神様は自分の中にいる
むかしむかし、合法な幻覚が見れるお茶を飲んで、私は心に残る幻覚体験をした。
意識体になった世界の中で(目は瞑っているけど景色が見える)私はパステルピンク色の雲の上のようなだだっ広い場所にたどり着いた。
一緒に幻覚茶を飲んで囲っていた人たちの意識体がもやもやとしていて、隣の人と横並びに繋がってひとつになってたのを見た。
このとき、私はここは自分の中の神の部分だという確信があった。
それがとても心に残って、あとあと調べると、心理学用語で呼ばれる集合的無意識という部分だったんじゃないかと思った。
【集合的無意識】
ユングが提唱した概念。個人の潜在意識よりさらに深い無意識の領域に、個人を超えた、集団や民族、人類の心に普遍的に存在すると考えられる先天的な元型の作用動力を見出した。
↑Wikipedia情報
よく、我々は神のわけ御霊だ、という話を聞いたことはないだろうか。
無意識の中で全ての意識と繋がる部分があるとすれば、意識を全て組み合わせたものが神(集合的無意識)で、私や他人(顕在意識)は神の意識の一部分ということになる。けれど、こんな幻覚体験をしてもいまいち納得ができないでいた。
しかし、この間それがようやく腑に落ちる感覚があった。
一つの分子の中に原子核と電子がある。それらを合わせてひとつの分子である。
ひとつひとつの細胞が組み合わさって人間が1人いる。動物や植物や水や地面があって地球がある。惑星や真空やブラックホールがあってひとつの宇宙がある。
このように俯瞰して見ていくと、ひとつの宇宙のなかに太陽やわたしや飼っているねこやお気に入りのぬいぐるみがある。この世に存在する全てをひっくるめてひとつの宇宙なのだ。
わたしも猫もぬいぐるみも太陽も宇宙の一欠片なのである。宇宙そのものが神だと考えると、わたしも猫もぬいぐるみも太陽も宇宙を構成する一欠片なのである。
わけ御霊とはそういうことではないだろうか。
この間、仏間があるおうちに遊びに行った時にお供えされていた羊羹をいただいた。私ももらっていいのかと申し訳なく思ったら、お供えしてるし全然いいよと言ってもらった。羊羹は甘く美味しかった。なんで申し訳なく思っていたんだろう。仏様も私もねこもみんな宇宙の一欠片だった。
頑張らないと幸せになってはいけないとか、努力して辛い思いをしないと幸せになれないとか、誰が言ったんだろう。
全部全部思い込みだった。
無条件にみんな幸せになっていいし、幸せと思えたら幸せを感じられるなら、それは受け取っていいはずなのに。
自分がポンコツでダメだから頑張るんじゃなくて、頑張ったら幸せが感じられるなら頑張りたいし、幸せを感じるために生きようとしたら自然と自分らしく生きられると思う。
そんな風にこれから生きてみようと思った。