見出し画像

【試し読み】河野裕『彗星を追うヴァンパイア』第1話全文公開

『いなくなれ、群青』からはじまる階段島シリーズや『昨日星を探した言い訳』『愛されてんだと自覚しな』など、多くの人気作品を発表してきた河野裕による、かつてない科学ファンタジー長編『彗星を追うヴァンパイア』。17世紀のイングランドを舞台に、〈世界のルールを解き明かしたい〉と願う青年オスカーが、人知を超えた存在に出会う物語です。刊行を記念し、プロローグと第1話を特別公開。壮大なファンタジーの幕開けにご注目ください。

あらすじ

未知を愛した青年、人間を信じた怪物。
魔術が終わる時代に、ふたりは戦場で出会った。
17世紀、イングランド。母と暮らした幼い頃から、オスカーの願いは〈世界のルールを解き明かす〉ことだった。数学の才を持つ彼は、ケンブリッジ大学でニュートンに師事する。けれど、王位継承を巡る反乱が勃発し、戦場へ。窮地に陥った彼の命を救ったのは、人知を超えた力を操る謎の男、アズ・テイルズだった。物理法則に従わない未知の存在を解き明かそうとするオスカーと、自分が解き明かされる日を待ち続けるアズ。ふたりの出会いが、人類の〈科学〉と〈戦争〉の歴史を動かす。


『彗星を追うヴァンパイア』試し読み


Prologue


 オスカー・ウェルズの生涯は、一脚のスツールから始まった。
 彼が四歳の夏から八歳の冬までの四年半ほどを母と暮らした、大きな港町の小さな部屋の、採光用の小窓の前に置かれていたスツールだ。
 そのスツールは、前の住民が残していった、がらくたのような家具のひとつだった。ろくにやすりもかけられていない粗雑な作りで、脚の長さが揃っておらず、腰を下ろして重心を変えるたびにかたんかたんと傾いた。おかげで今でもオスカーは、椅子に浅く座り、背を丸めて前傾姿勢を取る癖がある。
 オスカーはそのスツールの上で、世界について重要なことを学んだ。
 はじめの教師は母だった。彼女はオスカーに基礎的な読み書きを教えた。ホラント地方のオランダ語をベースにしながら、英語の文法を加えた彼女の教育は、思い返せばいずれオスカーが海を越えてイングランドに渡ることを予見していたのかもしれない。母は英語が堪能で、このことはのちのオスカーにとって大きな利点になった。
 二番目の教師は書物だった。ふたりが暮らしていた港町は、しばしば学生たちの修学旅行グランドツアーの通り道になった。彼らが持つ本を、母はどうにかして譲り受けていたようだった。
 母がオスカーのために持ち帰る本は多岐にわたった。遠い南の地の見聞録があり、貴族たちに関する伝記があり、ずいぶん古い裁判の記録があった。聖書は三冊で、どれも少しずつ文章が違っていた。
 学術に関する本の多くはラテン語で書かれていたため、幼い少年に読み解けるものではなかった。けれど数学だけはオスカーの興味をいた。大半が数字と記号と図形で記述された本は、ラテン語に比べれば、まだしも親しみがわいたからだ。
 三番目の教師は窓だった。スツールの前の小さな窓には木製の戸がついていたが、半ば腐って役割を充分に果たしているとは言えなかった。そこから吹き込む潮風はあらゆる金具をびつかせ、雨を部屋の中に招き入れ、冬は張りつくような冷たさで肌が感覚を失うほどだった。けれど晴れた日に戸を開いてみる空は、そう悪いものではなかった。
 オスカーの記憶の中で、その窓からみえる空は、いつも夕暮れだ。
 ――なぜここからは、落日ばかりがみえるのだろう?
 そうオスカーは考えた。
 夕陽は美しいが、暮れるばかりで日が昇らない空が不満だった。いつも終わりばかりをみせられていると、母と暮らす部屋が、なんだか役割を終えた者たちの墓場のように思えたのだ。実際、いつも薄暗く湿り気を帯びた石造りのその部屋は、地下墓地に似ていなくもなかった。
 ――一度くらいはここから、朝陽がみえてもいいはずだ。
 けれど幼いオスカーがどれほど窓の向こうをにらみつけても、太陽は必ず東から昇り、西へと沈む。
 天体の運動に関する書物は手元になかった。母に尋ねてみても「神様が世界をそう創ったから」と言うばかりで、それが真実だとしても、オスカーが望む答えではなかった。
 オスカーは何日も、何週間も、何か月も、ずいぶん長いあいだ窓辺のスツールでひとり考えを巡らせた。はじめは太陽について考えていたけれど、やがて月や星も考察に加え、光を想い、影を想い、波や風や季節を経て、より抽象的な線や円に着目した。
 ――この世界の根底には、強固なルールがあるんだ。
 太陽の動きさえ支配する、巨大で絶対的なルールが。
 オスカーはできるなら、世界のルールを解き明かしたかった。
 その願望が、古びたスツールの上の幼い少年のすべてだった。

     *

 これはあるヴァンパイアに出会った、ひとりの数学者の物語だ。――という説明は、正確ではないのかもしれない。
 一七世紀のヨーロッパにおいて、学者の役割は細分化されているとは言い難かった。よってオスカーも光学、天文学、物理学をそれぞれ研究し、生物学や神学にも触れた。けれど彼は生涯にわたり、その軸足を数学に置き続けた。
 加えてオスカーが出会う怪物を、ヴァンパイアと呼ぶのも誤りなのかもしれない。当時のイングランドにおいて、ヴァンパイアという呼称は一般的ではなかったからだ。世に流通する書物にその名前が記載されるのは、もう半世紀ほどあとのことになる。
 ふたりは、一六八五年の六月に出会った。
 そのときオスカーは二四歳で、イングランド南西のデヴォン州トーキーを領地とする貴族の養子になり、戦地に赴いていた。


1話 昇る落陽


    1

 初夏の湿り気を帯びた空気が、草木の青い匂いをむわりと浮き立たせていた。
 オスカー・ウェルズは一〇〇年も前に打ち捨てられた丘の上の教会を拠点とし、奥の小さな一室に陣取った。
 その部屋にはなにも残されていなかった。椅子も机もありはしなかった。どうにか値段がつきそうなものは、すべて野盗たちが持ち去ってしまったのだろう。オスカーは床に綿ボロラグパルプ製の紙を広げ、ひざをついてペンを走らせた。
 反乱軍は二週間も前にオランダのテセル島を出航しており、もう二、三日もすればイングランドに上陸する見通しだ。それまでにすべての計算を終えなければならない。昼でも薄暗い部屋の床で、燭台しよくだいの火が揺れる。オスカーは目を細めて舌打ちする。
 ――数字が、合わない。
 事前の実験と現地で撃ち出した砲弾の落下地点に差異がある。火薬のせいだろう、とオスカーは考える。同じ火薬でも水分の含有量で性能が変わる。おそらく、行軍中の雨が影響している。
「リック、リック」
 小さな採光窓の向こうに声をかけると、まだ若い農夫が「なんです?」と答える。オスカーは計算式に修正を加えながら尋ねた。
「そっちの調子は?」
「七二点がひとり、六六点がふたり――」
「了解。旗上げゲームはひとまず打ち切りだ。大砲を運ぶぞ」
「また撃つんですか? 弾には限りがある」
「開戦までに七割使う。余らせても、荷物になるだけでしょう」
「その荷物を、えっちらおっちらここまで運んだのはオレらなんですがね」
「だから帰りは楽をさせてやろうって言ってるんだよ」
 オスカーはペンを耳に挟み、数枚のラグパルプ紙をつかみ取った。燭台の火に息を吹きかけて部屋を出る。短い廊下の先が礼拝堂になっている。
 礼拝堂に踏み入ると、屋外に通じるドアが開いた。夏を迎えつつある鋭い太陽光が射し込む。その逆光の中から、ひとりの男が歩み出てくる。
 つば広の黒いフェルト帽をかぶった、背の高い男だ。歳は二七、八といったところだろうか。三〇にはなっていないようにみえる。オランダ風のマントを羽織った彼の衣服はオールドスタイルといえるが、生地の趣味がモダンで装飾品にも金がかかっている。都市部の名望家ジエントリのような装いだが、だとすればひとりきりこの僻地へきち――ドーセットに現れるのは奇妙だ。
 オスカーが立ち止まると、男は帽子を手に取り、片足を引いて頭を下げた。ひとつひとつの動作が大きく、姿勢が良い。色白の美男子なのもあり、シェイクスピアの舞台にでも立っていそうな男だった。
「失礼」と、彼が言った。声は若い。「こちらで、いったいなにを? まるで戦でも始めるような様子ですが」
「その通りですよ。間もなくモンマス公爵が、ライム・リージスに上陸します」
 近年のイングランドは王位継承問題に悩まされてきた。
 先王・チャールズ二世は多くの庶子を残したが、ついに嫡子が生まれなかった。先王は自身の後継に弟・ジェームズを指名した。しかし一部の有力者がこれに反発し、先王の庶子であるモンマス公爵を推した。――より正確には、先王とモンマス公爵の母親には婚姻を結んでいた期間があり、であればモンマス公爵には正統な王位継承権があるはずだと主張した。
 ――ま、婚姻の話はでっちあげだろう。
 そうオスカーは考える。
 ともかく王位を巡る争いは、先王の意向を受けたジェームズ側に有利に推移し、モンマス公爵はオランダに亡命することになった。だが今年二月、先王が亡くなり正式にジェームズが王位を継ぐと、モンマス公爵は挙兵を決めた。
 黒いフェルト帽の男は場違いな――つまり、戦の話には似つかわしくない朗らかな笑みを浮かべる。
「なるほど。それで、貴方あなたはどちらに?」
「もちろん王のために戦います。ねぇ、そろそろ名乗ってもらえませんか?」
「ああ、申し訳ありません。私はアズ・テイルズという者です。ロンドンで詩学者をしていますが、今は見聞を広げるための旅を」
 オスカーは顔をしかめる。
 ――アズ・テイルズ。
 まず間違いなく偽名だろう。詩学者というのもひっかかる。なにより彼の言い回しは、まるでこちらの正体を知っているようだ。オスカーを指揮官だと考えていなければ「貴方はどちらに?」とは尋ねない。
 身分は服装に表れるものだ。しかしオスカーの服は、農民たちのそれと見分けがつかない。八年ほど前までオスカーは本物の農民であり、貴族風の着飾りは窮屈で好みではなかった。
「僕のことを、知っているんですか?」
 尋ねると、男――アズの視線が、オスカーの全身をさっとなでた。
「トーキーきようロビンソン・ウェルズ様のご子息、オスカー様とお見受けします」
「どうして?」
「表に旗が。イングランドの南を行く旅人に、トーキー卿の紋章を知らぬ者はいないでしょう。それにオスカー様は、まずまず有名ですから」
 貴族の社会は狭い。その中で、「爵位を金で買った」と言われる義父は嫌われ者だ。彼が脈絡なく養子に迎えた孤児みなしごのオスカーにも、馬鹿げた噂話があれこれとついて回っている。
「もう数日で戦になります。旅路をお急ぎください」
 オスカーはそう言い残し、アズのとなりを駆け抜ける。
 礼拝堂を出ると、体格の良い農夫――リックがアズの方を盗み見ていた。
「何者ですか?」
「さあ。スパイかもしれない」
「モンマス公爵の?」
「ホイッグ党は今もあの人を推しているよ。敵はいくらでもいる」
「捕らえますか?」
「いや。それも手間だ」
 だいたい、こちらの情報の漏洩ろうえいは、オスカーのプランに含まれている。
 ――今は大砲の精度を上げること。
 そこに集中しなければ、この戦いに勝ち目●●●はない。

     *

 本物の旅行者であれ、敵からのスパイであれ、アズ・テイルズは間もなく姿を消すだろう、とオスカーは考えていた。だが、その予想は外れた。
 オスカーが引き連れていたのは、戦を専門とする兵士たちではない。農民と漁夫を寄せ集めた一〇〇名ほどの志願兵たちで、率いるオスカーの気質もあり、どこか牧歌的な雰囲気があった。
 その野営地に我が物顔で居座ったアズ・テイルズは、一夜にして人気者になった。味気ない兵糧をみつけると、どこからか香辛料を取り出して見事に調理してみせた。火を囲んで不安げに語り合う人々の前ではオペラ調の歌唱を伸びやかな声で披露した。それから少し酒が入ると、ロンドンの貴族たちの醜聞を面白おかしく語って聞かせた。
 もちろん彼は、オスカーにとっても気になる存在だった。
「貴方はいつまで、ここにいるつもりなんですか?」
 その夜、オスカーは怒気を含む声でそう尋ねた。教会の奥の一室だ。アズは床に散らばる、計算を書き込んだ紙を拾い集めながら答える。
「できれば、戦の終わりまで従軍させていただきたい」
「どうして?」
あるじのために戦うのは民の定めでしょう。それに、貴方に興味がある」
「どういう意味ですか?」
 部屋は暗く、三日月のささやかな光が窓から射し込むだけだった。アズはその月光に背を向けて、ラグパルプ紙の計算式に目を落とす。
「貴方が率いる民たちは、練度は低いが士気は高い」
「父は、領民には人気がある」
「ええ。民の七割は、トーキー卿に忠誠を誓っている。けれど残り三割――まだ若い三割は、貴方自身に」
「どうかな」
「貴方は民に死ねとは言わない。だから、命をかける価値がある」
「誰の言葉ですか?」
「さあ。ひとりではありません」
 オスカーは、ふっと息を吐く。
 ――おそらく、この男は詐欺師なんだろう。
 人の心に忍び込むのが上手うまい。こちらが望む言葉を知っている。信用はできないが、まずまず頭が良い。そしてオスカーは頭が良い駒を欲していた。
「十進法を知っていますか?」
 尋ねると、アズは視線をこちらに向け、軽く首を傾げてみせた。
「それはごく一般的な数の表し方です」
「ええ。でも、あえて説明するなら?」
「0から9の数字を使い、すべての数を記す方法。9の次に、1と0とを並べて書くことで10を表す」
「なら、五進法は?」
馴染なじみのない言葉ですね」
「4の次に、1と0を並べて書くことで5を表す」
「なるほど。それで?」
「十進法における7を五進法で表すと、どうなりますか?」
「12」
 速いな、とオスカーはつぶやく。
 アズは口元に品の良い微笑を浮かべてみせた。
「ローマ数字が似た構造です。そう難しいことじゃない」
「じゃあ、五進法における32を十進法になおすと?」
 今度は、アズはひと呼吸ほどの時間、思考してから答えた。
「17」
「そう。その通り」
「なんですか? これは」
「テストですよ」
 胸の中で覚悟を決める。
 ――もとから勝ち目が薄い賭けベツトだ。
 なら勝ち筋は、ひとつでも多い方がいい。アズがスパイだとしても、彼からの情報漏洩はプラスに働くはずだ。
 オスカーはにたりと笑う。
「そして君は、テストに合格した。従軍を認めるから、もう客としては扱わないよ。今からこの軍の中核を担ってもらう」
 よろしく、と手を差し出すと、アズがその手をつかむ。
「よくわかりませんが、ご期待におこたえできるよう尽くしましょう」
 彼の肌はずいぶん冷たかった。月光のように。
 ――まるで、悪魔と握手を交わすようじゃないか。
 この馬鹿げた予感が、半ば当たっていたのだと気づいたのは、三日後のことだった。

     *

 それからの三日間で、オスカーはいくつかの報告を受けた。
 モンマス公爵が率いる反乱軍はおよそ五〇〇名。一方、オスカーは近隣の貴族たちと合流し、国王軍側は一二〇〇名ほどになる見通しだった。
 だが事前に交わした約束を守る貴族は、誰ひとりとしていなかった。半数は様子見に徹し、もう半数はモンマス公爵側についた。
 孤立したオスカーの軍は農民たちをかき集めた一〇〇名のまま。
 対してモンマス公爵軍は、総勢一〇〇〇名を超えていた。

     

    2

「撤退した方がいい」
 朽ちた教会の屋根に座ったオスカーを見上げて、地上のアズがそう言った。
 けれどオスカーは応えない。自作のかつこうな望遠鏡を目に当てて、じっと敵軍を観察する。アズが続けた。
「この戦力差であれば、ハンニバルでも逃げ出します」
「だれ?」
「カルタゴの名将です。兵を率いる身であれば、カンナエの戦いはご存じでしょう」
「さあ。知らない名前ばかりだ」
 アズはふたつの勘違いをしている。第一に、今日の戦いにおいて人数は重要ではない。そして第二に、オスカーは軍人ではない。ただの学生だ。
「周辺領主たちの裏切りは想定通りだよ。父にもそのつもりで策を練れと言われた」
「それはつまり、死んでこいという意味では?」
「半分はその通りだろうね」
 けれど、こんなところで死ぬつもりはない。望遠鏡の丸い視界で、ずらりと並んだ長槍パイクの先端が光るのをみつめる。良い兆しだ。戦列歩兵に銃剣を持たせた銃士ではなく長槍兵を使うのはやや古風で、あちらも装備が充分ではないことを意味している。
 オスカーはようやく望遠鏡から目を離し、アズを見下ろす。
「君は、逃げるか?」
「いえ。付き合いましょう、最後まで」
「助かるよ。じゃあ、旗を」
 オスカーは伝令のために一二〇もの手旗を用意した。それらは五色に色分けされ、担当者にそれぞれの色が二本ずつ、計一〇本配られる。つまり左右の手で旗を掲げることで、五進法におけるゼロを含んだ二けたの数――二五種の指示を出せる。
 敵兵の陣形は、想定よりも横に長い。
「全軍へ。大砲の配置を七番に。仰角は一二番」
 オスカーの指示を受けたアズが、三度続けて旗を上げた。それをみた伝令係のひとりが同じように旗を上げ、さらにそれをみたひとりが――と、順に伝播でんぱしていく。多少の時間差があるそれは、波の動きに似ている。
「次は?」
「しばらく様子見だ。あちらが足を止めている。もう三〇〇ヤードは近づいてくれないと、なにも始まらない」
 アズの短い質問に答えながら、オスカーはペンを走らせる。こちらと向こう、ふたつの陣形に合わせ、最終的な数値を算出しなければならない。
「なぜ自分で旗を振らないのですか?」
「上手くやれる自信がない」
 この旗上げによる伝令は、機械的に制御されている。
 伝令係たちはアズの旗をそのまま真似すればいい。それを受けて大砲を動かすのも、旗の色を手元のメモや大砲に刻まれた目盛りに置き換えればいいだけだ。たとえば「仰角一二番」は、ある大砲では三五度に、別の大砲では三七度に設定されているが、そういった詳細な数字を理解している必要はない。
 負担があるのはアズだけだった。彼はオスカーの指示を翻訳し、旗の色に置き換えなければならない。
「僕は小心者なんだ。きっと、どこかで間違える」
 ほら。今も数字を書く線が、ずいぶん震えている。
「貴方も、死ぬのが怖いですか?」
「たぶんね」
「たぶん?」
「自分の死は、上手く想像できない。でも人を殺すのは怖い」
 九歳のときに母が死んだ。それから、死というものが怖くて仕方がない。
 アズが、笑うような、歌うような、場違いに優しい声で告げる。
「貴方はしばらく休むべきだ。交戦はもう少し先です」
「どうしてわかるの?」
「戦場では死が匂う。今はまだその匂いがしません」
 不思議だったのは、アズの言葉ではなかった。彼の言葉を、オスカーはなぜだか自然に信じていて、その根拠のない信頼が不思議だった。

     *

 モンマス公爵ジェームズ・スコットは、用兵の腕に自信があった。
 先王は数多くの庶子たちに爵位と領地を与えて生活を守ったが、その地位にふさわしい働きをした者はまれだ。だがモンマス公爵は、その稀な中のひとりだった。軍人として幾度も戦場に立ち、功績を重ねている。
 よって自軍の一〇分の一にも満たない敵軍に、不要な怖れは抱かなかった。こちらが勝つことはすでに決まっている。問題は、いかに勝つかだ。初戦は圧勝でなければならない。この戦いの結果が、まだ態度を保留している貴族や名望家ジエントリたちの動きを決める。
 よってモンマス公爵は、しばらく軍を動かさなかった。包囲殲滅せんめつの陣形を敷き、相手がれるのを待ち続けた。
 だが向こうも動かない。敵の指揮官は思いのほか肝が据わっている。そうでなければ、著しく決断力がないのだろう。
 まだ高い位置にあった太陽が、じりじりとその高度を下げていた。
 ――夜戦を望むのは、弱者だけだ。
 どう戦っても負けはしないが、日暮れの後では自軍の被害が大きくなる。こちらもあちらも、所詮しよせんは寄せ集めの農民たちで戦うのだ。夜の戦場で入り乱れれば混乱も同士討ちもある。
 ――あちらの拠点は、六〇〇ヤードほど先の丘の上。
 高所に陣取るのは戦場の常だが、今回はあまり効果的とはいえない。丘の中腹から平地にかけてブナの木が生い茂っており、それが目隠しになっている。大砲もマスケット銃も効果は限定的だろう。
 見上げれば、暮れかかった空を、雲が速く流れている。
「全軍、前へ」
 モンマス公爵はそう指示を出し、自身もゆったりと馬を進める。
 強い軍とは心のない軍だ、とモンマス公爵は考える。陸戦の最適解はすでに歴史が出している。まず大砲を撃ちあい、次に銃を撃ちあい、その中を歩兵たちが死にながら進む。重要なのは死の恐怖を抑え込み、隊列を崩さないこと。充分に距離が詰まれば、長槍兵の壁を押し上げながらサーベル部隊を突撃させる。
 ――あのブナ林が、少し邪魔だな。
 敵の砲撃から身を隠せるなら生き延びたくなる。生への執着など、死を生業なりわいとする歩兵にはいらない。さて、隊列をどう維持しよう?
 そのとき。
「砲撃です!」
 愚かな兵のうちのひとりが叫ぶ。そんなことは、言われるまでもなかった。火薬が破裂する音がブナ林から響き、飛来した砲弾が地面に突き刺さる。
 モンマス公爵は、噴き上がった土煙にちらりと目を向けた。
「当たらんよ」
 ブナ林まで、まだ三〇〇ヤードもある。移動式の大砲がまともに機能する距離ではない。あちらの指揮官が恐怖で我を忘れ、無謀な砲撃を指示した――モンマス公爵はそう確信していた。
 次いで砲撃の音が四つ続き、頬に土がかかった。馬が暴れ、咄嗟とつさに手綱を操る。
 ――着弾が、近い。
 そう理解したときには、また兵が叫んでいる。
「敵弾命中! 大砲、二門大破!」
 あり得ない。あり得ないことが起こっている。
 まともな指揮官であれば、砲弾は低く飛ばす。地面に対して平行に近ければ、その攻撃は線になる。よって正しい向きに撃てば敵軍に飛び込む。だがその砲弾は早々に地面に落ちて弾み、詳細な狙いがつくものではない。
 だからあちらは、大砲を天に向けて撃った。そうすればたしかに長距離をまっすぐ飛ばせるが、攻撃が点になる。ちょうど着弾地点に敵がいなければ当たらない。
 三〇〇ヤードの距離から大砲を撃ち抜くような正確な砲撃は、モンマス公爵の常識になかった。イングランドで、いやヨーロッパ全土で、どの指揮官の常識にもないはずだった。
 ――どんな魔法を使った?
 モンマス公爵は叫ぶ。
ひるむな! 下がれば死ぬ! あの林まで進めば我らの勝利だ!」
 虚勢ではない。この戦場は、数の力で押し切れる。だが、それでも巨大な恐怖が、胸の中で膨らんでいく。
 モンマス公爵は間もなくその正体に気づいた。
 ――戦が、変わる。
 この距離の正確な砲撃が可能になれば、用兵の根底が変わる。
 やがて武力とは砲門の数になるだろう。サーベルとサーベルが打ち合う音もないまま戦が終わる世になるだろう。たった今、一〇〇人ぽっちの敵兵が、戦場の歴史を次の時代に進めようとしている。
「乱れるな! 我らは強い!」
 なお叫びながら、モンマス公爵は、自身が撃ち抜かれる恐怖に震えていた。

     *

 そのころ、オスカーもまた震えていた。
 ――僕は、戦を知らないな。
 ぎりぎり。間一髪だった。
 モンマス公爵の進軍がもう少し遅れていたなら、手はなかった。日が暮れてしまえば敵がみえず、それ以上に味方がみえない。砲撃の指示を手旗に頼っているオスカー軍は目と耳を同時に失うようなものだ。
「見事です」アズが言った。「砲撃の弾道を、完璧かんぺきに計算しましたか」
 かすれた声でオスカーは答える。
「完璧ではないよ。でも、実用には堪える」
 敵軍の大砲は、あと五門。できればもうふたつは壊したい。だが農民たちの手では装弾にも時間がかかる。砲撃が可能なのは、あと一度か二度。敵軍の移動速度を計算し、誤りなく発射の指示を出さなければならない。
 アズの声は、戦場には似つかわしくなく落ち着いていた。
「ですが、紙とペンばかりをみつめていれば、見落とすものもあります」
 彼は天を指さした。オスカーもつられて、そちらに目を向ける。
 暗い空だ。日が暮れる直前の。だが、それにしても暗すぎる。
 ――雲。
 雨雲が頭上を覆っている。
 そう気づくと同時に、オスカーの鼻先に雨粒が落ちた。ほんの小さなそれは、次々に大地にぶつかり、ブナ林をらし、その中の大砲を濡らす。さあああと、砂城が崩れるような音が、地面から湧き上がる。
「まだ、撃てますか?」
「撃てる。でも、当たらない」
 水分の含有量で火薬の質が変わる。もう正確な砲撃は望めない。
 アズは、わずかに笑ったようだった。
「貴方は空を仰ぎみるべきだった」
 オスカーは首を振る。
「僕の先生は、海をみたことがない。でも、誰よりも正確に、潮の満ち引きの仕組みを読み解いたよ」
 だから足りなかったのは、空をみる目ではない。気まぐれな夕立まで計算する知恵と知識が足りなかった。
 ――ま、いいさ。
 なにもかもが思い通りに進むわけではない。けれど、すべてが失敗したわけでもない。少なくともあちらの大砲をふたつ壊した。
「全軍を撤退させて」
 オスカーがそう指示を出すと、アズは二本の手旗を交差させて掲げた。
「貴方もお逃げください」
「いや。逃げられない」
「どうして?」
「うちの領は、王様に嫌われていてね。敗走では印象が悪い」
 負け方にも質がある。
 オスカーはこれから、できるだけ善く負けなければならない。
「王のために死ぬつもりですか?」
「まさか」
「では、領主のために? 領民のために?」
 オスカーは自身を笑うような気持ちで、ふっと息を吐く。
「太陽は必ず東から昇り、西へと沈む」
「それが?」
「同じことだよ。人の世も、逃れようのないルールに支配されている」
 答えながら、立てかけていた梯子はしごを使い、朽ちた教会の屋根から下りる。
 雨の中、アズが腕を組んだ。彼は悲しげでもなく、戦に恐怖している様子もなく、強いて言うならどこか楽しげにオスカーをみつめる。
「ふたつ質問があります」
「そう。でも、時間がないからひとつにして」
「貴方の、あの計算式」アズは教会の採光窓に目を向ける。「どうしてケンブリッジ大学で学ぶ貴方が、微積分を?」
 オスカーが行った弾道の計算式のことだ。
「僕の先生は、あれを流率法と呼ぶ」
「ええ。本質はどちらも同じもの。けれど貴方の記述はニュートン式の流率法ではなく、ライプニッツ式の微積分です」
 オスカーは小さなため息をつく。アズの質問が、ずいぶん馬鹿げたものだったからだ。
 イングランドのニュートンとドイツのライプニッツは同時期にほとんど同じ計算法をみつけだし、どちらが発見者として名を残すのにふさわしいかを争っている。それを先にみつけたのはおそらくニュートンだが、世には公開せず自分ひとりで使っていたのが騒動の原因だ。
「国も大学も関係ない。ライプニッツの記号の方が、使い勝手がいい」
 できることが同じなら、当然、使いやすい方を使う。ケンブリッジ大学が知れば気を悪くするだろうが、戦場でまでそんなことにかまっていられない。
「なるほど。では、ふたつ目です」
「本当に時間がないんだよ」
 こちらの敗走に気づかれれば、追い打ちがあるだろう。足で逃げる農民たちの後ろから騎馬兵が襲いかかれば被害は甚大だ。
 オスカーは背の高いアズを見上げ、無理に笑う。
「ご助力ありがとうございました。この先は僕ひとりで」
 そして、彼に背を向けた。


    3

 モンマス公爵は雨音が胸に染み入るのを感じていた。
 ――助かった。
 それは、敵軍の一〇倍の兵を集めた戦場で抱く感情ではなかった。けれど胸の中の恐怖がほどけ、甘い安堵あんどがじんわりと広がっていく。
 その本能的な緩みが邪魔だった。敵を狩らなければならない。少なくとも、敵軍の中核を担う人物を。あの砲撃の指揮者を見逃せば、のちの戦場で難敵になる。できれば手駒に引き込みたいが、かなわないなら殺すしかない。なんにせよ急ぐ必要がある。とはいえ敵軍は得体が知れない。モンマス公爵は隊列を守ったまま軍を進めた。
 やがて雨音の向こうで、ざわめきが聞こえた。最前線の兵たちが動揺している。ブナ林まで、五〇ヤードほどの距離だった。
「なんだ?」
 尋ねると、兵のひとりが答える。
「敵兵です。ただ一名。旗を掲げています」
 彼が示した方に目を向けると、たしかに林から若い男が歩み出ていた。その手に持つ旗の紋章は、特徴的なものだ。紋地フイールドヴアートと アージエント を組み合わせた縦二分割パーペイル。そこに、奇妙な魚が描かれている。――ドーセットの西に隣接するデヴォン州の地方貴族、トーキー卿の紋章だ。
 若い男は歩兵の前で足を止め、長槍を突きつけられながら声を上げる。
「私はトーキー卿ロビンソン・ウェルズの子、オスカー・ウェルズと申します。ぜひ、モンマス公爵とお話を」
 兵たちがざわめく。
 モンマス公爵もまた、胸の内がざわめくのを感じていた。
 オスカー・ウェルズ。――あいつが。
 モンマス公爵は馬を操り、隊列の前へと出る。
「あの砲撃を指揮したのは、お前か?」
 馬上からそう声をかけると、若い男――オスカーは旗を投げ捨てた。片膝をぬかるんだ地面につき、どこかぎこちなさが残る所作でこうべを垂れる。
「はい。トーキー軍総勢一〇〇余名、皆、私の腹心でございます」
「投降か?」
「この戦の勝敗は決しました。叶うなら私を、捕虜にしていただきたい」
 モンマス公爵は、その貧相な青年を見下ろす。オスカーはよくせており、軍用の赤い上着もやや大きすぎるようだった。彼の声は震え、後頭部をこちらに向けるほど深く頭を下げている。
「あの砲撃、どう指揮した?」
「数式を用いました」
「数式?」
「私はケンブリッジで、自然哲学を学びました。三〇〇ヤードの距離であれば、必ず二フィートの円内に砲弾を落としてみせましょう」
 事実だろう。この男の砲撃は、驚嘆に値する。
「なぜ、はじめからこちらにつかなかった?」
「父の指示でございます」
「トーキー卿の考えをいているんだ」
 モンマス公爵と現王の戦いには、いくつかの側面がある。だがそれらを端的にまとめるなら、プロテスタントとカトリックの戦いだ。
 現王は先の清教徒革命の時代、亡命中にカトリック信仰に目覚めた。だがイングランドはプロテスタントの国であり、カトリックは独裁の象徴でもある。――実際、議会にも敵が多い現王の政治は、極めて独裁的だ。
「この国にカトリックの王はそぐわない。必ずたんする。お前を拾った男も、そのことをよく知っているはずだ」
 トーキー卿ロビンソン・ウェルズ。彼は清教徒革命以降、一貫してプロテスタントを支援してきた。よって現王からは冷遇されており、国王軍側につく理由がない。
 ――いや。ひとつだけ、理由を探すなら。
 それはこの戦において、モンマス公爵の敗北を予見しているからにほかならない。
 首を垂れたままのオスカーが答える。
「父の考えはわかりかねます。根は古い時代の貿易商ですから、金勘定で道を誤ることもあるでしょう」
「オレのために、その父を斬れるか?」
「必要であれば。ですが、父はもう老いています。寝室を離れることも叶いません」
「立て」
 モンマス公爵がそう告げると、オスカーはゆっくりと姿勢を正した。
 みえたのは、おびえた顔だ。敵にすがってでも、どうにか生き延びようとする者の顔。その無様な顔が、モンマス公爵は嫌いではなかった。だが。
「これより、お前の首をねる」
 サーベルの先を彼の首に当てると、こぼれた血が雨で流れた。
 その痛みからか、死への絶望からか、オスカーが苦しげに顔をしかめる。
「大砲二門では、足りませんでしたか?」
「いや。オレは充分、お前に高い値をつけたよ」
 モンマス公爵にとっても、この男の砲撃はぜひ手に入れたいものだった。
 ――けれど、お前はオスカー・ウェルズだ。
 なら生かしておけない。
 彼の首から流れる血は、雨の夕刻には黒くみえた。その黒に目を向ける。
「もしもお前の血が、オレとは異なる色をしていたなら、共に進む道もあっただろう」
 モンマス公爵はサーベルを引いた。
 より強く振るために。

     *

 ――ああ。僕は、死ぬ。
 そう悟ったとき、オスカーは、自身の心が冷めるのを感じた。
 もとから無謀な戦いだ。義父は現王を嫌っているが、モンマス公爵の反乱は「まだ早い」と断じた。地方領主はモンマス公爵に流れても、国の中央では王家の支配が生きている。革命が成るのはもう数年後、現王と議会の関係が完全に破綻してからだと義父は見立てていた。
 よってトーキー領は現王についた。いない兵を集め、モンマス公爵軍と戦うしかなかった。義父は現王と関係が悪く、ひとつでも理由がみつかれば爵位と共に領地を奪われることは目にみえている。今は忠臣を装う必要があった。
 けれどたった一〇〇名の民を率いて、モンマス公爵軍に勝てるはずがない。アズが指摘した通り、義父はオスカーを領のために死なせるつもりで戦地に送ったのだろう。
 この戦いで、オスカーはふたつの勝利条件を設定した。
 ひとつ目はトーキー領を守ること。
 ふたつ目は生き残ること。
 ――僕はモンマス公爵と戦い、生きたまま捕虜になる。
 つまり上手く、戦に負ける。それが唯一の勝ち目●●●だと決めた。
 だから大砲の弾道を計算した。戦場で長距離の正確な砲撃をみせつけ、自身の値段をり上げようとした。戦いに敗れてもなお生き残るために。
 それは、まずまず成功したつもりでいた。モンマス公爵にとっても砲弾軌道の計算には高い価値があるはずだった。だが彼は、オスカーを買おうとはしなかった。
 ――この世界は、絶対的なルールに支配されている。
 たとえば太陽は必ず東から昇り、西へと沈むように。幼いころ、どれだけあの部屋の窓から外を睨んでも、決して上昇する太陽はみえなかったように。
 やれるだけのことはやった。絶望的な状況の中、薄氷の上を歩みながら、オスカーは一度も望みを棄てなかった。それでも今、目の前に死が迫っている。
 ――僕は、この世界のルールを読み違えたんだ。
 上手く読み解いたつもりでいたが、きっと見落としがあったのだろう。
 よくあることだ。科学者ナチユラル・フイロソフアーであれば、繰り返し、日常的に経験していることだ。思考し、仮説を立て、実験の手段を編み出し、万全の準備を整えてもなお思い通りの結果が得られないなんてことは。そしてその不都合な結果から目を背けるのは、科学者の流儀に反している。
 モンマス公爵が高く掲げたサーベルを振り下ろす。期待通りにならなかった実験の結果を受け入れるように、オスカーは自身の死を受け入れた。
 そのとき。
 ――影?
 いや。むちのようなものだろうか。
 オスカーの背後から黒く長細いものが飛来し、モンマス公爵のサーベルに絡みつく。直後に刃が崩れた。それはオスカーの目には、燃焼に似てみえた。紙ぺら一枚が火にあぶられ、瞬く間に灰と煙になり質量の大半を失っていくように、サーベルの刃がちりになって消えた。
 ――鉄を溶かすほどの、強い酸?
 だがこれほど変化が速い現象は思い当たらない。ケンブリッジでも知られていない新たな薬品か? 驚きによるものだろう、モンマス公爵が硬い無表情で刃を失った自身のサーベルをみつめる。同じようにオスカーも、そこから目を離せなかった。
「多少の時間ができたようですね」
 背後から聞こえた声は、アズ・テイルズのものだった。
 オスカーは咄嗟に振り返る。アズの目元は、はすにかぶったフェルト帽のつばで隠れている。だが彼の口元は微笑ほほえんでいた。夕時の雨雲の下でもなお白い肌。対して唇は薄暗がりの中で、奇妙に黒くみえた。
 馬がいななく。モンマス公爵が乗った馬だった。その馬は騎手の意思を無視して、長槍兵の後ろまで退く。それで、多少の正気を取り戻したのだろう。モンマス公爵が叫ぶ。
「殺せ! 突撃だ!」
 兵たちが一斉に長槍を突き出した。だが、それはオスカーには届かない。アズの足元から影のような、鞭のような、飛び散ったインクのような「なにか」が方々に伸び、槍に絡まり、兵に絡まり、触れたものを分け隔てなく塵に帰す。鉄も木材も人間も、ただ崩れて消えていく。
「さて、ふたつ目の質問です」
 アズがゆったりと敵兵の前に歩み出て、彼らに背を向ける。まっすぐにオスカーの顔をみつめて、言った。
「科学者が、死を受け入れる理由がありますか?」
 オスカーには答えられなかった。
 実のところ、彼の言葉をろくに聞いてもいなかった。
 ――なにが起こった?
 明らかに、異質なこと。仮説を立てることさえ叶わない現象。それは、これまで信奉してきた物理法則の世界観――自然哲学の数学的諸原理プリンキピアを逸脱している。
 オスカーは、知らぬ間に、自身の口が笑みの形にゆがんでいたのに気づいた。
 ――なんて、美しい未知だろう。
 その興奮は、はじめて地動説という概念に触れたときに似ていた。光の性質が粒なのか波なのかを考察するのに似ていた。幾何学を用いた複雑な計算と、それが流率法によってシンプルな数式に置き換わる様に感嘆するのに似ていた。
 ――アズ。君は、なんだ?
 モンマス公爵が掠れた声で叫ぶ。
「悪魔だ! 殺せ!」
 アズの身体を一本の長槍が貫く。
 二本、三本とその数が増えていく。
 周囲からは悲鳴が上がっていた。刺す方が刺されたように絶叫していた。
 アズは口元の笑みを絶やさない。彼が一歩、こちらに歩み寄ると、その身体から抜け落ちた長槍が塵になって消えていく。
 まるで内緒話でもするように、アズが身をかがめ、オスカーの耳元に口を寄せた。
「殺し過ぎるのは好みではない。行きましょう」
 いや。彼が口を寄せたのは、耳ではなかった。オスカーの首――その傷から流れる血に顔を近づけ、ぺろりとめとる。その舌は安らかに冷たい。
 直後、アズの背から、一対の翼が生えた。黒い翼だ。鳥のものよりずいぶん鋭利な、たとえばコウモリに似た翼。
 ――悪魔。
 違う。仮説すらないまま未知に名をつけるな。オスカーは自身にそう言い聞かせる。
 兵たちはもう動かなかった。ただ怖れていた。モンマス公爵が馬を下り、茫然ぼうぜんと立ち尽くす兵のひとりから長槍を奪う。だが彼がそれを突き出すころには、アズはオスカーを抱きかかえ、ぬかるんだ地面をっている。
 瞬く間に地が離れ、木々が離れ、モンマス公爵と一〇〇〇の兵が離れる。豆粒のようになった彼らは無力にみえた。オスカーはその飛翔に酩酊めいていを覚え、アズの腕の中で、軽く首を振った。
 アズはどこまでも上昇する。すでに戦場とその他の土地の見分けもつかない。雨雲が間近に迫り、間もなく視界がかすむ。ずいぶん、寒い。けれどオスカーは、寒さとは別の理由で震えた。
 ――僕は今、雲の中にいる。
 いったいこれまで、どれだけの人たちが空を夢みてきただろう。
 オスカーは何枚かの羽ばたき機オーニソプターのスケッチを目にしたことがある。少し前にはイタリアの学者が、真空を用いた飛行船の可能性を論じていた。けれど――さん臭い伝承を別にすれば――いまだ空を飛んだ人間は存在しないはずだ。滑空程度ならともかく、自ら上昇して雲に触れた人間はひとりもいない。そう信じていた。
 ――なのに、アズ。
 この未知の存在にとっては、飛翔などなにも特別なことではないのだ。
 いったい、どんな方法で浮力を得ている? みれば彼の翼は羽ばたくどころか広がってさえおらず、彼の腕の外側から優しくオスカーを包んでいる。空気よりも軽い気体を用いて、これと同じ現象を起こせるだろうか。
 やがてオスカーは、アズの腕の中で雲を抜けた。
 鮮烈な夕暮れ空の真ん中に、オスカーはいた。天頂を見上げると、その東側の空は深い青で、すでに星々がまたたいている。西側の空は下るほどに白くなり、やがて黄色を挟んで赤くグラデーションしていく。地上からみればあれほど黒々として不吉だった雨雲は、だが見下ろせば美しい紅と紫色に染まる。
「どこまで昇るの?」
 尋ねるとアズは、西の空を指してみせた。
 夕暮れの空の、もっとも明るいところ。けれどそこに、もう太陽の姿はない。その巨大な天体は地平の向こうに隠れている。
 アズはどこまでも上昇を続ける。そして。
 ――ああ。
 思いもよらない光景に、オスカーは息をむ。
 地平の陰から光の粒が現れ、膨らみ、丸みを帯びていく。
 ゆっくりと、ゆっくりと、西の空に太陽が昇る。
 それは、アズ・テイルズのような未知ではなかった。ごく当たり前の物理現象に過ぎなかった。地球は丸く、落日とは地球の陰に太陽が隠れる現象だ。だが観測者の位置が変われば――たとえば急速に高度を上げれば、地球の陰に隠れた太陽がまたみえる。原理としては、塀の向こうを跳びあがってのぞきみるのと変わらない。
 ――僕は。
 西の空に昇る太陽をみつめる視界が、ふいにぼやけた。
 熱い涙がオスカーの目にまっていた。
 ――僕はこの程度のことさえ知らないまま、死ぬところだったのか。
 地動説と天体の運動の基礎を知っていれば、容易に思い当たれたはずのことさえ知らないまま。
 また、アズが言った。
「科学者が、死を受け入れる理由がありますか?」
 オスカーは目元をぬぐって答える。
「今のところ、ひとつも発見されていない」
 この世界には未知がある。
 けれど人類は、その未知を既知とするすべを知っている。
 ――ただ、思考を止めなければいい。
 死ぬことが思考の停止であれば、生き続けなければならない。

(続きは、ぜひ本書でお楽しみください)


書誌情報

書名:彗星を追うヴァンパイア
著者:河野 裕
発売日:2024年08月29日
ISBNコード:9784041149607
定価:1,870円 (本体1,700円+税)
総ページ数:384ページ
体裁:四六判
発行:KADOKAWA
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322401001051/

★全国の書店で好評発売中!
★ネット書店・電子書籍ストアでも取り扱い中!

Amazon
楽天ブックス
電子書籍ストアBOOK☆WALKER

※取り扱い状況は店舗により異なります。ご了承ください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?