『輝ける闇』を拾い読む朝。不機嫌な雲は煙突に引っかかったまま動かない。
目刺しと目玉焼きの昼がすんだら、寝床に戻って開高先生の続きだ。
前線基地から北のゲリラ掃討作戦に出発する朝がこう書かれている。
曇り空の日曜日には開いたページを指でなぞるように読み返す。
「さきほどまでは国道でときどきすれちがうバスが赤や青の灯をつけた深海魚のように見えたのだが、いま、陽が森の梢にのぼった。
薄明がサフラン色の輝きにみたされ、乱雲と木のすきまから二条、三条の真紅の川が流れた。
僧が托鉢にでかける時刻である。掌を見て筋が見わけられる時刻である。 木を見て古い葉と新しい葉の見わけがつく時刻である。」
夜明けをむかえる最前線のなんと美しいことか。
従軍記者は国際法で敵に向かって発砲できない。それでもカービン銃に触るとこんな風にも思う。
「私はただ引金がひいてみたかった。満々たる精力をひそめながらなにげない顔をしているこの寡黙な道具を私は使ってみたかった。
憎しみからでもなく、信念からでもなく、自衛のためでもなく、私はらくらくと引金をひいてかなたの人物を倒せそうであった。
略)
渇望がぴくぴくうごいた。面白半分で私は人を殺し、そのあと銃をおいて、何のやましさもおぼえずに昼寝ができそうだ。
たった100メートル離れただけでビールの罐でもあけるように私は引金がひけそうだ。
それは人殺しではない。それはぜったい罪ではなく、罰もうけない。とつぜん確信があった。かなたの人物もまた私に向かっておなじ心を動かしているにちがいない。」
1964年末から1965年初頭にかけて従軍記者の身分で取材し、1968年に書き下ろされた作品。
この世界はこれまでもこれからも、案外美しく、美しい瞬間、時の断片のつらなってなりたっていくのかもしれない。
これまでもこれからも読み返す一冊である。