待てる夫と待てない私。 #4書評 お父さん、気づいたね!
私はうどん屋で、6分も待てない。
その日は肌寒く、アツアツの釜揚げうどんが食べたかった。しかし、運良く茹でたてのうどんがある可能性は極めて低い。
釜揚げうどんは茹で上がったうどんを冷水で締めずに提供するから、たいていの場合は茹で上がるまで待たねばならない。
私はいつも「1分1秒もムダにできない」と思っている。だから、うどん屋で釜揚げうどんを食べるために、6分も待てないのだ。
諦めてほかのメニューにしようと看板を眺めていると、横にいた夫が私に言う。
「6分くらいなら待てるね。食べたいもの、食べなよ」
私はびっくりして、夫にたずねた。
「でも、それだと私が食べ終わるの遅くなっちゃうよ?いいの?」
夫は「別にいいよ、気にしない」と答える。懐の大きい人だなぁと、いつも思う。
子育てに対してもそうだ。夫は子どもを急かさない。忍耐強く、じぃっと待っている。
出かける前の準備にもたついても、公園で「まだ遊ぶ」と子どもがゴネても。
そういえば2人でランチを食べているとき、私の分しかこなくても、店員さんを呼び止めることなくずーっと待っていたな。
そんな夫を、とても尊敬している。
私はというと、冒頭でも話した通りまったく待てない。待つのが苦手なのだ。
子育てにおいては、準備に手間どる子どもを急かし、遊びに夢中でも時間がくれば強制終了。口と手が、同時にでるほどのせっかちだ。
なぜ待つのが苦手なのかと考えてみると、いまではなく、「その先」を常に意識しているからかもしれない。
子どもを連れて出かけるってことは、帰ってから洗濯物を畳んで、水筒を洗い、夕飯の支度をしてお風呂の準備をする。ひと息つく暇はない、待っている時間はないのだ。
だから、「いま」を目いっぱい感じたり、楽しんだりすることに意識が向かない。私はいつもここにはいない。
それが当たり前だって、主婦って、お母さんってそういうものだって思っていた。でも、「お父さん、気づいたね!」という書籍を読んで、そんな価値観はふっ飛んでしまった。
印象深かったのは、お風呂でのエピソードだ。(本書 P125~P128)
彰悟さんは、ダウン症に生まれ、生後2か月で気道がふさがり、声がだせない。そのため、自分の行きたい場所を伝えることは難しい。
そこで、本書の著者で父親の田中さんは、お風呂で遊ぶのが大好きな彰悟さんに「お風呂で思う存分遊んでもらおう!」と考えたのだ。
しかし、田中さんの思うようにはいかない。20分たったところで、「上がろう」と声をかけてしまう。自分の意志で上がれるように働きかけたが、上手くいかない。
「もう無理だ」と諦めたとき、彰悟さんは自分の意志でお風呂から上がった。そのとき田中さんが気づいたことを、こう語っている。
ハッとさせられた。私は自分だけでなく、子どもの「いま」も奪っていたのではないか。
「待つ」ことは、相手のことを純粋に「思う」ことなんだ。相手を思うからこそ、気持ちを尊重し、その行動を理解できる。
私はよく娘に、「人を待たせるな、相手の都合を考えろ」と言ってしまう。でもそれは、半分正解で半分は間違っていたようにも思う。
確かに、自分のことだけを考えて行動するのはよくない。しかし、相手のことばかりを考えるのは、自分の「いま」を犠牲にしている、ともいえるだろう。
あとがきには、こう書かれている。
そんな大きな人に、私もなりたいと思う。子どもたちにも、「いま」生きている自分を存分に感じながら、まわりの人にたくさんの幸せや愛を感じてもらえる人になってほしい。
そうか、待つってことは、「いまを生きる」ことなんだな。「いまの幸せを感じる」ことなんだな。
たぶん夫は、私を思っていたからこそ、うどん屋で6分間待ってくれたのか。
あのとき食べた釜揚げうどんは、本当においしかった。また夫といっしょに食べたいと思う。
「いま」の気持ちをしっかり感じて、私はここで生きていきたい。
力強い彰悟さんの書からも、そんなメッセージをいただいた気がした。