できることは、まだありますよ」
と薄い笑みを浮かべて告げ、手を差し出した。
11
三日後。明日花は津原に呼ばれ、ニュー東京ビルヂングに行った。ラウンジの楕円形のテーブルに向かい合って着くと、津原は一枚の書類を差し出した。明日花はそれを受け取り、読んだ。
書類の上部には、「和解書」と書かれていた。その下に、「甲を江見明日花、乙を株式会社永都建物として、次の和解をする」とあり、さらに下には第一条から始まる項目が並び、それぞれ文言が記されている。第一条に目を通すと、「(謝罪及び誓約)乙は甲に対し、本件についてパワーハラスメント行為があったことを認め、精神的な苦痛を与えたことについて深く反省し、心より謝罪します」とあった。
まあ、当然よねと頷き、明日花は「第二条」に目を移した。するとそこには、「(示談金)乙は甲に対し、本件の損害賠償金として、金三百万円(以下、慰謝料)を支払うことを認め、かつその慰謝料について、本和解書締結日から三十日以内に、甲の指定する銀行口座に振り込む方法により支払います」と書かれていた。
「三百万!?」
そう叫んでから我に返り、明日花は周りを見た。手前の各テーブルでは戸嶋、紅林、諏訪部が作業しながら聞き耳を立てており、カウンターバーのスツールに座った清宮はこちらに背中を向け、参考書を手に何やらぶつぶつ言っている。時刻は午前九時過ぎだ。
「はい」と、津原はにこやかに応えた。今日は、オフホワイトのカットソーに薄茶色のジャケットという格好だ。三日前、あのあと彼は明日花に「任せて下さい」と告げ、高部を連れていずこかへ歩き去った。
「高部さんから改めて事情を聞き、昨日、永都建物の本社を訪ねました。そこで岩貞光樹さんと、永都建物の法務担当の方に会い、和解申立書をお渡ししました。その際、高部さんから聞いた事情と、彼が保存していた、尾仲社長から岩貞さんへのキックバックの証拠となるメールやメッセージ、通話の録音の一部を提示したところ、永都建物側は、その場で和解あっせん手続に合意してくれました」
「キックバックの証拠? 高部部長は、そんなものを持っていたんですか」
明日花は驚き、同時に三日前の高部の姿と、本当は汚れ仕事をやりたくない、申し訳ないと思っていたという彼の言葉が蘇った。「ええ」と微笑み、津原は続けた。
「協議の末、完成したのがその和解書です。永都建物には、江見さんへのパワハラだけではなく、岩貞さんの背任行為も認めさせました」
そう告げられ、明日花は和解書に視線を戻した。第二条以降の項目を読み進めると、確かに該当する記述がある。ほっとしてさらに和解書を読み進めた明日花だが、ある記述が目に留まり、顔を上げた。
「この『(甲の禁止行為)』って項目、なんですか? 『甲は、以後、本件について厳にその機密を保持し、メール、SNS、インターネット上の掲示板、その他いかなる手段によるかを問わず、第三者へ漏洩しないものとします』って、ありますけど。しかもその下には、『甲がこの条項に違反したときは、違約金として一回につき金三百万円を支払います』ともあるし」
信じられない思いで、和解書と向かいを交互に見て捲し立てる。平然と、津原は答えた。
「キックバックとパワハラを不問に付すことを条件に、江見さんへの慰謝料の上乗せを取り付けました」
「それってつまり、お金をもらう代わりに全部なかったことにしろって意味ですか? あり得ない。悪いことをした人が罰せられないなんて、おかしいですよ。これが和解手続? なら、間違ってます」
津原を真っ直ぐに見て、これまでに覚えた疑問と不信感をぶつける。間を置かず、津原は答えた。
「でも、江見さんはそれを望んだんですよね? 今回の事件の和解申立書には、真相の究明と謝罪、慰謝料の支払いを求めるとあり、あなたはそれに署名した」
眼差しは鋭く冷たいのに、口元は微笑んだまま。そのギャップに戸惑い、さらに背筋がぞくりともして、明日花は「それは」としか返せない。視線を動かさず、津原は続けた。
「ADRは、紛争の当事者が納得できる妥協点を見出す手続。和解とは、白か黒かではなく、限りなくグレーなものです……ちなみに、高部さんは永都建物を退職するそうです」
「えっ」
「僕には、『むしろ、気が楽になりました。一からやり直します』と話されていましたよ。それと、和解書の続きを読んでもらえばわかりますが、永都建物には、岩貞さんの処分も含めた経営体制の改善を要求し、私が看視することを許諾させました」
「じゃあ」
そう呟き、明日花は頭を巡らせた。どんな処分が下されるにしろ、岩貞が今の立場でいられるはずはなく、出世の道は絶たれるはずだ。
つまり、因果応報。岩貞局長も高部部長も、私にしたことが自分に返ってくるの? そう悟り、明日花ははっとする。同時に三日前、高部の告白を聞いた後の、「思った通りです」という津原の言葉が蘇った。明日花は問うた。
「ひょっとして、部長の裏には別の誰かがいるって気づいてたんですか? その上で、部長に揺さぶりをかけて真相を語らせ、賄賂の証拠を切り札に永都建物と交渉したの?」
後半はタメ口になってしまったが、気にする余裕はない。しかし、津原は薄く微笑むだけで何も答えない。なんて人だと思う半面、このまえ老人ホームで小幡千代と会った際の、「津原さんは明日花ちゃんにも、考えがあった上で和解を勧めてるんだと思う」「依頼者のために尽くし、不利になるようなことはしない。それが、私たち士業従事者のルールであり、誇りだから」という紅林の言葉も浮かぶ。戸惑う明日花に、津原は、
「納得いただけましたか? でしたら、和解書にサインを」
と問いかけ、高そうな万年筆を差し出した。明日花がそれを受け取れずにいると、戸嶋が近づいて来た。
「いいじゃん。もらえるはずだった給料だと思えば。頭を切り替えて、前に進もうぜ」
調子よく語り、当たり前のように明日花の隣に座る。今日もジャージ姿だが、色は黒だ。確かにそう。でも……と明日花が迷った矢先、「その通り」と頷き、ダークグレーのパンツスーツを着た紅林もやって来た。
「それに、納得できないことがあるなら、ここに通って話し合えばいいのよ……津原さん。前に、事務所の掃除とか、雑用をしてくれる人を探してるって言ってたわよね? ついでに、明日花ちゃんに頼んじゃえば?」
「それ、いい。俺らも大歓迎だ」
目を輝かせて戸嶋が言い、後ろからやって来た諏訪部と、カウンターバーの清宮に「でしょ?」と問う。
「まあな……ところで、お前の家、ボール型のライトを床置きしてるだろう?」
据わった目で明日花にそう訊ねてきたのは、黒い台襟のシャツを着た諏訪部。清宮は、参考書を手に振り向き、「はいはい」と笑う。みんなに視線を向けられ、さらに迷った明日花だが、心を決めて応えた。
「そうですね。先のことを考えなきゃならないし、今回の件は和解します……津原さん。本当にこれが正しい方法なのか、明日から話し合いましょう」
そう告げ、万年筆を受け取った。笑顔もつくり、「いいですか?」と訊ねたが津原は、
「話し合うのは構わないし、雑用をしてくれる人を探してたのも本当だけど……どうしようかなあ」
と、これまでの態度がウソのようにうろたえ、迷いだした。すかさず、明日花は言う。
「二択なら、答えは簡単ですよ……イエス? それとも、ノー?」
「じゃあ、イエスで」
気圧されたように津原が答え、戸嶋たちが歓声を上げて拍手する。
じゃあ、ってなに? やり手とか達人とか言われる割に、なんか掴みどころがない人よね。争っている人の両方の気持ちが収まって、新たな生活に踏み出す答えを見つけるって、すごいことなのかもって思いかけたけど……やっぱり、グレーな和解なんてあり得ないし、白黒つけるべきよ。そう思うと力が湧き、明日からがちょっと楽しみになった。明日花はキャップを外して万年筆を握り、和解書にサインした。
(第2話につづく)
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『リーガル・ピース! ~その和解、請け負います~』は、第1話・第2話を全6回に分けて配信します。隔週金曜日の正午に配信予定です。
マガジン「【連載】『リーガル・ピース!』加藤実秋」に各話をまとめていきますので、更新をお楽しみに!
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