私が “対人支援” を選んだ理由
こんにちは、壁家屋の勇心です。
この記事では、私が対人支援を志した理由と壁家屋(かべうちや)という伴走型の対話サービスを運営する理由について書きたいと思います。
少しでも多くの人たちの目に触れることを願っています。
私が2歳の時、母は癌を患いました。父は単身赴任で不在。母から世話をされた記憶は私の幼少期にはありません。覚えているのは、夢を追いかけることも、大好きな子どもの世話をすることもできずに、床に伏して、眉をひそめる苦しい顔です。胃のすべてと胆嚢、盲腸を切除する大手術の末、一命を取り留めました。
それでも母の闘病生活は続き、ある日、私たち姉弟は父の故郷である長野の実家へ預けられることになりました。そこでの生活はほとんど記憶に残っていませんが、今でも心に深く刻まれているのは、近所から帰ると、私だけを残して父と姉が長野の家を後にし、静まり返った部屋の光景です。二人の背中が遠ざかっていく様子が幼い私の脳裏に浮かび、まるで絶対だと思っていたつながりが完全に切れたかのように感じた瞬間でした。両親と離れて暮らすことに耐えられず、限界に達していたのを聞き、父は姉を連れて帰る決断をしたのでしょう。その時、私はただ泣き叫ぶことしかできませんでした。
それは、私が絶対だと信じていた絆が断ち切られた瞬間でした。当時まだ小さな幼児には、両親の存在がほとんどないに等しい環境で、そのつながりが目の前で立たれる体験はなかなか過酷なものであったと思います。同時にこの体験は、「この世界は一人で生きていかねばならないんだ」という固い決意をもたらしました。そして、その決意はやがて孤独や強迫観念を生み出し、いびつな在り方の原型となっていきました。
私の人生前半戦は、人に依存することも、依存されることも嫌い、「たった一人」で生きていくために多方面でパフォーマンスを高める日々でした。炊事、洗濯、掃除、スポーツに勉強。すべてを抜かりなく遂行することに毎日必死でした。しかし、「頼れる存在がない」という恐怖を打ち消すための努力であったはずなのに、やればやるほど孤独感はより深く、より虚しいものとなっていきました。怖れを払拭するための行動や努力が、これほどまでに満たされない現実を生み出すとは、長い時間をかけて痛感させられた体験でした。
転機が訪れ始めたのは、大学卒業と同時に決行した「海外逃亡」からでした。競争に疲れ、周囲の目を怖れ、何者にもなれない絶望感と強迫観念から逃げるために日本を離れました。
しかし、海外に飛び出しても、絶望と自己否定感は消えるどころか、依然として私を縛り続けました。ただ時間だけが無情に過ぎ、気がつけば1年が経とうとしていました。そして、帰国を目前に控えた残り1ヶ月のタイミングで、私の"人生を変える出会い"が訪れたのです。
それは、見知らぬ青年であった私に手を差し伸べてくれたメンターとの出会いでした。何者でもない自分を受け入れてくれたあの時の溢れる感謝の思いと、現在に至るまで変わらず眼差しを向け続けてくれたことへの感動は、決して忘れることはありません。
メンターの教えは、私の"生き方"を根本から変えました。メンターの導きによって、私はどんな自分も認められる自己肯定感と自尊心を育み、主体的に毎日を過ごせるようになっていきました。自分に正直であることが、内面の充足感を生み出し、それが私の主体的な行動の原動力となっていったのです。
私が授かったものは単なる成果や目標達成の方法ではなく、"生き方"そのものでした。親でもなく、友人でもなく、心の拠り所となる存在を持てるということが、どれほどの宝物を手にすることになるかを身に染みて感じました。
そして、心の拠り所を持つことが、自分にどれだけの叡智と活力を与えてくれるものであるかということを強く実感しました。この活力と叡智は誰もが享受できるべきものだと私は考えています。心の拠り所という安心は、誰もが無意識のうちに求めているものだと私には思えます。たまたまその体験に触れることができたことは、まさに"奇跡的"な出来事でした。
そんな幼少期から続く原体験から、私は人の「こころ」の支えになることを選びました。そんな思いを体現したのが【壁家屋かべうちや】です。他者と比べることはできませんが、どれだけ悲しく、どれだけ孤独を感じ、どれだけの強迫観念に苛まれてきたかを私は忘れません。だからこそ、同じような体験を持つ人々に、授けてもらったすべてのものを分かち合いたいという思いで運営しています。
最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。
このサービスが一人でも多く方へ届き、一人でも多くの仲間と支援の輪を広げていきたいと思います。
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