「読み返すなら今だぞ」本はときどきそう呼びかけてくれる。
北杜夫さんを半世紀ぶりに読み返していたら、また戦争が始まった。
この頃、若い時に読んだ本をもう一度買い直すことが多くなってきた。
安酒の飲み代欲しさに売っぱらったり、誰かに貸したまま消えてしまった本を買い直すのは、遠い記憶を買い直そうとしているのか。
昨年の晦日に本屋を徘徊していたら、この二冊に呼ばれた。
北杜夫さんの本名は、斎藤宗吉という。 医師の家系に生まれご自身も精神科医である。高名な歌人で医師の斎藤茂吉が父親。やさしい語り口の身の上相談やエッセーで有名な斎藤茂太さんはお兄さんにあたる。
大ヒットしたエッセー集「どくとるマンボウシリーズ」で知られる北さんは、1960年、第43回の芥川賞を『夜と霧の隅で』によって受賞している。
先日、ちょっと気になって本好きの年下の友だち数人に、北杜夫さんのことを聞いてみたが、答えはあまり芳しくなかった。
無理もない。ぼくでさえ半世紀ぶりの再読だものなぁ。
どうしたら、こんなに読み応えのある本を手に取ってもらえるだろうか?
なんて考えながら、まずはこの作品から読み返すことにした。
『どくとるマンボウ青春期』は、戦時中の旧制松本高校、その後の東北大学での医学生時代、さらに父・斎藤茂吉との疎開の日々が舞台となっている。
授業のかわりに工場で働く日々。やっとこさはじまった高校生活。待っていたのは空腹との戦い。それでも著者のユーモアとペーソスにあふれた文章に旧制高校へのあこがれがふくらんでいく。
例えば「ストーム」という旧制高校伝統のバカ騒ぎがある。夜中に他の寮にどやどや上がり込み、寝ぼけ眼を相手に訳の分からぬ議論を吹っ掛けたりする。
かと思うと、ただ「バッキャロー!」と双方が怒鳴りあうストームもある。
受験を控えた高校生のぼくは、この部分を読むたびに、“これこそ青春だ!受験勉強なんてなんの意味も無し!”とばかりに真夜中の町をやたら全力疾走したりした。
本の中の北杜夫さんは、学徒動員も、大空襲も、無残な死体も、命を危険にさらす体験もしているし、医学生になると“死”それ自体を医師の視点から考えるようにもなる。
苦難に満ちた日常と正面から相対するのではなく、理不尽な“死”の影を傍らに置いて、それこそユーモアとペーソスでやり過ごす。それが己がいのちを最後の最後まで諦めない人間の技、術だったのではないか。
『夜と霧の隅で』は、ヴィクトール・フランクル『夜と霧』に依る。
こんな風にはじまる。
親衛隊員にだっこされてトラックに乗せられた知的障害児たちが、
「これ、どこに行くの、小母さん?」
「僕たち、どこ行くの?」
看護尼はようやく顔をあげ、小さな耳に囁くように言った。
「あなた達はね」
「あなた達は天国に行くのです」
「夜と霧」命令によって消し去られたのはユダヤ人、社会主義者、ロマ(ジプシー)、同性愛者、そして“民族と戦闘に益のない”同国人だった。
“民族と戦闘に益のない”人たちとは、世間から孤立した一群の病院の中に暮らす治る見込みの無い精神病患者たちのことだ。
ユダヤ人絶滅のための総統命令は対象の枠を広げ、1941年、精神病患者への「安死術」が密かに許可され、各地の精神病院から、長期療養または不治と見なされる患者たちがどこかへ連れ去られるようになった。
アウシュヴィッツ、ダッハウ、トレブリンカといった強制収容所のいまわしい悪名の陰で、ドイツ医学会、法曹界承認のもとに「安死術」が行われた。
勘違いしがちだが、強制収容所に送られた人たちのすべてが消し去られた訳ではない。
収容者の中でも過酷な強制労働に耐えうる人たちは、フランクルのように辛うじて生き延びているが、“優性保護”の名のもとに絶対の死をもたらす「安死術」は、アリアン人の血の純潔を文字通り死守するため同じドイツ国民も例外としなかった。
なんという愚かな、冷血な考え方。されど、考え出したのはぼくと同じ人間なのだ。
『夜と霧の隅で』には、「安死術」の対象として連れ去られようとする入院患者を救うために、電気ショック、インシュリン、ロボトミーなど、危険を承知で回復のわずかな見込みを求めて施術する医師たちの奮闘が描かれている。
作中に入院患者のひとりとして、タカシマという病理学専攻の日本人留学生が登場する。すでに亡くなっていることを知らずユダヤ人の妻に手紙を書き続ける。その手紙が投函されることはないのだが、どうも双極性障害のようだ。
しかし、北杜夫さんは、なぜドイツの精神病院に日本人を登場させたのか?
解説には、ー私達に関わりのない他国の遠い話という無縁さを感ぜしめないための一つの有力な梃子ともなっている。(埴谷雄高)とある。
一億総玉砕だ!神風が吹く!神国日本!と言わされ、信じるように、疑わぬように強要され、敗戦とは言わず終戦と言い換え、明日からは民主主義だからね、と目の前でひらひら手の平を返された作者の無念さ、怒りが、本作を書かせたのではないか、とぼくは感じている。
われわれの歴史に刻まれた幾多の戦争、紛争、侵略は常に引金をひく側に都合が良く、よくもここまで恥知らずな!と口をあんぐりさせる詭弁、虚言を弄しパンドラの函を開ける。
そこに例外は無いし、例えをあげればきりがない。
一定周期で在庫一掃を図らねばならぬ軍需産業大国が、アジアの小国に、中東に、なんと言って侵攻したか。
まだ、忘れてしまうほどの過去ではない。
本作冒頭の子供たちや、「安死術」の対象とされた患者を乗せた灰色のバスは、ハダマールというドイツの小さな町に向かったそうだ。
1941年から42年にかけて、この町の精神病院のガス室で、主に身体障害者、精神障害者、適応障害者の人たち15,000人が犠牲になっている。
こうして数字を書き込む時、こころが痛む。
犠牲者15,000人ではなく、代わりの居ない一人とひとり。別々に、特別に生まれ、育ってきた一人とひとりが居たのだと。
パンドラの函の鍵は、もう脆く簡単に開いてしまう。
そして、あらゆる邪悪が世界中に飛び散っていく。
函の底には、今でも“希望”が残されているだろうか。
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